1994年は、フル代表こそ仕切り直し的なリスタートの年になったものの、ユースカテゴリーと女子が次々と自力で世界の扉を開いた歴史的な年でした。その1994年から次の伝説の年1996年の間に挟まれた1995年、世界のサッカー界も、日本のサッカー界も動きを止めることはありません。谷間の1995年に何があったのか、記録と記憶に留めておきましょう。
1995年
元旦恒例の第74回天皇杯サッカーは、Jリーグ昇格の1994年後期、旋風を巻き起こして2位に食い込んだベルマーレ平塚がその好調を維持して決勝まで勝ち上がり、片や新シーズンのJリーグ昇格を決めたセレッソ大阪が2回戦のヴ川崎、準々決勝の浦和、準決勝の横浜Mと次々とJリーグ勢を撃破して勝ち上がって決勝を戦うことになりました。
試合は平塚がエース・野口幸司選手の2ゴールで快勝、Jリーグ後期の快進撃が本物だったことを示しました。
第73回大会全国高校サッカーは、1月8日決勝が行われました。この年は首都圏の人気チーム、市立船橋と帝京高校の決勝となりました。これまで決勝まで進めば両校優勝を含めて不敗神話を誇っていた帝京ですが、この年は好守ともにタレント揃いの市立船橋に5-0と完敗、エース森崎嘉之選手がハットトリックを達成した市立船橋が悲願の初優勝を果たしました。
ちなみに市立船橋の1年生には、翌々年の第75回大会で再び優勝に導くエースに成長した北嶋秀朗選手がいて、得点王(8得点)の森崎選手に続く7得点をあげ立役者の一人となりました。
日本代表、「インターコンチネンタル選手権」に参戦
お正月気分の中、就任したばかりの加茂監督率いる日本代表の、最初の国際試合はいきなりサウジアラビアに遠征、1月6日から各大陸のチャンピオン国が集結する「インターコンチネンタル選手権・ファハド国王杯」でした。
1992年のアジアカップを制した日本、グループリーグの相手はナイジェリア、アルゼンチン、どちらも昨年のアメリカW杯に出場、決勝トーナメント進出を果たしている強豪でした。
「国を代表して戦う代表の試合は、どんな強豪が相手でも、口が裂けても胸を借りるなどと言ってはならない。」というのが口癖だった加茂監督は、カズ・三浦知良選手、ラモス瑠偉選手、柱谷哲二選手、GK松永成立選手らベテラン選手を代表に呼び戻し、戦えるメンバーということで真っ向勝負を挑みました。
しかし結果はナイジェリア戦0-3、アルゼンチン戦1-5の連敗、加茂監督も「真剣勝負の試合で世界の壁を思い知らされた」と記者団に答えて大会を後にしました。
前年のキリンカップで来日予定だったアルゼンチン、マラドーナ選手の入国許可がおりなかった問題で来日を取りやめてから7ケ月後に実現した試合は、アルゼンチンの容赦ない攻撃にさらされ、格の違いを見せつけられてしまいました。
阪神・淡路大震災が発生
1月17日朝、関西地域を巨大な地震が襲いました。阪神・淡路大震災の発生でした。
折しもヴィッセル神戸がJリーグ参入を目指して1月1日から神戸をホームタウンとしてスタート、1月17日は神戸での練習初日のはずでした。
チームは急遽、もとの本拠であった岡山県倉敷市の川崎製鉄サッカー部グラウンドに移動して初練習を行なう異例の対応を迫られました。
この大震災で被害を受けた地域の人々を勇気づけようと、8月30日には「阪神・淡路大震災チャリティFIFAオールスターマッチ」世界選抜vsアメリカ大陸選抜戦が国立競技場で開催されました。
世界選抜には日本からカズ・三浦知良選手、井原正巳選手、柱谷哲二選手にストイコビッチ、ブッフバルト、マッサーロ選手などのJリーグ選手、それに韓国の洪明甫選手や欧州、アフリカなどからの招待選手が集まりました。
アメリカ大陸選抜は、現役引退してブラジルに戻ったジーコが馳せ参じてくれたのをはじめ、ジーニョ、サンパイオ、ドゥンガなどJリーグでプレーするブラジル勢に加えて、メキシコのGKホルヘ・カンポス、コロンビアの司令塔バルデラマなどアメリカ大陸の人気者などが名を連ねました。
ホルヘ・カンポス選手はGKとして前半プレーしたあと、後半21分からはFWとして出場して日本のサッカーファンを沸かせたほか、金髪のアフロヘアをなびかせるバルデラマ選手も頭脳的なプレーを連発して観客をうならせるなど、被災地支援の名に恥じないチャリティマッチとなりました。
2月下旬、第3回ダイナスティカップが香港で開催されました。中国、香港、韓国、日本の4ケ国による総当たりと、上位2チームによる決勝戦、五輪代表中心のメンバーで臨んできた韓国に対して、日本もカズ・三浦知良選手を招集しておらず、FW黒崎久志選手、中盤の藤田俊哉選手、DFの相馬直樹選手ら加茂監督体制になって新たに招集したメンバーを加えて臨みました。
グループリーグで韓国に引き分けた日本は残り2戦を勝利してグループ1位、2位の韓国と決勝を戦いました。後半ロスタイムに韓国に追いつかれ2-2のまま延長でも決着がつかずPK戦にもつれ込みましたが、日本は1992年の北京大会でもPK戦による優勝を経験している柱谷哲二、北澤豪、福田正博、森保一、井原正巳の各選手がきっちりと決めたのに対して韓国は1人失敗、日本が連覇を果たしました。
日本代表は優勝ボーナスの一部などを阪神・淡路大震災の義援金として寄付しました。
Jリーグは前期後期各26試合、世界でも類を見ない過密リーグに
Jリーグは、前年1994年11月の段階で、翌1995年のリーグ戦方式を決定しましたが、それは、前期後期各14チーム2回戦、各チーム前期後期各26試合、年間合計52試合という、世界各国のリーグでも例のない試合数でした。
そのためナビスコカップが影響をモロに受ける形で中止となりました。ナビスコカップはいわゆる「リーグ杯」、その後もルヴァンカップとして続くJリーグ三大タイトルの一つですが、開催されなかったのはこの年だけです。
実は前年1994年秋の検討段階で、翌年のリーグ戦方式を決める「実行委員会」が、一度は1シーズン制3回戦総当たり、各チーム年間39試合という案を決めていました。
実行委員会というのは各クラブの社長あるいはその代理クラスが名を連ねる会議体で、最も現場の実情に即した決定をする場なのですが、それを承認する立場の上位組織「Jリーグ理事会」が、別の思惑で覆し、前期後期2シーズン制、年間52試合という方式になったのです。
理事会は、各チームのホームゲーム数を1試合でも多くすることが経営的に有利であること、もう一つは前期、後期でシリーズスポンサーを1995年までの3年契約で確保していること、この2つを理由に2シーズン制の継続を決めたのです。
こうしたクラブの経営的理由、リーグの収支事情が優先された形だったのですが、リーグの宝であるはずの選手の身体的負担の問題、そして、その延長戦上にある日本代表の強化への影響には目をつぶった決定だったと言えます。
Jリーグ10クラブから誘いを受けた中田英寿選手が平塚へ、名波浩選手は磐田に
昨年、城彰二選手が衝撃のデビューを飾った高卒ルーキー、今年の目玉は山梨・韮崎高校の中田英寿選手でした。
1993年のU-17世界選手権、昨年のU-19アジアユース選手権の代表として活躍していた選手ということでJリーグ10クラブから誘いを受け、各クラブの練習にくまなく参加、その中から選んだのはベルマーレ平塚でした。
各クラブの選手構成などをよく確認して、スタートからレギュラー確保の可能性が一番高いクラブということで選んだそうで、事前の徹底したリサーチ、情勢判断など、その後の中田英寿選手をほうふつとさせる選択でした。
この年の高卒ルーキーは、この中田英寿選手をはじめ、GK楢崎正剛選手(奈良育英⇒横浜F)、DF松田直樹選手(前橋育英⇒横浜M)、FW西沢明訓選手(清水東⇒C大阪)、福西崇史(愛媛・新居浜工⇒磐田FWで入団後MFに転向)、FW鈴木隆行選手(日立工⇒鹿島)と、2002年日韓W杯メンバー6人、Jクラブユースからの昇格組であるDF宮本恒靖選手(G大阪)を含めると7人もの選手がJリーグの門を叩いた大豊作の年でした。
一方、大学からの新入団選手の中では、本人が一択志望だったためスカウト合戦がなく、注目度はゼロの大学ナンバーワン・名波浩選手が磐田に加入、のちの鹿島・磐田2強時代を築く中心選手となりました。
4歳違いの中田英寿選手と名波浩選手、これまで接点のなかった2人ですが、このあとの日本代表の中盤に君臨していく2人が、この年、同時にスタートラインに立ったのも歴史の巡り合わせを感じさせます。
Jリーグへの新加入選手という点では、外国人選手にもビックネームが揃いました。前年のアメリカW杯優勝ブラジル代表から、鹿島にジョルジーニョ選手、横浜Fにジーニョ、サンパイオ、エバイールの3選手、柏には元ブラジル代表のミューレル選手(カレカ選手は昇格前から在籍)、名古屋にはベンゲル監督がフランスリーグから呼び寄せたデュリックス選手などです。
3月11日、Jリーグ開幕直前のタイトル戦、ゼロックススーパーカップが、昨年の年間王者・ヴ川崎と今年元旦の天皇杯覇者・平塚の対戦で行われました。昨年、横浜Fとの試合でハンド疑惑のあったヴ川崎でしたが、今年はすんなりと2-0で勝利しました。
3月18日、Jリーグ前期が開幕しました。毎節7試合、前期26節の長丁場です。開幕節の注目は昇格組でした。C大阪は広島に勝利、柏は清水に敗戦と明暗を分けました。高卒ルーキー組のうち横浜MのDF松田直樹選手とMF窪田龍二選手(神戸弘陵高)、市原のDF鈴木和裕選手が見事開幕スタメン出場を果たしましたが、中田英寿選手はベンチ入りしたものの出番なしのスタートとなりました。
地下鉄サリン事件が発生、大きな社会不安に
新シーズンのJリーグが開幕した2日後、いつもの静かな月曜の朝、日本中を震撼させる事件が東京都心で発生しました。「地下鉄サリン事件」です。
東京都内の地下鉄3路線の車内に、化学兵器として使用される猛毒の「サリン」が撒かれ多数の死傷者を出す事件でした。
のちにオウム真理教によるテロ事件と判明しましたが、大きな社会不安となり、右肩下がりの経済の低迷と相まって、次第に日本全体が重苦しい時代に落ち込んでいくような漠然とした気持ちにさせられました。
このあと、Jリーグの選手たちの真剣でひたむきなプレーが、そのような沈んだムードを少しでも振り払い、元気と勇気が戻ってくるような気持ちにさせてくれることを願わずにはいられないJリーグ開幕直後の出来事でした。
1月の阪神・淡路大震災、そしてこのテロ事件と、日本に降りかかる災禍を「スポーツのチカラ」が少しでも癒してくれれば・・・。この時代に、この「スポーツ文化」があって本当によかったと感じたものでした。
前年の選手ラフプレーがスタンドに伝播、サポーター乱入事件勃発、社会不安の連鎖か?
