伝説のあの年(1993年)

現在につながる世界のサッカー、日本のサッカーの伝説の年は、まず1986年、そして1992年1993年1994年1996年1997年1998年1999年2000年2002年2004年、さらに2010年2011年2012年2018年2022年
実に多くの伝説に満ちた年があったのです。
それらは「伝説のあの年」として長く長く語り継がれることでしょう。
さぁ、順次、ひもといてみましょう。

 

伝説のあの年 1993年

この年はご存じのとおり「Jリーグ元年」の年です。そしてドーハの悲劇があった年です。おそらく1986年から50年後の2036年あたりまでを考えた場合でも、例えばワールドカップの日本単独開催とか、ワールドカップでのベスト4以上の進出といった出来事があれば別ですが、やはり1993年に匹敵する歴史的な年は出ないのではないかと思われます。
そう考えながらひもといていきたいと思います。

 

1993年1月1日、元旦といえば恒例、天皇杯決勝 第72回のこの年は、日産FCマリノスVS読売ヴェルディ チーム呼称こそ少し変わったものの2年連続同一カード、国立競技場には56,000人の観衆が詰めかけました。
試合は日産が、天皇杯には無類の強さを誇るチームらしく競り勝ち、2年連続6回目の優勝を果たしました。

日産FCマリノスは、天皇杯で63回大会から72回大会まで10大会中6回優勝、読売ヴェルディは日本リーグ(JSL)のほうを直近9シーズンのうち5度制覇、まさに、この10年間は日産、読売の時代そのものでした。

新年最初のスポーツイベントである「天皇杯サッカー決勝」が2年連続の両雄激突ということで、箱根駅伝などと並ぶ正月の欠かせない風物詩として定着したという意味でも功績が大きいものでした。

日産FCマリノスは、この年1月17日と4月16日に行われた92-93アジアカップウィナーズカップ決勝にも駒を進めていました。
決勝の相手はイランのペルセポリス、1月17日の第1戦、ホームでの試合を1-1で引き分け、第2戦まで3ケ月の空白をおいての戦いとなりました。その間、日産FCマリノスは横浜マリノスと呼称を変更して4月16日、アウェーでの第2戦、GK松永成立選手、DF井原正巳選手を日本代表の試合で欠く中、ペルセポリスの攻撃を完封、見事1-0で勝利を収め大会2連覇を果たしました。

このアジアカップウィナーズカップ選手権は、この時創設から3回目でしたが、カップ戦に無類の強さを誇ってきた横浜Mらしく、そのうち2回の覇者となりました。

天皇杯決勝・日産マリノス連覇
天皇杯決勝・日産マリノス連覇

さらに毎年、天皇杯決勝からほぼ1週間後に行なわれる高校選手権決勝、この年は第71回大会、国見高と山城高の決勝は、2-0で国見が勝利、7年連続出場で3度目の優勝を達成し「国見の時代」を高校サッカーファンに強烈に印象づけました。国見はキャプテンで、この試合でも左足からの豪快なミドルシュートを決めるなどチームを牽引した三浦淳宏選手や永井篤志選手が中心でした。山城には超高校級と評価された石塚啓次選手がいましたが、この大会はケガで出遅れ、決勝後半に出場しましたが見せ場がありませんでした。
この年の3年生のうち、春からJリーグへ入団した選手と大学に進学した主な選手を記録しておきます。
【Jリーグ組】DF室井市衛(武南⇒鹿島)、MF阿部敏之(帝京⇒鹿島)、FW石塚啓次(山城⇒ヴ川崎)、FW松波正信(帝京⇒G大阪)
【大学進学組】DF佐藤尽(室蘭大谷⇒国士館大)、MF永井篤志(国見⇒駒沢大中退⇒福岡)、三浦淳宏(国見⇒青山学院大中退⇒横浜F)、FW江原淳史・大会得点王(武南・中央大中退)

2002年W杯国内開催候補、15自治体の決定

1991年6月に「2002年W杯招致委員会」を設立、国内外に2002年W杯開催地に正式立候補を表明した招致委員会の次の大仕事は、国内開催候補地を決定することでした。
そのため1991年初めに自治体に対して行った「日本で開催することになった場合、開催地に名乗りをあげることに関心はありますか」というアンケートに対して回答を寄せてきた20自治体を対象に、今度は説明会を行なった上で、あらためて開催地に立候補する意思があるかどうかのアンケートを前年1992年に実施しました。

その結果、1992年7月、15自治体から正式に立候補表明の回答を得ました。次に招致委員会は、9月、その15自治体に対して、開催能力を評価するために「開催基本構想」を策定して提出するよう要請しました。
これは、・スタジアム計画、・輸送計画、・宿泊計画、大会運営計画、・地域サッカー普及施策など多岐にわたる内容が盛り込まれた基本構想でした。

15自治体からの「開催基本構想」提出を受けた招致委員会は、各分野の専門家で構成する「自治体開催基本構想」審査委員会を設置して審議を行ないました。
そして、この1月、審査委員会の審議結果をもとに、日本サッカー協会理事会として、あらためて「開催候補地選定基準」に照らした結果、立候補した15自治体すべてが選定基準に合致していると評価され、正式に次の15自治体を国内候補地として決定しました。(北から順に)
・札幌市、・青森県、・宮城県、・茨城県、・千葉県、・埼玉県、・横浜市、・新潟県、・静岡県、・愛知県、・京都府、・大阪市、・神戸市、・広島市、・大分県。

このあと6月には、15自治体にも「2002年W杯自治体招致委員会」とその事務局が設置され、加えて、各自治体の首長が「日本招致委員会」の実行委員に就任、招致活動は全国自治体を巻き込んだ活動に一段スケールアップしました。

アメリカW杯アジア予選がスタート

いよいよ日本のサッカーシーンは、日本代表のアメリカW杯アジア予選と、Jリーグ開幕へと移っていきます。
2月、オフト監督率いる日本代表が18日間のイタリア遠征合宿を敢行。3月のキリンカップ、沖縄キャンプと熟成を重ね、4月8日、満を持してアジア一次予選の初戦、タイ戦を迎えたのです。

3月のキリンカップ、この年はハンガリー代表とアメリカ代表を招いての大会でした。3月7日、福岡での初戦、ハンガリー代表戦は、日本が有利に展開しながらも後半開始早々の失点を最後まで挽回できず敗戦、3月14日には国立競技場でアメリカ代表と対戦、この試合も前半に先制を許しましたが、その後カズ・三浦知良選手の2ゴールなど3-1で逆転勝利、目前に迫るアジア一次予選に向けて、サポーターに期待を抱かせる内容を見せた。

アメリカW杯アジア一次予選、同組にタイ、UAEという難敵のいるグループで1位通過が条件の一次予選、日本を開催地にした日本ラウンド、一つ間違えば出場権獲得に早々に黄色信号が灯りかねないプレッシャーの中、初戦のタイ戦でカズ・三浦知良選手が値千金のゴールを決めて勝利すると、あとは大観衆の後押しを得て4連勝で日本ラウンドを乗り切りました。

どのような大会でも「初戦がもっとも大事」と言われるようになるのは、もっと年月が経ってからですが、まさに一つ間違えば出場権獲得に早々に黄色信号という重圧の中、勝利に導いたカズ・三浦知良選手、この試合は、カズ・三浦知良選手が「本当に大事な時に試合を決めてくれるホンモノのスター選手」ひさびさに日本サッカー界に現れた「スーパースター」であることを実感させた試合でした。

日本ラウンドを終えると、すぐ沖縄でミニキャンプを張り、4月28日からのUAEラウンドです。灼熱のUAEの厳しい環境の中、全日程を7勝1分の負けなしで突破し、もう目の前に迫ったJリーグ開幕に、この上ない弾みをつけたのでした。

W杯アジア一次予選の日本代表
W杯アジア一次予選の日本代表

歴史的1日、Jリーグが開幕

そして5月15日、いよいよJリーグの幕が切って落とされました。
そもそも「Jリーグ」とは、どのような考え方を持ったプロスポーツなのか。この先、長く引き継がれていくであろう、新しいプロスポーツの誕生なのですが、当サイトではその「理念」や「めざす方向性」といった基本的な考え方を、この場でキチンと整理しておきたいと思います。

1993年が伝説の年たり得るのも、「Jリーグ」が日本のスポーツ文化に革命を起こすほどのスケールとインパクトをもって登場し、その後の日本の地域社会に「Jリーグというクラブ」を通じてスポーツ文化が根付いていく新たな地域モデルを生み出した船出の年だからです。

「Jリーグ」の考え方がよく反映されているのは、その「活動方針」です。この部分はJリーグホームページを検索すると誰でも読めますが、あえて書いておきます。

【Jリーグ活動方針】

  • 1.フェアで魅力的な試合を行うことで、地域の人々に夢と楽しみを提供します。
  • 2.自治体・ファン・サポーターの理解・協力を仰ぎながら、世界に誇れる、安全で快適なスタジアム環境を確立していきます。
  • 3.地域の人々にJクラブをより身近に感じていただくため、クラブ施設を開放したり、選手や指導者が地域の人々と交流を深める場や機会をつくっていきます。
  • 4.フットサルを、家族や地域で気軽に楽しめるようなシステムを構築しながら普及していきます。
  • 5.サッカーだけでなく、他のスポーツにも気軽に参加できるような機会も多くつくっていきます。
  • 6.障がいを持つ人も一緒に楽しめるスポーツのシステムをつくっていきます。

この6つの活動方針から何が読み取れるかといいますと、Jクラブは「地域の公共財」だという考え方です。もちろん企業の支援なしにはクラブ経営はできないのですが、少なくとも個別企業の所有物や付属物といった存在ではないこと明確にしています。
そのため、チーム名から企業名を外し地域名で表示する、本拠地は「フランチャイズ」と称するのではなく「ホームタウン」と称するといった点を徹底しました。

また、Jクラブはプロサッカーチームとしてだけ存在するのではなく地域スポーツクラブの核として、地域スポーツ振興の拠点となることもめざしています。トップチームの下部組織として育成年代のチームを持つことが義務付けられていることも、活動方針が反映されている証しです。
スタート当初(1992年から)は、Jリーグ公式戦でのベンチ入りもままならない控え選手の実戦経験の場として「サテライトチーム」という下部組織があって、それらのチームによるサテライトリーグもスタートしました。

こうした考え方を根本に据えて1993年5月15日、Jリーグは船出しました。

前日の5月14日、国立競技場ではリハーサルが行われましたが、実は大雨に見舞われた中でのリハーサルでした。国立競技場のフィールドに、2つのJリーグフラッグとそれを取り囲むように10クラブのフラッグを配置されたあと、それらのフラッグが裏返しにされて、巨大なJリーグロゴのフラッグとなって現れる演出、それらは大きなフラッグの布が弛んでしまわないよう多くの若者たちによって支えられていたのですが、雨に打たれてそのフラッグはかなりの重さになっていたことでしょう。

リハーサルで細かな修正の指示を出していた川淵チェアマンは、必死にそして黙々とリハーサルを続ける若者たちや多くのスタッフたちの姿に打たれて思わず落涙してしまったそうですが、彼らの頑張りに報いるかのように翌15日朝には雨が上がりました。

数々のカクテル光線とレーザー光線が飛び交う中で、音楽バンド「TUBE」のギタリスト・春畑道哉さんが自ら作曲してギター生演奏した「Jのテーマ(J’s THEME)」いわゆるアンセムが流れた場面を見れば、この夜が晴れて本当によかった、Jリーグの船出にふさわしいセレモニーの夜が用意されたと思わざるを得ません。

前夜、雨に打たれてかなり重くなってしまったフラッグを持ち続け、リハーサルをやり遂げた皆さんにご褒美になるような素晴らしい開幕セレモニーの夜が来たのです。

川淵チェアマンが思わず涙した理由のもう一つに、このアンセムが持つ音楽の力があったように思えてなりません。特にギター演奏に男性コーラスによるヴォカリーズ唱法(歌詞がなくウァー、ウォー、ウァーなどだけの歌い方)が重なった部分は、アンセムのクライマックスでもあり、今なおYouTubeでこのセレモニーを見た多くの若い方から感動のコメントが寄せられ続けています。このアンセムは、それほど感動的な曲ですし、開幕セレモニーがいつまでも語り継がれる40分となった大きな要因の一つが、このアンセムの素晴らしさにあったと記録に留めたいと思います。

前日のリハーサルで納得いくまで修正の指示を出していたのが、Jリーグ創設の表看板となった川淵チェアマンですが、Jリーグ創設の影の主役・木之本興三常務理事はリハーサルでの自分の役割は無いと見切って、ひっそりと国立競技場を後にしました。そして、これまでの長い道のり、何くれと相談に乗ってくれた1人のサッカー人・加茂周氏と落ち会っていました。

Jリーグ創設に奔走した2人、まるで光と影、対照的な前夜の過ごし方があったことも記録に留めておきたいと思います。

開幕セレモニー、長く記憶される夢舞台

さて、開幕セレモニーと開幕試合がセットになった、この日の入場者数は、いわゆる有料入場者数の実数で59,626人という記録が残っています。
Jリーグ側は、前売り券を40000枚としてはがきによる応募による抽選で当選者を決めることにしたところ、集まった応募ハガキは何と78万6000人分、家族席や子供料金という設定もあり、座る場所によって出た最高倍率は260倍になったそうです。

そのような倍率に達した中、40000人の当選者(購入代金支払い者)には、名前入りのオリジナルチケットが郵送されました。これには半券が当選者の記念として残る効果と、不法転売防止・ダフ屋行為防止の効果がありました。

警備スタッフや関係者などの数も含めれば実際は6万2000~3000人が入ったでしょうからマスコミ的な表現であれば「立錐の余地もない」という入りだったと思います。

開幕セレモニーの幕開けは、闇夜に放たれる幾筋ものレーザー光と、春畑道哉さんが奏でるメタリックなサウンドシャワー、そしてピッチと観客席に浮かび上がる幻想的な色彩。これまでのイベントでは見たことのない、国立競技場とその空間をも使った巨大なスケールの「夢空間」「夢舞台」が出来上がったのです。

ふと漆黒の空を見上げると、1機の白い飛行船が浮かんでいました。この飛行船、ただのアトラクションで飛んでいたのではなく、全国の人たち、あるいは海外の人たちも含めて、飛行船上のカメラから映像を通して、国立競技場に出現した「夢舞台」を俯瞰して見せてくれるために、飛んでいたのでした。

そうでなければ、とても、これだけのスケールの「夢舞台」を体感することはできなかったでしょう。後年、この映像を見返してみるたびにそう思いますし、貴重な記録だと思います。

音と光と色彩に満ちたプロローグのあと、開会宣言で、川淵チェアマンは、シンプル過ぎるほどシンプルな挨拶を行ないました。

<開会宣言。スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン、川淵三郎>

Jリーグ開幕セレモニー
Jリーグ開幕セレモニー

この短いメッセージは、サッカーを愛する人々のみならず、スポーツ全般を愛する人々に向けて発したいという思いと、このあと50年経っても100年経っても、テレビなどで一部分だけが切り取られて放送された時、この宣言は1993年5月15日に行なったものだということが絶対にわかるよう、練りに練って、限りなく短くしたものだそうです。その深謀遠慮たるや見事なものです。

開会式に欠かせない国歌斉唱は、ギター演奏の春畑道哉さんの仲間「TUBE」の前田亘輝さんが、あの甲高い声で独唱しましたが、のちの日本代表の国際マッチなどで、いろいろな歌手の方が独唱するスタイルの口火を切ったのも、この日でした。これも川淵チェアマンのこだわりだったそうで、アメリカのスポーツイベントでは既にアカペラで国歌を唄うスタイルがあったそうで、「君が代」もそのスタイルでやりたいと考えたのだそうです。

なにぶんにも「君が代」は短調ですから厳かな曲調で、アメリカ国歌とはずいぶん違う曲調です。並みの人ならば、そのように考えて「普通にオーケストラで」と考えるところですが、常に「今までにやったことがないスタイルで」と考える、川淵チェアマンらしい発案でした。

そして、開幕セレモニーは、スタジアムの照明が落とされ、1点だけ照らされたスポットライトの中から、ヴェルディ川崎、横浜マリノスのイレブンが入場するところで一転します。国立競技場全体がカクテル光線の照明に照らし出されると、割れんばかりの歓声、チアホーンで場内の興奮は最高潮に達しました。

歴史的な開幕戦、横浜Mに軍配

開幕カードのヴェルディ川崎と横浜マリノス、誰もが納得のカードですが国立競技場での試合、どちらをホームチームとするのかについては、前身の日本リーグ(JSL)最後の優勝チームということでヴェルディ川崎にしたそうです。

また5月15日に1試合だけを組むというやり方、実は他のチームからは「不公平だ。自分たちも同じ日に開幕したい」という不満続出だったそうです。しかし、そこも剛腕の川淵チェアマンです。「5月15日に1試合だけを組む、という点は譲れない。なぜなら5月15日の1試合だからこそ、世の中の注目度が増すのであり、一斉にやると絶対注目度がバラケるから」と押し切ったそうです。

「兎にも角にも、5月15日は国立競技場の開幕セレモニーとセットになった1試合だけに絞る」という考え方は、5月15日をシンボリックな日にしたという点で正解だったかも知れません。

栄えある開幕戦のレフェリーは小幡真一郎さんに託されました。事情を知らないサッカー好きの人であれば一瞬「あれ? 高田静夫さんではないんだ」と思うでしょう。高田さんは、1986年メキシコ大会、1990年イタリア大会と2度のワールドカップで主審として笛を吹いた、文字通り日本人レフェリーの第一人者ですから。

ところが高田さんは海外で行われる国際試合のレフェリーの予定が入っていたため、他のレフェリーを人選する必要が生じ、当時、国際審判員の資格をもったレフェリーで最年少の小幡真一郎さんに白羽の矢が立ったといいます。

小幡さんは当初、何度も固辞したそうですが周囲からの激励もあり受諾、歴史的な開幕戦のキックオフに臨んだそうです。

午後7時29分30秒、場内アナウンスで「お待たせしました。世紀のキックオフを皆さんの大カウントダウンで迎えましょう。大型画面のカウント数字に合わせて皆さんもどうぞ!! 10, 9, 8, ・・・・3, 2, 1, ゼロ!!」午後7時30分ちょうど(公式記録は午後7時29分)。横浜マリノスのラモン・ディアスが歴史的なひと蹴りをビスコンティに流してゲームは始まりました。

