世界のサッカーにとっても、日本のサッカーにとっても「伝説の年」だった1986年が暮れると、しばらくは淡々と時が流れていきました。
その間にも、世界のサッカー界も、日本のサッカー界も動きを止めることはありません。次の伝説の年までの間に何があったのか、記録と記憶に留めておきましょう。
1987年
元日恒例の第66回天皇杯決勝、この年は読売クラブvs日本鋼管のカードとなりました。大会連覇を目指した日産自動車は準決勝で読売クラブにPK戦の末敗退、読売クラブは決勝も2-1で制して優勝を果たしました。
この結果、1983年元旦に優勝を果たした日産自動車以降4年間、日産自動車と読売クラブが交互に天皇杯を制したことになり、日産、読売2強時代到来を強く印象づけました。
約1週間後の第65回高校サッカー選手権決勝では静岡・東海大第一がアデミール・サントス選手の見事な FK で長崎・国見高校を破り初出場初優勝を果たしました。
86-87日本リーグは読売クラブが制覇、天皇杯と合わせ2冠
前年10月から5月まで行われた日本サッカーリーグは読売クラブが優勝しました。読売クラブは、このシーズンから就任した与那城ジョージ監督、ジノ・サニ特別コーチ(元ブラジル代表)の体制で3度目のリーグ優勝を果たしました。天皇杯決勝にも勝ち進んだ日本鋼管が読売クラブと同じ勝ち点で並びましたが得失点差で涙をのみました。
読売クラブは、高卒1年目のFW武田修宏選手が得点ランク2位の11ゴールをあげ、同じく新加入のブラジル人FWガウショとともに強力ツートップとして得点源になりました。
「伝説の年 1986年」のページでも紹介しましたが、このシーズンから「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」制度が導入され、シーズン当初からライセンス・プレーヤーとなった奥寺康彦選手(古河電工)と木村和司選手(日産自動車)がメディアでも取り上げられるなど注目と期待を集めました。
奥寺康彦選手のほうは、アジアクラブ選手権で終始チームを牽引して日本のクラブとして初のチャンピオンとなる原動力となりましたが、木村和司選手のほうは不本意なプロ契約1年目になったようです。
日本代表、あと一歩でソウル五輪出場権逸す
この年、日本代表は、翌年のソウル五輪アジア予選に挑みました。春の一次予選を順当に突破した日本代表は、中国、タイ、ネパールとホーム&アウェーの最終予選に臨みました。10月26日、国立競技場に中国を迎えての最終戦、ここまで全勝の日本は中国相手に引き分ければ1969年のメキシコ五輪以来20年ぶりの五輪出場を決めることができる試合でした。
日本は石井義信監督のもと、鉄壁のディフェンスで少ないチャンスをモノにする試合運びでアジア予選ここまで無失点。この日も、そうした試合を期待して雨の夜でしたが国立競技場は、ほぼ満員となりました。
しかし、日本は一瞬のスキをつかれて2失点、20年ぶりの五輪出場は断たれてしまいました。
この夜は、かつてのメキシコ五輪銅メダル獲得時の代表メンバーだった釜本邦茂さん、杉山隆一さん、八重樫茂生さんらが勝利を信じて祝勝会の席も予約して見守っていましたが、悲願ならず祝いの宴とはいかなかったようです。
くしくも2年前の10月26日、メキシコW杯アジア最終予選、この時は韓国に敗れ、あと一歩で出場権を逃しました。同じ日に起きた今回の敗北は、協会関係者はもとより多くのサッカーファンの期待が大きかっただけに落胆も大きく、日本サッカーのあり方を根本的に見直さなければという声が高まることにもつながりました。
前年のW杯メキシコ大会で、スーパースターの座を不動のものにしたマラドーナ選手が 1 月、ゼロックススーパーサッカーに南米選抜の一員として来日、日本リーグ選抜と対戦、左足を痛めていながらも日本中のファンを魅了しました。そのマラドーナ選手率いる SSC ナポリは、86 ー 87 シーズン、イタリアリーグを悲願の初制覇、カップ戦と2冠に輝きました。
この国内2冠は、これまでイタリア北部の2チーム(トリノ、ユベントス)しか達成していない偉業だったため、マラドーナは南部のナポリが達成したことを大変誇りにしていたようです。
12月13日、国立競技場で第8回トヨタカップ(トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ)が開催されました。この年は南米からペニャロール(ウルグアイ)、欧州からはFCポルト(ポルトガル)の対戦となりました。
雪が舞う中キックオフされたゲームは次第に大雪となり、ピッチ上は数センチの積雪、選手が踏み固めたところは水溜まりとなり、蹴ったボールが思うように前に進まないコンディションとなりました。昼でありながらボールが見えにくくなったためカラーボールに変えられ、観客席は傘をさしての観戦となりました。
一時は試合中止も検討された中、両チームの戦意がくじけることはなく続行され、試合は1-1のまま延長にもつれ込みました。そして延長後半4分、FCポルトのFWマジェールが遠目からシュート、これが雪の中を転がるようにポストに吸い込まれたのです。実況した日本テレビアナウンサーが思わず「マジェール!!」「マジェール!!」と絶叫してしまうゴールでした。
両チームが死力を尽くして戦った試合は、欧州代表FC ポルトが勝利しましたが「雪中の熱闘」としてトヨタカップ史に残る試合となりました。
1988年
元日恒例の第67回天皇杯決勝は、読売クラブとマツダのカードとなり、読売クラブが連覇を果たしました。読売クラブは1月に行われたアジアクラブ選手権決勝にも勝って優勝しました。アジアクラブ選手権は前回の古河電工に続き日本のクラブによる連続優勝となりました。