こうして始まったJリーグ前期、最初のトピックは3月29日の4節に訪れました。
まず、柏レイソルが昇格後初めて迎えたホームゲームは横浜F戦でした。柏のカレカ、ミューレル、バウディール、横浜Fのジーニョ、サンパイオ、エバイールと両チーム合わせて6人の外国人選手がすべてブラジル代表経験者という豪華な競演となりました。試合は柏が記念すべきホーム初勝利をあげました。
4節のもう一つのトピックは、浦和vs名古屋戦。これがJリーグ史に残るPK戦となったのです。
両チーム0-0のまま延長でも決着がつかず、始まったPK戦は、Jリーグ史上最長の14人が蹴り合うPK戦となりました。
両チーム各11人が一度蹴り終わっても、浦和GK土田尚史選手、名古屋GK伊藤裕二選手がともに譲らず二度目に入りました。そして浦和の14人目ブッフバルト選手を名古屋GK伊藤裕二選手が止め、名古屋が勝利して決着がつきました。まさに「やっと決着がついた」感じの試合でした。
この記録はJリーグでPK戦による決着方式が採用されていた1998年までの6シーズンの中で破られない記録となり、その後もリーグ戦ではPK戦方式が採用されることがありませんでしたから、そのまま記録に残る試合となったのです。
次の出来事は4月26日に発生しました。11節、浦和vs清水戦、大宮サッカー場で、清水GKシジマールの行動に激高した浦和サポーター約50人ほどがフィールドに乱入するという事件が起きたのです。
また同じ日、平塚競技場での平塚vs広島戦では、敗れた平塚イレブンがサポーター前での挨拶の際、一部の選手の不誠実そうな態度に怒った平塚サポーター約30人がフィールドに乱入するという事件も発生しました。
申し合わせた訳でもないのに、同じ日に同じようなことが起きる不思議さは、何なのでしょう。
昨年問題になった選手のラフプレー、レフェリーのミスジャッジや試合によるジャッジ基準の違い、事後処理の拙さなどで、サポーターのフラストレーションがマグマのように溜まっていたことは否めません。
本来であれば阪神・淡路大震災やテロ事件などの災禍、そして長引く経済の低迷といった社会不安を、Jリーグなどのスポーツ文化によって少しでも癒し、元気と勇気をもたらすべきなのですが、逆に社会不安によってサポーターたちの心までも荒んでしまい、ここに来て一気に連鎖的に噴出したような荒れぶりでした。
その後の前期の流れをおさらいしておきます。
・4月26日、11節 横浜M、GK松永に変えて川口能活選手をスタメン起用、松永選手そのまま退団
・4月29日、12節 鹿島8連勝で首位ガッチリ、平塚・中田英寿選手初スタメンを勝利で飾る。
・5月3日、 13節、平塚・野口幸司選手、鹿島戦で1試合5得点、J新記録、
・5月6日、 14節、平塚・中田英寿選手2ゴール
・5月10日、15節、横浜M vs横浜FダービーでPK負けも鹿島をかわして首位に立つ
・5月13日、16節、上位順位変わらず、日本代表日程などで約1ケ月中断
この間、横浜M、ソラリ監督が豪州キャンプ中に体調不良に陥り辞任、早野宏史コーチが昇格
・6月17日、17節、横浜M・早野監督、G大阪戦の初采配を白星。GK川口能活選手PK阻止で貢献
・7月1日、 21節、横浜M、平塚に敗れ3連敗、GK川口退場処分の中、薄氷の首位
・7月8日、 22節、名古屋8連勝、優勝争いに名乗り、横浜MはGK伊藤卓選手の活躍で首位死守
・7月12日、23節、名古屋、ヴ川崎に敗れ9連勝ならず
・7月15日、24節、横浜M3連勝で次節にもV可能性、浦和6連勝、2位に浮上
・7月19日、25節、首位横浜M、清水に敗れ、優勝は最終節に持ち越し、浦和を破ったヴ川崎11連勝で2位浮上、最終節の結果次第で逆転Vの可能性
日本代表「サッカーの聖地・ウェンブリー」に立つ
1月の「インターコンチネンタルカップ」を、なすすべなく終えた加茂ジャパンですが、2月ダイナスティカップで宿敵韓国を倒して大会連覇。そして5月のキリンカップ、初戦スコットランドと引き分けたものの2戦エクアドルに勝利して、これも優勝しました。
これでポジティブな気持ちを取り戻した加茂ジャパンは、6月、イングランドに遠征して強豪国との真剣勝負に挑みました。イングランド、ブラジル、スウェーデン、日本による4ケ国対抗アンブロ・カップ(Umbro Cup)です。
この大会は、イギリスの代表的なスポーツ用品メーカー・アンブロ社がスポンサーとなって、翌年夏に控えたイギリスが開催予定の欧州選手権のリハーサル大会の位置づけで開かれました。
この大会に日本が招待されたのは、スポンサーにとってアジアの中でも特に市場価値が高いと思われる日本でのマーケティング戦略があったと容易に想像がつきます。世界の強豪と真剣勝負ができる機会を得られるという意味で、日本の経済価値、市場価値が助けになるというのは、ありがたい限りです。
日本代表は6月3日、ロンドン・ウェンブリースタジアムで開催国イングランドとの初戦に臨みました。日本代表がサッカーの母国の「サッカーの聖地」と呼ばれるウェンブリースタジアムに立つのは史上初めてのことでした。
加茂監督の「勝ちにいこう」という檄のもと、井原正巳選手がヘディングでウェンブリーに刻む歴史的ゴールを決め同点に追いつき、引き分けまであと一歩のところまでいきましたが1-2で試合終了となりました。
続くブラジル戦、アメリカW杯優勝の世界王者にも日本は臆することなく挑戦したものの0-3、手痛い洗礼を浴びた結果になりました。
最終戦はスウェーデン戦、前半、藤田俊哉選手のゴールで先制した日本、後半一度は逆転されたものの黒崎比差支選手のゴールで同点に追いつき2-2で終了ホイッスル。格上のチームとはいえ、勝てそうな試合をモノにできなかったという試合になりました。
世界ランキングから見れば圧倒的な格上の3ケ国との大会で1分2敗に終わったとはいえ、日本代表は、その後のフランスW杯アジア予選の中心メンバーとなる井原正巳選手、相馬直樹選手、山口素弘選手、森島寛晃選手らが貴重な経験を積んだ意義ある大会でした。
日本代表は、その2ケ月後の8月9日、ブラジル代表を国立競技場に迎えました。日本のサッカーファンは初めて日本国内でブラジル代表(セレソン)の雄姿を目にすることができたのです。
この試合は、日本・ブラジル修好100周年記念試合として行なわれたもので、日本代表には加茂監督のはからいもあってラモス瑠偉が招集されました。
ブラジル代表には、C大阪のGKジルマール、鹿島ジョルジーニョ、レオナルド、横浜Fジーニョ、サンパイオ、清水DFロナウドなど、すでにJリーグでプレーしている選手たちが目立つのも特徴で、後期から磐田でプレーすることになるドゥンガもすでに来日していたことから、かなりJリーグ色の濃いメンバーでした。
試合は、後半4分、福田正博選手がゴールを決め、ブラジルからあげた初ゴールとして歴史に刻まれましたが、終始リードしたブラジルに1-5と大差をつけられてしまいました。
それにしても年に2度もブラジル代表とマッチアップできたというのは、それまででは考えられない出来事でした。Jリーグスタートを機に世界を追いかけ始めた日本に、次第に強豪との対戦機会の増加という追い風が吹き始めたと言えます。
女子代表、第2回女子W杯でベスト8進出達成
時を同じくして6月、スウェーデンでは女子W杯(1995年女子世界選手権)が開催されました。グループリーグの組み合わせは、優勝候補ドイツ、開催国スウェーデン、そしてブラジル、どれも強豪との対戦でした。日本は初戦ドイツに0-1で敗れたものの2戦目ブラジル戦でエース・野田朱美選手の2ゴールで2-1と勝利、女子W杯史上初得点と初勝利を収めたのです。
これが奏功して3戦目のスウェーデン戦に0-2で敗れたもののグループ3位、さらには他グループ3位との比較でベスト8進出を決め、同時に1996年アトランタ五輪出場権獲得を達成したのでした。
続く準々決勝でアメリカに0-4と敗れ終戦となりましたが、着実に世界の中で位置づけを高める結果を残しました。
女子W杯2回目にしてベスト8進出を決め、1996年アトランタ五輪出場権も獲得した日本代表の主力メンバーは次のとおり。
・GK小澤純子(TOKYOシダックス)、DF山木里恵(日興証券DL)、DF埴田真紀(松下電器PB)、DF仁科賀恵(プリマハムFCくノ一)、DF大部由美(日興証券DL)、MF高倉麻子(読売西友V)、MF木岡二葉(鈴与清水RL)、MF澤穂希(読売西友V)、MF/FW半田悦子(鈴与清水RL)、FW野田朱美(宝塚バニーズLS)、FW内山環(プリマハムFCくノ一)、鈴木保監督、山本浩靖コーチ、宮内聡コーチ
このあと女子日本代表は、9月マレーシアで開催された1995アジア女子選手権でも決勝まで無失点で勝ち上がりました。決勝ではこの当時、日本に立ちはだかり続けた中国に、またしても0-2敗れ、優勝は逃しましたがアジアのトップクラスとしての地位を固めました。
ワールドユース日本代表、準々決勝でブラジルに惜敗
フル代表のアンブロカップ参戦、女子W杯参戦に先立って、4月、中東・カタールを舞台にワールドユース選手権(U-20)が行なわれ、日本ユース代表が出場しました。グループリーグの相手はスペイン、チリ、ブルンジ(アフリカ)でした。
初戦のチリ戦は2-2の引き分け、2戦目のスペイン戦は1-2とスコア上は僅差でしたが試合内容は、パススピード、ボールへの寄せの速さ、個々の選手の視野の広さなど多くの面でスペインに圧倒された試合でした。
これで1分1敗となり3戦目のブルンジ戦で勝利が絶対条件の上、他会場の結果次第という他力本願の中、日本代表は2-0で勝利、グループ2位を確保して準々決勝進出を果たしました。
準々決勝の相手はブラジルです。日本は前半12分、MF奥大介選手のミドルシュートがブラジルゴールに突き刺さり先制、今大会無失点中のブラジルを呆然とさせました。これで目が覚めたブラジルが前回優勝の貫禄を見せて逆転、日本は惜しくもベスト4進出を逃しました。
この大会、昨年のアジア予選でキャプテンをつとめた伊藤卓選手にかわってキャプテンをつとめた鹿島の熊谷浩二選手や浦和の山田暢久選手など、Jリーグでレベルの高い外国人選手とマッチアップを重ねている選手たちが、世界の舞台でも堂々とした戦いぶりで、かつての日本代表に見られた国際舞台でのひ弱さを全く感じさせない成長ぶりを見せた大会でした。
加えて1993年、日本で開催されたU-17世界選手権で決勝トーナメントに進出した経験を持つ中田英寿選手、松田直樹選手たちもいて、この選手たちが五輪代表、日本代表とステップアップしていくことを考えると、夢が膨らむ大会でもありました。
この年6月には、翌年のアトランタ五輪出場を目指す男子五輪代表のアジア一次予選が行なわれました。タイラウンドと日本(名古屋)ラウンドに分けて、日本、タイ、台湾3ケ国間で争われた4試合を全勝で突破しました。
Jリーグ前期は横浜Mが悲願の初優勝を達成
Jリーグ前期は7月22日、最終26節を迎えました。前節まで破竹の11連勝を遂げたヴ川崎が首位横浜Mに肉薄してきました。最終節、横浜Mの相手は鹿島、ヴ川崎は平塚、結果次第ではヴ川崎に逆転優勝をさらわれかねない状況での試合となりました。
