伝説のあの年

現在につながる世界のサッカー、日本のサッカーの伝説の年は、まず1986年、そして1992年1993年1996年、1997年、1998年、2002年、さらに2010年。
それらが「伝説のあの年」として長く語り継がれることでしょう。
さぁ、ひもといてみましょう。

伝説のあの年 1986年

6月、W 杯メキシコ大会でマラドーナ率いるアルゼンチンが優勝、世界中の子供たち同様、そのプレーをテレビで見た日本の子供たちも夢中にさせてしまいました。
日本では、1983 年から始まった「キャプテン翼」のテレビアニメに触発されて、多くの子供たちがサッカー少年団の一員に加わっていました。
マラドーナは、その子供たちの具体的な目標となる選手として出現したのです。
この 1986年メキシコ大会、日本の選手にとっては、まだまだ夢の舞台でしたが、日本人レフェリーとして高田静夫さんが初めて主審の笛を吹いており、一足先に世界のトップレベルにたった年でもあります。

もう一つ、この大会には、のちの日本サッカー界の一大転機となる起点の意味合いが含まれていました。大会前、当時の FIFA 会長で、世界のサッカー界を牛耳っていたアベランジェが「21 世紀最初のW杯を例えば日本など、アジアで開催したい」と打ち上げたのです。
「夢のまた夢であるW杯を日本で?」という具合に半信半疑ながらも、この発言をよりどころに、のちの日本サッカーが進化していったわけで、重要な出来事でした。

マラドーナ
W杯優勝・マラドーナ選手
国内では、この年、奥寺康彦選手がドイツから日本リーグに復帰、木村和司選手とともに、事実上、日本初のプロサッカー選手が誕生しました。
10 月には日本リーグ開幕に先立って、初のスポンサー付き大会として「コダックオールスターサッカー」がチームを東西に分けて開催され、復帰顔見世ゲームとなった奥寺康彦選手が MVP に輝きました。
日本リーグのキャッチフレーズは「サラリーマンサッカーの時代は終わった」。
まさにターニングポイントとなった年だったのです。
この年、高校サッカーで絶大な人気を得た武田修宏選手が読売クラブに入団、新しい時代の日本サッカーにふさわしい、若い華のあるサッカー選手第一号の誕生でもありました。
奥寺康彦
奥寺康彦選手
木村和司
木村和司選手

一方、海の向こうでは、単身、本場ブラジルのサッカーに挑戦していたカズこと三浦知良選手が名門サントス FC と最初の契約をしたのがこの年 (2月 ) です。
カズ選手は、その後、やはり名門チーム、パルメイラスの一員として 6 月に行われたキリンカップサッカーに凱旋帰国、ドイツ・ブレーメンの一員として最後の大会に来日した奥寺康彦選手と決勝で顔を合わせています。残念ながらカズ選手は出場機会がなく、奥寺選手が有終の美を飾りました。この大会には日本代表も参加していましたが、まだクラブチームの壁を破れないレベルでした。
この、カズ選手の存在は、たびたびテレビでも紹介されるようになり、多くのサッカー少年のあいだで、ブラジルへのサッカー留学といった夢が語られるようになったのです。

このように、1986 年は、子供たちのヒーロー・マラドーナの出現をはじめとして、世界のサッカーにとっても、日本のサッカーにとっても伝説的な出来事があった、記憶に残る年なのです。

三浦知良
カズ・三浦知良選手
次の伝説までのあいだ何が

1987年

元日の天皇杯決勝で読売クラブが優勝。約1週間後の高校サッカー選手権決勝では静岡・東海大第一がアデミール・サントス選手の見事な FK で初出場初優勝。前年秋からの日本リーグは読売クラブが優勝した。
前年のW杯メキシコ大会で、スーパースターの座を不動のものにしたマラドーナが 1 月、ゼロックススーパーサッカーに南米選抜の一員として来日日本リーグ選抜と対戦、左足を痛めていながらも日本中のファンを魅了した。マラドーナ率いる SSC ナポリは、86 ー 87 シーズン、イタリアリーグを悲願の初制覇、カップ戦と2冠に輝いた。
12 月のトヨタカップでは大雪の中、FC ポルトが勝った。

1988年

元日の天皇杯決勝で読売クラブが連覇、読売クラブは1月に行われたアジアクラブ選手権決勝にも勝って優勝した。約1週間後の高校サッカー選手権では前回大会と同じカードを長崎・国見高校が制し小嶺監督の名が全国に知れ渡った。
この年はソウル五輪が開催された年で、日本は、韓国がいない東アジア地区予選で、中国に勝てば 20 年ぶりの出場権獲得までこぎつけたが、雨の国立競技場での試合に敗れた。五輪本大会のサッカーでは、決勝でソ連に敗れたものの大会得点王となったブラジル・ロマーリオが脚光を浴びた。
国見高校
国見高校

