伝説のあの年 1993年

現在につながる世界のサッカー、日本のサッカーの伝説の年は、まず1986年、そして1992年1993年1996年、1997年、1998年、2002年、さらに2010年。
それらが「伝説のあの年」として長く語り継がれることでしょう。
さぁ、ひもといてみましょう。

伝説のあの年 1993年

この年はご存じのとおり「Jリーグ元年」の年です。そしてドーハの悲劇があった年です。おそらく1986年から50年後の2036年あたりまでを考えた場合でも、例えばワールドカップの日本単独開催とか、ワールドカップでのベスト4以上の進出といった出来事があれば別ですが、やはり1993年に匹敵する歴史的な年は出ないのではないかと思われます。

1993年1月1日、元旦といえば恒例、天皇杯決勝 第72回のこの年は、日産FCマリノスVS読売ヴェルディ チーム呼称こそ少し変わったものの2年連続同一カード、国立競技場には56,000人の観衆が詰めかけました。
試合は日産が競り勝ち2年連続6回目の優勝を果たしましたが、この2年連続の両雄激突は、新年最初のスポーツイベントの決勝ということで、箱根駅伝などと並ぶ正月の欠かせない風物詩として定着したという意味でも功績が大きいものでした。

天皇杯決勝・日産マリノス連覇
天皇杯決勝・日産マリノス連覇

さらに毎年、天皇杯決勝からほぼ1週間後に行なわれる高校選手権決勝、この年は第71回大会、国見高と山城高の決勝は、国見が勝利、7年連続出場で3度目の優勝を達成し「国見の時代」を高校サッカーファンに強烈に印象づけました。

そして、いよいよ日本のサッカーシーンは、日本代表のアメリカW杯アジア予選と、Jリーグ開幕へと移っていきます。
2月、オフト監督率いる日本代表が18日間のイタリア遠征合宿を敢行。3月のキリンカップ、沖縄キャンプと熟成を重ね、4月8日、満を持してアジア一次予選の初戦、タイ戦を迎えたのです。
W杯出場権獲得を目指す日本代表に対するメディアの注目度も高く、イタリア遠征の模様が民放テレビで特番放映されたほどでした。

同組にタイ、UAEという難敵のいるグループで1位通過が条件の1次予選、日本を開催地にした日本ラウンド、一つ間違えば出場権獲得に早々に黄色信号が灯りかねないプレッシャーの中、初戦のタイ戦でカズ・三浦知良選手が値千金のゴールを決めて勝利すると、あとは大観衆の後押しを得て4連勝で日本ラウンドを乗り切りました。
日本ラウンドを終えると、すぐ沖縄でミニキャンプを張り、4月28日からのUAEラウンドです。灼熱のUAEの厳しい環境の中、全日程を7勝1分の負けなしで突破し、もう目の前に迫ったJリーグ開幕に、この上ない弾みをつけたのでした。

W杯アジア一次予選の日本代表
W杯アジア一次予選の日本代表

そして5月15日、いよいよJリーグの幕が切って落とされました。
そもそも「Jリーグ」とは、どのような考え方を持ったプロスポーツなのか。この先、長く引き継がれていくであろう、新しいプロスポーツの誕生なのですが、その考え方を当サイトでは、この場で整理しておきたいと思います。
1993年が伝説の年たり得るのも、「Jリーグ」が日本のスポーツ文化に革命を起こすほどのスケールとインパクトをもって登場し、その後の日本の地域社会に「Jリーグというクラブ」を通じてスポーツ文化が根付いていく新たな地域モデルを生み出した年だからです。

「Jリーグ」の考え方がよく反映されているのは、その「活動方針」です。この部分はJリーグホームページを検索すると誰でも読めますが、あえて書いておきます。

【Jリーグ活動方針】

  • 1.フェアで魅力的な試合を行うことで、地域の人々に夢と楽しみを提供します。
  • 2.自治体・ファン・サポーターの理解・協力を仰ぎながら、世界に誇れる、安全で快適なスタジアム環境を確立していきます。
  • 3.地域の人々にJクラブをより身近に感じていただくため、クラブ施設を開放したり、選手や指導者が地域の人々と交流を深める場や機会をつくっていきます。
  • 4.フットサルを、家族や地域で気軽に楽しめるようなシステムを構築しながら普及していきます。
  • 5.サッカーだけでなく、他のスポーツにも気軽に参加できるような機会も多くつくっていきます。
  • 6.障がいを持つ人も一緒に楽しめるスポーツのシステムをつくっていきます。
  •     