横浜Mは、今シーズン就任したアルゼンチン人のホルヘ・ソラリ監督がチームの大幅な世代交代を断行しました。ベテランのラモン・ディアスを開幕スタメンから外し、4月下旬にはGKを松永成立選手から川口能活選手に代えたのです。
一方でラモン・ディアス選手の誘いで在籍していた3人のアルゼンチン人・メディナベージョ、ビスコンティ、サパタの各選手を効果的に起用してスタートダッシュに成功しました。途中、鹿島と首位争いを演じながら、ソラリ監督は前期の途中16節まで首位のまま、約1ケ月間のJリーグ中断の期間に体調を崩したため辞任したのですが、後を引き継いだ早野宏史監督が中断明けの6月17日、17節から指揮を執り、縦に早い攻撃を仕掛けるソラリ路線の継承を目指しました。
17節のG大阪戦を1-0で勝利、18節の磐田戦も勝利しましたが19節から名古屋、浦和、平塚に3連敗、首位陥落の最大の危機を迎えました。
けれども2位以下の混戦にも助けられ22節のC大阪戦に勝利すると24節まで3連勝、首位のまま最終節を迎えたのです。最終26節鹿島戦は、敗れると逆転でヴ川崎に優勝をさらわれかねない状況でしたが、前半12分メディナベージョがあげた先制点を守り切り1-0で勝利、結局、監督を引き継いでからは一度も首位の座を明け渡すことなく前期優勝にこぎつけました。
ソラリ改革のあおりを受けたFWラモン・ディアスは4月下旬退団、アルゼンチンに帰国しました。また、GK松永成立選手も退団、当時JFL(Jリーグの下のカテゴリー)の鳥栖に移籍しました。代わって正GKに抜擢された、まだ19歳の川口能活選手は、期待に応えて大活躍、甘いマスクも手伝って一躍全国区の人気者になりました。結果がすべてのプロらしい出来事でした。
また早野監督になってからも、出場停止の井原正巳選手に代わってスタメンに起用した松田直樹選手のプレーが集中を欠いたと見るや、すかさずサテライトチームに落すなど厳しい姿勢で臨んだことがチームを引き締め、優勝につながったようです。
Jリーグ開幕前からヴ川崎とともにJリーグを牽引していくこと間違いなしと見られていた横浜M、ところがJリーグがスタートした途端、3大タイトルから見放されサポーターの期待を裏切り続けてきた横浜Mが、やっとの思いでタイトルを手にしたのです。優勝を決めたあとの早野監督やキャプテン・井原正巳選手の涙が、その苦しかった道のりを物語っていました。
ヴ川崎は最終節も平塚に勝ち切り12連勝で前期を終えたものの、一歩及ばず2位でフィニッシュしました。そのほか前期の上位陣には、これまでの上位陣とは違う顔ぶれが並びました。3位にオジェク監督のもとブッフバルト、バインなどの外国人選手と福田正博選手、驚異的な俊足で一躍全国区の人気者になった岡野雅行選手らがかみ合った浦和、4位にベンゲル監督のもとストイコビッチ選手が全国のサッカーファンを魅了するパスワークで次々とゴールチャンスを演出した名古屋、5位にはオフト監督のもとスキラッチ、中山雅史選手らの攻撃陣が機能し始めた磐田でした。
前期終了の余韻も冷めやらぬまま7月29日、第3回コダックオールスターサッカーが国立競技場で開催されました。過去2大会はJリーグ各クラブを東西に分けて東西対抗戦のようなスタイルの試合でしたが、この年から「天の川」を挟んでいる「織姫(織女星)=ヴェガ」と「彦星(牽牛星)=アルタイル」が年に一度、七夕の夜に天の川を渡って出会う伝説に因んで、前年度の総合順位が奇数順位のチームから選ばれた選手が「Jヴェガ」、偶数順位のチームから選ばれた選手が「Jアルタイル」に分かれて戦う方式になりました。
ファン投票結果をベースに、他の大会参加のためや、ケガによる欠場などを理由に監督推薦により選手入れ替えで選ばれた合わせて30人の選手が一堂に会しました。
「Jヴェガ」にはレオナルド、ジョルジーニョの鹿島組、「Jアルタイル」にはカレカ(柏)、ブッフバルト(浦和)といった実力派外国人選手が顔を揃えた中、試合は後半から出場した「Jヴェガ」城彰二選手(市原)がピッチに出てわずか6分間に立て続けに2ゴールをあげる活躍でMVPをさらいました。試合は4-0で「Jヴェガ」の完勝でしたが、前半、度重なる好ディフェンスを見せて観客をうならせた「Jアルタイル」ブッフバルト選手に敢闘賞とMIP賞(テレビ視聴者投票による最も印象に残った選手賞)が贈られました。
真夏の世界挑戦、U-17世界選手権日本代表、日本ユニバーシアード代表
8月、南米エクアドルでU-17世界選手権が開催されました。前年のU-16アジア選手権チャンピオンチームとして出場した日本代表は、グループリーグで開催国エクアドル、アフリカ・ガーナそしてアメリカと同組になりました。
初戦ガーナには0-1で敗れましたが2戦目アメリカ戦に2-1で勝利、最終戦のエクアドルとは0-0で終えました。
その結果、1勝1敗1分でエクアドルと並びましたが得失点差わずか1の差で3位となり決勝トーナメント進出を逃しました。
グループ1位だったガーナが優勝、開催国エクアドルも決勝トーナメント進出を目標に強化を図っていた国と同組だった不運もありましたが、実力的に劣っていない手ごたえを持っていた選手たちの悔しさは大きかったようです。
世界を勝ち抜くには、僅か得失点差1でも天国と地獄を分けるという厳しさを身をもって味わった日本代表、その悔しさをバネにして後年ゴールデンエイジと称賛される活躍と飛躍を遂げたことは周知のとおりです。
8月下旬から福岡を舞台にユニバーシアード大会が開催され、サッカー競技に参戦していた日本大学選抜が勝ち進みました。そして9月2日、決勝で韓国を撃破して見事金メダルに輝いたのです。
日本開催ということでメダル獲得を目指して強化して臨んだ日本代表は、予選リーグを1位で通過、準々決勝で豪州、準決勝でロシアを退けて決勝進出を果たしました。
決勝では、望月重良選手と石丸清隆選手が奪った2点をキャプテン斉藤俊秀選手らのDF陣が0点に抑え優勝を果たしたのです。FWの興津大三選手は大会得点王に輝きました。
日本のあらゆるカテゴリーで世界一に輝いたのは、これが初めてでFIFA主催ではないとはいえ、日本サッカーの力を世界に示したという意味で価値ある優勝でした。
Jリーグ後期は復帰カズが大暴れ、ヴ川崎後期3連覇
Jリーグは、8月12日から後期がスタート、年間王者決定戦への出場権をかけて14チームの戦いが繰り広げられました。
後期から清水・マッサーロ選手(入団は前期だったもののケガのため後期から出場)、磐田・ドゥンガ選手という外国人ビックネームに加わりました。
前期を4位でフィニッシュした名古屋は、ベンゲル監督とストイコビッチ選手という信頼のラインが築かれてチームが一層引き締まりました。前期優勝の横浜Mはビスコンティ、メディナ・ベージョの外国人選手がコンスタントな貢献で後期も安定した戦いぶりでした。
その2チームも、前期最終節まで12連勝を続け、そこにイタリア・セリエAから戻ったカズ・三浦知良選手の、うっぷんを晴らすかのような活躍に牽引されたヴ川崎の勢いを止めることはできませんでした。
三浦知良選手は後期26試合で23ゴールという爆発ぶり、不本意だったイタリアでの経験を見事にJリーグで発揮した活躍でした。
ヴ川崎は後期は3年連続制覇、Jリーグスタート時に宿命のライバル視された横浜Mとの年間王者決定戦がやっと実現することになったのです。
レオナルド選手がJリーグ史に残るファンタスティクゴール
後期の流れをおさらいしておきます。
・8月12日、1節、イタリア・セリエAからヴ川崎復帰のカズ・三浦知良選手、いきなり平塚戦で2ゴール
・8月19日、3節、ヴ川崎ネルシーニョ監督、磐田戦で勝利優先、カズ・三浦知良選手をJリーグ初体験の途中交代、前期から15連勝
・8月23日、4節、市原がヴ川崎の連勝をストップ
・9月2日、6節、名古屋首位、得失点差で柏、ヴ川崎が続く
・9月6日、7節、名古屋(清水戦)敗戦、柏(磐田戦)敗戦で、ヴ川崎首位に(G大阪戦勝利)
・9月27日、12節、G大阪vs磐田戦でG大阪サポーター暴走、浦和・田口禎則選手は浦和サポーターに乱暴(後段に詳細記載)
・9月30日、13節、平塚vs鹿島戦で鹿島サポーターがレオナルド退場処分に抗議して乱入(後段に詳細記載)
・10月4日、14節、柏vsG大阪戦で両チームサポーターが乱闘事件、ヴ川崎vs横浜M戦でも横浜サポーター乱入(後段に詳細記載)
・10月21日、18節、ヴ川崎、鹿島に敗れ10連勝ならず、2位清水、3位名古屋も敗れ共倒れ
・11月1日、19節、Jリーグ史に残るファンタスティクゴールが生まれました。
鹿島vs横浜F戦、後半38分、鹿島のレオナルド選手が長谷祥之選手からのボールを左足ですくいあげると、そのまま足の甲やひざでリフティングしながら囲んでいた3人の相手DFをかわすように反転、5回目のリフティングでバウンドさせたボールの上がり際を左足で強烈にシュート、見事にゴールに突き刺すという離れ業を見せてくれたのでした。
このゴールは長くJリーグファンの宝物のようなゴールとなり、2013年にJリーグが20周年企画として実施された「ファンが選ぶJクロニクルベスト」では、過去20年のベストゴール第1位に選出されたのです。
レオナルド選手は、その甘いマスク、紳士的な人柄とともに、このゴール1つだけでも「Jリーグ永遠の貴公子」の称号を得るにふさわしい選手でした。
・11月11日、22節、C大阪、PK戦でヴ川崎を下し目前胴上げを阻止、2位名古屋勝ち、優勝決定は次節に持ち越し
・11月15日、23節、ヴ川崎、柏を下し後期優勝、後期だけで3連覇達成。
ヴ川崎はネルシーニョ監督の采配のもと、カズ・三浦知良選手、武田修宏選手、ビスマルク選手、北澤豪選手、柱谷哲二選手、GK菊地新吉選手とDF菊池利三の兄弟、そして鹿島から移籍してきたアルシンド選手らの活躍で、7節に首位に立つと、その後は一度も首位の座を明け渡すことなく2位名古屋に大差(最終成績で勝ち点差8)をつけて優勝しました。
・11月25日、26節、後期日程終了
優勝・ヴ川崎(勝ち点59)、2位・名古屋(勝ち点51)、3位・横浜M(勝ち点46)、4位・清水(勝ち点45)、5位・柏(43)
今シーズン昇格の柏が前期は最下位でしたが、後期は一転して大躍進5位に食い込みました。
2002年W杯日本開催提案書をFIFAに提出
9月28日、日本サッカー協会はFIFA・国際サッカー連盟に対し開催地立候補手続きの正式書類となる「2002年W杯日本開催提案書」を提出しました。
スイス・チューリッヒのFIFA本部を、日本サッカー協会・長沼会長、副会長で招致実行委員長の岡野俊一郎氏、専務理事で招致委員会事務局長の小倉純二氏が訪れ、ブラッター事務総長に提案書を提出しました。
書類は特製のアタッシュケースにぎっしりと詰まった膨大な量で、FIFA公用語である英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語の4ケ国語で約30冊作成されました。