一方、` 88 欧州選手権では、オランダがマルコ・ファンバステンのスーパーゴールで初優勝した。
6 月には、ゼロックススーパーサッカーに、マラドーナが昨年に続いて来日ナポリの一員として、奥寺選手率いる日本代表に勝利した。

さらにこの年は、のちのJリーグ創設に尽力する川淵三郎氏が、日本サッカーリーグ総務主事に就任、1991 年の社団法人設立まで、獅子奮迅の活動に入った時期でもある。
Jリーグの前身である日本サッカーリーグは、川淵氏の前任者である森健兒氏、事務局長・木之本興三氏が中心となって3月に設置した「JSL第一次活性化委員会」がプロサッカーリーグについて具体的に検討を開始した場とされている。
そして後任の川淵氏が検討の場を「JSL第二次活性化委員会」としてプロサッカーリーグ構想の加速化を図った。

マルコ・ファンバステン
マルコ・ファン・バステン

1989年

元日の天皇杯決勝で日産自動車が優勝、10 日後の高校サッカー選手権決勝では三浦文丈選手、藤田俊哉選手を擁する清水商が優勝、数日前、昭和天皇が崩御されたことから、テレビ中継ではCM自粛方針のもと、ハーフタイム時に音楽だけが流れる珍しい放送となった。
前年秋からの日本リーグは、日産自動車が優勝、天皇杯、カップ戦を合わせ三冠を達成した。
この年、高円宮杯全日本ジュニアユース選手権 ( のちの U-15 ユース大会 )と日本女子リーグ ( のちのLリーグ、なでしこリーグ、WE リーグ ) が始まった。
海外では、南米選手権 ( コパ・アメリカ ) でブラジルが優勝、ベベット、ロマーリオ、ドゥンガなど 94W杯を制するメンバーが主力だった。
12 月のトヨタカップにはオランダトリオで欧州を制したイタリア・ACミランが来日、怪人GKイギータに苦労しながらも延長で制した。

一方、前年から検討が本格化したプロサッカーリーグ構想は、JSLを構成する実業団チームに派遣されている親会社役員たちから「プロ野球でさえ赤字経営なのにプロサッカーでまともに採算がとれない」の意見が多く出され、サッカーチームを企業の福利厚生の一環と考える厚い壁に阻まれていた。
そこで川淵氏は、JSLだけでの議論では埒が明かないと、日本サッカー協会に議論の場を移すべく「JSL第二次活性化委員会」を解散、協会副会長の長沼健氏により検討の場として6月「プロリーグ準備検討委員会」が設置された。そして、その場でJSLを構成する企業へのヒアリングも含めて「プロリーグへの参加条件」の検討が深められた。
折しも、この年11月には、1986年のFIFAアベランジェ会長の「W杯アジア開催プラン」発言を拠り所に、サッカー協会・村田忠男専務理事が進めてきた「2002年W杯日本開催」の意思をFIFAに対して正式に表明したことから、プロリーグ設立とW杯招致は日本サッカー界の悲願という共通認識が定着した。

1990年

世界は、W杯イタリア大会で沸いた年。決勝は前回大会と同じカードとなったが、今回は西ドイツが雪辱。 アルゼンチンのマラドーナが涙にくれた。
開催国イタリアは、救世主スキラッチ、新星バッジョなどの活躍もあり面目を保つ3位となった。

12 月のトヨタカップには前年に続きイタリア・ACミランが来日、マルコ・ファンバステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトのオランダトリオが世界のサッカーファンを魅了、パラグアイ・オリンピアを破った。国内では、元日の天皇杯決勝で日産自動車が連覇、日産は前年秋からの日本リーグ、カップ戦も制し、2年連続三冠を達成した。
夏に行われたコニカカップは、JSLカップ戦にスポンサーが初めてついたもので、この年は日本ユース代表や五輪代表も含めたリーグ戦形式だった。
この大会は、ブラジルで成功を収めたカズ選手が、日本でプレーするため帰国して、読売クラブの一員として初参戦した大会でもあり、のちにナビスコカップに継承された。