この6つの活動方針から何が読み取れるかといいますと、Jクラブは「地域の公共財」だという考え方です。もちろん企業の支援なしにはクラブ経営はできないのですが、少なくとも個別企業の所有物や付属物といった存在ではないこと明確にしています。
そのため、チーム名から企業名を外し地域名で表示する、本拠地は「フランチャイズ」と称するのではなく「ホームタウン」と称するといった点を徹底しました。

また、Jクラブはプロサッカーチームとしてだけ存在するのではなく地域スポーツクラブの核として、地域スポーツ振興の拠点となることもめざしています。トップチームの下部組織として育成年代のチームを持つことが義務付けられていることも、活動方針が反映されている証しです。
スタート当初(1992年から)は、Jリーグ公式戦でのベンチ入りもままならない控え選手の実戦経験の場として「サテライトチーム」という下部組織があって、それらのチームによるサテライトリーグもスタートしました。

こうした考え方を根本に据えて1993年5月15日、Jリーグは船出しました。

開幕セレモニーでの川淵チェアマンは、シンプル過ぎるほどシンプルな挨拶を行ないました。その短いメッセージは、サッカーを愛する人々のみならず、スポーツ全般を愛する人々に向けて発せられていることがわかります。
<開会宣言。スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン、川淵三郎>
Jリーグ開幕セレモニー
Jリーグ開幕セレモニー

開会式に欠かせない国歌斉唱は、音楽バンド「TUBE」の前田亘輝さんが、あの甲高い声で独唱しましたが、のちの日本代表の国際マッチなどで、いろいろな歌手の方が独唱するスタイルの口火を切ったのも、この日でした。

スポーツイベントとしての「Jリーグ」、スポーツ興行としての「Jリーグ」には、さまざまな「仕掛け」が施されています。

最大の仕掛けは、五感を刺激するショーアップの部分です。プロの世界は「魅せる演出」も人気を高める重要な要素ということで、さまざまなジャンルのクリエイター、デザイナーの感性が集結しました。
そのシンボルとも言えるのがJリーグロゴです。Jの文字を黒・赤・白でシンプルに表現したロゴは、いまなお色褪せないインパクトがあります。それをフラッグにすると、横長の左右に緑と赤が配色されて一層デザイン性が増します。

Jリーグロゴマーク
Jリーグロゴマーク

各チームのユニフォーム、チームフラッグなどが勢ぞろいすると、そこは華やかな色彩の絵具箱になり、スタジアムの緑のピッチと観客席を彩るチームカラーが、観る人たちをプロスポーツの夢舞台に誘(いざな)ってくれます。
そして、試合が行なわれるスタジアムには、開会式で国歌独唱した前田亘輝さんの所属するTUBEのメンバー春畑道哉さんが手がけた「Jのテーマ(J’s THEME)」が流れます。この頃から世界的にも、スポーツイベント会場に流れるテーマ曲として「アンセム」というジャンルが固まりつつありましたが、この曲は、日本における「アンセム」の先がけとして、Jリーグ開会式で始めて披露されたものです。

Jリーグ開会式に勢揃いしたチームフラッグ
Jリーグ開会式に勢揃いしたチームフラッグ

こうした仕掛けも相まって、Jリーグは日本国内はもとより海外も含めて大変な注目を浴びてスタートしました。わずか1年前のアマチュアリーグ時代には考えられなかった試合チケットの完売だけでなく、プラチナチケットと化して、なかなか入手できない事態が起きるほどの人気ぶりで、選手たちは一躍メディアの注目を浴びる存在になりました。

Jリーグが施した「仕掛け」はそれだけに留まりません。試合のテレビ放映権といったコンテンツ資産をJリーグが一括管理して、そこから得た収益は各クラブに分配するという仕組みを作ったのです。
これによって、メディア露出の大きい一部のクラブだけが突出して潤うといった、いびつな構造になるのを防ぎJリーグとしてバランスのとれた発展を目指したのです。
これには、一部のクラブから猛烈な反発が出たのは言うまでもありません。1~2年後から表面化する読売新聞グループの渡辺恒雄社長の舌鋒鋭い批判は、その代表例といえます。

このような、さまざまな仕掛けと舞台が整えられてスタートしたその舞台の上で、前期は「サントリーシリーズ」、後期は「ニコスシリーズ」とネーミングされ、10チームが2回づつの総当たりで18試合、その多くが週2試合消化の過密日程を戦ったのです。