あとは、鳴りやまない歓声とチアホーン、打ち振られ続ける両チームのフラッグの中、両チームの攻防が繰り広げられていったのですが、国立競技場の6万大観衆も、テレビにくぎ付けになっている日本全国のファンも、どこか夢見心地のうちに時間が過ぎていくような感覚を抱いたように思います。

もちろんテレビからはNHKの山本浩アナウンサーや解説者の声が途切れることなく流れているのですが、それでも、試合に見入るというよりは、まるで、大きな劇場で緑と青のコスチュームをまとった人たちが繰り広げている演舞を眺めているといった感覚だったように思います。

けれども、カメラレンズとマイクをピッチ上にズームアップしていくと、歴史的開幕戦のピッチに立てた選手たちの誇りとプライドがぶつかり合った、まさにプロの戦いの場でした。
多くの観客たちも、目まぐるしく変わるスリリングな攻防に感動を覚えて試合を堪能しました。

両チームイレブンも、歴史的な試合に臨んでいるという高揚感と、宿命のライバルに開幕戦勝利を絶対渡したくないという意地がぶつかり合い「死力を尽くした」という表現が当てはまる試合を見せました。試合終了のホイッスルが鳴ると、両チームイレブンの表情が歓喜と失意にくっきりと分かれ、スタジアムも無数のトリコロールフラッグが打ち振られる風景に変わりました。

開幕戦レフェリーの大役を任された小幡さんも、見事に試合を裁き、線審たちとともに大役を果たしたホッとした表情で労をねぎらい合いました。

この試合のテレビ視聴率は32.4%、瞬間最大視聴率は49%、この数字が特別なのは、その後も続いているJリーグの万単位の試合が一度も上回ったことがない歴代1位の記録になっていることです。
もっとも日本サッカー全体で見れば、その後は日本代表の試合が高い視聴率となることが増えましたので、サッカーが有望なテレビコンテンツになることを示した最初の試合とも言えます。

まさに開幕日の「特別な1試合」でした。

歴史的な開幕第1節の5試合、あらためて10チームと当時のホームタウン、初代監督、そして5試合の簡単なデータと試合経過を記録しておきます。
【10チームのホームタウン(自治体名は当時のまま)、初代監督】(Jリーグの登録方式順に記載)
・鹿島アントラーズ、 茨城県鹿島町、大野村、潮来町、神栖町、波崎町  宮本征勝監督
・浦和レッドダイヤモンズ 埼玉県浦和市  森孝慈監督
・ジェフユナイテッド市原 千葉県市原市  永井良和監督
・ヴェルディ川崎     神奈川県川崎市 松木安太郎監督
・横浜マリノス      神奈川県横浜市 清水秀彦監督
・横浜フリューゲルス   神奈川県横浜市 加茂周監督
・清水エスパルス     静岡県清水市  エメルソン・レオン監督
・名古屋グランパス    愛知県名古屋市 平木隆三監督
・ガンバ大阪       大阪府吹田市  釜本邦茂監督
・サンフレッチェ広島   広島県広島市  スチュアート・バクスター監督

【開幕第1節の簡単なデータと試合経過】
1.ヴェルディ川崎vs横浜マリノス 得点1-2 5月15日 国立競技場 59,626人
   得点 ヴ川・マイヤー(前半19分)、横M・エバートン(後半3分)、横M・ラモン・ディアス(後半14分)
  【試合経過】
・19時30分キックオフ、前半19分、ヴ川崎・マイヤー選手の豪快なシュートが突き刺さり先制、後半3分横浜Mエバートン選手が同点ゴール、続いて後半14分、横浜M・ラモン・ディアス選手がゴールして逆転、その後ヴ川崎の猛攻を横浜Mが凌いで、21時16分試合終了のホイッスル。五月の夜の夢のようなひとときが終わりました。
宿命のライバル対決は、横浜Mが、実に過去6年間にわたり13勝4分けの負けなしを継続して終わりました。また記録された3ゴールはいずれも外国人選手だったことも意外といえば意外でした。

Jリーグ第1号ゴール記録者ヘニー・マイヤー選手、永遠に記憶される価値のある選手

さて、Jリーグ第1号ゴールを記録したヴ川崎、ヘニー・マイヤー選手とは、どういう選手だったか、記録に留めておきたいと思います。Jリーグが続く限り第1号ゴール記録者として取り上げられるであろうヘニー・マイヤー選手、そもそもヴ川崎にオランダ人選手が在籍していること自体、不思議に思うところですが、ヴ川崎というクラブ自体が実はオランダとつながりがあったからヘニー・マイヤー選手もヴ川崎でプレーすることになったようです。

ヴ川崎が、読売クラブとして誕生してまもなくの1972年から3年間、オランダ出身のバルコム氏という方が監督に就いています。この方は日本サッカーの父と呼ばれているドイツ人のデッドマール・クラマー氏の指導を受けて指導者になった方のようで、その関係で日本とつながりを持ち読売クラブの監督になったのです。

その時期に、バルコム監督は、当時高校1年生のGKだった松木安太郎氏をDFにコンバートしトップチームに昇格させたという逸話が残っています。

そのつながりがあってのことでしょう。松木安太郎氏がプロリーグスタートとともにヴ川崎の初代監督に就任するとバルコム氏をヘッドコーチに迎えます。そしてオランダ出身のバルコムコーチのルートでオランダからヘニー・マイヤー選手とイエーネ・ハンセン選手ら3人が加入したのです。

ヘニー・マイヤー選手とイエーネ・ハンセン選手はともにJリーグ開幕戦にスタメン出場を果たし、ヘニー・マイヤー選手が記念すべきJリーグ第1号ゴールを記録したというわけです。

ヘニー・マイヤー選手はJリーグ前期、11試合に出場して2ゴールという結果で前期終了後、契約を解除されオランダに帰国しました。

ヘニー・マイヤー選手は、実は1990-91シーズンにオランダリーグのFCフローニンゲンをクラブ史上最高の3位に導く活躍で、そのシーズンのリーグMVPに輝いたプレーヤーでした。

しかしマイヤー選手自身の言葉を借りると「日本人が知るオランダ人はフリット、ファンバステン、ライカールトだけ。元オランダ代表、MVPの僕でも最後まで『お前、誰だ』扱いだった」という寂しい日本での選手生活だったようです。

直前の日本リーグまで、ブラジル人監督のもとでチームカラーもブラジル的な読売クラブが、突如としてオランダ色を入れることも奇異でしたが、仲間になったオランダ人選手に「最後まで『お前、誰だ』扱いだった」と思わせるロッカールームの空気も奇異そのものです。

不幸にして傷心の思いでJリーグを後にしたヘニー・マイヤー選手ですが、オランダリーグMVPの実力を見せつけたゴールがJリーグ第1号ゴールとなって、永遠に記録されることになったのは、ヘニー・マイヤー選手が「ただ者」ではなかった何よりの証拠です。

そのことをはっきりと記録しておきたいと思います。

そのような中、ヴ川崎の加藤久選手が、松木・バルコム体制の采配に対して「納得がいかない」と不満を示し、早くも移籍希望を表明する事態となりました。ヴ川崎はチーム内に不穏な空気を抱えたままJリーグ前期を戦うことになったようです。

2.横浜Fvs清水 得点3-2 5月16日 横浜三ッ沢球技場 14126人
   得点 横F・アンジェロ(前半9分)、清・エドゥー(前半42分)、横F・モネール(後半12分)、横F・前田治(後半14分)、清・トニーニョ(後半44分)
  【試合経過】 
・13時05分キックオフ レフェリーはマーチン・ボデナムさん、イングランドから招いた外国人審判として笛を吹く最初の試合となりました。
試合は序盤から激しいボールの奪い合いでしたが、マーチン・ボデナムさんは簡単には笛を吹かず流します。そんな中、前半9分、センターサークル付近から横浜F・エドゥーが出したパスに前田治選手が反応、そのまま左サイトをドリブルで持ち上がり、切り返して中に切れ込むとグランダーでクロス、逆サイドにいたフリーのアンジェロ選手に渡り楽々先制。

しかし前半42分、清水のエドゥーが同点ゴール、エドゥー選手はトランクスの中に忍ばせておいたエスパルスカラーの帽子をかぶると、飛行機ポーズで喜びを表しました。

1-1で迎えた後半12分、清水ゴール前でクリアしようとしたDFのキックが味方DFに当たりタッチライン側に跳ね返ったのですが、GK真田選手がそれをキープしようとタッチライン際まで追いかけゴールマウスを空けてしまいました。真田選手はボールを向島選手にバスしてゴールマウスに急いで戻りますが、向島選手からボールを奪った横浜F・モネール選手が20mの距離から無人のゴールに向かって蹴ると見事にゴールに吸い込まれてしまいました。
今度はモネール選手が歓喜のパフォーマンスです。横浜Fのアンジェロ選手とお尻をぶつけ合う、いわゆる「モネールダンス」を初披露しました。

モネール選手はアルゼンチン出身の選手で、日本リーグ時代に3シーズン、全日空でプレーしたあと、一度スペインに渡り、Jリーグ開幕に合わせて横浜Fに復帰した選手です。日本リーグ時代は、大柄でスキンヘッドの風貌から「怪人モネール」と呼ばれていましたが、Jリーグ開幕とともに「モネールダンス」が代名詞となり、その朗らかな人柄が愛され、明石家さんまさんなどは好んでモネール選手を話題にしました。

横浜Fは、2分後の後半14分にも、DF岩井厚裕選手からの絶妙な縦パスが前田治選手に渡りゴールを決め3-1と突き放しました。清水は後半44分にトニーニョ選手がゴールを押し込みましたが、時すでに遅し。3-2でホーム・横浜Fが勝利しました。

この試合、主審のマーチン・ボデナムさんのレフェリングが絶妙で、激しいぶつかり合いにも関わらず、ほとんど試合を止めない笛さばきで、観客は両チームの激しい攻防を堪能しました。

横浜F・加茂周監督、日産自動車を常勝軍団に育て上げた名勝が、横浜Fの指揮をとることになり、前年秋のJリーグ初のタイトル戦・ナビスコカップでは最下位に終わり、栄光の監督歴に暗雲が漂うところでした。
しかし、左足のFKのスペシャリスト・エドゥーの補強などで見事にチームを立て直し、同じナビスコカップ準優勝の清水を下しての船出となりました。

広島・風間八宏選手、日本人ゴール第1号を記録

3.広島vs市原 得点2-1 5月16日 広島スタジアム 11875人
   得点 広島・風間八宏(前半1分)、市原・パベル(後半22分)、広島・小島光顕(後半37分)
  【試合経過】
・13時59分キックオフ まず広島が左サイトを使って市原のゴール前をおびやかす攻撃を仕掛け、開始1分過ぎ、左サイド後方に戻ったボールをDF片野坂選手がアーリークロスをゴール前にあげると、そこに待っていた風間八宏選手が相手DFをかわしながら豪快な右足のジャンピングボレーを放つと見事にゴールネットに突き刺さりました。
まさに電光石火のようなゴール、14時ちょうどに記録されたこのゴールが、日本人選手によるJリーグ第1号ゴールとして記録されることになります。

実は、13時05分にキックオフされていた横浜Fvs清水戦で、後半14分、横浜F前田治選手がゴールを決めていますが、時間が14時15分頃ということで、わずか15分遅れで日本人第2号ということになりました。

市原はJリーグ全体の目玉商品ともいえるピエール・リトバルスキー選手がスタメン出場で奮闘しますが、まだチームとしてのコンビネーションが出来ておらず、ドリブル突破も単発的な仕掛けに終わります。
そんな中でも、市原は後半22分、左サイドからの大きなクロスを右サイドの木澤選手がダイレクトで中央に折り返し、そこにいたパベル選手がゴールを決め同点としました。
しかし広島は後半31分に投入された小島光顕選手が、後半37分、相手ボールをカットすると、そのまま思い切りのいい左足シュート、これが見事ゴール突き刺さり勝ち越し、そのまま試合終了、ホームサポーターを熱狂させました。

4.鹿島vs名古屋 得点2-1 5月16日 鹿島スタジアム 10898人
   得点 鹿島・ジーコ(前半25分)、鹿島・ジーコ(前半30分)、鹿島・アルシンド(後半8分)、鹿島・ジーコ(後半18分)、鹿島・アルシンド(後半19分)
  【試合経過】

鹿島・ジーコ、鮮烈なハットトリックデビュー、リネカー幻のゴールが明暗分ける

・16時00分キックオフ、鹿島・ジーコ、名古屋・リネカーという注目の選手の直接対決という話題性十分のカードとなった、この試合、後年、Jリーグ元年の第1節の試合の中で、もっとも取り上げられることが多い試合でもあります。
すなわち、片やジーコはハットトリック達成第1号、片やリネカーはなすすべなく敗れ、明暗がくっきりと分かれた試合となったからです。

けれども、リネカーが前半14分にゴールネットを揺らして、先制かと思われたプレーがオフサイドとなり幻の初ゴールとなってしまったことが、両者、両チームの試合の流れを変えてしまったかも知れません。
もし、あのゴールがオフサイドラインをかいくぐって決めたゴールだったとしたら、クランパス先制、リネカー早々と初ゴールということになり、その後の試合展開はまったく違ったものになったかも知れません。歴史に「もしも」はありませんので、意味のないことではありますが、そう思ってみたくなる前半14分でした。

試合は、ご存じのとおり鹿島の一方的な展開となります。前半25分、名古屋ゴール前で名古屋DF陣がこぼしたボールに反応したジーコが20mの距離をものともしない豪快なシュートを放ってゴールネットを揺らし、まず先制。名古屋GK・伊藤裕二選手が一歩も動けないほどの見事なゴールでした。

次いで前半30分、名古屋ゴール左45度の角度で得たFKをジーコがニアポストをパシンと叩きながらゴールにねじ込んで2点目、後半8分にはジーコが頭で送ったパスをアルシンド選手が相手DFをかわしながら初ゴールで3点目、後半18分には名古屋ゴール前中央のジーコが左サイドのアルシンドにボールを預けると、アルシンドが縦に持ち上がってマイナスの低いクロスをゴール前に送ると、待ち構えていたジーコにピタリ、左足を合わせる柔らかいタッチでボレーをゴールに突き刺したのです。

ジーコはインパクトの瞬間を、確実に決めるべく柔らかいタッチに集中していたため、ボレーとともに自分も一回転しましたが、すぐ起き上がりアルシンドのもとに走り寄るとアルシンドに抱き上げられながら、右腕を高く突きあげました。ハットトリックを達成したジーコがJリーグ開幕戦5試合の中で最も記憶に残るゲームを作った瞬間でした。

最後は後半19分、鹿島のDFラインからのパスを受けたアルシンドがドリブルでゴール前に持ち上がると、ベナルティエリアの手前でチップキックを見せると、ボールは緩やかな孤を描いてゴールに吸い込まれ5-0、名古屋の戦意を完全に打ち砕くとどめのゴールとなりました。

味方からのパスが来なくなり天を仰ぐリネカー、2人のスーパースターはあまりにも対照的な姿を見せることとなりました。
歴史に「もし」はないのですが、もし前半14分のリネカーのゴールがオフサイドにならなければ、もう少し違った結果になっていたかも知れません。

もう一つ、この試合に関して特筆すべきことは、のちに、常に満員の観客で埋まるほどサポーターのチーム愛が強い鹿島ですが、この開幕時には、まだ「鹿島アントラーズ」がどれほど凄いチームかわからない地元の人たちの気持ちが表れ、観客の入りは15000人の定員に対して10898人、4000席以上の空きがある開幕戦だったのです。

もし鹿島アントラーズが開幕ダッシュできず、中位以下に低迷するシーズンを送ったならば、地域全体の人口数が少なくスタジアムを埋めるだけの観客を動員できないという、Jリーグ参入クラブを決める時の危惧が現実のものになったかも知れませんでした。
けれども、前期(サントリーシリーズ)の鹿島の快進撃に伴って、日に日に観客が増え、優勝が見えてきた頃には常に満員になりました。鹿島アントラーズ自身が、見事にその不安を払拭してみせたのです。

5.G大阪vs浦和 得点1-0 5月16日 万博記念競技場 19580人
   得点 (前半29分)和田昌宏
  【試合経過】
・19時04分キックオフ、開幕5試合の中でもっとも遅いキックオフとなったこの試合、これまでの日本サッカーに大きく貢献した2人が監督となって開幕試合を戦うことになりました。方や釜本邦茂監督、片や森孝慈監督。

試合は前半29分、G大阪のコーナーキックをゴール正面からMF和田昌宏選手がダイレクトでシュートを放つと、これがゴール右に突き刺さり先制ゴール。試合は、浦和が前半から福田正博選手を中心にたびたびサイド攻撃を仕掛けてG大阪ゴールを何度もおびやかす展開でしたが、G大阪・GK本並健治選手の度重なるスーパーセーブに阻まれ無得点、そのまま1-0でG大阪が勝利、メキシコ五輪銅メダルコンビの対決は釜本監督に軍配が上がりました。

会場の万博記念競技場は2万人近くの観客で埋まり、G大阪カラーの濃青のフラッグがスタジアム全体を覆い尽くしました。一方的に押されながらも1点を守り切った本並健治選手をはじめとしたG大阪イレブンは、この大サポーターの応援に後押しされたような試合でした。

その後、大サポーターでJリーグを席巻することになる浦和、この日はまだスタジアムの隅で、こじんまりした応援にとどまり勝利をたぐり寄せる応援はできませんでした。

このようにして熱狂と興奮のうちに第1節は終了しました。
第1節5試合で入場者数は11万6105人、国立競技場の観客数がちょうど5割を占めているとはいえ、1試合平均が約2万3000人、2日とも天候に恵まれたこともあり素晴らしい門出となりました。
試合はというと、5試合で17ゴールが生まれ1試合平均3.4ゴールで見ごたえがありましたが、そのうち13ゴールが外国人選手、ゴールゲッターは外国人頼みというJリーグの一つの姿が色濃く出た開幕節でした。