約1週間後の第66回全国高校サッカー選手権決勝は前回大会と同じカードとなり、長崎・国見高校が静岡・東海大一を下し前回大会の雪辱を果たして初優勝、第63回大会で島原商を優勝(帝京と両校優勝)に導き、今回、国見高校を初優勝に導いた小嶺監督の名が全国に知れ渡った大会でした。この年は、帝京高校の磯貝洋光選手、森山泰行選手、東海大一の澤登正朗選手、平沢政輝選手などスター性のある選手が最上級生となったこともあり、彼らを見るため多くのファンがスタンドに足を運んだことも特徴でした。 前年10月から今年5月まで行われた87-88日本サッカーリーグ(第23回)は、昨シーズン導入された「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の呼称が「ライセンス・プレーヤー」となりプロ契約選手が72人と大幅に増えたシーズンでした。 奥寺康彦選手、永井良和選手とともに現役引退一方、シーズン終了をもって古河電工の奥寺康彦選手と永井良和選手が現役を引退しました。 当時は日本人プレーヤーが海外でブレーするには言葉の問題やサポート面など、さまざまなリスクがあり、また海外でプレーしていれば日本代表を兼ねることを断念することを意味していたこともあり、相当悩んでの決断でした。 ブンデスリーガでは、奥寺選手の厳しく自分を律するプロ意識や、誠実で勤勉な日本人らしい人柄が愛され、また自らもチームの求めるプレースタイルに適応する努力を続けた結果、34歳まで9シーズン、3クラブで活躍して1986年夏に古河電工に復帰しました。 奥寺康彦選手と同じ歳ながら一学年後輩の永井良和選手は、浦和南高校が1969年度に当時の高校3冠を達成した偉業を題材に、漫画家の梶原一騎氏原作の漫画・アニメーション『赤き血のイレブン』の主人公・玉井真吾のモデルとなった選手としてその名を知られた選手です。 キリンカップでジーコ、ゼロックススーパーサッカーでマラドーナが日本のファンを魅了5月下旬から6月上旬にかけてキリンカップサッカーが開催されました。この年は新たに就任した横山兼三監督が率いる日本代表、ブラジルの名門・フラメンゴ、中国代表、ブンデスリーガの強豪・レバークーゼンの4チームによる総当たりの予選リーグと上位2チームによる決勝が行われました。 8月のゼロックススーパーサッカーには、マラドーナが前年に続いて来日しました。前年は南米選抜としてでしたが、今年はイタリア・セリエA、ナポリを率いての再来日となりました。88-89シーズン前の調整段階ながら、のちに日本でプレーすることになるブラジル代表・カレカ、イタリア代表で俳優のシルベスター・スタローンに似ていることからランボーのニックネームがあるフェルナンド・デ・ナポリ、後にイタリア代表となる若き日のチロ・フェラーラなど、ほぼベストメンバーでの来日となりました。 対する日本代表は、この試合を最後に日本代表も引退することになっていた奥寺康彦選手がキャプテンマークを巻いて、同じく引退する永井良和選手とともに出場しました。試合は、マラドーナは中盤で自在にボールを繰り観衆を魅了、得点はエース・カレカが一瞬のスピードで2ゴールを陥れ、ストライカー・カレカを日本のファンに強烈に印象づけました。日本代表はナボリの堅守を崩せず敗れました。 毎年夏休みの恒例行事となった、東京・よみうりランドでの全日本少年サッカー大会は12回目を迎えました。地方予選に7383チームが参加したこの大会、ここまで3連覇中の静岡・清水FCが今年も最有力と言われ、のちに日本代表となる西沢明訓選手(6年)と、日本ユース代表でジュビロ磐田で活躍した山西尊裕選手(6年)を中心として順調に決勝に勝ち上がってきました。 一方、正真正銘の地元チーム、読売クラブユースSは、全国大会初出場ながら、こちらもテクニックに優れた好選手を揃え決勝に勝ち上がってきました。 欧州選手権はオランダが優勝6月、88欧州選手権が西ドイツで開催されました。オランダがマルコ・ファンバステンのスーパーゴールで初優勝を果たしました。予選を勝ち抜いた8ケ国が本大会に臨み、2組に分かれたグループリーグを、開催国・西ドイツ、オランダ、ソ連、イタリアが準決勝に進みました。 そして、西ドイツを下したオランダと、イタリアを退けたソ連の決勝となりました。オランダは、FWマルコ・ファンバステン、MFルート・フリット、MFフランク・ライカールト、DFロナルド・クーマンと各ポジションに世界ナンバーワンクラスの選手を揃えたチームでした。 この大会では、特にFWマルコ・ファンバステンが絶好調で、決勝でも後半9分、右サイドから浮き球を直接ボレーで叩き込み大会5点目、優勝と得点王を手にしました。後に、ファンバステン、フリット、ライカールトの3人は、イタリア・セリエAのACミランで揃ってプレーすることになり、オランダトリオと呼ばれて世界のサッカーをリードする存在となりました。 この年はソウル五輪が開催された年です。日本は、前年10月、韓国がいない東アジア地区予選で、中国に勝てば 20 年ぶりの出場権獲得までこぎつけましたが、雨の国立競技場での試合に敗れました。五輪本大会のサッカーでは、決勝でソ連に敗れたものの大会得点王となったブラジル・ロマーリオが脚光を浴びました。 |
日本サッカーリーグ(JSL)で初のプロリーグ化検討の会議がスタートこの年は、のちのJリーグ創設につながる検討が、Jリーグの前身である日本サッカーリーグ(JSL)事務局内で本格的に始まった年です。 途中、石井義信氏が日本代表監督に就任したため、事務局は森総務主事、木之本事務局長が中心になりました。 「伝説の年 1986年」でも紹介しましたが、2人は、日本初のプロ契約選手を認める「スペシャル・ライランス・プレーヤー」制度の導入など日本サッカー界の環境整備を着々と進めていましたが、今度は、総務主事の森健兒氏が、出身企業である三菱重工の人事異動で名古屋に転勤となり、木之本事務局長が前面に出て活動する場面が増えてきました。 この当時の日本サッカーリーグの運営は、社業をもった人たちが出向という形で携わっていたのですが、木之本事務局長は専任でした。木之本氏は26歳の時、グッドパスチャー症候群という難病にかかり、週3回の人工透析が欠かせない身体だったこともあり、所属していた古河電工を1983年12月退職していました。 その直後、日本サッカーリーグ(JSL)の運営委員を熱心に務めていた木之本氏を以前から見ていた森健兒氏から誘いを受けてリーグの専従職員に就いたのです。 木之本氏は事務局長に就いて以降、ちょうど同じ頃に独立事務所を構えた東京・神田小川町の事務局で、各チームから運営委員として参加してきたメンバーと「どうすればリーグを活性化できるのか、プロリーグはどうしたら作れるのか」といったテーマについて、日々意見交換や勉強会を重ねていました。 