Jリーグのレギュレーションにも「日本で成功させるため」という観点で取り入れられた仕掛けがいくつかあります。

まず「春秋シーズン」という点、これは、いまなお議論になるレギュレーションですが、欧州各国リーグのような「秋に開幕して冬を挟んで春に終了する」というスタイルが日本では、なかなか受け入れられないという考え方にもとづいています。
プロ化以前の「日本リーグ」当時は「秋春シーズン」でしたが、もっとも寒い時期の1~2月にも試合を組むことになり、観客の入りそして積雪寒冷地における試合中止のリスクなど、プロリーグとしての判断が働いたものです。
その分、夏場の高温多湿時期に試合を組むことになり、選手への負担という点、欧州とのカレンダーの違いなど、議論の絶えないテーマとなっています。

次に「前期・後期」に分けて覇者(チャンピオン)を決め、最後にそれぞれのチャンピオン同士がホームアンドアウェーの2試合を行なって年間チャンピオンを決めるという年間2シーズン制(2ステージ制)があります。
なにぶん初年度10チームですから、プロサッカーリーグとしての興行収入を増やすためには試合数を増やさなければならず、そうであれば、年間を半期に分けて、それぞれチャンピオンを決めたほうがJリーグファンの関心も引き延ばせるという算段です。
この年間2シーズン制(2ステージ制)は、1996年を除いて2003年まで続けられ、その後、1シーズン制(1ステージ制)となりましたが、2015年、2016年シーズンにも2シーズン制(2ステージ制)がとられました。

さらに、90分で決着がつかない場合の延長、サドンデス方式による決着というレギュレーションがあります。
この方式は、勝ち抜きが前提のトーナメント方式カップ戦では普通のことですが、リーグ戦方式では諸外国でも採用していない方式です。
Jリーグは、日本には、まだ「引き分けの文化」がないという考え方から、リーグ戦でも延長・サドンデス方式をとり、決着をつける終わり方にしたいと考えたのです。

しかし、それにはFIFA(国際サッカー連盟)の承認を取り付けることが必要でした。FIFAに対して、いろいろと日本の事情・考え方を説明して承認を求めたのですが、FIFAは承認しそうになく、延長・サドンデス方式の導入をあきらめかけていたのですが、試合日程発表ギリギリの2月16日になってFIFAから「テストケースとして日本サッカー協会の監督のもと、サドンデス方式の延長戦と、それでも決着しない場合のPK戦を認める」との連絡が入ったそうです。

これでJリーグとしては念願の方式を採用できることになったのですが、選手たちからは「週2回ペースの試合でさえ厳しいのに、さらに延長・PKまでもつれこめば、身体が持つだろうか」という不安の声があがりながらの実施となりました。
またテレビ中継の観点でも、番組づくりが難しくなり「試合の途中ですが。ここでお別れです」という野球中継で見慣れた光景の再現も懸念されました。
とはいえ、始まってみれば決着のつく試合がドラマチックで、一層の盛り上がりに寄与したことは間違いのないところです。

そのほか、Jリーグでは、選手の背番号を試合ごとに先発選手がポジションに応じて1から11を、そして控え選手が12から16をつける変動背番号制にしてスタートしました。
これも、日本でサッカーになじみのない観客や視聴者が見て、ポジションごとの役割が理解しやすいようにと採用されたもので1993年から1996年まで続けられました。
しかし、次第に「背番号は選手の肩書のようなもの」という希望が強くなり、1997シーズンからは固定背番号制に移行しました。
ある意味、黎明期の経過措置のようなレギュレーションだったと言えます。

1993年のJリーグテレビ放映は、開幕年のご祝儀の側面もありましたが、NHK、民放各社に加え、当時始まったCS放送のスポーツ専門チャンネル「sports-i(スポーツ・アイ)」が、2年間にわたる全試合放映契約を結んだことで、Jリーグのテレビ観戦を楽しみにしていたサッカーファンには最高の視聴環境が生まれました。
当サイトが、このサイトを制作して、後世にまで長く語り継ぎたいと思うようになったのも、この2年間の全試合放送を録画という形で記録に残せたことが大きな要因となっています。

テレビ放映は試合だけにとどまらず、Jリーグの試合結果やチーム・選手を紹介する情報番組も登場しました。
口火を切ったのはテレビ朝日系列の「Jリーグ・A・GOGO」です。4月から日曜夕方の全国ネット25分番組がスタートしました。日本のサッカーを扱う定例番組として初めてのオンエアでした。
秋にはTBS系列が、のちに毎週土曜日深夜の長寿番組として愛された「スーパーサッカーJリーグエクスプレス」の放送を開始しました。