イタリアW杯
イタリアW杯決勝戦

同じ夏、高円宮杯全日本ユース選手権 ( のちの U-18 ユース大会 ) が前年のプレ大会を経て始まり名波浩選手率いる清水商が優勝した。
日本代表はというと、この年から創設されたダイナスティカップ ( 東アジアのナショナルチーム戦 ) に参戦するも3連敗、秋のアジア大会 ( 五輪のアジア版・開催地北京 ) には、読売クラブのラモス選手、カズ選手を初召集するも準々決勝で敗退。有能な選手を使いこなせない代表監督問題というテーマが浮き彫りになった時期でもある。
一方、同じアジア大会に出場した女子代表チームは銀メダルを獲得した。

一方「日本サッカー協会」の場に移された「プロサッカーリーグ構想」の検討は、3月に「プロリーグへの参加条件」を決定、JSLを構成するチームをはじめ日本サッカー協会に一種登録している全チームにその条件を提示して参加の可否確認が始まった。
「プロリーグへの参加条件」とは、次のような内容だ。
1. チームの法人化
2.プロリーグへの分担金の拠出(初年度1億4000万円)
3.ホームタウン(当時はまだ「フランチャイズ」という呼称)の設定
4. 15000人以上収容のスタジアム
5.下部組織(当時はファームチーム以下と表現)を持つこと
6.選手のプロ契約・指導者のライセンス保有の義務化
7. JFAの指示に従うこと
以上の内容が各チームに示されると、当初1ケタの少ない数程度の参入希望と考えていた事務局の予想に反して、6月には20チームから参加希望が寄せられた。
この参加の可否確認の段階では、プロリーグスタート時のチームを、何チームで始めるかまでは固まっておらず、20チームからの参加希望を絞り込む作業の中で次第に10チームに収れんされていったようだ。
絞り込み作業のため8月以降、参加希望チームへのヒアリングが始まり年明けまで続いた。

1991年

元日の天皇杯決勝で、松下電器がPK戦を制し日産自動車の3連覇を阻止した。 約1週間後の高校サッカー選手権決勝は、九州勢対決となったが、国見が鹿児島実を延長の末振り切り二度目の優勝を飾った。

前年夏以降、精力的に続けられていたプロリーグ参加希望チームへのヒアリングは最終曲面となり1月の第三次ヒアリングを経て候補が14チームに絞られた。
そしてJFA「プロリーグ検討委員会」で参加10チームが決定、2月14日、その10チームが正式発表された。
日本リーグ二部の住友金属 ( のちの鹿島アントラーズ ) や、日本リーグに参加していない清水FC( のちの清水エスパルス ) などのサプライズがあった一方、日立製作所 ( のちの柏レイソル )、ヤマハ発動機 ( のちのジュビロ磐田 ) などが落選、明暗を分けた。
全10チームは、その後統一された地域名を呼称とする呼び名で、鹿島、浦和、市原(決定時は習志野)、V川崎、横浜M、横浜F、清水、名古屋、G大阪、広島。

10チームへの絞り込み作業の過程では、当然のことながら、当落をかけて検討委員会での議論百出があったが、これからスタートするプロリーグが「何をもっとも大切にするか」という、いわば判定基準の最優先事項は「地域」との結びつきがどれぐらい強いかどうかという点だった。
とりわけ鹿島の当選については、のちに川淵氏がテレビインタビューに次のようなエピソードを語っている。
「鹿島については、当初いろいろな点で最も評価が低かったので、チーム関係者に対し「99.9999%可能性はありません」と伝えたんです。すると「川淵さん、100%じゃないんだから、その0.00001%って何ですか?」と言うんです。いや本当は100%と言いたいところなんだけど・・・。あきらめさそうと思って「日本にない屋根のついた15000人以上収容のサッカー専用スタジアムを作るっていうんでしたら話は別ですけれどね」と言ったんです。それは絶対できると思っていなかったんで・・」

すると鹿島は、県・市町村、地元企業が一体となって総工費80億円の屋根付き専用スタジアム建設に動き出し、並行して「世界のジーコ」獲得に動いた。
川淵氏はインタビューを次のようにしめくくっている。
「日本のプロリーグ発足にあたって大事なことは、まず、いい前提を作ることだ。だから絶対、鹿島の参加を認めるべきだと委員の一人が発言しましてね。それに全員一致で賛成です。僕ら、鹿島を認めて本当によかったと心から思っています。」