事務局にはサッカー取材に熱心なマスコミ関係者も集い、海外の状況をいろいろと報告してくれるサロンのような場にもなっていました。 そうした中から木之本氏は、プロリーグ化を検討するとなった場合に論点となる、日本リーグの現状と課題、今後の方向性、プロリーグ制度とは何か、といった点について、いつでも議論ができるタタキ台を練り上げていました。 1987年になると、一つの情報がリーグ事務局に入ってきました。読売グループがプロリーグを立ち上げようと動いているというのです。日本リーグ参加の数チームに声をかけ会合を持っているようだという情報でした。 もし、その流れが本格化して、日本サッカー協会が後追い承認のような形でプロリーグが認められてしまうようなことがあるのだろうか? 木之本氏はここ数年来、よき相談相手になってくれている日産の加茂監督にそのことを確認すると、加茂監督は「自分はそれに乗る気はない」とキッパリ言ったそうです。 理由は「これまで日本のサッカー界を牽引してきた大手企業出身のサッカー関係者の後押し・協力なしに新興勢力がプロ化を唱えても成功しない」ということでした。ただ、それは「プロリーグ化は待ったなしだ」ということも意味していました。 そして、1987年10月、ソウル五輪サッカーへの出場権を日本が逃したことで、木之本氏は、本格的に「プロリーグ化」を進めなければならないと考え行動を開始したのです。 そのためには、タタキ台をしかるべき場できちんとしたレポートとしてオーソライズする必要があると考え、どのような場にするか相談するとともに、これまで思いを共有してきた仲間の運営委員たちともプロ化構想の練り直しも進めました。 その結果、この年、3月17日に「JSL活性化委員会」という名称の検討会議が発足しました。しかし、会議の趣旨がプロリーグの創設を目指すものであることを対外的に明らかにすれば、選手のプロ化のときと違い、今度は各企業サッカー部の存続に直接関わってくる話であり、企業も日本サッカー協会も神経質になることは間違いない状況でした。 そのため「プロ化」という具体的な提案を出す前に圧力がかかるのを避けるため、会議の名称を「JSL活性化委員会」、検討する新たなリーグ名も「スペシャルリーグ」という具合に「プロ」という言葉を使わない工夫をしましたが、日本サッカー史の中では、この3月17日の「JSL活性化委員会」がプロサッカーリーグについて具体的に検討を開始した最初の場とされています。 「JSL活性化委員会」には、森健兒総務主事、木之本事務局長が中心になって選定した、思いを共有するメンバーとして、読売クラブの浅野誠也氏、日産の佐々木一樹氏、フジタの石井義信氏、ヤマハの杉山隆一氏、三菱重工の森孝慈氏を選びました。そして本来なら森健兒総務主事が就くべき委員長を、森氏が名古屋勤務で思うように活動できないということで、古河電工のサッカー部長・小倉純二氏にお願いすることにしました。 小倉純二氏は、6年間イギリスに赴任していましたが1987年春から日本に戻り、古河のサッカー部長になってJSLの会議にも出席するようになっていました。海外で得たプロリーグ運営のノウハウにも詳しく、経理にも事業経営分野にも明るい適任者でした。 以上のメンバーはJSLの事務局関係者もしくは参加チームから出ている運営委員といった、いわば身内でしたが、森健兒総務主事、木之本事務局長は、それだけでは不十分だと考えていました。プロリーグ化の同意を得なければならない相手は、JSL参加企業だけでなく、日本サッカー協会からも必要だったからです。 そこで2人は、サッカー協会きっての国際派であり行動力にも優れていて、協会に長沼健氏、平木隆三氏と合わせて3人しかいない専任理事の一人、村田忠男氏に委員会メンバーへの参加を求めることにしました。 「JSL活性化委員会」は、こうして集まった9人のメンバーで検討が進められ7月まで6回、会合を重ねました。そして7月21日に最終報告書をまとめ、日本サッカー協会の理事会に提出したのです。26頁の報告書には、1993年に発足した「Jリーグ」の基本理念のほとんどが盛り込まれていたようで「Jリーグ」構想の第一歩となる報告書となりました。 日本サッカーリーグ(JSL)の運営、森健兒氏から川淵三郎氏にバトンタッチ「JSL活性化委員会」の検討と並行するように、森氏は名古屋にいる自分のあと、総務主事を託す人材として、古河電工の関連企業で仕事をしていた川淵三郎氏を考えたそうです。森氏は1980年代前半に川淵氏が日本サッカー協会の強化部長をしていた時のリーダーシップが心に残っていて「せっかくプロ化の入り口くらいまで進めているのに、上の世代の人たちに従来のやり方でやって欲しくなかった」ということで川淵氏を口説いたといいます。 川淵氏は古河電工の社業でのキャリアのこともあり、一旦は留保したそうですが、森氏に言わせると「川淵氏が古河電工の役員コースに乗っていたら、川淵総務主事は誕生しなかったし、Jリーグ創設もどうなっていたかわからない」ということだったようですが、川淵氏は自分がそうならないことを見切って、森氏の要請を受けました。 こうして、8月1日付けで日本サッカーリーグ総務主事に就任した川淵氏は、日本サッカー協会理事会に報告書を出したことによって一旦区切りのついていた「JSL活性化委員会」を再出発させる形で「第二次JSL活性化委員会」を設置しました。 総務主事就任当初の川淵氏は、プロリーグ化の検討には消極的な立場だったと自ら述懐しています。当時の日本リーグの試合レベルもさることながら、マナーの悪化に幻滅していて実現の見通しを描けなかったといいます。「こんな有様で何がプロ化だ」という思いや、同じ国立競技場を使って満員にできる高校サッカー選手権を引き合いに「高校サッカーより動員力がなくて何がプロ化だよ」という陰口も耳にしていたからでした。 ですから「第二次JSL活性化委員会」も、当初は、プロリーグ化構想を加速化させるというスタンスではなく、いまのJSLに何が足りなくて何が必要なのかを自分なりに見極める場にしたいと考えていました。 