また、サッカー好きのタレントが牽引するバラエティ形式の番組も一気に増えました。
帝京高校サッカー部出身という、とんねるずの木梨憲武さん、マンチェスターUの伝説的プレーヤー、ジョージ・ベストをこよなく愛する明石家さんまさんが番組をリードしながらサッカーの楽しさをお茶の間に届けてくれたのです。

こうして、熱狂的にスタートしたJリーグ。
最初の覇者を決める前期(ファーストステージ)は、下馬評の高かったヴェルディ川崎や横浜マリノスの出遅れを尻目に、開幕戦でいきなりハットトリックを達成したジーコに率いられた鹿島が快調に勝ち星を積み重ね、途中からジーコが離脱しながらも他の選手たちが一丸となって闘い、2試合を残した16節、歴史を刻む初代王者に輝きました。

当初、Jリーグ参加の10チームの候補としては、さまざまな意味で評価が低かった鹿島、前身の住友金属時代にジーコを招へいしてプロとしてのスピリットを徹底する一方、茨城県や地元市町村が一体となってプロ基準を満たす新スタジアムの建設を急ぎ、Jリーグの川淵チェアマンをして「よもや新スタジアムまで作って加入をアピールしてくるとは思わなかった」と言わしめ、日立(のちの柏レイソル)やヤンマー(のちのセレッソ大阪)といった有力チームを押しのけて参加10チームに選ばれた鹿島です。

その鹿島が最初の王者となったことは、地域発のクラブ作りを標榜するJリーグにとって、まさに絵にかいたような成功物語でした。
スポーツマスコミにとどまらず、地域経済の面、街づくりの面など多角的な視点から鹿島の成功が取り上げられ、一つの社会現象になったほどです。

Jリーグ成功の象徴となった初代王者・鹿島
Jリーグ成功の象徴となった初代王者・鹿島

Jリーグは前期終了後、すぐさま後期(セカンドステージ)に入りましたが、8月には、日本を舞台に世界大会が一つ開催されました。

FIFA U-17世界選手権です。FIFAの世界規模の大会が日本で開催されるのは1979年のU-20世界選手権(いわゆるワールドユース選手権)以来でした。
このU-17世界選手権日本代表メンバーは、将来、日本で開催しようとしているワールドカップ日本代表の主力を担う世代であるという認識から、当時日本サッカー協会の技術部長だった川淵三郎氏が、長崎・国見高校を全国屈指の強豪校に育てた小嶺忠敏監督をU-17世界選手権日本代表監督に招へいしました。

チーム作りは1991年12月の代表候補合宿からスタート、当時まだ中学3年生だった中田英寿選手、松田直樹選手、宮本恒靖選手たちが招集されました。

ユース年代の有能な選手発掘は、1980年代後半から本格的に整備されたナショナルトレセン、各県・地域プロックトレセンの仕組みの中で、全国もれなく網がかけられたことによる成果が大きいといえます。ユース年代の世界での活躍が、一朝一夕の出来事ではないことがよくわかります。

小嶺監督は、コーチの小見幸隆氏(読売ユース監督)とともに、チーム作りを進めましたが、当時FWの選手だった松田直樹選手をDFにコンバートさせたことはよく知られた話です。群馬・前橋育英高に進学したFW松田選手ですが、その監督が小嶺監督の教え子だった関係で、小嶺監督が前橋育英監督に直接連絡を入れ、U-17代表ではDFにコンバートさせることを了解を得て実現したそうです。

さて大会ホスト国のU-17日本代表ですが、グループリーグは「死の組」とも言える厳しい相手ばかりでした。前回大会優勝国のガーナ、のちのイタリア代表の中心となったブッフォン、トッティがいたイタリア、そしてメキシコです。

大会開幕戦となったガーナ戦を0-1で落とし、第2戦のイタリア戦に引き分けた日本代表は、最終第3戦でメシキコを2-1で下しグループリーグを2位で突破、ベスト8進出を果たしました。

U-17世界選手権の日本代表
U-17世界選手権の日本代表

ホスト国代表監督としてグループリーグ突破を果たした小嶺監督は、試合後のインタビューで心底ホッとした様子でした。重責を担いながら、それを達成して、さらには将来につながる選手育成を果たした小嶺監督、小見コーチの業績は称えられて余りある大きなものではないでしょうか。