それでも、技術の高い外国人選手が、素晴らしいプレーを見せてくれることでサッカーの楽しさ、素晴らしさを感じた観客も多かったことは事実で、第2節以降も、優勝争いの期待、日本人選手の活躍期待、外国人選手のブレー期待など、多くの期待を乗せながら、熱狂と興奮のJリーグ最初のステージが続いていきました。

新時代のスポーツイベント「リーグ」に施されたさまざまな仕掛け

スポーツイベントとしての「Jリーグ」、スポーツ興行としての「Jリーグ」には、さまざまな「仕掛け」が施されています。

最大の仕掛けは、五感を刺激するショーアップの部分です。プロスポーツの世界は観客を「非日常空間」「夢舞台」に誘(いざな)う「魅せる演出」が重要な要素ということで、さまざまなジャンルのクリエイター、デザイナーの感性が集結しました。
そのシンボルとも言えるのがJリーグロゴです。Jの文字を黒・赤・白でシンプルに表現したロゴは、いまなお色褪せないインパクトがあります。それをフラッグにすると、横長の左右に緑と赤が配色されて一層デザイン性が増します。
Jリーグロゴマーク
Jリーグロゴマーク
各チームのユニフォーム、チームフラッグなどが勢ぞろいすると、そこは華やかな色彩の絵具箱になり、スタジアムの緑のピッチと観客席を彩るチームカラーが、観る人たちをプロスポーツの夢舞台に誘(いざな)ってくれます。
そして、試合が行なわれるどのスタジアムでも、春畑道哉さんが手がけた「Jのテーマ(J’s THEME)」が流れます。この頃から世界的にも、スポーツイベント会場に流れるテーマ曲として「アンセム」というジャンルが固まりつつありましたが、この曲は、日本における「アンセム」の先がけとして、Jリーグ開会式で始めて披露されたものです。
Jリーグ開会式に勢揃いしたチームフラッグ
Jリーグ開会式に勢揃いしたチームフラッグ

こうした仕掛けも相まって、Jリーグは日本国内はもとより海外も含めて大変な注目を浴びてスタートしました。わずか1年前のアマチュアリーグ時代には考えられなかった試合チケットの完売だけでなく、プラチナチケットと化して、なかなか入手できない事態が起きるほどの人気ぶりで、選手たちは一躍メディアの注目を浴びる存在になりました。

Jリーグが施した「仕掛け」はそれだけに留まりません。試合のテレビ放映権といったコンテンツ資産をJリーグが一括管理して、そこから得た収益は各クラブに分配するという仕組みを作ったのです。
これによって、メディア露出の大きい一部のクラブだけが突出して潤うといった、いびつな構造になるのを防ぎJリーグとしてバランスのとれた発展を目指したのです。
これには、一部のクラブから猛烈な反発が出たのは言うまでもありません。1~2年後から表面化する読売新聞グループの渡辺恒雄社長の舌鋒鋭い批判は、その代表例といえます。

このような、さまざまな仕掛けと舞台が整えられてスタートしたその舞台の上で、前期は「サントリーシリーズ」、後期は「ニコスシリーズ」とネーミングされ、10チームが2回づつの総当たりで18試合、その多くが週2試合消化の過密日程を戦ったのです。

Jリーグのレギュレーションにも「日本で成功させるため」という観点で取り入れられた仕掛けがいくつかあります。

まず「春秋シーズン」という点、これは、いまなお議論になるレギュレーションですが、欧州各国リーグのような「秋に開幕して冬を挟んで春に終了する」というスタイルが日本では、なかなか受け入れられないという考え方にもとづいています。
プロ化以前の「日本リーグ」当時は「秋春シーズン」でしたが、もっとも寒い時期の1~2月にも試合を組むことになり、観客の入りそして積雪寒冷地における試合中止のリスクなど、プロリーグとしての判断が働いたものです。
その分、夏場の高温多湿時期に試合を組むことになり、選手への負担という点、欧州とのカレンダーの違いなど、議論の絶えないテーマとなっています。

試合のレギュレーションに日本的な決着のつけ方を採用

次に「前期・後期」に分けて覇者(チャンピオン)を決め、最後にそれぞれのチャンピオン同士がホームアンドアウェーの2試合を行なって年間チャンピオンを決めるという年間2シーズン制(2ステージ制)があります。
なにぶん初年度10チームですから、プロサッカーリーグとしての興行収入を増やすためには試合数を増やさなければならず、そうであれば、年間を半期に分けて、それぞれチャンピオンを決めたほうがJリーグファンの関心も引き延ばせるという算段です。
この年間2シーズン制(2ステージ制)は、1996年を除いて2003年まで続けられ、その後、1シーズン制(1ステージ制)となりましたが、2015年、2016年シーズンにも2シーズン制(2ステージ制)がとられました。

さらに、90分で決着がつかない場合の延長、サドンデス方式による決着というレギュレーションがあります。
この方式は、勝ち抜きが前提のトーナメント方式カップ戦では普通のことですが、リーグ戦方式では諸外国でも採用していない方式です。
Jリーグは、日本には、まだ「引き分けの文化」がないという考え方から、リーグ戦でも延長・サドンデス方式をとり、決着をつける終わり方にしたいと考えたのです。

しかし、それにはFIFA(国際サッカー連盟)の承認を取り付けることが必要でした。FIFAに対して、いろいろと日本の事情・考え方を説明して承認を求めたのですが、FIFAは承認しそうになく、延長・サドンデス方式の導入をあきらめかけていたのですが、試合日程発表ギリギリの2月16日になってFIFAから「テストケースとして日本サッカー協会の監督のもと、サドンデス方式の延長戦と、それでも決着しない場合のPK戦を認める」との連絡が入ったそうです。

これでJリーグとしては念願の方式を採用できることになったのですが、選手たちからは「週2回ペースの試合でさえ厳しいのに、さらに延長・PKまでもつれこめば、身体が持つだろうか」という不安の声があがりながらの実施となりました。
またテレビ中継の観点でも、番組づくりが難しくなり「試合の途中ですが。ここでお別れです」という野球中継で見慣れた光景の再現も懸念されました。
とはいえ、始まってみれば決着のつく試合がドラマチックで、一層の盛り上がりに寄与したことは間違いのないところです。

そのほか、Jリーグでは、選手の背番号を試合ごとに先発選手がポジションに応じて1から11を、そして控え選手が12から16をつける変動背番号制にしてスタートしました。
これも、日本でサッカーになじみのない観客や視聴者が見て、ポジションごとの役割が理解しやすいようにと採用されたもので1993年から1996年まで続けられました。
しかし、次第に「背番号は選手の肩書のようなもの」という希望が強くなり、1997シーズンからは固定背番号制に移行しました。
ある意味、黎明期の経過措置のようなレギュレーションだったと言えます。

CS放送がJリーグ全試合放送を実施

1993年のJリーグテレビ放映は、開幕年のご祝儀の側面もありましたが、NHK、民放各社のいずれかが毎節必ず放送する編成を組みました。テレビ放映権料については「次の伝説までに何が 1991年」のところでご紹介したとおりJリーグは「1試合あたり1000万円」で販売していましたが、5月15日の歴史的開幕戦、ヴ川崎vs横浜M戦だけは特別ということで、長期的なパートナーと考えていたNHKに放映権を販売することとし、価格も民放ならば1億円、1億5000万円という設定も可能だったところを5000万円にしたそうです。(「川淵三郎著・Jの履歴書 日本サッカーとともに」より)

Jリーグ試合放送でもう一つ画期的だったのは、当時始まったCS放送のスポーツ専門チャンネル「sports-i(スポーツ・アイ)」が、2年間にわたる全試合放映契約を結んだことでした。これにより、Jリーグのテレビ観戦を楽しみにしていたサッカーファンにとっては有料契約や別アンテナ・チューナーの設置という負担はあったものの、最高の視聴環境が生まれました。
とりわけ番組最後に、Jリーグアンセム「Jのテーマ(J’s THEME)」がほぼ2年間流れ続けたこともサッカーファンにはたまらない時間でした。
当サイトが、このサイトを制作して、後世にまで長く語り継ぎたいと思うようになったのも、この2年間の全試合放送を録画という形で記録に残せたことが大きな要因となっています。

鹿島が記念すべき初代王者に

こうして、熱狂的にスタートしたJリーグ。
最初の覇者を決める前期(ファーストステージ)は、下馬評の高かったヴェルディ川崎や横浜マリノスの出遅れを尻目に、開幕戦でいきなりハットトリックを達成したジーコに率いられた鹿島が快調に勝ち星を積み重ねていきました。

3節、名古屋vs横浜M戦は激しい雨の中にもかかわらず瑞穂球技場には1万1267人もの観客が入りました。試合は1-1のまま延長でも決着がつかずJリーグPK戦第1号の試合となりました。
PK戦は、これまた記憶に残るPK戦で両チーム4人づつ蹴って3-3、名古屋5人目のキッカーも決めて4-3、そして横浜M・三浦文丈選手の番です。三浦選手がゴール右隅を狙って蹴ったボールは、GKの逆を見事に突いたはずでしたが、何と水たまりに阻まれて失速、名古屋GK・伊藤裕二選手があわてて体勢を立て直し、ゴールライン手前でボールをかきだしたのです。

三浦文丈選手をはじめ横浜イレブンはゴールインをアピールしましたがレフェリー、マーチン・ボデナムさんの判定はノーゴール、思わぬ形での決着となりました。
それでも降りしきる雨をものともせずに2時間半にわたって応援し続けた名古屋サポーターにはうれしい勝利が待っていました。

6節、ここまで4勝1敗で首位の市原と3勝2敗の鹿島が、カシマスタジアムで激突しました。試合は鹿島が1点先行しましたが、後半42分市原が同点に追いつき試合は延長Vゴール方式へ、すると開始1分、鹿島・カルロス選手が豪快なヘッドでVゴール、あっさりと決着がつきました。
これで鹿島は、市原を得失点差で上回り首位に立ちました。
2節にジーコが肉離れのため戦列を離れてしまった鹿島ですが、ジーコ不在を感じさせない団結力で首位にたったのです。

6月9日の第8節には、Jリーグ通算100号ゴールが生まれました。G大阪vs広島戦で、G大阪の高卒ルーキー松波正信選手が、初スタメンの起用に応え前半31分に上げた初ゴールが記念すべき100号コールとなったのです。
しかし、この試合、1-1のまま延長でも決着がつかずPK戦にもつれ込んだのですが、広島が4人とも成功させてG大阪は1人失敗、5人目に登場した松波選手が失敗すれば試合は負けとなる場面で大きく外してしまい、記念の100号ゴールを勝利で祝うことは出来ませんでした。

松波選手がJリーグ100ゴールを決めた6月9日は、皇太子様・雅子様のご成婚の儀が執り行われた日でもあります。前日の雨もあがり日差しが降り注ぐ午後のパレードでは、お二人の輝くような笑顔が沿道を埋め尽くした人々を熱狂させ、日本中が幸福感を味わったのでした。

6月23日の12節、鹿島はジーコが戦列に復帰しましたが、後半5分にまた太ももを痛め交代、それでもヴ川崎を3-2で振り切りました。Jリーグ前期18節の3分の2を終えて鹿島が9勝3敗、7勝3敗で続く市原、清水、横浜Mに2勝差をつけて首位を快走しています。特にホームゲームを6戦全勝、圧倒的な強さを誇っています。

そして7月3日の15節、鹿島はホームに2位の横浜Mを迎えての大一番、11勝3敗の鹿島、9勝5敗の横浜M、ここで鹿島が敗れると、その差は1勝となり横浜Mの急追を許す試合でしたが、鹿島は黒崎久志選手の先制ゴール、アルシンド選手の2ゴールで試合を圧倒、横浜Mに1点返されたものの3-1で勝利、2位横浜Mに3勝差をつけて次節にも優勝というところまで漕ぎつけました。

ところで、この日、ヴ川崎・加藤久選手の清水への移籍が発表されました。5月15日の開幕戦で松木・バルコム体制の采配に納得できないと移籍を決意して6月24日にヴ川崎を退団、浦和、清水と獲得に意欲を見せたクラブとの交渉を重ねた結果、清水への移籍が決まったものです。

もとより読売クラブ時代からの愛着あるクラブを離れるというのは、苦渋の決断ですが、やはり松木・バルコム体制の中で、自分の居場所がないと悟れば、もう移籍するしか自分の生きる道はないと考えるのが選手の性です。
ヴ川崎の森下副社長からの3時間にわたる説得に一度は決心が揺らぎかけ落涙するほど苦悩したものの、どうしてもヴ川崎を出るという決心が変わることはなかったようです。

プロリーグ発足後、最初のシーズンさなかの移籍劇、これもプロリーグの一つの姿だと言えます。

7月7日、16節アウェーの浦和戦、駒場スタジアムに乗り込んだ首位・鹿島は連勝中の勢いをそのまま持ち込み、早々と前半9分、黒崎選手のシュートが相手DFに当たって跳ね返ったボールをキャプテン・石井正忠選手が豪快に決めて先制、後半10分には黒崎選手が追加点、相手の攻撃をゼロに抑え、午後8時53分、試合終了のホィッスル。

鹿島アントラーズが、歴史的なJリーグ初代王者に輝いた瞬間でした。
途中からジーコが離脱しながらも、アルシンド選手、黒崎久志選手、長谷川祥之選手らの攻撃陣と石井正忠選手、本田泰人選手、大野俊三選手、奥野僚右選手、秋田豊選手、GK古川昌明選手らの中盤からDFの選手たちが一丸となって闘い、2試合を残して、歴史を刻む初代王者に輝いたのです。

鹿島アントラーズが初代王者に就いた要因を戦力面で見た場合、やはりJリーグ参入が決まったあとの2シーズンで、いかに的確に補強を進めてきたかを見ることができます。

特にJリーグ参入を断念した本田技研(ホンダ)から移籍した選手が黒崎選手、長谷川選手、本田泰人選手、内藤就行選手、入井和久選手・GK千葉修選手、GK古川昌明選手(古川選手は本田を退社後、一旦ブラジル留学を経て鹿島にテスト入団)と7名を数えていること、しかも初代監督に本田技研(ホンダ)で1989年3月まで監督を務めていた宮本征勝氏、コーチに1991年まで本田技研(ホンダ)に在籍した関塚隆氏を迎えていることなど、首脳陣から選手まで本田技研(ホンダ)在籍経験を持つ人たちが集まったことは、一体感のあるチーム作りという意味で大きかったと思われます。

初代監督の宮本征勝氏は、G大阪・釜本監督、浦和・森孝慈監督同様1969年メキシコ五輪銅メダルメンバーの方ですが、茨城県(日立市)出身ということで監督に迎えられました。鹿島ではジーコのやりやすいようにすることに徹した方でした。

若い有望な選手をことごとく鹿島に引き抜かれた本田技研(ホンダ)からは「宮本監督がホンダを骨抜きにした」と陰口を叩く人も出たようですが、鹿島は宮本氏や選手たちと個別に交渉を開始する以前に、本田技研(ホンダ)の会社に対して交渉を行ないました。

本田技研(ホンダ)側も「優秀な選手たちがプロでプレーすることを希望するのであれば、少しでも早く最良の環境で活躍させてやりたい」また「今までチームメイトだった選手たちがバラバラになるのは忍び難い。移籍をさせるなら、まとまってしっかりとした受け入れを考えてもらえるところにしようと考えた時、鹿島さんがチームの基本思想も素晴らしく熱心に誘っていただいた」ということで選手たちが個々に交渉することになったようです。

一方で鹿島のクラブ関係者は述懐しています。「本田技研(ホンダ)さんから優秀な選手を引き継いだ形になりましたが、それは住友金属時代に今まで活躍していた選手たちがトップチームからこぼれてゆく、ある者はファームチームに、ある者は球団のフロントに、そしてある者はサッカー界から去ってゆくということも意味している。鹿島内部にも光と影はあった。“弱肉強食”それがプロだから。」

当初、Jリーグ参加の10チームの候補としては、さまざまな意味で評価が低かった鹿島、前身の住友金属時代にジーコを招へいしてプロとしてのスピリットを徹底する一方、茨城県や地元市町村が一体となってプロ基準を満たす新スタジアムの建設を急ぎ、Jリーグの川淵チェアマンをして「よもや新スタジアムまで作って加入をアピールしてくるとは思わなかった」と言わしめ、日立(のちの柏レイソル)やヤンマー(のちのセレッソ大阪)といった有力チームを押しのけて参加10チームに選ばれた鹿島です。

その鹿島が最初の王者となったことは、地域発のクラブ作りを標榜するJリーグにとって、まさに絵にかいたような成功物語でした。
スポーツマスコミにとどまらず、地域経済の面、街づくりの面など多角的な視点から鹿島の成功が取り上げられ、一つの社会現象になったほどです。

Jリーグ成功の象徴となった初代王者・鹿島
Jリーグ成功の象徴となった初代王者・鹿島

Jリーグ後期中断前、ヴ川崎、Jリーグ史に残る華麗なダイレクトパスショーによるゴール、しかし2シーズン後、ラモス瑠偉選手は相手のダイレクトパスに手を

Jリーグは前期終了後、すぐさま後期(セカンドステージ)に入りましたが、7月17日、Jリーグ最初のオールスターゲームが神戸で開催されました。コダック社がスポンサーとなったオールスターゲームはJリーグ10チームを東西に分けてファン投票により選ばれたALL EAST vs ALL WESTの対戦となり、背番号10をつけたリトバルスキー、背番号8のラモス瑠偉、背番号7の木村和司、そして2得点をあげてMVPとなった背番号11のカズ・三浦知良 各選手らの活躍でALL EASTが勝利しました。

Jリーグ後期は4節に清水が首位に立つと、8節にはヴ川崎との首位攻防戦をPK戦の末勝利して、アメリカW杯アジア最終予選のため中断期間に入る9月3日の9節時点まで首位をキープしました。2位にはヴ川崎がピタリと追走して中断に入りました。