一方の木之本事務局長は、日本サッカー協会に提出した報告書を読み返しながら、協会と企業をその気にさせるために足りないものを感じており、例えばプロリーグの発足時期が明確になっていないことによる説得力の弱さ、スタジアムの確保などを中心とした自治体や地元経済界との協力のあり方などを、もう一度シュミレーションしなければならないと考え「第二次JSL活性化委員会」での検討の加速を望んでいました。 「第二次JSL活性化委員会」は、最初の「JSL活性化委員会」に引き続き委員長を引き受けた小倉純二氏ら9人のメンバーに、新たに川淵氏、そして日本鋼管の阿部豊氏、ヤンマーの有村宏三郎氏、全日空の泉信一郎氏が加わった13人のメンバーで、1988年10月3日に初会合が開かれています。 その初会合の前に開催された各企業チームの代表者(サッカー部長)クラスによる「実行委員会」の席上、森健兒氏は「第二次JSL活性化委員会」の意義について「自分の会社はプロ化に踏み切るつもりはなくとも、日本のサッカーはどうあるべきかという観点から意見を言って欲しい。プロ化に賛成の側も、参加しないくせに、とは言わないように」と説明しました。 「第二次JSL活性化委員会」の議論を通じて川淵総務主事と木之本事務局長は「多くのお客さんの前であれば、いい加減なプレーもマナーの悪い態度もとれないはずだ」と考え「まず日本リーグの試合で国立競技場を満員にしよう」というプロジェクトを立ち上げました。年明け1989年2月26日に国立競技場で行われる2試合を満員の観客で埋めようというプランです。 けれども、何分にも予算のない事務局でしたから大々的な広告を打つわけにもいかず、川淵氏は自ら差出人となって、関東圏にあるサッカースクールやクラブ、学校の指導者宛に手紙による招待作戦を展開するとともに、明石家さんまさんに頼み込んで「頼むやさかい、日本サッカーリーグの選手たちに、満員の国立でプレーさせてやってや、ファン代表・明石家さんま」というキャッチコピーが入った集客ポスターを作ったりと、手作業にも似た活動を年末ぎりぎりまで続け、年を越したのでした。 |
1989年
元日恒例の第68回天皇杯決勝は、日産自動車とフジタ工業の対戦となりました。前回、前々回と読売クラブの連覇を許した日産自動車が「2強時代は続ける」とばかりにリーグ戦の不敗をそのまま持ち込み3-1でフジタ工業を退け王座を奪還しました。
1月7日、昭和天皇が崩御され平成の御代となりました。
昭和と平成をまたぐ形で行われていた第67回全国高校サッカー選手権は、昭和天皇崩御の喪に服すため「日本テレビ」の中継ではCM自粛方針のもと、ハーフタイム時に音楽だけが流れる珍しい放送となりました。決勝は三浦文丈選手、藤田俊哉選手を擁する清水商と野口幸司を擁する市立船橋との対戦になり清水商が1-0で2回目の優勝を果たしました。
「国立を満員に」プロジェクトが、川淵氏を「プロリーグ化」積極推進派に
前年暮れに企画され準備が進められた「2月26日に国立競技場で行われる2試合を満員にしよう」プロジェクトは、リーグ戦12節、読売クラブvs三菱、ヤマハvs日産という人気チームが絡むカードで行われました。
川淵総務主事名で関東一円のサッカースクールやクラブ、学校の指導者宛に出された5100通の招待状に対して希望があった観戦者数は、リーグ事務局が目標としていた3万人を大幅に超える5万5000人だったそうです。
それでも川淵総務主事は「当日、実際に国立競技場に来れるのは6割と見積もって3万人ちょっと・・・」と手堅く考えていました。
そして迎えた当日、折悪しく前日に降り始めた雨が朝になっても止まなかったことから、キャンセルするチーム・団体が続出しました。
ところが午前9時頃に雨があがり、日差しが暖かく照り始めたのです。この日の国立競技場の開門は10時30分でした。いつの間にか開門を待つ数千人の列ができ、まるでトヨタカップに来日した人気チームの試合の日のような光景が24年目の「日本サッカーリーグ」の試合で初めて見られたのです。
この日の入場者数は4万1000人と発表されました。のちに川淵氏が述懐していますが、入場者の実数発表を行う慣例がなかった当時は「概ねこれぐらい」の数字を発表していた中で、第一試合3万5000人、第二試合4万1000人と発表したそうで、第二試合の実数は2万9000人だったそうです。
これは、過去の「日本サッカーリーグ」の試合の入場者最高記録が、実数2万8000人のところを4万人と発表されていることから、実数、発表数とも1000人上回る数字にしたというのです。川淵氏は、この時の虚偽発表を悔いてJリーグ発足以降は厳格な実数発表に切り替えたという後日談が残っています。
前年8月の総務主事就任以来、閑古鳥の鳴く会場でレベルの低い、マナーもよくない試合しかできない日本サッカーリーグ、それで「何がプロ化だ」と考えていた川淵氏は、多くのお客さんの前でプレーすれば選手も懸命になり、いい試合を見せてくれるだろう、まずそこからだと企画したこの日のプロジェクトでした。
多くのファンで埋まったスタンドを見上げながら川淵氏は「果たして、今日来てくれたお客さんは、次もまた来たいと思ってくれただろうか」と思ったといいます。そして、自分がかつてドイツで見たブンデスリーガのスタジアムの光景とダブらせて、ハッと気づいたといいます。
欧州のプロリーグのスタジアムは、腹の底から応援するサポーターの歓声、林立する応援フラッグやピッチを取り囲むように貼られた横断幕、そしてカラフルな自分の応援チームシャツが埋め尽くす応援席、緑鮮やかなピッチ、スタジアムそのものが非日常空間となった中で毎週行われます。もし初めて見に来たお客さんがいたら必ず次の試合も見に来たい、そう思う空間がそこにあり、サポーターたちは当然のように次の試合を楽しみにしているのです。
「そうだ、今日来てくれた人たちに、また足を運んで欲しいと考えるなら、我々がファンの人たちに非日常空間だと思えるような舞台装置を用意してあげなければならない。『もっとしっかりやれ』と選手たちの尻をたたきたいのであれば、それ相応の舞台を用意することが先なのではないか」
川淵氏は小さい頃、演劇に打ち込んでいたそうです。スタジアムを「非日常空間」「舞台装置」になぞらえて発想できるところが、川淵氏の強みとも言えます。