準々決勝の相手はナイジェリア、結局、決勝がナイジェリアvsガーナの対戦となったことを思うと、つくづく日本代表は不運だったと思います。ナイジェリア戦、中田英寿選手がゴールを決めたものの1-2で敗れました。たらればの話になりますが、組み合わせ次第で、日本はベスト4位まで行けたのではないかと思う程です。
それでも、選手たちが得た収穫は、ベスト8敗退でも「世界と十分やれる」という揺るぎない自信であり、そのことは、彼らが上のカテゴリーの大会でことごとくアジア予選を突破し、世界の舞台に立ち続けたことで証明されました。

この大会メンバーの中から、中田英寿選手、松田直樹選手、宮本恒靖選手、戸田和幸選手が2002年日韓W杯メンバーとして名を連ねています。

ところで、この大会の試合映像を見ると、試合時間は40分ハーフの80分、スローインではなく「キックイン」という方式が採られています。「キックイン」は試験的に採用されましたが長続きしなかった方式のようで、のちになって見ると貴重な場面です。

さて、U-17世界選手権の熱気と並行して戦われていたJリーグは9月に入り一旦中断に入りました。
アメリカW杯アジア最終予選が始まるからです。
春のアジア一次予選を圧倒的な成績で勝ち抜いた日本代表に対して、日本全体からの期待は高まる一方でした。当然のことながらJリーグの熱狂も相乗効果となって、ワールドカップ初出場は手の届くところに来たという雰囲気で日本代表を見ていました。

その日本代表、春のイタリア遠征合宿に続き、9月には2週間のスペイン遠征合宿を敢行しましたが、柱谷哲二選手が体調不良で不参加、都並敏史選手がケガのため途中離脱して、10月決戦に向けて万全の準備ができたとは言い難い合宿となりました。

10月4日、W杯アジア最終予選の壮行試合の意味合いとなるアジア・アフリカ選手権が国立競技場で行なわれ、コートジボワールを延長の末破り、いいムードで決戦の地、カタールに向かいました。

W杯アジア最終予選は、10月とはいえ、まだまだ暑い気象条件の中で、中2日ないし3日で5試合を戦うという過酷な短期決戦でした。しかも対戦相手は、順にサウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、イラク。くみし易い相手は一つもない難敵ばかりでした。
初戦のサウジ戦を引き分けて迎えたイラン戦は1-2で敗戦、6チーム中上位2チームだけが出場権を獲得できる戦いにおいて、いきなり崖っぷちに立たされました。

しかし、そこから北朝鮮、韓国を撃破して自力での出場権獲得圏内に浮上しました。難敵・韓国を自らのゴールで下したカズ・三浦知良選手は感極まって涙しました。胸中「これで大丈夫、行ける」という気持ちになったことでしょう。

最終戦は10月28日イラク戦、勝てば文句なしに出場権獲得、引き分けると他会場の結果次第とはいえ、ほぼ絶望的となる状況の中、2-1のリードで試合はロスタイムに入りました。
選手たちも、日本でテレビやラジオの中継にかじりついていた日本中のファンも「大丈夫だろう、いけるだろう」という気持ちが支配し始めたと思います。

ところが、それが落とし穴でした。あとワンプレーで主審のホイッスルが鳴るであろうと思われた、そのワンプレーが「ドーハの悲劇」と呼ばれる事態を引き起こしました。イラクのショートコーナーキックを受けた選手から放たれたクロスボールが、ニアサイドにいたイラク選手の頭にピタリと合い、ボールはGK松永成立選手の頭上を超え、サイドネットに吸い込まれてしまったのです。

すべては水泡に帰してしまいました。なぜこうなってしまったのか、現実を受け止められない選手たちのさまざまな様子は、いまなお写真画像として、ビデオ映像として伝わっています。
自らもW杯出場監督の栄誉をあと一歩のところで逃してしまったオフト監督が、ピッチにへたり込んで動けない選手に声をかける姿も、写真や映像で繰り返し流れ印象的でした。

NHKのテレビ中継の解説を担当した後の日本代表監督・岡田武史氏も、起こった出来事に対する気持ちの整理がつかず、しばらく声を失ったままでした。
この試合に限らず、アジア最終予選の5試合を通じて日本代表が出場権を勝ち取れなかった要因については、さまざまな専門家がさまざまな理由をあげて分析しており、ほぼ出尽くしており、このヒストリーパビリオンの「伝説のあの試合」で取り上げる機会があれば、そこでご紹介したいと思います。