ヴ川崎は、中断直前の9節、駒場競技場での浦和戦で、前半からビスマルク、ラモス瑠偉、カズ・三浦知良選手が次々とゴールをあげると後半も勢いはとまらず2点を追加、仕上げのゴールは後半43分に生まれました。

DFロッサム選手がプレースキックから、Jリーグ史に残るダイレクトパスショーによる6点目のゴールが生まれたのです。
DFロッサム選手がプレースキックから低いロビングをあげると、それをラモス瑠偉選手が頭で対面する位置にいたビスマルク選手にダイレクトに送りました。それを受けたビスマルク選手は、胸バスでまたラモス瑠偉選手に返しました。浦和のDF村松選手がラモス瑠偉選手のチェックに入ろうとしましたが、ラモス瑠偉選手は今度は足でダイレクトに、やわらかくビスマルク選手にパス、それを受けたビスマルク選手は頭でダイレクト、村松選手の頭越しにラモス瑠偉選手にパス、今度はラモス瑠偉選手もダイレクトでまたビスマルク選手にパスしたのです。

ロッサム選手からのパスで、ラモス瑠偉選手がヘディングを始めてからビスマルク選手と4往復8回ダイレクトパス交換でした。
このパスはビスマルク選手の頭を少し越えてしまいましたが、すぐ後ろ向きに右足でダイレクトで前方に短くフィードすると、ボールはカズ・三浦知良選手に、カズ選手はゴール方向に背を向けたまま、左足でダイレクトに横にはたくと、ボールはゴール正面の武田修宏選手に、武田選手はワントラップして冷静にGKの位置をみながら難なくゴールを決めました。

ロッサム選手のパスから武田修宏選手のゴールまでわずか12秒、5人の選手による合計11回の華麗なダイレクトパスショーと仕上げのゴールでした。

ラモス瑠偉選手とビスマルク選手のバス交換、ブラジルにルーツを持つ2人ならではのプレーですが、練習とかバラエティ番組でのパス交換ならいざ知らず、実戦でやりきってしまう技術の高さと、とっさのインスピレーション、その間、2人は立ち止まることなく、ゴール方向に蟹の横ばいのように身体を移動させていましたから、これにはさすがの浦和サポーターも脱帽といった様子で拍手を送るしかありませんでした。

しかし、このラモス瑠偉選手のプレーは、後に「帳消しだ」と言われても仕方がないプレーでケチがつきました。
それは1995年前期4節の広島vsヴ川崎戦でのことです。1-0でリードを許していたヴ川崎、後半32分にそれは起きました。この日リベロのポジションでプレーしていたラモス瑠偉選手が相手陣内からパスを前方の味方にフィードしたところ、広島の森保選手にカットされました。森保選手はすぐに近くのハシェク選手にパス、するとハシェク選手は足でダイレクトにチョンと背番号10のファンルーン選手にパス、それをファンルーン選手がヘディングでラモス瑠偉選手の頭越しにハシェク選手にダイレクトバスを送ったのです。

ラモス瑠偉選手の頭を「もしや」という思いがよぎったのではないでしょうか? 「Jリーグ開幕の年、自分がビスマルク選手に送ったヘディングによるダイレクトパスと全く同じシチュエーションだ」と。
それと全く同じことを、今度は相手チームからやられそうになった。そう思ったかどうか、ラモス瑠偉選手は、なんと、そのダイレクトパスを、まるでバスケットボールで相手のパスをカットするように堂々と軽くジャンプして両手でカットしてしまったのです。

こういう咄嗟のインピレーションを働かせることができるのもラモス瑠偉選手の特技なのかも知れませんが、その場面を見つけてしまった「サッカー文化フォーラム」は、これで開幕の年の浦和戦でのダイレクトパス交換の妙技は帳消しになったと記録せざるを得ません。

この1995年前期4節の広島vsヴ川崎戦でのバスケットボールのバスカットのような行為をラモス瑠偉選手は、どういう思いでやってしまったのか、もちろん、それを開幕の年の浦和戦でのダイレクトパス交換の妙技と結び付けて記録しているのは、このサイトだけに違いないと思いますが、一度はラモス瑠偉選手に確かめてみたいものです。

この広島戦、ラモス瑠偉選手のプレーにはイエローカード、ゲームは2-0で広島の勝ちという結果でした。

日本開催のU-17世界選手権でベスト8に進出

8月には、日本を舞台に世界大会が一つ開催されました。FIFA U-17世界選手権です。FIFAの世界規模の大会が日本で開催されるのは1979年のU-20世界選手権(いわゆるワールドユース選手権)以来でした。
このU-17世界選手権日本代表メンバーは、将来、日本で開催しようとしているワールドカップ日本代表の主力を担う世代であるという認識から、当時日本サッカー協会の技術委員長だった川淵三郎氏が、長崎・国見高校を全国屈指の強豪校に育てた小嶺忠敏監督をU-17世界選手権日本代表監督に招へいしました。

チーム作りは1991年12月の代表候補合宿からスタート、当時まだ中学3年生だった中田英寿選手、松田直樹選手、宮本恒靖選手たちが招集されました。

ユース年代の有能な選手発掘は、1980年代後半から本格的に整備されたナショナルトレセン、各県・地域プロックトレセンの仕組みの中で、全国もれなく網がかけられたことによる成果が大きいといえます。ユース年代の世界での活躍が、一朝一夕の出来事ではないことがよくわかります。

小嶺監督は、コーチの小見幸隆氏(読売ユース監督)とともに、チーム作りを進めましたが、当時FWの選手だった松田直樹選手をDFにコンバートさせたことはよく知られた話です。群馬・前橋育英高に進学したFW松田選手ですが、前橋育英高の監督が小嶺監督の教え子だった関係で、小嶺監督が前橋育英監督に直接連絡を入れ、U-17代表ではDFにコンバートさせることを了解を得て実現したそうです。

松田直樹選手は、のちに押しも押されぬ日本代表DFに成長して、2002年日韓W杯メンバーに選ばれ、日本の決勝トーナメント進出に貢献したのですから、小嶺監督の炯眼、見事というほかはありません。残念なことに松田直樹選手は、まだ現役選手中に急逝しました。惜しまれることでした。

このチームの強化のため1992年アジアU-16選手権一次予選に参戦したものの、あえなく敗退したことは「伝説の年1992年」でもご紹介しましたが、ようやくチームとして手ごたえが出てきたのは、4月のドイツ遠征、同5月のフランス遠征だったといいます。ドイツ遠征ではではクラブチームと、フランス遠征では本大会出場国のアメリカらと試合を重ね、チームも個人もレベルアップしたのですが、この年代特有の急激な進歩があってのことでした。

大会ホスト国のU-17日本代表ですが、グループリーグは「死の組」とも言える厳しい相手ばかりでした。前回大会優勝国のガーナ、のちのイタリア代表の中心となったブッフォン、トッティがいたイタリア、そしてメキシコです。

大会開幕戦となったガーナ戦を0-1で落とし、第2戦のイタリア戦に引き分けた日本代表は、最終第3戦でメシキコを2-1で下しグループリーグを2位で突破、ベスト8進出を果たしました。

U-17世界選手権の日本代表
U-17世界選手権の日本代表

ホスト国代表監督としてグループリーグ突破を果たした小嶺監督は、試合後のインタビューで心底ホッとした様子でした。重責を担いながら、それを達成して、さらには将来につながる選手育成を果たした小嶺監督、小見コーチの業績は称えられて余りある大きなものではないでしょうか。

準々決勝の相手はナイジェリア、結局、決勝がナイジェリアvsガーナの対戦となったことを思うと、つくづく日本代表は不運だったと思います。ナイジェリア戦、中田英寿選手がゴールを決めたものの1-2で敗れました。歴史に「もしも」はないのですが、もしグループリーグの組み合わせが別の内容であったなら、日本はベスト4まで行けたのではないかと思う程です。
それでも、選手たちが得た収穫は、ベスト8敗退でも「世界と十分やれる」という揺るぎない自信であり、そのことは、彼らが上のカテゴリーの大会でことごとくアジア予選を突破し、世界の舞台に立ち続けたことで証明されました。

この大会メンバーの中から、中田英寿選手(山梨・韮崎高)、松田直樹選手(群馬・前橋育英)、宮本恒靖選手(G大阪ユース)、戸田和幸選手(桐蔭学園)が2002年日韓W杯メンバーとして名を連ねていますが、そのほかの主力選手は、FW船越優蔵選手(国見高)、FW坂井浩選手(四日市中央工)、MFキャプテン・財前宣之選手(読売ユース)、鈴木和裕選手(市立船橋)などでした。

ところで、この大会の試合映像を見ると、試合時間は40分ハーフの80分、スローインではなく「キックイン」という方式が採られています。「キックイン」は試験的に採用されましたが長続きしなかった方式のようで、のちになって見ると貴重な場面です。

さて、U-17世界選手権の熱気と並行して戦われていたJリーグは9月に入り一旦中断に入りました。
アメリカW杯アジア最終予選が始まるからです。
春のアジア一次予選を圧倒的な成績で勝ち抜いた日本代表に対して、日本全体からの期待は高まる一方でした。当然のことながらJリーグの熱狂も相乗効果となって、ワールドカップ初出場は手の届くところに来たという雰囲気で日本代表を見ていました。

その日本代表、春のイタリア遠征合宿に続き、9月には2週間のスペイン遠征合宿を敢行しましたが、柱谷哲二選手が体調不良で不参加、都並敏史選手がケガのため途中離脱して、10月決戦に向けて万全の準備ができたとは言い難い合宿となりました。

10月4日、W杯アジア最終予選の壮行試合の意味合いとなるアジア・アフリカ選手権が国立競技場で行なわれ、コートジボワールを延長の末破り、いいムードで決戦の地、カタールに向かいました。

アメリカW杯アジア最終予選、最終イラク戦、最後の最後に残酷な結末

アメリカW杯アジア最終予選は、10月とはいえ、まだまだ暑い気象条件の中で、中2日ないし3日で5試合を戦うという過酷な短期決戦でした。しかも対戦相手は、順にサウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、イラク。くみし易い相手は一つもない難敵ばかりでした。
初戦のサウジ戦を引き分けて迎えたイラン戦は1-2で敗戦、6チーム中上位2チームだけが出場権を獲得できる戦いにおいて、いきなり崖っぷちに立たされました。

しかし、そこから北朝鮮、韓国を撃破して自力での出場権獲得圏内に浮上しました。難敵・韓国を自らのゴールで下したカズ・三浦知良選手は感極まって涙しました。胸中「これで大丈夫、行ける」という気持ちになったことでしょう。韓国戦勝利の笑顔が⾶び交う中でラモス瑠偉選手だけが仏頂⾯のまま怒気を込めて「まだ何も決まってないよ︕」と⼝にしながら取材エリアを通り過ぎていった姿は語り草にもなっています。

最終戦はイラク戦、日本時間10月28日22時05分キックオフでした。勝てば文句なしに出場権獲得、引き分けると他会場のサウジアラビア、韓国の結果次第とはいえ、両チームとも勝てば得失点差の関係でほぼ絶望的となる状況の中での試合でした。
日本は最前線にFWを3人並べて攻撃的布陣を敷きますが、その分、中盤が薄くなり2週間で5試合目という連戦と暑さの中の90分は徐々にイレブンの運動量を低下させていきました。
後半半ばになるとピッチからはラモス瑠偉選手が、何度もベンチに向かって「北澤! 北澤!」と叫びました。運動量豊富な北澤豪を入れてくれというアピールでしたが、その願いは聞き入れられず、中山⇒武田というFW同士の交代で交代枠は終わりました。
それでも日本は2-1とリードしたまま、試合はロスタイムに入りました。
選手たちも、日本で深夜にもかかわらずテレビやラジオの中継にかじりついていた日本中のファンも「大丈夫だろう、いけるだろう」という気持ちが支配し始めたと思います。

なにしろ民放で試合を中継したテレビ東京の平均視聴率が48.1%、瞬間最大で58.4%を記録した日本全国のファンは、もう少しでW杯出場権獲得の笛が鳴るに違いないと信じて中継を見守っていたのですから。

ところが、それが落とし穴でした。あとワンプレーで主審のホイッスルが鳴るであろうと思われた、そのワンプレーが「ドーハの悲劇」と呼ばれる事態を引き起こしました。イラクのショートコーナーキックを受けた選手から放たれたクロスボールが、ニアサイドにいたイラク選手の頭にピタリと合い、ボールはGK松永成立選手の頭上を超え、サイドネットに吸い込まれてしまったのです。
図らずも、韓国戦のあとラモス瑠偉選手が「喜ぶのはまだ早い」と危惧した通りの結末を迎えてしまいました。

すべては水泡に帰してしまいました。なぜこうなってしまったのか、現実を受け止められない選手たちのさまざまな様子は、いまなお写真画像として、ビデオ映像として伝わっています。
それでも、ピッチの選手たちは一応、他会場の結果をスタッフに確認しましたが、サウジアラビア、韓国とも勝利、結局、韓国と同じ勝ち点ではあったものの得失点差で望みは絶たれたのです。

当日の夕刊紙から翌朝の新聞各紙にかけても、そのニュースは伝えられましたが、なかでも「ドーハの悲劇」の活字がおどった夕刊フジの見出しは、その後も長くこの試合の悲劇を伝える代名詞となっています。

自らもW杯出場監督の栄誉をあと一歩のところで逃してしまったオフト監督が、ピッチにへたり込んで動けない選手に声をかける姿も、写真や映像で繰り返し流れ印象的でした。NHKのテレビ中継の解説を担当した後の日本代表監督・岡田武史氏も、起こった出来事に対する気持ちの整理がつかず、しばらく声を失ったままでした。

この試合に限らず、アジア最終予選の5試合を通じて日本代表が出場権を勝ち取れなかった要因については、さまざまな専門家がさまざまな理由をあげて分析しており、ほぼ出尽くしています。
例えば、よく指摘されるのが、イラク戦でのハーフタイムにロッカールームで生じた異様な興奮状態による混乱に対して、オフト監督は何故なすすべがなかったのかといった批判です。
実はオフト監督、その前の韓国戦では、心憎いほどの人心鼓舞術を見せていますが、イラク戦では、その手立てを持っていなかったということなのでしょうか。

ハームタイム、オフト監督はまず、ホワイトボードに大きく「Last45 Minutes」と書きました。そして指示を送ろうとしたのですが、選手たちは興奮状態に陥り、好き勝手なことを大声で喋りまくっています。オフト監督は何度も「シャラップ! (黙れ!)」と怒鳴りますが、一向に静まりません。オフト監督はなすすべなく時間が過ぎていきます。選手たちの興奮がようやく少し収まった頃、ハーフタイムは終わろうとしており、結局、後半の戦い方についての何の意思統一も図れずピッチに戻っていったのです。

そのハーフタイムのオフト監督について、のちに1997.2.27Number412号の特集「名将列伝」の中でスポーツライター・佐藤俊氏が次のように書いています。
「オフトの場合、チーム作りに関しては、それなりの実績を残してきた。93年ワールドカッププ最終予選までの日本代表のチーム作りは、オフトなしではあり得ないことだった。しかし、あるレベルまでは完璧に育成していくのだが、不思議と『大一番』という試合には勝てなかった。(中略)」
「また、オフトが『大一番』に対する時の動揺した言動も(中略)93年ワールドカッププ最終予選でも類似点が多く見られる。例えば、あのイラク戦である。当時、通訳として同行していた鈴木徳昭も、あの時オフトは冷静さを欠いていたという。『ハーフタイムは、みんな勝てるぞ、勝てるぞって騒いでいました。オフトも興奮しながら静かにしろ、後半はこうやれば勝てると言ったけど、みんなの頭の中には何も入っていない状態だった。日本は今までそういう経験がなかったから仕方ないけど、みんな冷静に現状を分析する余裕がなくて、最後にはオフトを含めてみんな舞い上がってしまった。』」
「コーチだった清雲栄純も『オフトも私も尋常ではなかった』といい、北澤豪も『みんな目が血走って、オフトもかなり興奮していた』と証言する。その後、オフトは中山に代えて武田を投入するが大した効果は得られず、日本はドーハの悲劇を迎えることになる。」

「当時、マスコミでは『日本に歴史がなかったから』『選手層の薄さ』『オフトの采配』等々敗戦の原因について語られたが、オフトはあまり多くを語らなかった。最終予選後、オフトの通訳として全国を講演して回った徳増浩司も、あれだけの指揮官だけに敗戦について謎が多いと思っていた。(中略)『今でも僕は不思議に思うんです。あれだけチームに自信を持ち、完璧なコーチング理論を持ちながら、なぜ勝てなかったのかと・・・・』」

「清雲も、最終予選終了後、オフトはなぜ勝てなかったのか自問自答したという。『最後に来て結果を出せなかったのは、大きな戦いをオフト自身が経験していなかったからだと思うんです。』」
「オフトは育成という部分では高く評価できるが、育成と勝負は別の要素である。『勝負師』として考えると疑問な部分は多々ある。」

また、この代表メンバーの一人だった都並敏史選手が、のちに「日本代表に捧ぐ」という書物を上梓しています。(1998年3月ザ・マサダ刊)
その中で、イラク戦の前の対戦・韓国戦におけるオフト監督の見事なふるまいと、イラク戦でのことをを次のように紹介しています。
「オフト・マジックではなくオフト・ロジック・・・・。オフトは『マジック』という言葉を嫌っていた。(中略)」
「そのオフトがたった一日、マジックを使った瞬間があった。それはドーハでの韓国戦である。これに負ければ、日本はアメリカ行きを諦めざるを得ない大切なゲーム。(中略)」
「あの試合前に見せたオフトパフォーマンスには舌を巻いた。」
「オフトは選手を集めると、いつもミーティングの最後に、相手メンバーを読み上げる。この日もチェ・イヨン、チョン・ジョンソン・・・・最初は真面目に読み上げていたが、途中から、キム・ボンボン、キム・ビンビンと、わけのわからないことを言い始めたのだ。」
「挙げ句の果てに『こいつら、よくわからない』と吐き捨て、韓国チームのメンバー表をオレたちの目の前で破り捨てたのだ。」
「これで、オレたちの緊張はスッと溶け、逆に『よ~し、やってやろう』という気になった。オフトは背水の陣で迎えるこの韓国戦が、最終予選のヤマ場だと踏み、こんな演出をやってのけたのである。」
「理論家で、自らのサッカーには絶対の自信を持つオフトだったが、その一方でこうした”人心鼓舞術”も身につけていた。(中略)」
「オフトが代表監督就任以来、初めて使った『マジック』は、見事に効果を発揮し、ワールドカップ予選では宿敵・韓国を初めて破るという快挙に結びついた。」