川淵氏は、これを機に「プロリーグ化」推進の先頭に立つ決意を固めたのですが、そうと決めれば行動の大胆かつエネルギッシュなところは、前任者の森健兒氏が見込んだとおりでした。
これで「プロリーグ化」推進に賭ける3人のキーマン、森氏、木之本氏、川淵氏は同じ目標に向かって進み出しました。
時まさしく平成元年早春。日本サッカーの成長、進化、発展の歴史が平成の30年間とぴったりと重なる元年でもありました。
1989年3月13日まで8回にわたって開催された「第二次JSL活性化委員会」で23ページの報告書がまとめられましたが、一次の時と大きく異なるのが、プロリーグである「スペシャルリーグ」の発足時期を3年後の1992年秋と明確にしたことでした。
そして、想定される2002年W杯の開催地が決定される1996年までに、何をいつまでにしなければならないかを記した詳細なカレンダーも添付、さらには新しいリーグの収支シュミレーションも詳細に示したものでした。
できあがった報告書を読んで木之本氏は、内容が重厚になった分、要点がわかりずらくなったような気がして付録として「素朴な疑問」と題した要点集をつけました。木之本氏は、これで、自分が事務局長に就いて以来練り上げてきた構想を一つの形にし終えたという充足感を覚えたそうです。
「第二次JSL活性化委員会」報告書は、1989年6月2日に日本サッカー協会の理事会に報告されました。
加茂監督率いる日産自動車、悲願の日本リーグ初制覇
前年秋から争われていた88-89日本サッカーリーグ(第24回)は、年を越すまで負けなしで快進撃を続けていた日産自動車が、年明け再開後にもたついたものの、残り1試合を残した21節に本田技研を破って悲願のリーグ初優勝を決定、胴上げで加茂監督が宙に舞いました。日産はこれで天皇杯、カップ戦を合わせ三冠を達成しました。
夏休み恒例の、東京・よみうりランドでの第13回全日本少年サッカー大会は、埼玉・FC浦和と大分・FC中津の決勝となり、再延長までもつれ込む接戦の末、FC浦和が2度目(前回は同時優勝)の優勝を果たしました。
また、この年は、高円宮杯全日本ジュニアユース選手権 ( のちの U-15 全日本ユース大会 )がスタートした年です。中学年代が学校、クラブの垣根を取り払ってナンバーワンを決める記念の第1回は読売クラブジュニアユースと静岡・東海大一中の決勝となり、読売クラブジュニアユースが3-1で勝利、初代王者に輝きました。
高校年代の高円宮杯全日本ユース選手権 ( のちの U-18 全日本ユース大会⇒ U-18 全日本サッカーリーグ)も、この年、プレ大会という位置づけで始まり静岡・清水商が長崎・国見を破って優勝しました。
さらにこの年は、日本女子サッカーリーグ ( のちのLリーグ⇒なでしこリーグ⇒WE リーグ ) も始まりました。
日本の女子サッカーは、1970年代後半から、神戸や静岡などでチームが立ち上がり、1981年にアジア女子サッカー選手権が開催されることになったこから、1980年に初の全日本女子サッカー選手権(トーナメント方式・のちの皇后杯女子サッカー選手権)がスタートしました。
そうした土壌の中、1991年にFIFA女子ワールドカップが開催されることが決まり、アジアでも1990年の第11回アジア競技大会で女子サッカーが正式種目になったことから、代表チームの強化を視野に入れた全国リーグ「日本女子サッカーリーグ」が創設されたのです。
89-90シーズンの第1回女子サッカーリーグには清水FC、読売ベレーザ、田崎真珠神戸、新光クレール、日産FC、プリマハムの6チームが参加、9月9日から2回戦総当たりの10試合で優勝を争うリーグがスタートしました。
このあと日本の女子サッカーは、世界と互角に渡り合う力をつけていきますが、一方で国内の女子サッカーを取り巻く厳しい環境の中で、選手、関係者たちが苦難の中、女子サッカーのたいまつを掲げ続けました。
この時期にユース年代や女子カテゴリーの全国大会が創設されるまでには、組織づくりやその運営に知悉した一人の先人の長年の情熱と行動力があったことを記録しておき、皆さんの記憶に留めていただきたいと思います。
「伝説の年 1986年」の中で、日本サッカーリーグ(JSL)へのプロ契約制度導入に尽力した森 健兒氏を紹介しましたが、同氏は、それ以前、1970年代から出身母体の三菱重工で、三菱創業100周年の記念事業に携わり、現在も「まちクラブの雄」として知られている「三菱養和サッカークラブ」の母体である総合スポーツクラブ「三菱養和会」の設立を経験しました。
東京・巣鴨の本部に人工芝のサッカーグラウンドが整備されたことから、森氏は、1980年からスタートした全日本女子サッカー選手権をここで開催したほか、中学生年代の部活チームとクラブチームの垣根を取り払って、全国地域ブロック単位に有望な選手を選抜した全日本選抜中学生サッカー大会もここでスタートさせました。この大会はこの年1989年で11回を数えています。
また女子サッカーの裾野を広げる取り組みでは、1979年、FIFA(国際サッカー連盟)から各国のサッカー協会宛てに「女子サッカーを管轄下において普及と発展に努める」旨の通達があったことを受けて「日本女子サッカー連盟」が設立されました。
この団体は、当初、日本サッカー協会の加盟団体とは認められない立場で出発したため、団体の立ち上げと運営の継続には、初代理事長・森健兒氏をはじめ、強化費の捻出などで母体となった三菱グループの支援がありました。
こうした情熱と行動力に溢れた先人たちの取り組みの延長線上に、ユースカテゴリーや女子サッカーの新たな環境が整ってきたのです。
日本代表が南米遠征でブラジル代表と初試合、カズ選手のクラブとも対戦
この年5月から、90年イタリアW杯アジア予選がスタートしました。日本代表は、前年のソウル五輪アジア最終予選のあと監督に横山兼三監督が就任して、大胆に世代交代を図り一次予選に臨みましたが、各組1位のみ通過の一次予選で北朝鮮の後塵を拝し、あえなく敗退という結果に終わりました。