「ドーハの悲劇」ピッチにへたりこんだ選手たち
「ドーハの悲劇」ピッチにへたりこんだ選手たち

日本がイラクと引き分けたことで出場権を失い、かわりに出場権を獲得したのは韓国でした。わずかに得失点差で日本を上回ったのです。
この得失点差による出場権の明暗は、現に韓国がアメリカW杯に出場できたという以上の力を韓国に与えてしまうことになりました。
2002年W杯の開催地に日本に遅れて名乗りをあげた韓国が、W杯出場経験の有無を盾に自国開催こそが正当性を持っていると声高に主張するようになったからです。
恐ろしいことです。一つの試合の帰趨が、のちに国全体の権益を左右することになるのですから。

カタールの地で戦った日本代表選手たちの帰国を、日本中のサッカーファンは暖かく迎えました。彼らにはJリーグ後期(セカンドステージ)、ナビスコカップ決勝、第73回天皇杯サッカーと続く戦いが待っていたからです。
11月6日後期10節から再開されたリーグ戦も、11月23日に行なわれたナビスコカップ決勝も、ヴェルディ川崎と清水エスパルスが覇を競い合う攻防を繰り広げました。そしてナビスコカップもリーグ戦もヴ川崎に軍配があがりました。

これでヴ川崎はナビスコカップを連覇、リーグ戦は、前期王者・鹿島とのチャンピオンシップ出場権も獲得しました。
12月に入ると第73回天皇杯サッカーが始まりました。2回戦では鹿島ジーコが東北電力との試合で華麗なヒールキックによるゴールを決めるなど大勝して勝ち進み決勝に駒を進めました。
一方、準々決勝で後期覇者のヴ川崎を撃破した横浜フリューゲルスがそのまま決勝に進みました。

この年のJリーグチャンピオンシップは、W杯アジア予選などの日程が重なり年内に開催できず異例の年明け開催、しかもホームアンドアウェーの2試合といいつつも、両方とも集客能力のある国立競技場で実施されました。
強力なサポーターに支えられている鹿島からすれば、ホームゲームのメリットが損なわれる開催地でしたが、後年、日韓W杯開催などを機に各クラブが集客力のあるホームスタジアムを持つようになったことを考えれば、2試合とも国立というのは黎明期のやむを得ない選択だったのかも知れません。

この初めてのJリーグチャンピオンシップは、初代の年間王者を目指す鹿島とヴ川崎の戦いに決着をつけただけでなく、鹿島・ジーコが非紳士的行為で退場処分になるという後味の悪いシーンをもたらしたという意味でも語り継がれるチャンピオンシップとなりました。

俗に「ジーコのつば吐き事件」と呼ばれる行為に至ったジーコの胸の内には、度重なるレフェリーの判定が、ことごとくヴ川崎有利に働いていくことへの強烈な不信感が鬱積して吐き出されたかのようでした。

このチャンピオンシップ第2戦のレフェリーは高田静夫さん、1986年メキシコW杯で日本人として初めて主審を務めたことは「伝説のあの年1986年」の中でも紹介しました。
この人をおいてない最終決戦の主審です。

チャンピオンシップ第2戦で退場処分になったジーコ
チャンピオンシップ第2戦で退場処分になったジーコ

しかし、この日の高田主審の笛が、どうにもヴェルデイ寄りになってしまったという事態は、ご本人にとっては「結果としてそうなっただけ」でしょう。けれども、ある意味、晩節を汚したレフェリングになってしまったことは否めません。

ジーコの行為は結局のところ非紳士的行為、許されない行為として歴史に刻まれることと思いますが、ここでは、心中察して余りある状況に立たされたジーコのことも記録しておきたいと思います。

その高田主審の判定で得たPKをカズ・三浦知良選手がキッチリ決め、2試合合計1勝1分としたヴ川崎が初代年間チャンピオンとして歴史に名を刻んだのでした。

しかし長い年月の流れの中で、この2チームを見た時、敗れた鹿島が、その後、数々のタイトルを取り続けるJリーグナンバーワンクラブとして君臨しているのに対して、勝ったヴ川崎は、2連覇こそ果たすものの、その後は急速に凋落して、ついには下部カテゴリーのJ2が定位置となってしまうクラブに落ち込んでいるのは、このJリーグ元年の王者決定戦が、一つの分岐点になっていると思えてなりません。