提案書は、日本がW杯を開催する意義や提案、開催予定15都市に整備するスタジアムをはじめとしたハード面、インフラの状況、大会運営や警備などのソフト面などをCG画像を駆使したイメージビデオをセットにした完璧な(協会関係者談)内容でした。
翌日には韓国も開催提案書を提出、いよいよ2002年W杯招致は日韓の一騎打ちとなり、翌年6月初めの開催地決定まで、虚々実々の駆け引きが続くことになります。
この段階で、日韓両国はそれぞれ招致活動について、どのような手ごたえを持っていたかですが、日韓ともに、それぞれの言い分に自信を持っていて、それぞれが比較的楽観視していたといえます。
日本側は、何よりも計画書に盛り込まれている準備の万全さをあげています。韓国側はスタジアムの改修などは開催が決まったら手をつけるといった具合に、計画が生煮えだというのです。
またJリーグでの観客動員の実績はKリーグの実績を圧倒しており、国民のサッカーに対する熱意に大きな差があることも有利であり、日本がW杯にまだ出場経験がない点についてもユースカテゴリーの世界大会で目覚ましい活躍を見せている年代が2002年の主力選手になるので、開催国の活躍を論じるならば、むしろ日本に分があるという具合です。
一方の韓国は、やはり過去4回(北朝鮮を含めると5回)もW杯に出場している韓国で開催せず、一度も出場していない日本が開催するなどあり得ないと考えているようで、FIFAも「その実績が、これまでサッカー界にどれほど貢献してきたか」という韓国の主張を重視しているはずと見ています。
また、FIFA役員の中には、第二次世界大戦時の被害国である韓国に対して戦争責任を清算していない日本は「世界友好」の意思がないと考えている人もいるので、日本開催決定にはならないとも考えているというのです。
このように、それぞれが自信を持って自国招致を進めている中、両国ともカギと見ているのがFIFA副会長に就いているチョン・モンジュン氏の存在でした。
韓国は、今後FIFA視察団による現地調査が行なわれる中で、チョン・モンジュン副会長が視察団メンバーと直接コンタクトをとっている強みがモノをいうはずだと見ています。チョン・モンジュン副会長が韓国の財閥で自動車メーカーの現代自動車の会長なので、その立場も最大限に活かせることも大きなメリットだと考えています。
日本も、もし不安があるすれば、チョン・モンジュン副会長の存在と見ています。そもそもチョン・モンジュン氏は、前年のAFC(アジアサッカー連盟)選出のFIFA会長選で、日本の候補者が一敗地にまみれた相手です。
日本が敗れた理由としてあげられているのは、日本は、あまりにも策がなさすぎて、政治的に立ち回り、現代自動車の会長としての立場も最大限に活かしたチョン氏に、負けるべくして負けたという点です。
このチョン・モンジュン氏の力がFIFA理事に対しても発揮されると不利に働くという不安です。日本には、それに対抗してFIFA理事に対して政治的に立ち回ったりする手を使おうという発想はないようでした。
日本はあくまで「FIFA理事たちは、公正明大に両国の提案を評価して正しい判断を下してくれるだろう、そうすれば日本招致は動かない」という期待だけが拠り所なのです。
そういう日本の状況について多くのメディアが「昨年のアジア選出FIFA副会長選は、圧倒的に有利だと思っていたのに足元をすくわれてしまった。同じことが再び起らないよう細心の対応をして欲しい」と注文をつけています。
こうした公式情報の陰で、気になる報道があったことも付け加えておきます。
9月21日、読売新聞の一面に「河野洋平外務大臣が、韓国に2002年W杯共同開催を極秘に提案していた」という記事が載ったのです。
河野外相が前年10月に韓国を訪問した際、極秘にW杯共同開催を提案していたというのです。記事は「今年になってから韓国政府が共同開催案をしきりに出しているのは、この事実が裏付けにになっているのではないか」と結んでいます。
韓国が共同開催案を持ち出してきたということは、招致レースで日本にかなりリードされているという読みがあったからだと思われます。日本だけには持っていかれたくない、ならば半分でも「よし」とするかといった、両にらみのカードも持っておこう魂胆だったかも知れません。
一方の日本はと言えば「うちが有利なのは絶対間違いない。政府要人が共同開催案を持ちかけたからといって、それは日本側の統一意思でも何でもない。余計なことをしてくれたものだ。」と受け止めていたようです。
そして「韓国が政府要人からの持ちかけに乗って共同開催案を出しているのであれば、それこそが「韓国劣勢」と思っている何よりの証拠、なおのこと日本は単独開催案で突っ走るべきだ。」という姿勢を強めたと思われます。
そして、共同開催案は非現実的な案なのだということを自分たちに言い聞かせるように、
・FIFAの規定には「1国で開催する」と明記されているし、これまでもそんなことが認めた例はない。
・いまさら国内開催候補地など利害関係者との調整や、さまざまな変更など不可能に近い。
といった「できない理由」をあげました。
しかし、この時、日本側に物事を戦略的に考えられる「軍師」のような存在がいて、「まてよ、日本はつい昨年、アジア選出副会長選をひっくり返されている。相手が韓国であれば、何があってもおかしくない、ここは共同開催案とどのように向き合うべきか考えておく必要がある」といった主張が大事にされていれば、フタをあけて見た時の風景は、もっと違った風景になっていたかも知れません。
例えば日本が「そもそも単独開催を大前提とした招致活動を進めているとはいうものの、日本も共同開催は否定するものでも何でもありません。友好促進の理念に叶う案だと思っています。ただ、いまから共同開催となれば、国内開催候補地など利害関係者との調整や、さまざまな変更など、かなりの困難を伴うことであります。けれども共同開催を真っ向否定はしておりません・・・」と言ったアナウンスをFIFAにも国内にもしておくという選択肢が考えられたと思います。
そうすれば、万が一にも共同開催ということになった場合でも、単独開催一択しか持っていなかったが故に味わった、あの何とも言えない「敗北感」のような空気は味わわずに済んだかも知れません。
とはいえ、この10月の時点では、まだ翌年6月の未来は見えていません。けれども、この時期の両国のスタンスに、翌年6月の結末をどう導くかという戦略思考の差が出始めていたように思われます。
JOMO CUP初開催、Jリーグ日本人選抜と外国人選抜のドリームマッチ
10月10日、体育の日中央記念行事という位置づけで、初めてJ0M0 CUPが開催されました。これはJリーグに所属する日本人選抜チームと外国人選抜チームが対戦するというドリームマッチでした。
9月、FIFAに2002年W杯日本開催提案書を提出した直後だけに、それを多くのサッカーファンに周知して後押しを得る趣旨でもありました。
日本人選抜は、ほとんどが、その時の日本代表選手で固められましたが、外国人選抜はレオナルド、ジョルジーニョの鹿島コンビやスキラッチなどが不在だったものの、ストイコビッチ、ドゥンガ、ビスマルク、ブッフバルトといったビッグネームが同じピッチに立つというドリームチームでした。
試合は、こうした大一番や初物になると無類の勝負強さを発揮するカズ・三浦知良選手が先制、追加点の2ゴールをあげて3-1、日本選手選抜チーム勝利の立役者となりました。
特に試合開始5分に得たFKは、カズ・三浦知良選手自身が「スピード、曲がり方、角度・・すべて理想に近かった。これまでで最高のフリーキックでした」と振り返るほど見事なゴールでした。
JOMO CUPサッカーは、このあともバッジョなどの招待選手を交えて開催するなど2002年W杯開催を盛り上げる趣旨で2001年まで続きました。
加茂監督からネルシーニョへ、一転「腐ったミカン」事件、代表監督選定を巡り日本サッカー協会、密室的・恣意的な体質を露呈
10月30日、日本サッカー協会の加藤久強化委員長が、長沼会長、岡野副会長、川淵副会長、小倉専務理事の幹部に対して「日本代表・加茂監督の1年間の活動に対する評価と今後の対応」についてまとめた「強化委員会報告書」を提出、内容説明を行ないました。
昨年12月、加茂監督が日本代表監督に就任した頃は、このまま加茂監督がフランスW杯アジア予選の指揮を、といった、どこが発信源になっている情報かわからない論調もありましたが、加茂監督の任期は11月末まで、その後をどうするかは、強化委員会が報告書にまとめて提案するということになっており、今回の報告は既定方針どおりのことでした。
もともと昨年ファルカン監督との契約を延長せず、選手とのコミュニケーションを重視して日本人監督を、それには加茂監督が適任という流れで選ばれた加茂監督ですが、一方で、フランスW杯アジア予選までに複数の監督を試して、あらためてフランスW杯アジア予選を託す監督を選任するという方針も、特に強化委員会では既定路線として認識されていました。
その方針に沿って出された、いわゆる「加藤レポート」の結論は、加茂監督交代、後任として複数の候補者を提示しているものでした。
幹部会は同日、加茂監督からも、この1年の総括と今後の課題、チーム作りの考え方について報告を受けました。
強化委員会の結論が「加茂続投」であれば、そのままスンナリと決まる話でしたが、交代という結論を出したことで幹部会は11月8日の理事会で「次期監督選考についての幹部会一任」を取り付けました。
あるスポーツ紙は「加藤委員長からの報告を受け幹部会は、加茂監督続投を説得したが、1年間かけてまとめた報告書を覆すわけにはいかないという意思を加藤委員長が貫いたため、とりあえずその場を収めたものの、この時から幹部会は加茂続投ありきだったのではないか」という見方をしています。
こうして、次期監督は次の幹部会開催日である11月22日に決めることになりました。
実は、この11月8日から11月22日にかけては、川淵副会長を除く3人がW杯招致活動のため海外出張が組まれており幹部同士の協議の場はなく、国内では川淵副会長がマスコミ対応を含めた対応にあたる状況でした。
強化委員会のいわゆる「加藤レポート」は、候補者を優先順位をつけて次の4人示していました。
1.名古屋・ベンゲル監督、2.ヴ川崎・ネルシーニョ監督、3.磐田・オフト監督、4.加茂監督。
加茂監督は、いわば上位3人がすべて不成立だった場合の選択肢という位置づけとなりました。
その順位に沿って川淵副会長と強化委員会が候補者とクラブに交渉を開始した結果、ベンゲル氏は消えましたが、次のネルシーニョ氏がヴ川崎との契約が一旦切れることから本人、クラブからも内諾の意向が得られました。
これで、あとは幹部会の承認を得て、細かい条件交渉を詰めるだけという雰囲気になり、マスコミにもその情報が流されましたので、サッカー専門誌の中には「(フランスW杯アジア)最終予選までネルシーニョ全権監督」という見出しを打って、幹部会が行なわれる11月22日に正式に発表されるという記事を掲載したところもありました。
ところが、事態は一変しました。