前回W杯アジア予選を下回る結果にサッカーファンの不満が高まり、ファンによる解任署名運動やスタジアムにおける解任要求の横断幕の掲示などが行われました。しかし、横山監督は、代表監督就任の際に「結果は出なくても将来のため、若手を使いたい」と申し出ていて、日本サッカー協会も容認していたことから続投しました。
7月から8月にかけて日本代表は南米遠征を行ないました。そして、7月23日、この年のコパ・アメリカを制したばかりのブラジル代表と史上初の対戦機会を得ました。ブラジル代表は、その直後7月30日から始まるイタリアW杯南米予選のテストマッチ相手として、南米(ブラジル、アルゼンチン)遠征中の日本代表を指名したのです。
リオデジャネイロのサンジャヌアリオ競技場で行われたこの試合、ブラジル代表は負傷が回復したエース・カレカにロマーリオ、ベベトといった新しい攻撃の柱を組み合わせたテストが目的だったようで、文字通りの強力攻撃陣に日本は防戦一方となりました。
試合は日本代表のGK森下申一選手の再三再四の好セーブによりブラジルの得点を最少失点に抑える結果となりましたが、ブラジル攻撃陣の猛攻を思い切り浴びる試合となりました。これが、その後、長く日本代表の前に立ちはだかったブラジル代表(セレソン)との初めての遭遇となりました。
ブラジル代表戦に先立つこと5日前、日本代表はブラジルのクラブ・コリチーバと対戦しています。コリチーバにはカズ・三浦知良選手が所属していたからです。カズ・三浦知良選手は前年10月にこのチームに加わると、たちまち左ウイングのポジションを獲得、独特のドリブル突破で活躍して地元ファンの心をわし掴みにしていました。今シーズン前には名門サンパウロFCやイタリアのクラブからのオファーもあったようでしたが、地元ファンが移籍反対の署名活動までしてカズ選手を引き留めたというエピソードもある人気者でした。
この試合、カズ・三浦知良選手はフル出場でチームも日本代表に1-0で勝利、プロの貫禄を見せつけた試合でした。
試合後、カズ・三浦知良選手は日本の取材陣に「僕たちは給料を稼ぐため、営業で、田舎のひどいグラウンドでも試合をしなければならないですけれど、日本代表はマラドーナとか世界のスーパースターとすぐ試合をできちゃうから、うらやましいです。もし日本代表でプレーしてくれと言われたら、自分のチームの試合をほっぽってでも行きたかったですけど・・・」と語ったようです。
日本の「ぬるま湯の環境」の中で試合できる日本代表を羨みつつも、イタリアW杯アジア予選でも早々に敗退するなど、なかなか国際試合で勝てない日本代表の脆さをチクリと言い当てているコメントでした。
この年の海外サッカーは、5月、88-89欧州チャンピオンズカップ決勝が行われ、前年、欧州選手権を制したオランダのFWマルコ・ファンバステン、MFルート・フリット、MFフランク・ライカールト、いわゆるオランダトリオを擁するイタリア・ACミランがステフウア・ブカレストを4-0で粉砕、優勝を果たし、12月のトヨタカップ出場権を手にしました。
6月に行われた南米選手権 ( コパ・アメリカ ) ではブラジルが優勝しました。ベベット、ロマーリオ、ドゥンガなど のちに1994年W杯を制するメンバーが主力でした。
この年6月からNHKがBS放送の本放送を始めています。本放送開始によりスポーツ関係の番組が飛躍的に増え、サッカー中継も、それまでテレビ東京系列が放送を続けていた「ダイヤモンドサッカー⇒ダイナミックサッカー」に加え、1時間50分枠でノーカット放送による試合中継の番組が増えました。この年は翌年のイタリアW杯の欧州予選、南米予選などのカードが放送されました。
プロサッカーリーグ構想の検討は日本サッカー協会の場へ
さて、2月の「国立を満員にしよう」プロジェクト以降、日本サッカーリーグ川淵総務主事が本腰を入れて推進し始めた「プロサッカーリーグ構想」は、木之本氏らによってまとめられた「第二次JSL活性化委員会」報告書が、6月2日に日本サッカー協会理事会に報告されたことで一区切りついたのですが、川淵氏の狙いは、検討の場を日本サッカー協会に移すところにありました。
これまでの検討を通じて、日本サッカーリーグ(JSL)を構成する実業団チームに派遣されている親会社役員たちから「プロ野球でさえ赤字経営なのにプロサッカーでまともに採算がとれない」の意見が多く出され、サッカーチームを企業の福利厚生の一環と考える厚い壁に阻まれていたからです。
そこで川淵氏は、JSLだけでの議論ではとても埒が明かないと、日本サッカー協会に議論の場を移すべく理事会に報告書を提出したのを機に「第二次JSL活性化委員会」を解散しました。
日本サッカー協会に報告書を提出した目的は「プロリーグ創設」を承認してもらうことではなく、協会に検討委員会の設置を認めさせることだったのです。
協会理事会で川淵総務主事が説明すると、案の定、古参の理事たちから「アマとしてできることはやり尽くしたのか」という意見と「時期尚早」という意見が相次ぎました。川淵総務主事は「検討するだけなら何の問題もないはずです」という論法で押し通し、協会内に検討委員会を設置させること認めさせました。
それを受けて、6月、日本サッカー協会に、長沼健副会長を委員長とする「プロリーグ検討委員会」が設置されました。これで「プロサッカーリーグ」構想は、JSLだけでの検討から日本サッカー界をあげての検討事項となりました。
川淵氏、木之本氏らJSL事務局のメンバーは「プロリーグへの参加条件」についての具体的検討を皮切りに、ここから1991 年の社団法人「日本プロサッカーリーグ」の設立に向けて、多くの困難に立ち向かいながら、獅子奮迅の活動に入ります。
各チームの運営委員と実行委員もそれは同じでした。会社のトップへの説明と決断を迫る仕事、「プロリーグへの参加条件」をクリアするための仕事が山積みだったからです。
こうした「プロリーグ構想」の本格的検討は、サッカー専門誌をはじめとしたスポーツメディア、ジャーナリストにとっても刺激的なニュースであり、かねてから「プロ化」を叫んできたジャーナリストたちにとっては「やっとここまで来たか」という思いと「我々も何らかの形でパックアップしよう」という思いの交じった記事が多くなってきました。
月刊ストライカー誌のように「JSL活性化懸賞論文募集」といった企画を打つところもあり、こうした動きは「プロリーグ構想」の具体化に向けて奔走している関係者を世論喚起の形で支援する効果がありました。