「しかし、オフトの能力をもってしてもついにワールドカップの壁を越えることはできなかった。最後のイラク戦のハーフタイムでは、チームがバラバラになり、誰もオフトの指示に耳を傾けなくなっていた。」
「まさか、こんなところでチームがパニックに陥ろうとは、心理学者のオフトでも予測できなかっただろう。」
「パニックにおそわれた時の人間心理というものは、経験した者にしかわからない。こんなときは、誰が何を言っても、平常心を取り戻すことは不可能だ。」
「指導者は前もってチームがパニックに陥らない準備をしていないといけないし、もし陥ったとしても、それを救い出す『秘薬』を用意していなければならない。」
「オフトは天下分け目の韓国戦では、メンバー表を破り捨てるといった『マジック』を用意していたが、イラク戦のパニックに対する処方箋は残念ながら持ち合わせていなかった。」
「しかし、そうしたことを考慮しても、オフトは日本サッカー史に残る偉大な指導者だったと思う」

このヒストリーパビリオンの「伝説のあの試合」で取り上げる機会があれば、そこでさらに詳しくご紹介したいと思いますが、ここでは、日本が出場権を逃した要因について指摘した代表的な論評を2つご紹介しておきます。

一つはジーコ選手の論評です。ジーコ選手は翌年6月出版した自著「ワールドカップの真実」の中で、オフト監督が犯した重大なミスとして、ケガで試合に出られない都並敏史選手をはじめ、コンディションの悪い選手を22名に加えて戦ったことだと喝破しています。

22名の選考というのは、先発の11人のうち誰かを交代させなければならない場合に、すぐチーム力を落とすことなくピッチに送り出せる状態の選手を選ぶべきで、いくら以前の大会で調子が良かったからと言って、この大会前に大きく調子を落としている選手であれば選ぶべきではない。この大会前に調子をあげてきている選手が何人もいたのに、その選手を選ばなかったり、選んでも試合に使うことがなかったり・・。結局オフト監督は前年に優勝した広島アジアカップの時のメンバーにこだわり過ぎたのだ、と。

このあたりはオフト監督の考えと真っ向から対立してしまうところです。ただ監督の仕事は結果責任だと言われていることからすれば、甘んじて受けるしかない論評でしょう。

もう一つの論評は、作家の海老沢泰久氏が1993年11月11日号の週刊文春に寄せた特別寄稿で、日本代表選手は最後の最後で自らの体力に負けたのだと思わざるを得ない、と振り返っています。

海老沢氏は、ドーハの悲劇に至る最後の1分のボールの動き、日本選手とイラク選手の動きを秒単位で克明に追いながら、その中で、ラモス選手の信じられないパスミスや、都並敏史選手のケガで穴と言われた左サイトを楽々と2度も突破され、2度目が悲劇につながったのは、結局のところ、その前までは体力が持ちこたえていたものの、最後の1分のところで、すでに限界を超えてしまい、なすすべがなかった結果だと見たのです。

ここで言う「体力」は、中2日ないしは中3日で5試合を、ほぼ固定メンバーで戦わなければならない大会に臨むチームの戦力全体の体力消耗と見ることもできるでしょうし、中東の地の気象条件からくるハンディも含まれるでしょう。さらには司令塔ラモス瑠偉選手を中心としたパスサッカーに慣れてしまった日本選手にフィジカル面のひ弱さを指摘する見方もあると思いますが、海老沢氏の論評は、それらを全て包含した「日本代表自身が自らの体力の弱さに敗れた」という意味のようです。

ここ3年近く、あまりにも足りなかった日本代表の真剣勝負の機会、「ドーハの悲劇」につながった日本サッカー協会と前監督の長期的視野の欠如

この「日本代表自身が自らの体力の弱さに敗れた」という指摘に加えて、W杯アジア最終予選という修羅場の経験が、日本代表のDNAとして受け継がれなかった故の「精神力の弱さ」にも触れたいと思います。

というのは、前回のW杯アジア予選、すなわち90年イタリアW杯アジア予選で、日本は「最終予選」への出場権を逃してしまい、86年メキシコW杯アジア予選で経験した「最終予選」の経験を活かす場を自ら放棄してしまったのです。

今回のアジア予選こそ、日本中の関心の高まりの中で注目を浴びたため、最後の最後に出場権を逃した痛恨事をつぶさに記録していますが、前回の90年イタリアW杯アジア予選の時、日本代表は何一つ記録するに値いする結果を残していないのです。

「伝説のあの年」の記述では「次の伝説までに何が1987~1991年」のページの「1989年」の項目でわずかに次のように片づけただけでした。
「この年5月から、90年イタリアW杯アジア予選がスタートしました。日本代表は、前年のソウル五輪アジア最終予選のあと監督に横山兼三監督が就任して、大胆に世代交代を図り一次予選に臨みましたが、各組1位のみ通過の一次予選で北朝鮮の後塵を拝し、あえなく一次予選敗退という結果に終わりました。」

つまり前回は、大幅な世代交代を図ったまではよかったのですが、さらにその前、1986年メキシコW杯アジア予選を戦ったメンバーをパッサリとお払い箱にしてしまったため、その時、最後の最後までメキシコ大会出場の可能性を残して戦った、いわば修羅場をくぐった選手たちが残らなかったのです。

そういった選手も残して、アジア予選を戦う厳しさのDNAを伝えてくれれば、少なくとも一次予選で敗退してしまうような、いわば歴史の断層を作ってしまうような戦いにはならなかったであろうと指摘したいと思います。

まだワールドカッブアジア予選の重みや、真剣勝負の戦いを積み重ねることが血となり肉となるということについての認識が薄かった時代でしたし、何よりもサッカー協会そして代表監督に、この大会の結果がのちのち、どう影響してくるかといった長期的視野での洞察力が欠如していました。
そのため、一次予選を勝ち抜き、今回と同じように6ケ国による痺(しび)れるようなリーグ戦で出場権を争うという真剣勝負の場を勝ち取ることなくアジア予選を終えてしまったのです。

アジア最終予選という修羅場を経験することで得られる、精神的強さを育む機会をみすみす逃し、歴史的空白を生んでしまったことが「ドーハの悲劇」の遠因の一つになっていることは疑いの余地がありません。

こうしてみると日本代表監督が担う重責というのは、単に一つの大会の結果だけにとどまらず、歴史を繋いでいくという意味でも軽々しい気持ちで臨んでもらっては困るということになります。
前回のアジア一次予選敗退が、いかに大失態だったか、さきほどご紹介した記述のあとに次のような状況になったことを記録しています。
「前回W杯アジア予選(=86メキシコW杯予選)を下回る結果にサッカーファンの不満が高まり、ファンによる解任署名運動やスタジアムにおける解任要求の横断幕の掲示などが行われました。」

つまり、この当時は、心あるサッカーファンのほうが、よほど事態の深刻さを正確に把握していたことになり、結局、横山監督続投を容認した日本サッカー協会が、如何に認識が甘かったかと言わざるを得ません。

このあと横山監督は、オフト監督に交代するまで約2年、代表監督に留まります。さきほどご紹介した「次の伝説までに何が1987~1991年」のページでは「1991年」のところでも下記のような見出しをつけて指摘しています。

「日本代表マッチの2度にわたる長い空白期間と『代表監督退陣要求嘆願書』」
「この嘆願書提出に至った背景には、1989年9月から1990年7月までの約11ケ月近くと、1990年10月からこの年1991年4月まで、つまり合わせて1年6ケ月のあいだに、わずか2ケ月、2大会分だけしか日本代表の試合が組まれていないというサッカーファンの不満がありました。
その上で、代表監督として何も結果を出していない横山監督の責任を具体的な項目を挙げて追及するという考え方だったのです。」

横山監督からオフト監督に引き継がれた代表選手の多くが、アジア最終予選のメンバーに選ばれています。ですから横山監督にしてみれば、自分が多くの若手を育てたという自負があると思いますが、一つだけ決定的に欠けていた視点があります。それは、いくら海外遠征を組んで多くのテストマッチをこなしたとしても、所詮それはフレンドリーマッチに過ぎず、ヒリヒリするような真剣勝負の場数をこなしたことにはならない、いわゆる本チャン、絶対に負けてはならない真剣勝負の試合をモノにする経験を踏ませるという視点が決定的に欠けていたのです。

ですから、横山監督時代に招集されて日本代表に定着して、今回のアジア最終予選を戦った多くの選手たち自身も、そのことを身に沁みて感じたことと思います。いくらテストマッチをこなしたといっても、それは所詮、フレンドリーマッチに過ぎなかった、生死を分けるような真剣勝負の経験が足りなかったのだと。

こうして振り返れば振り返るほど、わずか3年ほど前には、日本代表の氷河時代といってもいいほどの空白の期間があったわけで、これでは、いくら急に強くなったといっても、最後の最後に勝ち切る精神的強さや、修羅場ともいえる真剣勝負の経験の足りなさは隠しようのない現実だったのです。

中東でのセントラル開催方式を安易に許してしまい、負けて知った開催地選定の大切さ
日本代表マッチの長い空白期間は、アジア最終予選をカタール・ドーハでのセントラル開催方式を安易に許してしまったことにもつながっています。
日本サッカー界は、中東での試合の過酷さについてほとんど予備知識がなかった状況です。オフト監督は、開催地については「パスワークを得意とする日本のサッカーを考えればピッチ状態がよくないといわれている東南アジアよりは中東のほうがやりやすいのではないか」と思っていたようで、酷暑による疲労度については判断要素になっていなかったのです。

当時は開催地をめぐって東アジア勢と中東が綱引きできるほど、東アジアが発言力をもっていなかったことも重なって、中東でのセントラル開催方式を安易に許してしまったのです。中東での試合が酷暑との戦いとアウェーとほぼ同じ条件になってしまうという、東アジアの日本にとっては二重のハンディを背負った戦いになり、負けてあらためて知った開催地選定の大切さです。
ここ3年近く、あまりにも足りなかった日本代表の真剣勝負の機会が、経験・知見という名の財産の積み上げを奪ってしまいました。日本サッカー協会と前監督はいろいろな意味で歴史の断層を作ってしまい「ドーハの悲劇」を招来させてしまったと言わざるを得ません。

「ドーハの悲劇」ピッチにへたりこんだ選手たち
「ドーハの悲劇」ピッチにへたりこんだ選手たち
1993.10.30(実日付は29日)夕刊フジ「ドーハの悲劇」
ドーハの悲劇、ピッチに泣き崩れるカズ選手

韓国は「ドーハの奇跡」と歓喜し、急に「2002年W杯は韓国が開催すべき」と主張し始める
日本がイラクと引き分けたことで出場権を失い、かわりに出場権を獲得したのは韓国でした。わずかに得失点差で日本を上回ったのです。
この得失点差による出場権の明暗は、単に韓国がアメリカW杯に出場できたという以上の力を韓国に与えてしまうことになりました。
2002年W杯の開催地に日本に遅れて名乗りをあげた韓国が、W杯出場経験の有無を盾に自国開催こそが正当性を持っていると声高に主張するようになったからです。
恐ろしいことです。一つの試合の帰趨が、のちに国全体の権益を左右することになるのですから。
この時「W杯に一度も出場できない国がW杯を招致する資格などない。韓国にこそW杯を招致する資格がある」と、いわば2002年W杯招致活動への立候補を宣言した韓国サッカー協会の鄭夢準(チョン・モンジュン)会長という人を日本はまったく意識もせず、把握もしていませんでしたので、翌年から始まった韓国の招致活動の怖さを、まだ知るよしもなかったと言える段階でした。

ところで日本代表チームの国際的地位を見る指標として、この年8月からFIFA(国際サッカー連盟)は各国ナショナルチームのランキング発表を開始しています。
アメリカの飲料メーカーがスポンサーになってのランキングということで、オフィシャル感はあまりありませんが、他に指標がないこともあって、どうしても頼ってしまう指標です。
この当時のランキング決定方式スイスの学者が考案したもののようで、過去1年間の国際試合の相手や成績、試合内容を数値化しています。もっとも重要な要素は勝敗ポイントで勝てば3点、引き分ければ1点のポイントが与えられます。ランキング上位の国との対戦に勝てば、ポイントが加算され、その累積でランキング決定していました。そのため、とにかく試合数をこなせば順位が上がる、それがランキング上位の国との試合で買ったりすると、さらに順位が上がる仕組みです。

ちなみに日本は、最初の年の年間ランキングで43位という記録が残っています。おそらく1992年以前の国際Aマッチの成績で決まったものと思われますが、そこから日本は毎年ランキングを上げていきました。日本代表が国際Aマッチで勝利する機会が増えて、中には欧米の強豪チームを破ったりしたことを意味していますが、それは、あくまで国際親善試合でしかありません。やはり「負ければ終わりの一発勝負」のトーナメント戦や、結果次第でW杯出場権の成否が決まる試合の重みは、FIFAランキングの数字とは全く関係ないものであることを身に沁みて感じたイラク戦だったのです。

W杯出場権を逃した日本代表に国内からは「胸張って帰って来い」のエール、しかしカズ・三浦知良選手は「それじゃぁダメなんだよ」
翌日、中東から帰国の途につく日本代表、そこに日本から送られてきた新聞のFAXが届けられました。そこに掲載されていた日本のサッカーファンの暖かい論調に、カズ・三浦知良選手などは少し違和感を持ったといいます。サッカージャーナリストの藤江直人氏は、後年、カズ・三浦知良選手が持った違和感について、webサイト「GOAL」への特別寄稿で次のように書いています。

「(注・イラク戦を引き分けたことによりW杯アジア最終予選) 衝撃の敗退から⼀夜明けたドーハ市内のホテルのロビーに、突然強烈なアルコール臭が漂ってきた。チャーター便で帰路に就く⽇本代表が姿を現した瞬間だった。(中略)
追いかけ続けてきた夢が無残に砕け散ってから半⽇余り。あまりのショックにAFC主催の表彰式を全員が⽋席し、それからも眠れぬ夜を過ごしたのか。中にはアルコールの⼒を借りずにはいられなかった選⼿がいたことは容易に想像がついた。

声を掛けるのもはばかられるような状況の中、カズ(三浦知良)が近づいてきた。
お酒が苦⼿なカズはアルコール臭こそ発していなかったが、まだショックが癒えていないのか、目は真っ⾚だった。

「成⽥空港に帰ったら、トマトかな……」
おもむろにこんな⾔葉を投げてきた。カズの脳裏に浮かんでいたのは、雑誌か何かで読んだことのある1966年イングランド・ワールドカップだった。グループリーグ最終戦で伏兵の朝鮮⺠主主義⼈⺠共和国代表にまさかの苦杯をなめ、決勝トーナメント進出を逃したイタリア代表が、帰国したミラノの空港でサポーターからトマトを投げつけられ、罵声を浴びた事件だった。

⽇本から遠くカタールへ声援を送ってくれたファンやサポーターはアメリカ⾏きを逃して激怒している――。カズは覚悟していた。だから「トマトかな……」と、思わず⼝にしてしまったのだろう。
当時はインターネットはおろか、電⼦メールもない時代。ゆえにカズを始めとする⽇本代表選⼿は、⽇本国内で沸き上がっていた⼤フィーバーを知るよしもなかった。
いや、違うよ――。当時、スポーツ紙でサッカー担当記者を務めていた筆者は、彼らに⽇本の状況を伝えようと、編集部からファックスで送られてきた10⽉29⽇付けの紙⾯をカズに⾒せた。

1⾯にはまさかの結末が⼤々的に伝えられ、そして2⾯と3⾯は⾒開きの形で上部に⼤⾒出しが連なっていた。
「胸張って帰って来い 忘れないこの感動」
次の瞬間、カズが目頭を押さえ始めた。そして、やや語気を強めながらカズは⾔った。
「これじゃあダメなんだよ」
当時、アジアからのW杯出場枠はわずか「2」。アメリカ⾏きの切符はサウジアラビアと韓国が⼿にした。⽇本は何も成し遂げられなかった。だからこそ「感動をありがとう」という論調に違和感を覚えたのだろう。

藤江氏の寄稿からの抜粋は以上です。
まだ、日本代表を真の意味で叱咤激励するほど成熟はしていなかった日本のサッカーファン、本場・南米や欧州のサッカーファンを知るカズ・三浦知良選手にしてみれば、暖かい歓迎は決してありがたいものではなかったことを物語るエピソードでした。

歴史を知ってしまった者が、カズ・三浦知良選手に声をかけてあげるとすれば、
「そうですね、カズさん、今回は、日本のサッカーファンも、ワールドカップ予選というものを初めて本格的に体験した、いわば初心者みたいなものですもんね、でもカズさん、次のワールドカップ予選の時には、不甲斐ない試合が続いたら、カズさんが望むような洗礼を浴びるかもしれませんよ。
カズさんがスタジアムから帰ろうと車に乗り込もうと出て来たところに、待ち構えていたサポーターたちが、それこそ聞くに堪えない罵声を浴びせながら、いろんなモノを投げつけてくるみたいな、キツイ洗礼を。」

もう一つ、その後の歴史を知ってしまった者の「後付け」の話であることを承知の上で、どうしても書いておきたいことがあります。それは、結局ワールドカップのピッチに立つことができなかったカズ・三浦知良選手やラモス瑠偉選手など「ワールドカップという舞台がどれだけ凄い舞台か」をブラジルでの選手経験を通じて肌感覚でわかっている選手にとって、どれほどの痛恨事だっかということです。

歴史を知ってしまった者が、あとから彼らにかけられる言葉があるとすれば、それは「あなた方は少し早く生まれ過ぎてしまったのです」という言葉しかないのではと思います。
なぜかといいますと、アメリカW杯は24ケ国しか出場できずアジアからは、わずか2ケ国の狭き門だったのですが、次の98年フランスW杯は32ケ国が出場できて、アジアには3.5ケ国の出場枠が与えられるからです。