11月22日行なわれた幹部会が出した結論は「加茂監督続投」だったのです。ここまでの川淵副会長と強化委員会の候補者へのアプローチでは、ネルシーニョ氏は、すでに条件交渉も詰めの段階に入っていて、あまり支障がないところまで来ていたようです。
一方の加茂監督は、すでに自分に続投の芽がない情報を得ていたことから、自ら辞意を示すつもりで、自分を送り出したくれた横浜Fの幹部に身柄を預ける相談をしていたところだったようです。
そういった状況をまったく顧慮することなく、幹部会は「加茂監督続投」の結論を出したのです。
会見で長沼会長は「フランスW杯アジア予選突破を託す人物として、加茂現監督、ネルシーョ氏ともに同等の力量と判断した。だとすれば、チーム作りの継続性とコミュニケーション(言葉の問題)を考えて加茂監督続投という結論に至った」と説明しました。
こうした長沼会長の説明とは裏腹に、あるサッカー専門誌は、その3日前からのネルシーニョ氏側との契約金額の下交渉の行方が、問題を大きくしたと見ています。
といいますのは、3日前の19日昼の段階で協会側とネルシーニョ氏側には約1億円ほどの金額の隔たりがあったというのですが、それを加藤強化委員長の奔走により、ほぼ協会側の意向に沿った内容に調整して、加藤委員長に託したそうです。
つまりネルシーニョ氏側は「就任を合意した上での最終的な詰めの作業に応えた」と考えていたのですが、加藤委員長が長沼会長に19日夜に報告した時は、すでに長沼会長は加茂氏留任に気持ちが向いていて、ネルシーニョ氏と金額的に折り合うようだという加藤強化委員長の奔走が報われることがない結論に向かっていたようなのです。
そのサッカー専門誌が指摘しているのは「もし加茂氏留任で幹部会決定をするのであれば、決定前にネルシーニョ氏に断りを入れていれば、まだ傷は浅くて済んだはずなのに、それをしなかったために問題を一層大きくしてしまった。」という点です。
11月22日幹部会の「加茂監督続投」の結論は、ネルシーニョ氏が所属するヴ川崎・森下社長に伝えられました。ネルシーニョ氏は協会から連絡を受けたのではなく、森下社長から聞かさせて、ひっくり返った事実を知ったのです。
これまで、協会の要請を受ける形で交渉を前向きに進めてきて、もはや最後の詰めというところまで来たにもかかわらず、協会幹部から直接説明を受けることなく、結果だけヴ川崎・森下社長を通じて聞かされたネルシーニョ氏。この不誠実なやり方は何なのか、協会がとったこの不手際な対応もネルシーニョ氏の怒りを増幅させました。
同日夜会見したネルシーニョ氏は、ふつふつと沸く怒りを押し殺しながら協会幹部を批判しました。
「協会は代表監督を選ぶ権利があると言っても、ふざけた決定をする権利まではない。長沼、川淵のやり方は、アマチュアなやり方、いや子供のやることだ。日本サッカーは実力も向上してW杯にいける能力もあると思うが、残念ながら(日本サッカー界という)箱の中には必ず腐ったミカンがあるものだ。協会のトップがこのままなら、今回のような話は二度と受けたくない」
これが後に「腐ったミカン事件」と喧伝された会見でした。
ネルシーニョ氏の心中や推して知るべしです。
一方の加茂監督、3日後の25日、長沼会長に伴われて記者会見しました。冒頭、長沼会長が経緯を説明している間、加茂監督はじっとうつむいたままで、複雑な形で続投することになった状況に聞き入っていました。
加茂監督は、一度は辞意を固めて身柄を預けた横浜F幹部に「今ごろになって協会から続投して欲しいという話が来た。自分はどうしていいかわからない」と打ち明けたそうです。横浜Fにしても加茂氏復帰に向けて動き始めていましたから、そう簡単な話ではなくなっていたのです。
加茂監督は会見で、22日に続投要請を受けた時「考える時間が欲しい」と一旦は保留したことを明らかにした上で「やっと昨夜、気持ちが整理できました。色々な協力は必要ですが、ベストを尽くしてW杯出場を果たしたい。まだ1度も果たしていないW杯への出場は、できれば日本人でやりたいと思っていました。チャンスをいただいたことに感謝しています。」と吹っ切れた様子でした。
加茂監督が続投要請を受けた時「考える時間が欲しい」と一旦保留したのは、横浜Fに詫びを入れて自分が戻る話を白紙に戻してもらわなければならなかったからです。詫びを入れた横浜F幹部からは「日本代表監督のほうがやりがいがある仕事だから、加茂さんの思うようにしていいですよ」という言葉をもらって救われた気がしたと述懐しています。
この一連の経過について、あるスポーツ紙は「密室人事 サッカー協会幹部会で急転 加茂監督続投 お粗末要請」という見出しを打ちました。
そして「なんのための強化委 結局少数の長老が時代に逆行する決定 2週間前からの筋書き 情報操作の声も」と痛いところを突いた小見出しをつけました。
強化委員会という制度を設け、手続きを踏んで時代に即した意思決定をするという協会の仕組みは結局ポーズだけで、決めるのは幹部会という名の、それまで規約になかった場を急遽決めて、少数の幹部だけが意思決定するというやり方を批判した記事でした。
また、そうしたシナリオは、実は10月30日に強化委員会・加藤久委員長が幹部会に報告した結果を受けて「次期監督選考については幹部会一任」とした時から、すでに「加茂監督続投あきり」で描かれていたと思わざるを得ないとも指摘しています。
では、なぜ、そのような決め方をしたのでしょうか? 幹部の腹は「加茂監督続投」で固まっているのに「知らぬは下働きの者ばかりなり」という具合に、強化委員会関係者は一生懸命、候補者の絞り込みに奔走してネルシーニョ氏で決まり、というところまで漕ぎつけたのに、です。
それを卓袱台(ちゃぶだい)返しすれば、多くの人が傷つきサッカー協会への信頼が失墜することが明白なのに、です。
こうした経過をつぶさに見ていたさきほどのサッカー専門誌は、次のように糾弾しています。
「今回の不始末の背景を追うと。最後には日本協会の組織の未熟さに行き着く。しかし組織を構成するのが個人である以上、その各々の認識の甘さ、発言への責任が前提になるのは当たり前。協会には、一般社会ならあるそうした『当たり前』のものがない。」
「自分たちが作った組織の長(強化委員長)に交渉役を任せて最後には責任を押し付ける厚顔」
「交渉先との認識のズレを『それが悲劇的でしたねぇ』としゃあしゃあ」と口にする無恥」
「加茂監督に決めた後で『フィールドの中ではネルシーニョ監督が上でした』と発言する傲慢」あきれた発言をあげればキリがない」等々。
結局、ファルカン監督から加茂監督に交代させた時とまったく同じ、日本代表監督選びというのは、それだけサッカー協会を牛耳る人々にとって「オレが選ぶんだ、オレが決めるんだ」と立場を誇示できる機会でしかなかったと言わざるを得ません。
その文脈で考えれば、長沼会長と加茂監督は関西学院大学出身の先輩後輩という間柄であり結局「このあとも加茂でいきたいんだ」という気持ちが、客観的、専門的立場から下された「加茂監督退任、別の監督で」という評価に勝っていたのであり、すでにネルシーニョ氏との交渉が大詰めになっていようが、そんなことはお構いなしという行為に結びついていたと言わざるを得ません。
まさしくスポーツ紙そしてサッカー専門誌が指摘したように、時代遅れの密室的・恣意的な協会幹部の姿が浮き彫りになった出来事でした。
こうした体質を「サッカー協会、いまだ個人商店」という見出しで、次のように論評した全国紙もありました。
「今のサッカー協会は『日本代表』『Jリーグ』とヒット商品が相次ぎ、思わぬスピードで上場してしまった個人商店レベルの中小企業のようなもの。本来の意思決定機関である『理事会』は、面倒なことは『幹部会』に一任して思考停止。幹部会は『会社はオレたちで持っている』という考えが抜けきれない。個人商店から会社組織に脱皮するはざまで起きた監督選定劇だった。」
ここまでの経過の中で、本来であれば安易に公表されるべき性格のものではない「強化委員会レポート」の中身、とりわけ、誰を候補者にあげているかとか、どのような決め方を考えているかといった情報が、マスコミに簡単に流れていた点についても批判が出ました。
そういった情報を漏らすということは、いわば手の内を外部に晒すようなもので、およそ、物事の進め方を知らないやり方だという批判でした。
このあとも、たびたび指摘されることになりますが、日本サッカー界では選手のレベルアップや、その指導体制などは順調に成長・進化を遂げていったのですが、さまざまな意思決定を行なったり、国際サッカー界の中で立ち回らなければならない協会幹部のレベルだけは、長らく立ち遅れたままで、日本サッカー界を落胆させる事態を招くことも少なくありませんでした。
これは、協会幹部への道が、例えば日本代表選手選考のように、真にふさわしい選手だけが生き残るといったプロセスではなく、幹部と後輩の上下関係や、何かの論功行賞、時には権力闘争のような内部抗争まがいの結果、ある者は幹部に引き上げられ、ある者は脱落していくといった新陳代謝が続けられたためと考えられます。
今回の出来事も、それを白日のもとに晒すような出来事でしたので指摘しておきたいと思います。
サッカージャーナリズム、忖度・配慮を排し分析、批判、提言のスタンスに変化
このネルシーニョ案を反故にして加茂監督続投に至った「腐ったミカン」事件は、マスコミ、メディアがこぞってジャーナリズムとしての役割を発揮したくなる格好の材料となりました。
その少し前にあった2002年W杯招致のFIFAへの提案書提出や、Jリーグの試合での荒れるサポーター問題でも、かなりのサッカージャーナリストやテレビ・新聞記者が、状況を伝えるだけではなく分析、批判、提言といった論陣を張ることが増えてきた中で、この代表監督問題では、まさに百花繚乱、サッカージャーナリズムが沸騰したテーマでした。
このあとサッカージャーナリズムは、協会、Jリーグなどへの忖度や配慮を最低限にとどめ、言うべきことは言う、糾すべきは糾すというスタンスに変化していく、ある意味転換点の出来事だったと言えます。
この頃、まだ選手のパフォーマンスや言動に対しての指摘、批判などについてはヨーロッパなどに比べれば控え目でしたが、カズ・三浦知良選手に対するイタリアマスコミの辛辣な対応などを見た日本のマスコミも、少し感化されたかも知れません。
読売・渡邊社長、川淵チェアマン攻撃ヒートアップ
マスコミとサッカーという括りとは少し異なりますが、ヴ川崎・ネルシーニョ監督の代表監督就任が土壇場で反故にされた一件について、親会社である読売新聞社・渡邊恒雄社長がJリーグ川淵チェアマンを「ネルシーニョに頼んでおきながらポイするなんて」とこき下ろし、あげくは「馬鹿野郎」と罵倒したことが、マスコミの格好のネタとなりました。
11月22日の協会による加茂監督続投会見から5日後の11月27日、読売新聞社・渡邊社長が両国国技館での横砂審議委員会に姿を現し、委員会終了後、通常の2倍の記者団が取り囲む中「ネルシーニョ監督の・・・」という記者からの問いかけが始まった途端、堰を切ったようにJリーグ川淵チェアマン批判を繰り広げたのでした。
そして最後には「あんなバカは相手にできない。サッカーで食ってるボスが独断で決めやがって・・・、ひどい話だ、忙しくてかまってる暇はない、勝手にすりゃいいんだ」と怒りを通り越した様子だったようです。