「プロリーグ構想検討の本格化」と歩調を合わせるかのように、この年11月には、1986年のFIFAアベランジェ会長の「W杯アジア開催プラン」発言を拠り所に、日本サッカー協会が進めてきた「2002年W杯日本開催」の意思を、村田忠男専務理事がFIFAに対して正式に表明したことから「プロリーグ設立とW杯招致は日本サッカー界の悲願」という共通認識が定着した年でもあります。
12月の恒例となったトヨタカップには、オランダトリオで欧州チャンピオンズカップを制したイタリア・ACミランが来日、怪人GKイギータを擁するコロンビアのアトレチコ・ナシオナルの好守に悩まされながらも延長で勝利、日本のサッカーファンを大いに楽しませてくれました。
12月、読売クラブのラモス選手が日本への帰化申請が認められ日本人「ラモス瑠偉」として再出発することが発表されました。20歳の時にブラジルから来日して読売クラブに加入して以来13年目、まもなく33歳を迎えるラモス瑠偉選手は、翌年からさっそく日本代表に招集され司令塔として日本の躍進に貢献していきます。
1990年
オスカー監督指揮の日産自動車、2年連続三冠達成元日恒例の第69回天皇杯決勝は、準決勝で宿敵読売クラブを退けた日産自動車と、全日空をPK戦の末下したヤマハのカードとなり日産自動車が3-2で勝利、天皇杯連覇を果たしました。日産自動車は前年秋からの89-90日本サッカーリーグ(第25回)からオスカー監督体制になりましたがリーグ戦も制し、天皇杯、カップ戦と合わせて2年連続三冠を達成、日産黄金時代を築きました。 1月20日には、ゼロックススーパーサッカー’90が、日本サッカーリーグ(JSL)25周年記念事業として、ヨーロッパの強豪バイエルン・ミュンヘンを招いて、日本リーグ選抜チームとの試合が行われました。 昨年9月にスタートした第1回日本女子サッカーリーグ89-90シーズンは、2回戦総当たりの10試合で優勝を争った結果、1月28日最終節、静岡・清水FCレディースが読売ベレーザを破り逆転で記念すべき初代王者に輝きました。女子サッカー草創期のレジェンド、木岡二葉選手や半田悦子選手たちが黙々と続けてきた練習の成果が花開いた瞬間でした。 W杯イタリア大会は西ドイツが3度目の優勝この年、世界は、W杯イタリア大会で沸いた年です。各大陸予選を勝ち抜いた24ケ国が参加したこの大会、前回大会のヒーロー・マラドーナ率いるアルゼンチンや88年欧州選手権の覇者オランダ、前年のコパ・アメリカを制したブラジル、地元開催に燃えるイタリア、そして前回大会の雪辱を期す西ドイツなど、優勝予想の難しい大会となりました。 大会は6月8日の開幕戦で前回覇者のアルゼンチンがアフリカの伏兵カメルーンに0-1で敗れるという波乱の幕開けとなりました。グループリーグの戦いでは、このアルゼンチンと優勝候補の一角オランダが3位に終わり、両チームとも3位チーム同士の比較で辛くも決勝トーナメント進出を果たすという厳しさでした。 決勝トーナメントに入ると、そのアルゼンチンとオランダが3位になった影響で1回戦の組み合わせに強豪同士の対戦が実現してしまいました。オランダvs西ドイツ、アルゼンチンvsブラジルです。オランダは中盤の要ライカールトが、西ドイツのFWフェラーと小競り合いになった関係で退場処分を受けたことが響き敗退、アルゼンチンはマラドーナがブラジル・ドゥンガの股を抜くスルーパスをカニージャに通し、それを決めた1点を守り切って勝ち上がりました。 前評判の高かったオランダとブラジルが、決勝トーナメント1回戦で姿を消すことになったのです。 決勝トーナメント1回戦のハイライトシーンは、スペインと対戦したユーゴスラビアのストイコビッチ選手のプレーでした。見事なFKと華麗なフェイントからの2つのゴールを奪いベスト8進出の立役者になったのです。ストイコビッチ選手はのちにユーゴ内戦による制裁で長く国際試合への出場機会を奪われる悲哀を経験しますが、Jリーグ・名古屋グランパスで、このワールドカップで見せた華麗なプレーを長い間、日本のサッカーファンに見せてくれました。 準決勝には、ストイコビッチ率いるユーゴをPK戦の末下したアルゼンチン、アイルランドを退けた開催国イタリア、チェコを下した西ドイツ、カメルーンを破ったイングランドが進出、アルゼンチンvsイタリア、西ドイツvsイングランドの対戦となりました。 開催国イタリアは、エースストライカーのジャンルカ・ビアリが不調でしたが救世主が出現してイタリア中を熱狂させました。トト・スキラッチの愛称で一躍人気者となったサルバトーレ・スキラッチでした。もう一人若き才能が開花しました。ロベルト・バッジョです。 迎えた準決勝、相手はこの日の会場ナポリの英雄となっているマラドーナ率いるアルゼンチンです。マラドーナのナポリは5月に終了したセリエA89-90シーズンを制し2度目のスクデットに輝いたばかりでしたが、この日だけはマラドーナもナポリ市民にとっては敵でした。 試合はスキラッチの先制点でリードしたイタリアを後半アルゼンチンが追い付く展開で延長でも決着がつかずPK戦に持ち込まれました。そしてイタリアは5人目が失敗して敗退、開催国優勝の夢は断たれてしまいました。 準決勝のもう1試合、西ドイツvsイングランド戦も西ドイツが先制、イングランドが追い付く展開で、そのままPK戦、西ドイツが4人成功させたのに対してイングランドが4人目、5人目が失敗、西ドイツが決勝進出を果たしました。 7月8日に行われた決勝はアルゼンチンvs西ドイツ、前回大会と同じカードとなりました。今回、アルゼンチンは準決勝のスタメンからカニーヒアをはじめ3人を累積警告のため欠いてしまい、守りを固めてマラドーナの打開を期待するという状況だったのに対し、西ドイツは、マテウスを中心にベストメンバーで臨むという戦いとなりました。 加えてアルゼンチンは、後半19分に1人退場者を出してしまってから完全に守りに入り、西ドイツがむしろ攻めあぐねてしまう展開となりました。しかし後半40分、PKで得たチャンスをブレーメが確実に決め、これが決勝点となって西ドイツが前回の雪辱を果たしW杯3度目の優勝を果たしました。 