もう一つ、清水の当選も「サッカーの町」として自他共に認めるこの地域とサッカーの結びつきを抜きにしては語れない。当時の日本リーグは国内有数の大手企業の企業チームによって構成されていたので、そういう大手企業が地元にない清水は、母体となる有力なチームを持たない中で名乗りをあげ、極めて不利な状況にあった。
しかし「サッカーの町・清水」は、市民がこぞってなにがしかのサッカーチームに属しているのではないかと言われるほどサッカー熱が高く、小学生レベルでは、市内全域から優秀な選手を選りすぐって「清水FC」を編成して全国大会に臨んでいたし、中学・高校とも清水市の学校がたびたび全国制覇するほどのサッカーどころだ。
特に高校年代では、1980年代以降、清水東、清水市商、東海大一と、清水市内の高校が全国制覇を果たしており、静岡県予選を勝ち抜くことは、全国大会で1勝するより難しいとさえ言われたほどのレベルを誇っていた。
「サッカーの町・清水」にプロチームが誕生することは、いわば必然だったと言える。

ところで、これらの10チームを創設当初のチームとして「オリジナル10(テン)」と呼ぶことがある。「オリジナル」という言葉に「最初の」という意味があることから使われるようだが「オリジナル」という言葉は「複製されていない」という意味での「原型」といった意味で使われることが多く、言い換えれば、その後に参加したチームは「オリジナル」ではなく「複製」なのか? ということにもなり「オリジナル10(テン)」と呼ばずに「ファースト10(テン)」と呼ぶべきだと思う。

この10チーム発表を受けて専門誌「サッカーマガジン」が「どんなリーグに? 青写真を総チェック」と題して、・何年何月にスタートする? ・リーグの方式は? ・勝ち点、サドンデス方式の可能性は? ・試合日は何曜日? ・入場料はいくらに? 等々、さまざまなについて掲載しているが、まさに、このあと、これらの点について一つひとつ決まっていった。
以下、この年の「プロリーグ」スタートに向けた主な決定事項について列挙しておく。
・3月「プロリーグ設立準備室」開設
・7月 プロリーグ正式名称「社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)」、Jリーグロゴマーク発表
・11月「社団法人日本プロサッカーリーグ」設立 初代チェアマンに川淵三郎氏就任

さて、前年秋からの日本リーグは、読売クラブがぶっちぎりの優勝を遂げ、プロリーグ発足を前に、読売、日産2強時代を印象づけた。
一方、なかなか国際試合で勝てなかった日本代表は、キリンカップで初優勝を飾った。 ブラジルの名門でベベト、ビスマルク ( のちヴェルディ、アントラーズで活躍 ) らのヴァスコ・ダ・ガマ、イングランドリーグの名門でゲーリー・リネカー (W杯メキシコ大会得点王、のちJリーグスタート時に名古屋グランパスでプレー ) を擁するトッテナム・ホットスパーを破っての優勝だった。
この時の日本代表は、攻撃陣をカズ、ラモス、都並、新加入予定の北澤豪選手などの読売クラブ勢が占め、このあと数年、日本代表の攻撃をけん引していくことになる。 ちなみに、この時のユニフォームは赤で、この年まで3年ほど着用したもの。

夏には、プロリーグ参戦予定の住友金属(鹿島)にブラジルの至宝ジーコが加入、すでに引退しており年齢も 38 歳とはいえ、世界的名選手が、日本のしかも弱小クラブに入団したということで、日本はもとより世界のサッカーメディアが取り上げるニュースとなった。
女子日本代表は、この年行なわれた AFC 女子アジアカップで準優勝、秋の第一回女子W杯に、木岡二葉選手、長峯かおり選手、高倉麻子選手、野田朱美選手らを擁して出場、予選リーグで敗退するも男子より一足先にW杯を体感した。

海外では、南米選手権(コパ・アメリカ)でアルゼンチンが優勝、後に「バティゴール」と呼ばれる豪快なシュートで、世界屈指のストライカーに成長したバティステュータが国際舞台に登場した。
12月のトヨタカップでは、サビチェビッチ、ユーゴビッチなど後に欧州ビッグクラブの主力選手となる才能をずらりと並べたユーゴスラビアのレッドスター・ペオグラードが南米チリのコロコロを退け優勝した。
日本における海外サッカーのテレビ放映は、それまでテレビ東京の「三菱ダイヤモンドサッカー」(のちにダイナミックサッカーに改称)が、長らくファンの期待に応えていたが、当時、世界最高峰のリーグといわれていたイタリアリーグ(セリエA)の放映が1991~1992年シーズンからWOWOWで始まった。毎週1試合を2時間枠ノーカットで放映するとともに、エンターティメント性あふれる番組づくりで、海外サッカーファンのみならず多くの視聴者に新たな楽しみを提供してくれた。