読売新聞社・渡邊社長は、これまでにもクラブ呼称問題で「読売ヴェルディ」と決めていたところを企業名を外すよう強く求められて外したことや、ホームタウンを東京に移転すると唐突に発言したものの白紙撤回することになった経緯があり、1994年のヴ川崎優勝祝賀会では川淵チェアマンを「独裁者」と批判するなど、対決姿勢を強めていました。
一部のマスコミからは「読売グループは、今回、ネルシーニョ監督を代表監督に送りこめればグループとして協会側に大きな貸しを作ることができ、発言力が一気に増して、渡邊社長もこれまで味わってきた屈辱をはらせると考えているのではないか」といった見方が流れていました。
そして、今回のどんでん返しは、その意図を察知した協会側が、幹部たちの判断で強引に覆したのではないか、渡邊社長のほうは、その野望を潰されたことで怒り心頭に発したのではないかとする見方が流れました。
読売新聞社・渡邊社長の攻撃は、このあとも尾を引きますが、読売グループがこのあと急速にJリーグへの関心を低下させ、のちに東京移転は実現させたものの、クラブ経営からは完全撤退することになります。
そういう意味で、この「馬鹿野郎」発言は、一つの分水嶺になったのかも知れません。
イタリアセリエAでサポーター殺人事件、南米コパ・アメリカはウルグアイ優勝、トヨタカップはアヤックス
1995年の海外サッカー、国際大会を俯瞰しておきます。
1月29日、イタリア・セリエA第18節ジェノアvsACミラン戦の、スタジアムの外でサポーター同士のいざこざから、ジェリアサポーターがACミランサポーターにナイフで刺殺されるという事件が発生、イタリア全土に大きな衝撃を与えました。
ジェノアとACミランと言えば、カズ・三浦知良選手がセリエAデビュー戦でスタメン出場を果たしたものの、前半、相手DFバレージ選手に顔面を激突して無念の負傷を負ったカードです。
日本でも大きく取り上げられ、翌朝のスポーツ紙1面にはデカデカと「カズ 殺人事件」という見出しが踊りました。近づいて読むと「カズの試合で乱闘 殺人事件」となっていましたが、それでもビックリです。
イタリアサッカー協会はオリンピック連盟とも話し合い、翌週2月5日にイタリア国内で予定されていたすべてのスポーツイベントを中止、亡くなった青年を悼むとともに、スポーツ会場からの暴力排除に向けてスタジアム出入口での携行品チェックなど管理を徹底していくこととした。
この年、Jリーグでも「荒れるサポーター」問題が続き、クラブ、サポーターとも対応が迫られましたが、殺人事件といった社会を震撼させる事態を絶対に起こさない真剣な対応が対応が必要なのだと考えさせられる出来事でした。
7月から8月にかけてウルグアイで開催された1995コパ・アメリカ(南米選手権)では、ウルグアイvsブラジルの決勝となり1-1のままPK戦に突入、ウルグアイが5人全員成功させて通算14回目の優勝を果たしました。
第16回目となるトヨタカップは11月28日、欧州チャンピオン、オランダ・アヤックスと南米チャンピオン、ブラジル・グレミオの戦いとなり、延長でも決着がつかずPK戦の末アヤックスが優勝しました。
アヤックスは、のちにバルセロナで活躍する当時19歳のクライファートやユベントスで活躍するエドガー・ダービッツ、GKファン・デルサールさらにはオーフェルマルス、デブール兄弟、トヨタカップには出場しませんでしたがクラレンス・セードルフなど高い能力の選手が揃ったチームでした。
その後の欧州サッカー選手移籍に大きな影響を及ぼしたボスマン判決
この年、欧州サッカー界で、その後のサッカー選手移籍に大きな影響を及ぼすことになる「ボスマン判決」と呼ばれる判決が欧州司法裁判所から出されました。
これは、ベルギーのサッカー選手、ジャンマルク・ボスマン選手が提訴した訴訟です。
ボスマン選手は5年前の1990年、ベルギーリーグ2部のRFCリエージュからフランス2部リーグのUSLダンケルクに移籍しようとしましたが、ボスマン選手の保有権(パス)を持つRFCリエージュが難色を示したことに端を発します。
このためフランスのUSLダンケルクは獲得を断念、RFCリエージュのほうは新シーズンの構想外として登録メンバーからボスマン選手を外してしまったため、ボスマン選手が無所属状態になりました。
そこでボスマン選手はベルギー国内の裁判所に「身分保証」を求めて提訴、1990年11月に勝訴判決を勝ち取りました。
ここで終わっていれば1選手の単なる移籍訴訟で終わっていたのですが、ボスマン選手は次にヨーロッパサッカー連盟(UEFA)を相手取り、「クラブとの契約が完全に終了した選手の所有権を、クラブは主張できない(つまり契約が終了した時点で移籍が自由化される)事の確認」の訴えを、欧州司法裁判所に起こしたのです。
この訴訟によりボスマン選手は、さまざまな方面から陰に陽に圧力を受ける状況になりました。
とりわけ、1995年9月に欧州司法裁判所のカール・オットー・リンツ主席法務官が出した報告書が、欧州の多くのリーグ・クラブを巻き込む問題に発展したからです。
この報告書では、まずボスマン選手が提訴した「移籍の自由」はローマ条約に基づき認められるべきだと結論づけられました。
しかし報告書は、これに留まらず「外国人枠」についても触れれられていたのです。EUの労働規約では「域内のおける移動と就労を制限してはならない」と定められていますが、各国リーグが「外国人枠」を設定し国籍の制限をかけているのは違法であると指摘したのです。そして、EU域内においてはEU加盟国国籍保持者に対する「外国人枠」は撤廃されるべきだ、と踏み込んでいたのです。
この「リンツ報告書」を受けて、1995年11月、UEFAは加盟49協会会長の連名で公開書簡を発表しました。内容は「現行制度が違法だと判断されれば、欧州サッカー界は壊滅的な打撃を受ける」また「ひと握りのビッククラブが中小クラブに何の対価を支払うことなく選手を奪うことが可能になる制度を受け入れることはできない」という危機感もにじませたものでした。
こうした経緯を経て、1995年12月15日、欧州司法裁判所はボスマン側の全面勝訴の判決を下したのです。
この判決は直ちに効力を持つことになりましたから、欧州各国リーグ・クラブ・選手に大変革をもたらしました。
欧州各国リーグ・クラブ・選手に2つの自由が認められたのです。
一つは「契約満了後の移籍の自由」、もう一つが「外国人枠の撤廃」。
移籍の自由によって、クラブは選手を引き留めることが困難になりました。これを機に複数年契約による選手の囲い込みや、逆にクラブで移籍金を得るために、有望な選手を契約満了前に放出するなどの選択肢が出てきました。
資金力の乏しいクラブは、複数年契約で選手を引き留めたくでも出来ないことから、ビッグクラブの草刈り場となっていくことが増えていったのです。
顕著な例はオランダのアヤックスでした。この年、欧州チャンピオンズリーグとトヨタカップを制したメンバーの多くが、この判決後から徐々に引き抜かれていき1999年の夏には一人も残っていなかったというほどです。判決前にヨーロッパサッカー連盟(UEFA)が表明した危機感が現実になっていったと言えます。
また、外国人枠の撤廃によって、レアル・マドリードのような多国籍のスター軍団が可能になったこともボスマン判決以降のことです。
一方で、自国内でチャンスがなかった選手が他国に飛び出しやすくなったなども確かであり、欧州サッカー市場がその後隆盛を誇るようになった一因と言えます。
Jリーグ年間王者に横浜M
Jリーグは前期優勝・横浜Mと後期優勝・ヴ川崎との間で年間王者決定戦(チャンピオンシップ)が11月30日と12月6日行なわれました。
1993年のJリーグスタート時からヴ川崎と覇を競うはずと見られていた横浜Mが、やっと辿り着いたチャンピオンシップでした。
ヴ川崎は攻の要カズ・三浦知良選手、横浜Mは守の要井原正巳選手という日本を代表する選手の激突ということもあって、国立競技場は、第1戦約47600人、第2戦約48200人の観客で埋まり、宿敵同士の対決を見守りました。
試合は横浜Mが2試合ともヴ川崎の攻撃を完封、2戦とも1-0で勝利して文句なしの初制覇を果たしました。横浜M・井原正巳選手は第2戦の決勝ゴールもあげ、3年目にして、しかも宿敵ヴ川崎を倒して王者についた喜びに浸りました。
年間王者に就いた横浜Mが日本人監督・コーチだけのスタッフで成し遂げたことも3年目にして初のことでした。
Jリーグアウォーズ、MVPにストイコビッチ選手、得点王は福田正博選手
横浜Mの年間王者で幕を閉じた1995年Jリーグ、12月11日Jリーグアウォーズが開催されました。今シーズンのMVPには名古屋躍進の中心となったドラガン・ストイコビッチ選手、得点王には、通算34試合で31ゴールをあげながら後期の後半ケガのため数試合離脱してしまったスキラッチ選手を、最終節の32ゴール目でかわした福田正博選手が輝きました。
この年のベストイレブンの顔ぶれを見ると、年間チャンピオンの横浜MからはDF井原正巳選手(3年連続)とDF鈴木正治選手の2名だけ、後期優勝のヴ川崎から4人(GK菊地新吉(2年連続)、MF柱谷哲二(3年連続)、MFビスマルク(2年連続)、FWカズ・三浦知良(2回目)の各選手)、浦和から2人(DFブッフバルト、FW福田正博の各選手)、名古屋、鹿島、C大阪から各1人(FWストイコビッチ、DF相馬直樹、FW森島寛晃の各選手)というメンバーでした。
福田正博選手は、Jリーグ3年目にして初めての日本人得点王という勲章も得ました。32ゴール中14ゴールをPKであげましたが、PK獲得に至るゴール前の仕掛けが円熟味を増した結果であり称賛に値する得点王でした。
福田選手自身は、得点王になれた要因として、中盤から的確なパスを供給してくれたウーベ・バイン選手とのコンビネーションのおかげと語っています。
新人王には横浜M初の年間王者に大きく貢献したGK川口能活選手がJリーグ2年目ながら1年目の出場試合数が少なかったため選出されました。
1995年のJリーグを総括してみると、次のような特徴があった年でした。
外国人監督の手腕が目立った1年、大物外国人の加入も続いた1年
まず、外国人監督の手腕が目立った年でした。ヴ川崎を後期3年連続優勝に導き、年間を通じて安定した采配が高く評価され、日本代表監督就任寸前までいったネルシーョ監督、名古屋を年間総合順位3位まで押し上げ、このあと年明けの天皇杯を制することになる名古屋のベンゲル監督、そして浦和を年間総合順位4位まで押し上げたオジェク監督、さらには短期間ながら横浜Mの大胆な世代交代を断行して年間王者の礎を築いたソラーリ監督などがそうでした。
大物外国人選手の加入も3シーズン続いたといっていい年でした。