それを思えば「あなた方の選手としてのピークが98年フランスW杯のあたりであれば・・・」と思わざるを得ません。ですから「あなた方は少し早く生まれ過ぎてしまった」と思ってしますのです。
カズ・三浦知良選手もラモス瑠偉選手も、Jリーグ誕生の時期に全国のサッカー少年たちのヒーローとしての名声を得ました。アメリカW杯の出場が叶わなかったのは、この「Jリーグ誕生の時期のヒーロー」の称号はあげますが「ワールドカップ出場戦士としての称号」は次の時代の人たちに譲りなさい、というサッカーの神様の差配なのかも知れません。

オフト監督が残した遺産「スカウティング」の重要性
オフト監督は、あと一歩のところで「日本を初めてW杯に導いた監督」の名誉ある称号を逃してしまいましたが、オフト監督がもたらした功績の大きさを忘れるわけにはいきません。
オフト監督がチーム作りに際して持ち込んださまざまな手法や戦術に関しては「伝説の年1992年」にも触れましたので重複を避けますが、もう一つの功績は「スカウティング」の重要性を日本サッカーに浸透させたことです。

オフト監督のアシスタントコーチとして常に帯同していた清雲栄純コーチのことは知られていますが、偵察部隊の役割を持っていたアシスタントコーチのことは、あまり話題になったことはありません。
実は、当時日本ユース代表を率いていた西野監督と山本昌邦コーチにもオフトジャパンの「アシスタントコーチ」の肩書がついていました。

西野さんの著書「挑戦」を読むとアジア最終予選の時の敵情視察は命懸けだったそうです。オフト監督の要求は「たぶん、こうだと思う」というような主観の入った報告ではダメで、事実確認がとれた内容をそのまま報告しなければならず、しかも確認項目が、例えば、個々の選手の特徴について、このGKのキャッチングは左右どちらが安定しているのかなど、細部にわたっていて、かなり緻密なタイプの監督だと感じたそうです。

そのため2人は、対戦相手の非公開練習を見るためスタジアムに潜入しますが、まともな方法ではなかなかうまく行かないため、1人がわざと警備員に見つかり、その間にもう一人が潜入を果たすといった頭脳的な方法を講じます。

スカウティングの濃度については監督のタイプにもよるわけですが、少なくとも、このあとの日本代表で「スカウティング」の重要性が定着したのはオフト監督の遺産でした。

最後の最後でW杯出場権に手が届かなかったとはいえ、日本列島全体が、手に汗握り、固唾をのみ、まさに一体となった夜でした。Jリーグから選ばれた選手からなる「日本代表」というチームが、これほどまでに日本列島を一体感にさせてくれる存在であることを知った夜でもあったのです。
このチームは、歴史的にそういう貢献をしたチームとして称えられる存在です。そのメンバーを長く伝えるために22人の選手たちと、指導者を記録に残し記憶に留めたいと思います。
数字は背番号、カッコ内は所属クラブ
GK 1松永成立(横浜M)、19前川和也(広島)
DF 2大嶽直人(横浜F)、3勝矢寿延(横浜M)、4堀池巧(清水)、5柱谷哲二・主将(ヴ川崎)、6都並敏史(ヴ川崎)、7井原正巳(横浜M)、21三浦泰年(清水)、22大野俊三(鹿島)
MF 8福田正博(浦和)、10ラモス瑠偉(ヴ川崎)、14北澤豪(ヴ川崎)、15吉田光範(磐田)、17森保一(広島)、18澤登正朗(清水)
FW 9武田修宏(ヴ川崎)、11三浦知良(ヴ川崎)、12長谷川健太(清水)、13黒崎比差支(鹿島)、16中山雅史(磐田)、20高木琢也(広島)
監督ハンス・オフト、コーチ清雲栄純、GKコーチ、ディド・ハーフナー

Jリーグ三大タイトルの行方、ナビスコ杯はヴ川崎、天皇杯は鹿島vs横浜Fの決勝に、チャンピオンシップは鹿島vsヴ川崎の決戦に

カタールの地で戦った日本代表選手たちの帰国を、日本中のサッカーファンは暖かく迎えました。彼らにはJリーグ後期(セカンドステージ)、ナビスコカップ決勝、第73回天皇杯サッカーと続く戦いが待っていたからです。

11月6日後期10節から再開されたリーグ戦も、11月23日に行なわれたナビスコカップ決勝も、ヴェルディ川崎と清水エスパルスが覇を競い合う攻防を繰り広げました。そしてナビスコカップもリーグ戦もヴ川崎に軍配があがりました。

これでヴ川崎はナビスコカップを連覇、リーグ戦は、前期王者・鹿島とのチャンピオンシップ出場権も獲得しました。
12月に入ると第73回天皇杯サッカーが始まりました。2回戦では鹿島ジーコが東北電力との試合で華麗なヒールキックによるゴールを決めるなど大勝して勝ち進み決勝に駒を進めました。
一方、準々決勝で後期覇者のヴ川崎を撃破した横浜フリューゲルスがそのまま決勝に進みました。

翌年からJリーグに参戦する2チームに平塚、磐田が決定

一方、翌年からチーム数を2チーム増やすことを決めているJリーグ、その2枠をめぐって一つ下のカテゴリー(当時はJ1という呼称でした)では、ベルマーレ平塚、ジュビロ磐田、柏レイソルが激しいデッドヒートを繰り広げていました。

夏の時点でベルマーレ平塚は、仮に優勝してもスタジアムキャパシティの問題が解決されなければ昇格が難しいとされていましたが、地元の協力を得て翌年までにはこの問題を解決するとの見通しを得ました。

3クラブとも、Jリーグスタート時の10クラブの選考に漏れた悔しさや地元の落胆を糧に、今度こそは何としてもというエネルギーをぶつけていました。

柏レイソルには夏からブラジル代表のエースストライカーだったカレカが加入、猛烈な追い上げをみせましたが結局一歩及ばず、平塚と磐田が昇格を決めました。

磐田にはアメリカW杯アジア最終予選に唯一、このカテゴリーから選出されていた中山雅史選手がおり、出場権獲得はならなかった中で見せた「あきらめず泥臭くゴールに向かう」姿勢がファンの心をつかみ、また「ゴン」の愛称で親しまれるキャラクターと相まって全国区の人気者になっていました。
新しい年のJリーグをさらに盛り上げてくれそうな選手が名乗りをあげた決定でした。

一方の柏レイソル、1991年の10チーム決定の際にも出資母体となった日立製作所が落選し、一度ならず二度までもJリーグ入りを逃したことになります。
日立製作所のように世界に冠たる大手メーカーになると、Jリーグ側にとっても竹で割ったような話では終わらない経緯もあったようで、最初の10チームから漏れた時は、超大企業にありがちな意思決定の遅さ、つまり社内の合意形成に時間がかかったことで、結局間に合わなかったと川淵チェアマンが振り返っています。

そしてチーム数を増やしていくことについても、川淵チェアマンは、当初は2年ぐらい状況を見てから2チーム増やそうという考えでいたそうですが、この年、Jリーグ開幕の直前ぐらいになって呼ばれた一つの会合で「1年たったら2チーム増」と約束してしまい、今回の2チーム昇格に結びついたというのです。

その会合は東京・文京区にある「日立製作所迎賓館」に川淵チェアマンが呼ばれ、そこには、日立、ヤマハの関係者と、日本サッカーリーグ時代の「JSL評議会議長」をされておられた日産自動車の副社長も同席した会合だったというのです。この日産の副社長は川淵氏がJリーグ旗揚げにあたって恩人と呼べる人だったことから、日立、ヤマハがその方に仲介を依頼して「なんとかJリーグスタート時点から日立、ヤマハを入れられないか」という話だったのです。

もはや、まもなくスタートしようという時の話ですから、それはムリな相談でしたが、恩人の顔を立てるためには「1年たったら2チーム増」と約束するしかなかったと川淵チェアマンは振り返っています。
この日立(柏レイソル)加入に関しては、さらに続きがあり、平塚、磐田の昇格が決まったあとも「何とか特例として3チーム目に入れて欲しい」と20数万人もの署名を日本サッカー協会に持参するなどの運動が盛り上がっていたことから、Jリーグ理事会にも同情論が多く、「もしナビスコカップに柏が優勝したら再考しましょう」という暗黙の了解事項(ナビスコベスト4でも再考するという説もあった模様)にしていたそうです。

結局、ナビスコカップもグループリーグ敗退となりクリアできず、最後は川淵チェアマンが決断を迫られましたが、JFLの成績による決定という基準以外のところで決めるのは、後々禍根を残すということで認めない結論になったのです。

Jリーグ以前の日本サッカーリーグ時代から、日本サッカー界を牽引してきたと言われる実業団チームの日立製作所、古河電工、三菱重工とともに丸の内御三家と呼ばれるほどの影響力のあるチームであり会社でしたが、1991年のJリーグ参入クラブ決定という最初の段階で、社内の意思決定・合意形成が遅れたばかりに、そのあと2年、そしてさらに1年Jリーグへの道が遠のいてしまいました。

ジーコの「つば吐き事件」で歴史的な1年が終幕

この年のJリーグチャンピオンシップは、W杯アジア予選などの日程が重なり年内に開催できず異例の年明け開催、しかもホームアンドアウェーの2試合といいつつも、両方とも集客能力のある国立競技場で実施されました。
強力なサポーターに支えられている鹿島からすれば、ホームゲームのメリットが損なわれる開催地でしたが、後年、日韓W杯開催などを機に各クラブが集客力のあるホームスタジアムを持つようになったことを考えれば、2試合とも国立というのは黎明期のやむを得ない選択だったのかも知れません。

この初めてのJリーグチャンピオンシップは、初代の年間王者を目指す鹿島とヴ川崎の戦いに決着をつけただけでなく、鹿島・ジーコが非紳士的行為で退場処分になるという後味の悪いシーンをもたらしたという意味でも語り継がれるチャンピオンシップとなりました。

俗に「ジーコのつば吐き事件」と呼ばれる行為に至ったジーコの胸の内には、度重なるレフェリーの判定が、ことごとくヴ川崎有利に働いていくことへの強烈な不信感が鬱積して吐き出されたかのようでした。

このチャンピオンシップ第2戦のレフェリーは高田静夫さん、1986年メキシコW杯で日本人として初めて主審を務めたことは「伝説のあの年1986年」の中でも紹介しました。
この人をおいてない最終決戦の主審です。

チャンピオンシップ第2戦で退場処分になったジーコ
チャンピオンシップ第2戦で退場処分になったジーコ

しかし、この日の高田主審の笛が、どうにもヴェルデイ寄りになってしまったという事態は、ご本人にとっては「結果としてそうなっただけ」でしょう。けれども、ある意味、晩節を汚したレフェリングになってしまったことは否めません。

ジーコの行為は結局のところ非紳士的行為、許されない行為として歴史に刻まれることと思いますが、ここでは、心中察して余りある状況に立たされたジーコのことも記録しておきたいと思います。

その高田主審の判定で得たPKをカズ・三浦知良選手がキッチリ決め、2試合合計1勝1分としたヴ川崎が初代年間チャンピオンとして歴史に名を刻んだのでした。

しかし長い年月の流れの中で、この2チームを見た時、敗れた鹿島が、その後、数々のタイトルを取り続けるJリーグナンバーワンクラブとして君臨しているのに対して、勝ったヴ川崎は、2連覇こそ果たすものの、その後は急速に凋落して、ついには下部カテゴリーのJ2が長らく定位置となってしまうクラブに落ち込んだのは、このJリーグ元年の王者決定戦が、一つの分岐点になっていると思えてなりません。

なぜなら、それは長い歴史のスパンでは、常に勝利に向かって飽くことなく向上心を燃やし、チームとしてまとまるバックボーンを持っているクラブが、栄光の座を維持し続けるのであり、一時期、突出した個の力をもって覇者となっても、突出した個の力がチームから失われた瞬間、クラブは凋落してしまいます。

ちょうど、その二つのクラブの軌跡が、この年の年間王者決定戦で交錯して、片や登りの道を、片や下りの道を辿ることになったと思うからです。

Jリーグ元年の締めくくりは最初の年間表彰式「Jリーグアウォーズ」です。
このセレモニーを「年間表彰式」と呼ばずに「アウォーズ」と呼ぶことにしたのも「プロリーグ」の表彰セレモニーを特別な場にしたいという思いからでした。
表彰という誇らしい場に登場する人もそれを見る人も楽しいものにしたい、アカデミー賞の授賞式のような華やかさをイメージして、選手・関係者はタキシードそして夫婦同伴あるいは恋人同伴で、というスタイルにしたのです。

川淵チェアマンは後に「夫婦同伴は当初反対が多く、その理由が『奥様方が何を着たらいいかわからない』というものだったので、自分が以前モデルとして出演したことがある雑誌ミセスの編集長さんに相談したら、すぐにいくつかの(衣裳)サンプルを用意していただき、ヘアメイク、洋服付きで面倒を見ていただくことになり、おかげで奥様方に大好評で是非来年も、ということになった。」と振り返っています。

また年間最優秀選手(MVP)の決定方法を、選手間投票で決めることにしたのも当時としては画期的でした。戦った相手から選んでもらえるのは選ばれたほうもうれしいことです。

初代MVPは文句なしにカズ・三浦知良選手でした。
そのカズ・三浦知良選手も、翌年のイタリアリーグ・セリエA挑戦など、常に日本サッカーをリードする存在でしたが1998年フランスW杯日本代表落選など、幾多の挫折にも見舞われました。
カズ・三浦知良選手がJリーグ30年目を数える年、55歳にして現役でプロ選手を続けていることなど、このJリーグ元年当時、誰が想像できたでしょう。

初代得点王は横浜M ラモン・ディアス選手、初代新人王は清水・沢登正朗選手でした。ラモン・ディアス選手はゲーリー・リネカー選手、ピエール・リトバルキスー選手、ジーコ選手などと並ぶ大物外国人選手でしたが、メディアを賑わすような場面が少なく目立たなかったのですが、最後はきっちりとJリーグ史に足跡を残しました。

Jリーグ元年のベストイレブンは、年間チャンピオンのヴ川崎から4人(DF柱谷哲二、DFペレイラ、MFラモス瑠偉、FWカズ・三浦知良の各選手)、前期覇者の鹿島から3人(DF大野俊三、MF本田泰人、MFサントスの各選手)、横浜Mから3人(GK松永成立、DF井原正巳、FWラモン・ディアスの各選手)、清水から堀池巧選手というメンバーでした。

Jリーグアウォーズ・ベストイレブン
Jリーグアウォーズ・ベストイレブン

Jリーグ元年、この年の代表的社会現象となった一方で浮き彫りになった課題

プロスポーツとしての「Jリーグ」元年を振り返った時、年末の「新語・流行語大賞」に「Jリーグ」が選ばれたことでも明らかなように、この年を代表する社会現象として、日本中の人々に熱狂的に受け入れられました。

Jリーグ前後期合わせて180試合に来場した観客は323万5750人、1試合平均1万7976人、これに93ナビスコカップ、Jリーグチャンピオンシップ、コダックオールスターゲームの来場者数を加えると、合計411万8837人、1試合平均1万8553人、この数字がいかに驚異的かというと、前年春まで27年間をかけて「日本サッカーリーグ(JSL)」が動員した観客数約974万人の42%にあたり観客をわずか1年で動員してしまったことです。

Jリーグは、テレビ放映の面でも、その社会現象を反映した数値を示しました。歴史的開幕戦となった5月15日のヴ川崎vs横浜M戦はNHK総合による放送で視聴率32.4%という、後年になっても破られることのない記録、第1節の他の試合も高視聴率を記録したことから、年間を通して、地上波による全国生放送が55試合、NHK-BSでの放送が37試合(一部録画含む)、地上波のローカル局中継が112試合、延べ204試合の中継が行われた計算になり、Jリーグ試合数全180試合を超える数値となりました。

さらにナビスコカップを含めた全公式試合の平均視聴率も、13.8%を記録、これらにより1993年の放映権収入は10億円を突破、クラブへの分配を含めてJリーグ全体の財務基盤を固める重要な財源となりました。

このように「Jリーグ」は数字の上でも、この年の代表的な社会現象の証しをまざまざと示したのです。

一方、その陰で、いくつかの課題が浮き彫りになったことも記録しておかなければなりません。
一つは、日本経済の冷え込みとともに懸念されるクラブ経営への影響とその対応策の問題です。実は、Jリーグは、この前後の時期をわかりやすく歴史年表のように、日本の経済情勢と重ねてみると、次第に悪化してきた時期と重なります。スタートが1993年5月であったというのは、実に際どいところでのスタートだったということがわかります。

1980年代半ばから、日本の産業経済は破竹の勢いで伸びを示し「ジャパンアズナンバーワン」と言われるほど加熱して、1980年代後半には「バブル景気」となりピークに達したのですが、1989年12月に日経平均株価が3万8915円という最高値をつけた後、わずか1年足らずの間に2万円を割る暴落を起こし、あれほど強かった日本経済が1990年以降は景気後退局面に入り、前年1992年には地価の大幅下落による不動産・金融業界の不良債権問題が表面化、当時の政治状況の混乱もあって、次第に日本全体の産業経済の活力低下が顕著になり始めたのです。

この頃、Jリーグへの参加を決めたチーム経営の母体は、日本有数の大手メーカーであり、それら製造業においては、まだ活力低下といった懸念が表面化していませんでしたので、Jリーグへの参加にあまり逆風にはなりませんでした。
もし、これがあと1年でも後になると、日本経済の冷え込み感は産業界全般に浸透していきましたから、Jリーグへの参加を見直すチームもあり得て、スタート自体が危うかったかも知れないという時期だったのです。

Jリーグは、1986年頃から日本サッカーリーグのプロ化が構想され、次第に「プロ化の検討」~「プロリーグ計画」と練り上げていった関係者の長きにわたる熱意と努力の結晶です。特に1989年半ばからは、日本サッカー協会に検討の場を移し、2002年W杯日本招致のFIFAへの意思表示とあいまって、日本サッカー界全体の悲願となって計画を加速化していったことが1993年5月スタートに結びついています。