Jリーグ元年の締めくくりは最初の年間表彰式「Jリーグアウォーズ」です。初代MVPは文句なしにカズ・三浦知良選手でした。
そのカズ・三浦知良選手も、翌年のイタリアリーグ・セリエA挑戦など、常に日本サッカーをリードする存在でしたが1998年フランスW杯日本代表落選など、幾多の挫折にも見舞われました。
カズ・三浦知良選手がJリーグ30年目を数える年、55歳にして現役でプロ選手を続けていることなど、このJリーグ元年当時、誰が想像できたでしょう。
Jリーグアウォーズ・ベストイレブン
Jリーグアウォーズ・ベストイレブン

プロスポーツとしての「Jリーグ」元年を振り返った時、日本中の人々に熱狂的に受け入れられた陰で、いくつかの課題が浮き彫りになったことも記録しておかなければなりません。
一つは、日本経済の冷え込みとともに懸念されるクラブ経営への影響とその対応策の問題です。実は、Jリーグは、この前後の時期をわかりやすく歴史年表のように、日本の経済情勢と重ねてみると、次第に悪化してきた時期と重なります。スタートが1993年5月であったというのは、実に際どいところでのスタートだったということがわかります。
1980年代半ばから、日本の産業経済は破竹の勢いで伸びを示し「ジャパンアズナンバーワン」と言われるほど加熱して、1980年代後半には「バブル景気」となりピークに達したのですが、1990年以降は景気後退局面に入り当時の政治状況の混乱もあって、次第に産業経済面の活力が低下し始めたのです。

この頃、Jリーグへの参加を決めたチーム経営の母体は、日本有数の大手メーカーであり、それら製造業においては、まだ活力低下といった懸念が表面化していませんでしたので、Jリーグへの参加にあまり逆風にはなりませんでした。
もし、これがあと1年でも後になると、日本経済の冷え込み感は産業界全般に浸透していきましたから、Jリーグへの参加を見直すチームもあり得て、スタート自体が危うかったかも知れないという時期だったのです。

Jリーグは、1986年頃から日本サッカーリーグのプロ化が構想され、次第に「プロ化の検討」~「プロリーグ計画」と練り上げていった関係者の長きにわたる熱意と努力の結晶です。特に1989年半ばからは、日本サッカー協会に検討の場を移し、2002年W杯日本招致のFIFAへの意思表示とあいまって、日本サッカー界全体の悲願となって計画を加速化していったことが1993年5月スタートに結びついています。

当時、このあとの日本経済が不良債権問題などが表面化して、大手金融機関の破綻をはじめとした大混乱の時期に入り、その後も「失われた20年」と呼ばれるほど長きにわたり低迷を続けることになりますが、そのような未来が待ってることなど、誰も想像がつきません。
Jリーグのスタートが、奇しくも、日本経済がまだ致命的な落ち込みまで至らない時期に間に合ったのは、プロ化に関わった多くの方のエネルギーの賜物なのかも知れません。

こうして、Jリーグは、まさにギリギリのところでスタートが切れたことで、その年の熱狂的な成功を得ましたが、チームの健全な経営という点では課題を抱えることになりました。それが選手のリストラなど現実のこととして表面化するのはもっと先ですが、じわじわとチーム経営への重荷になっていったのです。

二つ目はスタジアム環境の改善です。カシマスタジアムのように新規に作られたスタジアムは他になく、どこも既存のスタジアム改修した程度でスタートしました。
改善点の一つはピッチの質です。サッカーというスポーツは雨天であろうと決行するのが通例ですが、どしゃ降りの雨になった時にピッチがどろんこ状態になり、とてもプロスポーツの試合とはいえないところが現れてしまいました。

イタリアリーグなどで、どしゃ降りをモノともせずに緑の芝の上をきれいに転がるボールを見ているサッカーファンは、その差の大きさを実感しました。

スタジアム環境のもう一つの改善点はピッチと観客の遠さです。サッカーなど球技専用のスタジアムは、ピッチと観客の間にトラック(走路)がありませんので、観客は試合に没入できる環境ですが、多くの試合会場はトラック(走路)に遮られて、観客からピッチの上の選手たちが非常に遠くにいる感覚になります。
国立競技場のような大きなスタジアムですと、不思議とそれほど疎外感はないのですが、15000人程度のスタジアムで観客席がトラック(走路)に遮られていると、相当離れたところから応援している感じになり一体感が減衰しているような感覚になります。

こうした「ないものねだり」を初年度から求めるのは我儘でしかないわけで、その後も長年続くのですが、後年、そうした環境が改善されたスタジアムの試合と、初年度の試合と見比べると、これもまさに「黎明期」「草創期」の風景なのだと感慨を覚えます。