前期にはセリエAから清水にマッサーロ(出場は後期から)、鹿島にジョルジーニョといったワールドクラスの外国人選手が加入したほか、横浜Fにはジーニョ、サンパイオ、エバイールのブラジル代表経験者トリオが一度に加入、すでに前年にメディナ・ベージョ、ビスコンティ、サパタというアルゼンチントリオを形成している横浜M、前期後期で異なる組み合わせだったもののブラジル人トリオを形成していた鹿島、さらには前期途中までドイツ人トリオを形成した浦和といった具合に、チームを複数同国人で形成するクラブが多かったのも特徴といえます。
後期からは現役ブラジル代表キャプテン・ドゥンガも磐田に加入して、磐田・鹿島2強時代を作り上げる歴史がスタートしました。
荒れるサポーター問題、後期は乱闘事件に発展
荒れるサポーター事件は前期に続いて後期も頻発しました。前期は暴走程度でしたが、次第にエスカレートした感がありました。
9月27日、後期12節G大阪vs磐田戦後、2点リードを守り切れず逆転負けしたG大阪のサポーター、その不甲斐ない戦いぶりに激怒して100人以上が選手の乗ったバスを取り囲んで抗議、磯貝キャプテンがマイクでサポーターに向かい謝罪する羽目に陥りました。
同じ日、今度はサポーターが、かねてから辛辣なヤジを浴びせていた選手から、報復と見られる暴行を受けるという事件が発生しました。浦和vs名古屋戦後、浦和DFの田口禎則選手が浦和市内の食事店で、訪れたそのサポーターに暴行を加え負傷させたというのです。
ガンバ最高幹部の「サポーターなどいらない」発言、浦和選手によるサポーター暴行事件、クラブ・選手とサポーターの関係は、決して「なぁなぁ」の関係であってはならないものの、お互いの距離感がつかめていない時代の現象といえるかも知れません。
サポーターの暴走はまだ続きました。9月30日の後期13節、平塚vs鹿島戦、鹿島がレオナルドのゴールで同点に追いつき、歓喜のレオナルドがピッチを囲む広告板を乗り越えサポーターと喜びを分かち合いに行った行為にイエローカードが出され、この日2枚目のため退場処分となった判定に、鹿島サポーターが激怒、約50人がフィールドになだれ込み広告板を蹴り飛ばすなどの行為を働きました。
続く10月4日の14節には、柏vsG大阪戦の試合終了後、観客席で両チームのサポーター同士が殴り合いの乱闘を始めたのでした。
きっかけはG大阪の不甲斐ない戦いぶりとレフェリーのジャッジにフラストレーションをためていたサポーターが、試合後にフィールドに空き缶などを投げ込む行為を行なったことからG大阪サポーターを両脇から挟む形で見ていた柏サポーターが激怒、60人ほどが入り乱れる乱闘事件に発展したのです。
Jリーグは女性や子供たちも安心して観戦できるリーグとして、世界に誇れるスタジアム環境だったのですが、女性も巻き込んだこの乱闘は、観客離れにつながる自殺行為とも言える出来事でした。
同じ日、ヴ川崎vs横浜M戦でも、PKをとられた横浜Mに対する判定を不満としたサポーターが突然4人グラウンドに飛び降りました。4人はすぐ警備員に取り押さえられたものの2人が警察に連行される事態となりました。
マリノスサポーターは試合終了後も1時間30分にわたって抗議の意思を示し続けたことから、井原正巳主将が自ら「悔しい気持ちは自分たちも同じです。次に期待していただき引き揚げてください」と説得して収束されました。
荒れるサポーターの度重なる事件は、Jリーグ各クラブに新たな対応策を迫るものとなりました。日本のスタジアムは、基本的にフェンスで隠したり金網で囲ったりという、サポーターの暴走行為を念頭においた構造的対策はとられていません。
欧州のスタジアムは、長い歴史の中でフーリガンと呼ばれる荒くれ者の行為が頻発してきたことから、相当対策が講じられています。
ただフェンスで隠したり金網で囲ってあるスタジアムは、観客と選手の距離を遠ざけてしまいますから、できるだけ、そういうことはしたくないものです。
しかし、柏vsG大阪戦で発生した乱闘事件のように、両チームのサポーターの席が接してしまっていれば、不測の事態は起りかねないということで、対策として緩衝の空席を設けるなどの具体的な対策が求められる状況になったのです。
これまで発生したスタジアムでのトラブルには、①スタンドでの暴動、②フィールドサイドへの乱入、③発煙筒など危険物の持ち込み、投げ入れなど、があります。
Jリーグの場合、チーム(クラブ)と深いつながりを持っていることから、サポーター団体との話し合いを持ち、再発防止の約束や再発した場合の断固たる処置を申し入れたり、あくまで金網を設けたりする強硬措置をとらずに状況を改善する方向で動き出したようです。
その一方「警備体制の強化」については、これまでスタンド内で暴動が起きるなどということは日本人の特質や観客の傾向から「あり得ない」と考えられていたようですが、同じ応援席に両チームのサポーターが混在しているままだと「あり得る、起こり得る」という考え方に転換して、少なくとも両チームサポーターを隔離する、しかも単にロープを張る程度のことではない対策が必要だとされました。
サポーターの隔離という意味で進んでいると評価されたのが「浦和・駒場スタジアム」でした。浦和の運営サイドは、スタジアム改修の時点でその対策を講じていたようで、アウェー側のゴール裏エリアに、アウェーサポーター専用のエリアが用意されていて、席への出入りも別々の通路から行なうなど、欧州のスタジアム作りを参考にしたことが窺えるというのです。
また浦和は、フィールドサイドへの乱入を防止するため、それまで横断幕の取り付け、取り外しなどのために試合前後に認めていたフィールドサイドへの立ち入りを前面禁止、再度乱入騒ぎを起こした場合には「金網などを設置する」とサポーターとの間で申し合わせたのです。
Jリーグでもっとも熱狂的なサポーターで知られている浦和ですが、危機管理の対策面でも一歩先を行っていたようです。
欧州・南米のスタジアムのように、スタジアム出入口での携行品チェックが行われたり、観客席に金網が張られたり、シェパード犬が配置されているようなスタジアムにしたくないという、日本ならではのスタジアム風景を守っていけるかどうか「Jリーグの一つの曲がり角」となったことは確かです。
比例する観客動員数の減少、広島は7012人の最低観客数、G大阪も後期大幅減少
Jリーグの試合が心ないサポーターの行為によって荒れてしまう影響は観客動員数の減少という形で跳ね返ってきました。
ただ全クラブおしなべてという結果ではなく、クラブにばらつきが出てきたのでした。特に目立ったのが広島、G大阪でした。
広島は前期8節の名古屋戦で広島市内のスタジアムだったにもかかわらず7012人という最低観客数の記録を作り、この年ホームゲームで7000人台の試合を4試合記録してしまいました。
またG大阪も後期23節の清水戦で7320人、特に後期の観客減少が目立ち、後期のホームゲーム3試合が7000人台という入りでした。
これらの数字は、もはや、過去2年間のようなJリーグ人気だけではファンがスタジアムに足を運ばなくなったことを示しました。
決して安くはない入場料、ファンはその金額に見合うスリリングで爆発的な感動を味わえる、価値ある試合を求めています。Jリーグはそれが求められる時代を迎えました。
日本人若手選手の台頭、川口能活選手、ルーキー中田英寿・松田直樹・楢崎正剛各選手、快速でスタジアムを沸かせた岡野雅行選手
1993年のJリーグスタート以降、新人選手の活躍は、大卒の藤田俊哉選手、田坂和昭選手ら、いわゆる即戦力と評価される選手の活躍が中心でしたが、昨年の城彰二選手をはじめ高卒選手がチーム内での評価を高め徐々にレギュラーに定着してきたのも、この年の特徴でした。
その代表が川口能活選手でした。ソラリ監督の世代交代策と本人の成長がちょうどマッチして、前期11節の柏戦にスタメンで出場すると、その試合を完封、以後3試合連続完封でレギュラーの座をガッチりとモノにしました。
同僚でルーキーのDF松田直樹選手も開幕スタメン出場を果たし、その後U-19代表の活動でチームを離れる期間があったものの後期はコンスタントに出場、横浜Mの年間王者に貢献しました。
同じルーキーの平塚・中田英寿選手、横浜F・楢崎正剛選手も評判どおりの活躍でした。
中田選手は開幕こそサブからのスタートでしたがU-19代表活動から戻った前期12節以降はスタメンに定着、司令塔のポジションで評判どおりの活躍を見せました。
楢崎選手は、川口能活選手同様、GKという一つしかないポジション争いの中、正GKだった森敦彦選手が後期1節の暴力行為で3ケ月出場停止処分を受けたことから翌節、スタメンとしてゴールマウスを守りました。その試合からVゴール勝ちを含めて3連勝に貢献、正GKの座を不動にしました。
川口能活選手と楢崎正剛選手が日本代表の1つの正GKの座を巡って、以降20年間にわたって繰り広げる静かな戦いの幕が開いたのもこの年ということになります。
川口能活選手と楢崎正剛選手は、GKとしてのタイプも性格的にも好対照で、それでいて日本代表としては「宿命のライバル」であり「好敵手」でした。日本代表やJリーグの歴史の中でも、これほど長く続いた「ライバル」関係、「好敵手」関係はないでしょうし、このあとも出るかどうか、というぐらいの関係だといえます。
それでいて日本代表としては「双璧」とも呼べる心強い2人です。日本代表が世界の中で着実にその地位をあげて来られたのも、日本代表GKが常にどちらかが高いレベルでゴールマウスを守るという状態を続けられたからと言っても過言ではありません。
これがもし1人だけだった場合、日本代表GKが弱点とされる時期が生じ、これほど順調な日本代表の成長はなかったかも知れません。日本代表の順調な成長の陰で、2人のヒリヒリするような日本代表GKレギュラー争いの20年間があったことに思いを馳せたいと思います。
スタメン、レギュラー定着とは別の意味で、浦和の岡野雅行選手も今シーズン、華々しい選手でした。
大学時代、バスケットシューズを履きながら100m走で10秒7をマーク、本職の陸上選手に勝ったという逸話や、浦和での練習中、グラウンドに入り込んだ犬と競争になり走り勝ったという逸話のある岡野選手は、試合に登場しただけで観客が沸く選手でした。
日本代表加茂監督は、この年、岡野選手を代表に招集、9月のアディダス杯・パラグアイ戦で初出場を果たしました。
この岡野雅行選手が、あの1997年11月のマレーシア・ジョホールバルの歓喜の主役となったことは周知のとおりです。
福岡、京都が新たにJリーグに昇格
この年のJFL(Jリーグ直下のリーグ・ジャパンフットボールリーグ)は、Jリーグ昇格資格を備えた準会員の、福岡、京都、鳥栖、神戸の4チームをはじめ16チームで争われました。
福岡は静岡県藤枝市からホームタウンを移転して「福岡ブルックス」、川崎製鉄もホームタウンを移転して「ヴィッセル神戸」、鳥栖は名称をPJMフューチャーズから「鳥栖フューチャーズ」、大塚製薬が「徳島ヴォルティス」、甲府は「ヴァンフォーレ甲府」、東北電力が「ブランメル仙台」に、クラブ名を企業名から地域名に変更したクラブが大幅に増えた年でした。
Jリーグへの昇格争いは29節、福岡、京都がそれぞれ2位以内を確保して決着しました。福岡は、あのマラドーナの弟であるウーゴ・マラドーナ選手や1990年W杯アルゼンチン代表のトログリオ選手がチームを牽引して、最終節にも勝ち優勝を手土産にJ昇格を果たしました。