この年7月の総選挙の結果、1955年以来続いてきた自民党政権にかわり非自民を結集して誕生した細川政権が短命に終わり、そのあとも政治の混乱が続いたため日本経済の舵取りが長期間にわたり不全に陥ったこと、加えて不良債権問題などで経営が立ち行かなくなった大手金融機関の破綻をはじめとした日本経済大混乱の時期に入り、その後も「失われた20年」と呼ばれるほど長きにわたり低迷を続けることになりますが、そのような未来が待っていることなど、誰も想像がつきません。

Jリーグのスタートが、奇しくも、日本経済がまだ致命的な落ち込みまで至らない時期に間に合ったのは、プロ化に関わった多くの方のエネルギーの賜物なのかも知れません。
プロ化に関わった人たちは「いまのタイミングを逃すと日本経済がガタガタになってしまい、とてもJリーグ立ち上げどころではない」とまで見極めたわけではないと口を揃えます。
そして後で振り返って見れば「実は、あのタイミングしかなかった」と気が付くわけですが、「だとすると、それはサッカーの神様がそうさせてくれたのだ。それしか考えられない」と、川淵氏も森健兒氏も木之本氏も小倉純二氏も佐々木一樹氏も口を揃えているのです。

こうして、Jリーグは、まさにギリギリのところでスタートが切れたことで、その年の熱狂的な成功を得ましたが、チームの健全な経営という点では課題を抱えることになりました。それが選手のリストラなど現実のこととして表面化するのはもっと先ですが、じわじわとチーム経営への重荷になっていったのです。

二つ目はスタジアム環境の改善です。カシマスタジアムのように新規に作られたスタジアムは他になく、どこも既存のスタジアム改修した程度でスタートしました。

改善点の一つはピッチの質です。サッカーというスポーツは雨天であろうと決行するのが通例ですが、どしゃ降りの雨になった時にピッチがどろんこ状態になり、とてもプロスポーツの試合とはいえないところが現れてしまいました。
前期3節の名古屋vs横浜M戦で、雨で水浸しになったビッチで行われたPK戦、横浜M最後のキッカー、三浦文丈選手の蹴ったボールが水たまりに阻まれて止まり、名古屋GK伊藤裕二選手にかき出されてノーゴールという例などは、その代表的な出来事でした。

イタリアリーグなどで、どしゃ降りをモノともせずに緑の芝の上をきれいに転がるボールを見ているサッカーファンは、その差の大きさを実感しました。

スタジアム環境のもう一つの改善点はピッチと観客の遠さです。サッカーなど球技専用のスタジアムは、ピッチと観客の間にトラック(走路)がありませんので、観客は試合に没入できる環境ですが、多くの試合会場はトラック(走路)に遮られて、観客からピッチの上の選手たちが非常に遠くにいる感覚になります。
国立競技場のような大きなスタジアムですと、不思議とそれほど疎外感はないのですが、15000人程度のスタジアムで観客席がトラック(走路)に遮られていると、相当離れたところから応援している感じになり一体感が減衰しているような感覚になります。

こうした「ないものねだり」を初年度から求めるのは我儘でしかないわけで、その後も長年続くのですが、後年、そうした環境が改善されたスタジアムの試合と、初年度の試合と見比べると、これもまさに「黎明期」「草創期」の風景なのだと感慨を覚えます。

課題の三つ目は、レフェリングの問題です。Jリーグは初年度開幕から8月までイングラントのマーチン・ボデナムさんを、9月からアルゼンチンのフアン・カルロス・クレスピさんを招き、笛を吹いてもらいました。その取り組みは迅速でしたが、日本人レフェリーの劇的なレベル向上に結び付いたとは言い難いところでした。

日本人レフェリーの場合、プロ選手たちの動きについていけないという体力面の問題もありましたが、プロ選手たちの「マインド」に寄り添えていないこともあったように思われます。
前年のJリーグ初の公式戦では、かなりのハードスケジュールの中、レフェリー陣にとっては体力的に未知の体験だったことから、判定に不満の残る場面が数多く見られました。

今年度は、体力的な問題はかなり改善されたものの、片や生活を賭けて戦っている選手たちに対して、まだアマチュアの身分で裁いているレフェリーの立場が「マインド」の差となって、シビアなところでの微妙な判定に現われたのかも知れません。

後年、次第にレフェリーのプロ化を探る動きになっていったのは必然と言えるかも知れません。

一方、選手たちの側にも個々のレフェリーが示す基準というものについて理解が足りないという問題もありました。特に外国人レフェリーの場合、海外サッカーにおける笛の基準と、選手が昨年まで体感していた笛の基準が違っていた時、いたずらにレフェリーに詰め寄る場面が生じてしまうといった問題です。

レフェリングによる判定への不満は、サポーターの不満爆発とも連動することがあり、試合を荒れたものにしてしまうこともしばしば見られ、Jリーグをいかに秩序あるリーグにしていくかという点からも大きな課題となりました。

1993年、この年の各カテゴリー国内大会

この年は「Jリーグ開幕」と「ドーハの悲劇」があまりにも大きな出来事だったこともあり、各カテゴリーの国内大会が霞んでしまった感がありましたが、各大会とも熱戦が繰り広げられました。
お正月の全国高校サッカーについてはすでにご紹介しましたので、その他の大会をご紹介しておきます。

・第14回全日本女子サッカー選手権決勝 1993年3月28日 日興證券vs読売ベレーザ(1-0) 優勝 日興證券

・第5回日本女子サッカーリーグ(前期1993年5月2日‐6月27日)(後期1993年11月7日‐1994年1月30日)(チャンピオンシップ1994年2月6日)
この年、Jリーグ方式に合わせ、前後期制と1試合のみのチャンピオンシップによる年間王者決定方式となり10チームによる80分ハーフの総当たり方式で開催されました。

前年まで3連覇中の読売ベレーザが前期つまづきを見せ、9戦全勝優勝の鈴与清水、2位の日興証券に続く3位で終わりました。
後期は逆に読売ベレーザが9戦全勝優勝、鈴与清水はケガ人などのため下位に取りこぼし4位に終わりました。

年明け2月6日に行われた一発勝負のチャンピオンシップは、前期優勝の鈴与清水と後期優勝の読売ベレーザ、ケガ人などのためベストメンバーが組めない鈴与清水に対して、ほぼベストの読売ベレーザ、前半2-2で折り返したものの後半2点を追加して突き放し2-4で勝利、リーグ4連覇を果たしました。

年間MVPには読売ベレーザ・キャプテンの高倉麻子選手、得点王には鈴与清水・半田悦子選手、 ベストイレブンには、まだ15歳の澤穂希選手が初選出されています。
なお、年間順位4位の日産FCレディースが、このシーズンをもって廃部となりました。第1回リーグ戦から参戦していた日産FCレディースですが、男子サッカー部がJリーグスタートとともに「横浜マリノス」として切り離されたため女子だけの存続が叶わず廃部となったものです。

・第17回総理大臣杯大学サッカートーナメント決勝 順天堂大vs筑波大(2-1)優勝 順天堂大
・第42回全日本大学サッカー選手権     決勝 早稲田大vs同志社大(3-1)優勝 早稲田大
 この年の各大学主な選手
・順天堂大 名波浩(3年)、森下仁志(3年)
・筑波大  藤田俊哉(4年)、大岩剛(3年)、阿部敏之(1年)
・早稲田大 相馬直樹(4年)、原田武男(4年)、斉藤俊秀(2年)
・中央大  長谷部茂利(4年)  ・慶応大  野々村芳和(3年)

・第4回高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 決勝 清水商vs鹿児島実(1-0) 優勝 清水商
清水商主な選手 GK川口能活、DF小川雅巳、DF鈴木悟、DF田中誠、MF佐藤由紀彦(2年)その他すべて3年

・第2回全国女子高校サッカー 決勝 埼玉・本庄第一vs兵庫・啓明女学院(3-1) 優勝 本庄第一

・第5回全日本ジュニアユース選手権 決勝 読売ジュニアユースvs国見中(3-0) 優勝 読売ジュニアユース

・第17回全日本少年サッカー大会 決勝 浜松JFC vs清水FC(1-0) 優勝 浜松JFC

さまざまな議論を呼んだレフェリー問題
さまざまな議論を呼んだ
レフェリー問題

専門誌次々週刊化、サッカージャーナリズムも元年

こうしたプロスポーツとしての「Jリーグ」の課題について、サッカージャーナリズムとも言うべき人々が積極的に論陣を張るようになったのも、この年の大きな変化です。
この年の秋以降、サッカーマガジン、サッカーダイジェストといったサッカー専門誌が、前年、月刊から月2回刊に増やしたのに続いて、わずか1年で月2回刊から週刊化に踏み切り、多くの評論家やライターたちの発言の機会が急増したからです。

プロの世界の人々が、こうしたサッカージャーナリズムの批判を浴びながら、その後の積年の努力と経験によって徐々に改善していったと言う意味では、プロの当事者とサッカージャーナリズムの緊張した関係が始まった元年なのかも知れません。

もっとも、月2回刊から週刊化に踏み切ったのが、W杯アジア最終予選が始まる直前の時期でしたから、日本がW杯出場権を獲得すれば、より大きな商機が訪れるという皮算用があってのことだったと思いますが、その皮算用が外れはしたものの、サッカージャーナリズムが活況を呈したことは疑いのない事実で、この2誌で健筆を振るった人たちが、次第にフリーサッカージャーナリストとして巣立っていくことに繋がったと言えます。

また、女子中高生などを愛読者層に持つビジュアル系のサッカー誌として季刊(年4回)発行されていたサッカー・ai誌も、この年春から隔月刊化されました。この雑誌は、サッカー専門誌と異なり、応援するサッカー選手のファンクラブ的な存在として若い女性世代に愛される貴重なメディアと言えます。

さらに、この年4月、海外サッカーの紹介を専門とするワールドサッカーグラフィック誌が創刊されました。ビクターエンタテインメント株式会社の出版でした。サッカー専門誌の中ではサッカーダイジェスト誌が従来、海外サッカーをメインとした紙面構成でしたが、Jリーグスタートにより国内サッカーのウェートが高まることを察知したのかも知れません。ワールドサッカーグラフィック誌が唯一の海外サッカー専門誌という看板を掲げて登場しました。

Jリーグを入口にしたサッカーへの関心が、スポーツジャーナリズム全体の中で存在感を持ち始めたのも、この年からです。
スポーツ全体を取り扱う、いわゆる「スポーツ総合誌」として代表的な文芸春秋社のスポーツグラフィック「Number」誌に、この年から少しづつサッカー選手が1面を飾るようになりました。「Number」誌は1980年創刊以来、長らくプロ野球が企画のメインになっており他のスポーツではラグビー、競馬、格闘技などが時々取り上げられる程度でした。

アマチュア時代のサッカーが「Number」誌の1面を飾ったのはNo.107 1984年9月20日号の釜本邦茂選手が引退した時で、次に1面を飾ったのは7年後の同じ9月20日号、1991年のNo.275にブラジルから帰国して読売クラブに加入したカズ・三浦知良選手でした。
そして1993年のこの年、Number誌の表紙をサッカー選手が4度飾りました。(初代年間王者のヴ川崎を報じたNo.332号は1994年2月3日号ですが1993年シーズンの扱いということで加えた)

以降、サッカー選手が表紙を飾ることが年々増えていきました。
2002年W杯の頃になると、ほとんど毎号のようにサッカー選手が表紙を飾るようになったのはご存じのとおりです。

スポーツジャーナリズムと言えば、スポーツ紙での報道ぶりも、この年、飛躍的に増えました。昨年のJリーグ初のタイトル戦の時にも、多少の報道はありましたが、Jリーグ元年のこの年は、スポーツニッポン、日刊スポーツ、スポーツ報知といった代表的なスポーツ紙がJリーグを1面で報じることが増えました。

スポーツ紙での1面報道は、その時期のスポーツの社会的関心度を図るバロメーターとして、とてもわかりやすいメディアです・

Jリーグの熱狂と興奮は一般のジャーナリズムにとっても、取り上げないわけにはいかないテーマです。月刊誌や週刊誌などのメディアがサッカーをテーマとした記事を次々と報じましたので、その過熱ぶりを箇条書きにして記録に留めたいと思います。

【月刊誌・週刊誌・全国新聞】
・1993.2.3号 週刊SPA 「熱狂するJリーグ族の謎」 8ページ
・1993.3月号 月刊現代 「ボールを持たない男・森保一は日本サッカーの至宝だ」 執筆・二宮清純 4ページ
・1993.4月号 月刊プレジデント「Jリーグの仕掛け人・川淵三郎の野望」4ページ
        同     「日本代表オフト監督に見る名リーダーの条件」5ページ
・1993.6月号 月刊Forbes(フォーブス)「Jリーグ効果が地域を活性化させる」10ページ
・1993.6月号 月刊プレイボーイ 「サッカーバブル到来 Jリーグ噂の真相」7ページ
        同    「川淵三郎・成功への階段を駆け上がるチェアマン」9ページ
・1993.7.9   週刊読売「熱狂の茨城県鹿島市、アントラーズ市に変わるって?」4ページ
・1993.7.15   週刊新潮「人口45000人の鹿島町、サッカーに勝っての浮かれ方」5ページ
・1993.7月号 文芸春秋  「日本サッカーが復活した日」執筆・小松成美 10ページ
・1993.8月号 月刊THIS IS 読売「Jリーグの人・モノ・金」7ページ
・1993.10中旬 週刊現代「連載Jリーグを創ったビジネス戦士たち⑩チェアマンの黒子」 執筆・加藤仁 4ページ
・1993.11.14 サンデー毎日「W杯・残り30秒 間と魔」4ページ
・1993.12.8 隔月刊Views 「最後の5秒で負けたオフト監督の500日戦争」7ページ
・1993.12月号 月刊Asahi 「鹿島アントラーズ徹底研究」 執筆・吉村克己 25ページ
・1994.2.4 週刊朝日  「つば吐き! それでもジーコ、あなたはえらい」3ページ
・1994.2.17 週刊文春  「ジーコ・わたしはボールにつばを吐いたんじゃない」4ページ
・1994.3.18 週刊ポスト 「ブラジル発・ジーコ怒る怒る『読売偏重・Jリーグそれでいいのか』」3ページ

このwebサイトの「データパビリオン」には、サッカー専門誌のバックナンバーのリストとともに、一般月刊誌、週刊誌、スボーツ紙のデータもリストにしています。次に紹介するテレビ放送のサッカー関連番組もリスト化しており、Jリーグ元年のこの年から始まったサッカーに関する社会的関心の高まりをすべて記録として把握できるようにしています。

【書籍】
Jリーグ、ここまで暴露(バラ)せば殺される by Jリーグ担当記者Jリーグを撃て!!(㈱データハウス1993年4月刊)
著者前書きより サッカー人気をその上昇カーブだけで判断するなら、Jリーグは、まさに世界の頂点にあるといっていい。あとはこの人気に裏打ちする実力を、どう世界の檜舞台で、日本代表チームが演じてくれるかだけであろう。
私たちの少年の夢が、もうまもなく実現しようとしている。これから1年間が、Jリーグ勝負の年になってくる・・・・。

三浦知良 夢のゴールへ 三浦知良研究会著(ゼニスプランニング1993年5月刊)
表紙帯紹介文 初めて明らかになった「カズの真実」・カズを育てた意外な背景・日本サッカー界をひとりで変えた・プロスポーツ界に新しい価値観・カズ、恋の決着シュート・夢は「イタリアへ」

KAZU・カズとJリーグ 岡邦行著(三一書房1993年5月刊)
Jリーグ開幕を目前にした日本サッカー、その中心にブラジルに渡ってプロとなり活躍して日本に戻ってきたカズこと三浦知良選手がいる。カズ・三浦知良選手が歩んできた道のりと、これから始まるJリーグについて展望する。

「足に魂こめました」ーーーカズが語った[三浦知良] 一志治夫著(文芸春秋社1993年9月刊)
表紙帯紹介文 20時間独占ロング・インタビュー! ブラジル時代、Jリーグ、ワールドカップーー世界を目指すKAZUが、初めて語った青春、人生、そしてサッカー

日本サッカーの挑戦 ハンス・オフト著、徳増浩司訳(講談社1993年9月刊)
表紙帯紹介文 ワールドカップ初出場に向けて邁進する史上最強の日本代表チームをつくりあげたオフト監督が自ら綴る「日本サッカー躍進の秘密」。すべてのサッカーファンにおくる「勝つためのサッカー哲学」、プレーの基本、組織、戦略etc. これが「オフトマジック」の秘密だ。

ジーコのリーダー論 ジーコ著、広瀬マミ訳(ごま書房1993年12月刊)
表紙裏紹介文(抜粋) 弱小組織を最強軍団に仕立て上げると、その偉業をなしたのはあたかも特定の個人のようにいう人がいるが、ひとりの力だけで組織が強くなることはあり得ないと私は考えている。組織を強くするのは”チームワーク”以外にない・・・。

テレビにもサッカー専門・情報番組が次々登場

Jリーグ元年であり、アメリカワールドカップアジア予選で最後の最後まで日本中を熱狂させたこの年、テレビ放送におけるサッカー関係番組は、試合だけにとどまらず、Jリーグの試合結果やチーム・選手を紹介する情報番組や特集番組などが飛躍的に増えました。

そして、サッカー専門番組という分野でも、これまでは海外サッカーだけの専門番組だったものが、日本サッカー・Jリーグを中心に構成された専門番組が次々と登場しました。
口火を切ったのはテレビ朝日系列の「Jリーグ・A・GOGO」です。4月から日曜夕方の全国ネット25分番組がスタートしました。日本のサッカーを扱う定例番組として初めてのオンエアでした。
秋にはTBS系列が、のちに毎週土曜日深夜の長寿番組として愛された「スーパーサッカーJリーグエクスプレス」の放送を開始しました。

また、サッカー好きのタレントが牽引するバラエティ形式の番組も一気に増えました。前年の「伝説の年1992年」の中で紹介したように、サッカー企画を番組の中に取り入れ始めた帝京高校サッカー部出身のとんねるず・木梨憲武さん、そして、マンチェスターUの伝説的プレーヤー、ジョージ・ベストをこよなく愛する明石家さんまさんは、サッカー企画番組に「さんまの・・」と冠を付けて番組をリードしながらサッカーの楽しさをお茶の間に届けてくれたのです。