課題の三つ目は、レフェリングの問題です。これは当時、レフェリーの質という面ばかり強調されましたが、Jリーグは多くの外国人レフェリーを招き、笛を吹いてもらいました。
日本人レフェリーの場合、プロ選手たちの動きについていけないという体力面の問題もありましたが、プロ選手たちの「マインド」に寄り添えていないこともあったように思われます。後年、次第にレフェリーもプロ化されるようになったのは必然と言えるかも知れません。

一方、選手たちの側にも個々のレフェリーが示す基準というものについて理解が足りないという問題もありました。特に外国人レフェリーの場合、海外サッカーにおける笛の基準と、選手が昨年まで体感していた笛の基準が違っていた時、いたずらにレフェリーに詰め寄る場面が生じてしまうといった問題です。

さまざまな議論を呼んだレフェリー問題
さまざまな議論を呼んだ
レフェリー問題

こうしたプロスポーツとしての「Jリーグ」の課題について、サッカージャーナリズムとも言うべき人々が積極的に論陣を張るようになったのも、この年の大きな変化です。
この年の秋以降、サッカーマガジン、サッカーダイジェストといったサッカー専門誌が、前年、月刊から月2回刊に増やしたのに続いて、わずか1年で月2回刊から週刊化に踏み切り、多くの評論家やライターたちの発言の機会が急増したからです。

プロの世界の人々が、こうしたサッカージャーナリズムの批判を浴びながら、その後の積年の努力と経験によって徐々に改善していったと言う意味では、プロの当事者とサッカージャーナリズムの緊張した関係が始まった元年なのかも知れません。

もっとも、月2回刊から週刊化に踏み切ったのが、W杯アジア最終予選が始まる直前の時期でしたから、日本がW杯出場権を獲得すれば、あらたな商機が訪れるという皮算用があってのことだったと思います。
その意味では、アテが外れた中での週刊化と言わざるを得ないところです。

さて、この年の海外サッカーに目を転じてみます。
アメリカW杯の出場権を賭けた各大陸の予選が、世界中で繰り広げられた中、日本代表の「ドーハの悲劇」に匹敵する悲劇がフランス代表に降りかかりました。フランス代表の場合、引き分けでも出場権獲得できる状況で地元パリにブルガリアを迎えた最終戦、試合終了間際に得点を許し、2大会連続で出場権を逸したのでした。
この模様は「パリの悲劇」として語り継がれているようです。

このほか前年の欧州選手権を制したデンマークも出場権を逃しています。ブラジル、ドイツ、イタリア、アルゼンチンなどの強豪国は出場権を獲得して翌年のアメリカW杯を迎えることになりました。

南米ではコパ・アメリカが開催されアルゼンチンが準々決勝でブラジルをPK戦の末下し、そのまま優勝、2年前の大会に続く連覇を果たしました。

欧州では「欧州チャンピオンズリーグ」と改称して初めての決勝が5月行なわれ、フランスのマルセイユが優勝しました。
12月のトヨタカップには欧州王者のマルセイユが来日するはずでしたが、フランスリーグでの八百長行為が発覚したため懲罰処分を受け、トヨタカップへの出場権を失いました。
代わりに欧州チャンピオンズリーグでマルセイユに敗退したイタリア・ACミランが出場、南米王者のサンパウロFCとの戦いとなりました。

試合はサンパウロFCが3-2で勝利、前年に続く連覇を果たしました。この試合には両チームに、後にJリーグに選手や監督として在籍することになる選手たちが多数出場しました。サンパウロFCには、トニーニョ・セレーゾ、レオナルド、ロナウド(清水DF)、ミューレル、ACミランにはマッサーロです。

欧州、南米ともに日本から遠く離れた国の、これほど多くの選手たちがJリーグでプレーすることを選択した一つの要因には、このトヨタカップでの来日経験もあるのではないかと思います。その意味でトヨタカップが果たした役割の大きさをあらためて思わずにはいられません。

あらためて、1993年という年がどういう年だったかを総括してみます。
それは「Jリーグの成功」という経験を財産としつつ、「W杯アジア予選での挫折」という経験を糧として、「U-17世代の選手たちが堂々と世界の舞台で渡り合った」という経験を自信として、その後の日本サッカーの大きな進化・成長につながった年ということになります。
それは、とてつもない大きな節目の歴史的な年ではないでしょうか。