京都は日産時代にも監督経験を持つオスカー監督のもと、リーグ後半快進撃を果たし2位で昇格を勝ち取りました。
Jリーグは翌1996年シーズンは16チームとなることから、各30試合(各チーム2回総当たり)の1シーズン制で争われることになりました。
1995年、この年の各カテゴリー国内大会
お正月の第73回全国高校サッカーについてはすでにご紹介しましたので、その他の大会をご紹介しておきます。
・第16回全日本女子サッカー選手権大会
決勝 1995年3月27日 プリマハムFCくノ一vs日興證券ドリームレディース(4-1) 優勝 プリマハムFCくノ一(初優勝)
・第7回L・リーグ(日本女子サッカーリーグ) (前期1995年8月17日‐10月22日)(後期1995年11月5日‐12月24日)
これまで試合時間が40分ハーフ80分だったものが、今シーズンから45分ハーフ90分になりました。この年も10チームによる1回戦総当たりの2ステージ制(前期・後期)で実施されました。
前期は最終節で、3月の「女子サッカー選手権」決勝と同じプリマハムFCくノ一と日興證券ドリームレディースが激突、一度は日興證券がリードしたものの、プリマハムが同点に追いつき延長Vゴールで逆転、見事全勝で優勝を果たしました。
後期もプリマハムFCくノ一の快進撃は続き、前期に続いての全勝優勝、史上初の前後期全勝という偉業は、試合数が少ない時代だったとはいえ、その後も長く破られていない記録となりました。
プリマハムFCくノ一は、忍者の里三重県「伊賀・上野」を拠点とする女子チームということで女忍者を意味する「くノ一」という珍しいチーム名になっています。
1993年シーズンから、元古河電工の守備的MFで日本代表でも長く活躍した宮内聡氏を監督に迎え、力をつけてきました。そして今年3月の「女子サッカー選手権」でチームとして初タイトルを獲得すると勢いに乗り、見事前後期とも全勝優勝という快挙を成し遂げたのです。
そのため、この年は年間チャンビオンシップは行われず、プリマハムFCくノ一が年間チャンピオンとなりました。
・第19回総理大臣杯大学サッカートーナメント決勝 駒沢大vs筑波大(2-1) 優勝 駒沢大
・第44回全日本大学サッカー選手権 決勝 駒沢大vs筑波大(3-2) 優勝 駒沢大(初優勝)
大学サッカーの2大大会、この年はいずれも駒沢大vs筑波大の決勝となり、いずれも駒沢大が優勝しました。
駒沢大はエースストライカーの栗原圭介選手、DFの米山篤選手、山田卓也選手などが中心となって攻守にバランスのとれたサッカーを展開して二冠を制し、駒沢大の時代到来を告げる年でした。
この年の各大学主な選手
・駒沢大 第44回大会MVP・栗原圭介(4年)、山田卓也(3年)、三上和良(2年)、米山篤(1年)
・筑波大 望月重良(4年)、上野優作(4年)、西ヶ谷隆之(4年)、興津大三(3年)
・早稲田大 斉藤俊秀(4年)、外池大亮(4年)、渡辺光輝(3年)
・国士館大 佐藤尽(4年)、大柴健二(4年)、金沢浄(3年)
・阪南大 石丸清隆(4年)
・第6回高円宮杯全日本ユース選手権では清水商が横浜Mユースを下して大会3連覇を達成しました。清水商は第4回大会ではGK川口能活選手らの世代、第5回大会ではFW安永聡太郎選手、MF佐藤由紀彦選手らの世代が中心の優勝でしたが、この年は1年生ながら8月上旬に開催されたU-17世界選手権日本代表として出場した小野伸二選手が、早くもチームの中心選手として活躍した年でした。
・第3回Jユースカップ選手権では広島ユースがヴ川崎ユースを下して初優勝を飾りました。
・第4回全国女子高校サッカー 決勝 埼玉栄vs埼玉(2-1) 優勝 埼玉栄(初優勝)
・第7回全日本ジュニアユース選手権 決勝 浦和SCvs市原Jrユース(1-0) 優勝 浦和SC
初優勝した浦和SCは浦和レッズの下部組織ではない地元クラブ。敗れた市原Jrユースには阿部勇樹選手が2年生でスタメン出場していました。
・第19回全日本少年サッカー大会 決勝 柏レイソルジュニアvs愛知FC(2-1延長) 優勝 柏レイソルジュニア
これまで、この大会はゴールポストだけは大人用を使用していましたが、この年から少年用ゴールポストに変更されました。全国8074チームの頂点に立った柏レイソルジュニアは初優勝でした。
テレビ、スポーツ紙、雑誌系いずれのメディアでもサッカージャーナリスト活躍
前年1994年に、日本ではアメリカW杯をかなり親近感を持って見たこと、そして日本も2002年W杯に招致しようとしていることが伝わり、テレビ、スポーツ紙、雑誌系いずれのメディアもサッカーを有力なコンテンツとして見るようになりましたが、この年1995年は1月に阪神・淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件が発生して、かなり社会不安が広がった年です。
そのような中、人々に元気や勇気を与えてくれる存在であるはずのJリーグや日本代表に関連して、サポーターの暴走や、日本代表監督選びの問題など「何をやっているのか」といった話題が続き、それらについて、スポーツジャーナリストから更に細分化された「サッカージャーナリスト」と呼べる人たちが、かなり踏み込んだ論陣を張ることが増えてきました。
そんな1995年の各メディアのサッカーに対する関心、その中から主なものを記録に留めておきたいと思います。
【月刊誌・週刊誌・全国新聞・スポーツ紙】
1995.3.14 毎日新聞 アントラーズで町おこし・茨城県鹿島町
【総合スポーツ誌】
1995.3.16 Number361 ブラジルサッカー&1995Jリーグ 表紙ロマーリオ
1995.4.27 Number364 欧州沸騰。 表紙バッジョ
1995.7.20 Number370 スポーツ新肉体主義 表紙前園真聖
1995.8.31 Number373 進め! 日本代表 表紙カズ・三浦知良
1995.12.7 Number380 欧州絢爛。 表紙サン・シーロスタジアム
【テレビ】
【サッカー専門定期放送番組】
・毎週1回 Jリーグダイジェスト NHK-BS 55分 袴りさ、加藤好男、8月から沖谷昇、勝恵子
・毎週1回 スーパーサッカー TBS 30分 生島ヒロシ、10月から三井ゆり
・毎週1回 Jリーグ・A・GOGOテレ朝25分⇒4月から45分に拡大 うじきつよし(9月まで)、朝岡聡(10月から)、鈴木杏樹
・毎週1回 セリエAダイジェスト フジ40分 10月から開始 ジョン・カビラ
・毎週1回 ダイヤモンドサッカー テレ東30分 川平慈英
・毎週1回 めざせJリーガー テレ東 15分 ナレーター・コント山口くん
【単発ドキュメンター系・カルチャー系番組】
94-4.22ナビゲーター94「Jリーグへの夢、挫折からの出発」(テレビ東京28’05)
華々しい1年目を終えたJリーグ、そこに今年1994年から参入を目指したチームの中で、柏レイ
【単発バラエティ系・ワイドショー系番組の主な番組】
94-1.18決定!Jリーグ超プレー大賞Ⅱ(フジ1H21’25) 進行・明石家さんま
【ニュース系番組】
94-2.14ニュースステーション「一枚の招待状・堀田博晃クンの挑戦」(テレ朝14’46)
18歳で本場ブラジルのサッカークラブに飛び込んだ一人の青年・東北高校3年堀田博晃クン。
【チーム応援番組】(首都圏収録分のみ)
・毎週1回 Kick off マリノス TVK 25分
・毎週1回 フリューゲルスアワー TVK 15分
・毎週1回 GOGO! レッズ 埼玉TV 30分
・隔週1回 GOAL FOR WIN ジェフ チバTV 30分
【映画(テレビ放映版)】
【書籍】
Jリーグ群像・夢の礎 大住良之著
「Jリーグを支える9つのドラマ」産経新聞好評連載ノンフィクション「Jリーグ,夢を紡ぐ男たち」の単行本化(あすなろ出版 1995年7月刊)
<取り上げた人びと>
森健兒、前園真聖、ブッフバルト、小幡真一郎、今西和男、河野真一、清水秀彦、織部知枝、石川京一
表紙帯推薦文 川淵チェアマン「本書はスターの物語に偏らず、揺籃期のJリーグを支えた各方面の人びとの奮闘の跡を記している・・・」
裸のストライカー 武田修宏 松岡美樹著
「地球スポーツライブラリーシリーズ」(TOKYO FM出版 1995年12月刊)
栞紹介文 「日本サッカーの先陣を切って10年、今初めて明かされる真実の姿、武田修宏は走る。生き残りを賭けて」
井原正巳 No1リベロへの道 刈部謙一著
「地球スポーツライブラリーシリーズ」(TOKYO FM出版 1995年12月刊)
栞紹介文 「日本代表そしてJリーグ随一のディフェンダーとして名をはせる井原正巳、彼の眼には日本サッカーの未来が見えている。No1リベロをめざして」
【サッカー専門誌】
この年、4月19日号の「サッカーマガジン」誌が通算500号を迎えました。1966年6月号として創刊された同誌、サッカー専門誌の中では最長の雑誌です。当初は月刊、そして1992年から隔週発行、1993年秋からは週刊発行となって通算号のスピードが加速しました。
この週から3週にわたって表紙を飾った「500の顔」という連載企画を打ちました。500もの表紙写真ですから、タテ30mm、ヨコ18mmのかなり小さい写真がほとんどですが、時代の流れを
見るには都合がいい企画でした。
創刊以降、時々は日本代表の中心選手が表紙を飾りましたが、ほとんどは海外のスター選手が表紙を飾る時代が長く続きました。流れが変わったのはカズ・三浦知良選手がブラジルから帰国して読売クラブのユニフォーム姿で表紙を初めて飾った1990年10月号(通算378号)からでした。その後は日本代表の活躍などもあり、次第に日本人選手が表紙を占める回数が増えていったようです。
連載企画の最後に「誰が一番多く表紙を飾ったかランキング」が発表され、500号目の表紙もカズ・三浦知良選手が飾ったことで通算21回となり、釜本邦茂選手の20回を抜いて最多に躍り出ました。3位にはラモス瑠偉選手の13回と続いています。
企画の解説文には「釜本邦茂選手は17年間に渡っているのに対して、カズ・三浦知良選手はわずか4年ほどのあいだに21回登場している計算になる」とありました。
また3位のラモス瑠偉選手については、初登場以来15年以上に渡って表紙を飾り続けている」と驚嘆していました。
外国人選手のランキングも別に掲載されていてトップはマラドーナ選手の12回、ペレ選手の11回、ベッケンバウアー選手の9回と続いています。外国人選手中心の時代は月1回刊ですから、せいぜい年1~2回の登場です。なかなか回数も伸びなかったようです。そして「ペレの時代には海外選手の写真を手軽に扱えるような時代ではなかったことも一つの要因」と解説しています。
次に「サッカーダイジェスト」誌の通算500号や「サッカーマガジン」誌の通算1000号の時にもご紹介することになると思いますが、どんな企画になるのか楽しみです。
「伝説の年」となった1994年と1996年のはざまで流れた1995年。この1年間はこうして幕を閉じていきました。