この年放送されたサッカー関連の主要な番組、あるいは、この年からスタートしたサツカー関連番組を、カテゴリー別に整理して記録しておきたいと思います。

【サッカー専門定期放送番組】
・4月放送開始 「ダイヤモンドサッカー」テレビ東京系 毎週日曜10時 30分間
        司会 川平慈英 岩崎由実、コメンテーター金子勝彦
1968年、日本でサッカー情報に触れる機会がなかった時代に海外サッカーの興奮を届けてくれた「三菱ダイヤモンドサッカー」が1988年3月に一旦終了、1992年「ダイナミックサッカー」の名称で新たな番組がスタートしたが、それと並行するように、この年4月4日、Jリーグ開幕を前に、Jリーグ・日本代表情報番組として「ダイヤモンドサッカー」の名前で再スタートした。この番組に欠かせない金子勝彦アナがコメンテーターとして伝統を感じさせる役割を果たした。
翌年以降、放送日の変更などを行ないながら1996年9月末まで続いた。
番組司会の「岩崎由実」という方は、のちに「川原みなみ」に芸名を変更してNHK-BSの「サッカーダイジェスト」の司会も務めた方。

・4月放送開始 「Jリーグ A GOGO!!」テレビ朝日系 毎週日曜18:30 25分間
        司会 うじきつよし、鈴木杏樹 
Jリーグ開幕直前の時期にスタート。番組は週末のJリーグの試合結果や海外のサッカー情報などのほか、時折、選手の生出演企画もあった。
翌年以降、放送日、放送時間、司会者などの変更を行ないながら1996年9月末まで続いた。

・5月放送開始 「Jリーグダイジェスト」NHK-BS 毎週日曜日 22時 55分間
        司会 友田幸岐、日比野克彦
Jリーグ第2節直後の日曜日からスタート、番組オープニングのCGも担当したサッカーフリークの日比野克彦さんをパートナーにして、週末のJリーグの全試合結果やサッカーにまつわるさまざまな切り口で密度の濃い番組を放送した。
翌年以降、放送日、放送時間、司会者などの変更を行ないながら1995年まで続き1996年からは番組名を「サッカーダイジェスト」に変更して2005年まで続けられた。そして2006年からは番組名を「Jリーグタイム」と変更して継続されている、サッカー専門番組唯一の継続長寿番組となっている。

・10月放送開始 「スーパーサッカー Jリーグエクスプレス」TBS系列 毎週土曜日 24時 30分間
        司会 生島ヒロシ、アシスタント・西田ひかる
Jリーグ開幕2日目の5月16日から半年間放送されていた「速報Jリーグ」をリニューアルする形で10月3日放送がスタートした。折しもアメリカW杯アジア最終予選を戦う日本代表の挑戦が放送の中心となって始まったが、5回目の10月30日放送では「ドーハの悲劇」を伝えることになり波乱の船出となった。
この年は番組のスポンサーがネッスル日本1社ということで、番組名も「ネッスルスーパーサッカーJリーグエクスプレス」が正式名称だった。番組内では「コーヒーフーレイク」という、ネッスル日本の商品紹介コーナーがあり、1年後に西田ひかるの後任となる三井ゆりが出演している。

「スーパーサッカー」は、生島ヒロシが2000年12月末まで司会を務め、その後、徳永英明、加藤浩次と引き継がれ、途中、Jリーグ公認番組認定などのバックアップも得ながら2021年3月末まで続く長寿番組としてサッカーファンに親しまれ、日本に「サッカー文化」が根付く一助となったことで、日本サッカー協会から単独番組としての終了に際して、『やべっちFC』に続いて感謝状を贈呈されている。
        

【単発ドキュメンター系・カルチャー系番組】
・2月    「K・A・Z・U伝説が風になる」(静岡第一TV45’35)
カズ・三浦知良選手15歳から24歳までの成長記録
・3月   「ゲーリー・リネカー友情の絆」(英国制作版・NHK-BS日本語吹き替え 25分)
リネカー選手の出身地レスター・シティにいる幼い頃からの友人で、現在はスヌーカープレーヤー(ビリヤードの一種)の彼との長い友情の物語を描いたドキュメンター。

・4月29日 「93高校サッカー選抜欧州遠征記」(日テレ27’59)
三浦淳宏選手、阿部敏之選手、江原淳史選手ほか

・5月14日 「NHKスペシャル Jリーグ サッカーにかける男たち」(NHK総合 50分)
Jリーグ開幕日の前夜の放送、待ちに待ったJリーグ開幕に人生をかけて準備してきたカズ・三浦知良選手、ジーコ選手、加藤久選手、リネカー選手の直前の様子やJリーグにかける思いなどを聞いたドキュメンタリー。
この番組は、Jリーグ20周年を迎えた2013年5月にもNHKアーカイブス企画で佐生放送され、ラモス瑠偉選手をゲストに招き当時を振り返っている。

・6月   「逸見正孝のその時何が・Jリーグを創った男たちに迫る」(TBS系毎日放送 50分)
      司会・逸見正孝、パートナー・上岡龍太郎、ゲスト・ラモス瑠偉、コメンテーター、向井亜紀、波頭 亮、Jリーグ・木之本常務理事
日本の社会に熱狂的に受け入れられたJリーグをテーマに、2人の人物にスポットを当ててJリーグの魅力を伝えた番組。1人はブラジルから20歳で来日して苦労の末に日本人・ラモス瑠偉となり、日本代表の司令塔にまで進化した彼の生きざまを紹介。もう1人はJリーグを創った男として川淵チェアマンを取り上げ、逸見キャスターのインタビュー構成で紹介、さらにはJリーグ成功の要因と今後の課題について波頭氏が専門的に紹介。などの内容で放送された番組。
司会の逸見政孝アナは、9月初め、自らのガンを公表したあと入院することになったため同月、番組は終了となった。

・7月   「驚きモモの木20世紀」(テレビ朝日系ABC放送 50分)
      司会・三宅裕司、黒木瞳、ゲスト・釜本邦茂G大阪監督、ちはる、島崎俊郎
Jリーグスタートで日本中の注目を浴びるようになったサッカー、その歴史には25年前のメキシコ五輪銅メダル獲得という快挙があった。題して「日本サッカー秘話・メキシコ五輪奇跡の銅メダル」

・8月   「サッカー英雄伝説・4夜 連続企画」(NHK 第1夜 1時間20分)
司会・渡辺徹、長野智子、4夜連続アシスタント・女性ユニットribbon、
      第1夜ゲスト・富樫洋一、川平慈英、川淵チェアマン
Jリーグスタートで関心の高まるサッカー、来年のアメリカW杯に向けて日本代表が挑戦しているアジア予選突破を応援する夏休み企画。
      第1夜 ワールドカップの栄光
      第2夜 ラテンの熱き血潮(ペレ、ジーコ、マラドーナなど)
          ゲスト セルジオ越後、高木ミルトン
      第3夜 群雄割拠 宿命の対決(ヨーロッパ強豪の戦い)
      第4夜 世界にはばたけ 若きヒーロー(アメリカW杯展望)

・9月25日 「日本代表スペイン合宿の2週間」(フジ1時間30分)
オフト監督のもとアメリカW杯最終予選に臨む日本代表の最後の強化プラン、スペイン合宿にフジテレビが密着した番組。日本を代表するスター選手たちの一挙手一投足に関心を持つ若いファン層の希望に応えようという新しいタイプの番組。

・9月   「あの時、同じフィールドに立っていた プロサッカーの夢と現実」(TBS系SBS 55分)
Jリーグスタートの年、華やかなJリーグの舞台に立っている選手の一方で、かつて同じフィールドで技を磨き合った仲間が、その舞台にいない。彼らは、なぜ舞台に立つことなく別の道を歩んでいるのか、3人の「いま」を追ったドキュメンタリー。
      1人目 鹿島・杉山誠選手の双子の弟・杉山実選手の「いま」
      2人目 清水・堀池巧選手と順天堂大同期、当時背番号10をつけていた江本城幸選手の「いま」
      3人目 清水・沢登正朗選手と東海大一高の同期、当時「高校サッカー界の近藤真彦」と呼ばれたスター・平沢政輝選手の「いま」

・10月14日 「クローズアップ現代・W杯をめざすオフト監督」(NHK 30分)
      キャスター・国谷裕子 ゲスト・元日本代表 岡田武史
前年3月の就任以来、日本代表に自信をつけさせ役割分担の徹底を図って、いよいよw杯アジア最終予選の直前まで漕ぎつけたオフト監督。しかし9月のスペイン遠征では守備が崩壊してしまい自信まで失ってしまう危機を迎えた日本代表。アジア最終予選前、最後の強化試合となるアジア・アフリカ選手権、コートジボワール戦に競り勝ち、何とか自信を取り戻してカタール・ドーハに向かうことになった。

・10月16日 「W杯アジア最終予選特別企画・メキシコの青い空」(フジ 1時間30分)
       ナレーション 世良公則
かつてないJリーグの熱狂が日本全土を覆った中、そのJリーグから日本代表選手たちが選ばれW杯アジア最終予選を戦うためドーハに旅立った。そんな日本のサッカー史において8年前、日本サッカーがもっとも世界に近づいたと言われる1つのゲームがあった。
1985年10月26日国立競技場 メキシコW杯アジア東地区最終予選、日本vs韓国
実況のNHK・山本浩アナは、試合開始を待つ日本全国のサッカーファンの気持ちを代弁するかのように「いま東京の曇り空の向こうにメキシコの青い空が少し近づいているような気がします」と語りかけた。
番組は、その試合を当時の監督・選手たちの回想を交えて、全編世良公則さんのナレーションで振り返ったドキュメンタリー番組。

・12月12日 「クローズアップ現代・ドーハの悲劇 空白の17秒」(NHK 30分)
      キャスター・国谷裕子 ゲスト・山際淳司
10月26日、カタール・ドーハで行われたアメリカワールドカップアジア最終予選・最終戦日本vsイラク戦、ロスタイムにコーナーキックからのヘディングを決められ同点に追いつかれた日本、その時、悲願のワールドカップ出場の夢が砕け散った。その17秒の間に何が起こったのか、番組は関係する選手たちの証言と、イラクの選手たちの証言をもとに、空白の17秒の真相解明を試みた。

日本チームにあったハーフタイムの収拾のつかない興奮、それ故、戦い方を立て直せなかった首脳陣、時計の針が90分を回ったあとのロスタイムの意識に対する思い込み、イラク側になかったロスタイムの意識、そのため選択された意表をつくショートコーナー、そして蹴った本人がミスキックと振り返ったクロス、しかし、そのクロスに完璧にヘッドを合わせた、ターゲットではなかったはずのオムラム選手、いくつかの悔いの残る思い込みと、いくつかの皮肉な巡りあわせの結果生まれた「ドーハの悲劇」。

ドキュメンタリー番組ならではの取材力で明かされた「17秒の空白」の真相、日本のサッカーについて、これだけ深く掘り下げて取り上げる番組が、いよいよ登場したと思わせる番組。

・12月30日  「スポーツドラマチック93 日本サッカーが燃えた カズ世界への挑戦」NHK 45分
        司会 藤井康生、小平桂子アネット、ゲスト カズ・三浦知良
日本サッカーが非常に速い勢いで日本のスポーツのひのき舞台に躍り出た今年1年を、カズ・三浦知良選手とともに振り返る年末企画。
カズ・三浦知良選手は、12月29日に行われた「セリエA・ACミランクリスマススターズ」に世界選抜の一員として出場、帰国した、その足での出演だったことから司会者も「世界のカズ」と紹介した。

【単発バラエティ系・ワイドショー系番組の主な番組】
・1月 「さんまの熱血! スポーツマン倶楽部」TBS 30分 ゲスト・木村和司、さんまインタビュー・リネカー
・1月 「とんねるずの生でダラダラいかせて 第2回PK選手権」日本テレビ
    同番組では、その後も年間通じて、PK戦、ミニゲームなどのコーナーが放送された。
・7月 「決定! さんまのJリーグ超プレー大賞Ⅲ」フジテレビ 1時間20分
・7月 「夜もいっしょうけんめい」ゲスト・カズ、司会・逸見政孝、設楽りさ子(日テレ27’58)
・8月 「金曜TVの星 93Jリーグ前期スーパープレー総集編」TBS 1時間25分
・12月 「Jリーグ・ザ・パーティ」NHK-BS 2時間 司会・山本浩・向井亜紀
Jリーグ10チームから各3名づつの選手と、芸能人サポーター各チーム1名が集結、パーティ会場の嗜好で、記念すべき元年のJリーグを振り返り、次の年への抱負を語り合った。

【チーム応援番組】
Jリーグ10チームのうち、首都圏のチームは、地元UHF局からJリーグスタートの時期に相次いでチーム応援番組の放送を開始した。

横浜Mの「Kick off マリノス」は神奈川テレビが毎週1回ですが、Jリーグスタート以前の日産時代からチーム応援番組を放送している、この種の番組の元祖的存在。
浦和は埼玉テレビが「GOGO! レッズ」を毎週1回、市原はチバテレビが「GOAL FOR WIN ジェフ」を隔週、横浜Fは「フリューゲルスアワー」を毎週1回放送した。

鹿島は茨城にローカルテレビ局がなかったことから、しばらくチーム応援番組がなかったが1997年以降、CS放送の中で「フォルサ・アントラーズ」の放送を始めた。
清水、名古屋、G大阪、広島の各チームも、それぞれ放送時間や放送間隔にはバラツキがあったものの応援番組の放送を開始した。

このうち名古屋は、地元テレビ局数が多いこともあり東海テレビの「グランパスExpress」をはじめ1996年頃からは4局でグランパス応援番組が組まれ、選手たちのテレビ出演が、他のチームに比べて極めて多いことが特徴だった。

【この年発売されたサッカー関係市販ビデオ】
1993.1 小倉隆史 18歳の挑戦 BGMと小倉選手トーク(ソニーレコード42’16)

海外では「欧州チャンピオンズリーグ」初の王者決定、トヨタカップはサンパウロが連覇

さて、この年の海外サッカーに目を転じてみます。
アメリカW杯の出場権を賭けた各大陸の予選が、世界中で繰り広げられた中、日本代表の「ドーハの悲劇」に匹敵する悲劇がフランス代表に降りかかりました。フランス代表の場合、引き分けでも出場権獲得できる状況で地元パリにブルガリアを迎えた最終戦、試合終了間際に得点を許し、2大会連続で出場権を逸したのでした。
この試合は「パリの悲劇」として語り継がれているようです。

このほか前年の欧州選手権を制したデンマークも出場権を逃しています。ブラジル、ドイツ、イタリア、アルゼンチンなどの強豪国は出場権を獲得して翌年のアメリカW杯を迎えることになりました。

南米ではコパ・アメリカが開催されアルゼンチンが準々決勝でブラジルをPK戦の末下し、そのまま優勝、2年前の大会に続く連覇を果たしました。
1993年6月15日~7月4日、エクアドルで開催されたコパ・アメリカ、メキシコとアメリカを招待して12ケ国で優勝を争いました。

準々決勝でブラジルをPK戦の末下したアルゼンチンは、準決勝でも難敵コロンビアと0-0のままPK戦にもつれ込みました。アルゼンチンが6人全員成功させたのに対してコロンビアは6人目も外しました。
決勝はアルゼンチンvsメキシコ、アルゼンチンは後半バティストゥータが2ゴール、メキシコの反撃を1点に抑え通算14回目の優勝を連覇で飾りました。

欧州では「欧州チャンピオンズリーグ」と改称して初めての決勝が5月行なわれ、フランスのマルセイユが優勝しました。
12月のトヨタカップには欧州王者のマルセイユが来日するはずでしたが、フランスリーグでの八百長行為が発覚したため懲罰処分を受け、トヨタカップへの出場権を失いました。
代わりに欧州チャンピオンズリーグでマルセイユに敗退したイタリア・ACミランが出場、南米王者のサンパウロFCとの戦いとなりました。

試合はサンパウロFCが3-2で勝利、前年に続く連覇を果たしました。この試合には両チームに、後にJリーグに選手や監督として在籍することになる選手たちが多数出場しました。サンパウロFCには、トニーニョ・セレーゾ、レオナルド、ロナウド(清水DF)、ミューレル、ACミランにはマッサーロです。


 

欧州、南米ともに日本から遠く離れた国の、これほど多くの選手たちがJリーグでプレーすることを選択した一つの要因には、このトヨタカップでの来日経験もあるのではないかと思います。その意味でトヨタカップが果たした役割の大きさをあらためて思わずにはいられません。

暮れも押し詰まった12月29日チャリティマッチ「セリエA・ACミランクリスマススターズ」に世界選抜の一員としてカズ・三浦知良選手が出場しました。ACミランは上旬にトヨタカップのため来日したチームです。トヨタカップではサンパウロFCに敗れたものの世界最高峰と言っても過言ではないチームですから、カズ・三浦知良選手にとってはモチベーションMAXの体験です。

しかも世界選抜にはACミランからサンプドリアに移籍したルート・フリット、フィオレンティーナ所属のデンマーク代表ブライアン・ラウドルップ、メキシコ代表FWウーゴ・サンチェス、同GKホルヘ・カンポスらが名を連ねました。

背番号11をつけてスタメン出場を果たしたカズ・三浦知良選手は前半16分右サイドから低いクロスを中央に送りウーゴ・サンチェスのゴールをアシストしました。後半5分交代で退きましたがサン・シーロスタジアムでの濃密な50分は、目まぐるしいほど濃密だった1993年のカズ・三浦知良選手を締めくくるにふさわしい50分だったことと思います。

 
あらためて、1993年という年がどういう年だったかを総括してみます。
それは「Jリーグの成功」という経験を財産としつつ、「W杯アジア予選での挫折」という経験を糧として、「U-17世代の選手たちが堂々と世界の舞台で渡り合った」という経験を自信として、その後の日本サッカーの大きな進化・成長につながった年ということになります。
それは、とてつもない大きな節目の歴史的な年ではないでしょうか。