これで西ドイツ、フランツ・ベッケンバウアー監督は選手としても監督としてもW杯優勝を果たした当時2人目の人(もう1人はブラジル、マリオ・ザガロ氏)となりました。 開催国イタリアは、3位決定戦でスキラッチ、バッジョが揃ってゴールをあげてイングランドを下し面目を保つ3位となりました。 一方、アルゼンチンのマラドーナは、決勝に敗れ涙にくれた結末となりました。その後、所属チームのナポリに戻ってからもW杯前のセリエA制覇への貢献が帳消しになってしまうような問題を抱える状況となり、世界のマラドーナファンを悲しませることになっていくのでした。 このイタリア大会には前回メキシコ大会に続いて高田静夫さんが選出されました。この大会では、主審を1試合、副審(当時は線審)を3試合、第4審判(当時は予備審)を3試合と大活躍でした。 このイタリア大会は、日本でもNHKが放映権を獲得していたことと、前年からBS放送の本格放送が始まったことで、NHKは録画放送も含めて初めて52試合全試合放送を実現させ、ワールドカップサッカーを楽しみにしていた日本のサッカーファンを喜ばせてくれました。 カズ・三浦知良選手が帰国、読売クラブに加入夏に行われたコニカカップは、JSLカップとは別に新たにスポンサーがついて開かれたもので、この年は日本ユース代表や五輪代表も含めたリーグ戦形式でした。のちに「Jリーグ」がスタートすると、1992年にスポンサーがヤマザキナビスコに変わり、「Jリーグカップ=ヤマザキナビスコカップ」として継承された大会でもあります。 この大会には、ブラジルで成功を収めたカズ・三浦知良選手が、日本でプレーするため帰国して、読売クラブの一員として公式戦初参戦となった大会でした。 この様子はサッカー専門誌で毎月のように日本に伝えられましたので、いよいよ日本に帰国することになると「本場ブラジルで成功したサッカー選手の凱旋帰国」として大きな話題となりました。 |
夏休み恒例となった東京・よみうりランドの全日本少年サッカー大会は、この年14回目の大会となり決勝は京都・城陽SCSが大阪・高槻FCを3-1で破り優勝しました。
この年の夏、高円宮杯全日本ユース選手権 ( のちの U-18 ユース大会 ) の第1回大会が開催されました。前年のプレ大会を経て正式にスタートしたのです。この大会の特徴は、冬の全国高校選手権が決勝を除き40分ハーフで行われていたのに対し、全て世界標準と同じ45分ハーフの90分制で行われたことです。
決勝は名波浩選手率いる清水商と千葉・習志野高校の対戦となりが清水商が優勝、初代王者に輝きました。この大会は参加総数16チームのうち、高校年代のクラブチームが5チーム参加しましたが、いずれも早々と姿を消し力の差が明らかとなった大会でした。クラブチームが初制覇を果たしたのが第10回大会(1999年)の磐田ユースでしたから10年の歳月を要しています。
この年の日本代表はというと、創設されたダイナスティカップ (東アジアのナショナルチーム同士の大会) に参戦しましたが3連敗、しかし内容は悪くなかったとして秋のアジア大会 (オリンピックのアジア版・開催地北京) にメダルの期待が集まりました。
日本代表の横山監督は、北京アジア大会に読売クラブのラモス瑠偉選手、カズ・三浦知良選手を初召集しました。しかし、攻撃陣の中心となりつつあった永島彰浩選手や福田正博選手がケガで離脱してしまったため、カズ・三浦知良選手が相手守備陣からの徹底マークに遭い、最後は肋骨を骨折して離脱、ラモス瑠偉選手が孤軍奮闘するも準々決勝で敗退してしまいました。
多くのケガ人による不運があったものの、専門家の眼からは有能な選手を慣れないポジションで使うなど、選手の持てる力を使いこなせない代表監督の問題や、そもそも代表監督の仕事をチェックする立場の強化委員長を代表監督が兼任していること自体問題ということで、協会の基本的な体制もおかしいといった見方が噴出した時期でもあります。
一方、同じアジア大会に出場した鈴木保監督率いる女子サッカー代表チームは、銀メダル獲得という快挙を成し遂げました。女子サッカー競技は、この大会から正式種目となり6ケ国が参加、総当たりリーグ戦方式の戦いとなりました。
中国、チャイニーズ・タイペイ(台湾)、北朝鮮、韓国、香港と、いずれも東アジアのチームを相手に厳しい試合の連続でしたが粘り強く戦い抜き、今後のアジアでの戦いにも自信をつけた銀メダルでした。
いよいよ「プロリーグへの参加」意思確認始まる
前年6月から「日本サッカー協会」の場に移された「プロサッカーリーグ構想」の検討は、この3月に「プロリーグへの参加条件」を決定、4月16日からJSLを構成するチームをはじめ日本サッカー協会に一種登録している全チームにその条件を提示して参加の可否確認が始まりました。この中で「プロリーグ」は1992年秋にスタートさせる計画であることも初めて公表されたのです。
「プロリーグ設立の趣旨」として掲げられたのは次の4点でした。
・スポーツ文化としてのサッカーの振興・普及
・日本サッカーの強化と発展
・選手・指導者の地位向上
・競技場をはじめフランチャイズ環境の整備による市民スポーツの拡充
次に「プロリーグへの参加条件」とは、次のような内容でした。
1. チームの法人化
2.プロリーグへの分担金の拠出(初年度1億4000万円)
3.ホームタウン(当時はまだ「フランチャイズ」という呼称)の設定
4. 15000人以上収容の屋根付き証明付きスタジアム
5.下部組織(当時はファームチーム以下と表現)を持つこと
6.選手のプロ契約・指導者のライセンス保有の義務化
7. JFAの指示に従うこと
以上の「プロリーグ設立の趣旨」「プロリーグへの参加条件」とも、大筋は、かつてJSL木之本事務局長が中心となってまとめた「プロリーグ構想」が具体化されたものでした。
このうち、特にホームタウンの設定と15000人以上収容の屋根付き証明付きスタジアムについては絶対条件とする一方、自治体からの協力取り付けなど、参加企業だけでは決断できない要素が含まれていることから、この条件が完備した時点でプロリーグへの参加を認めるという内容になっていました。
以上の内容が各チームに示されると、当初1ケタ(6~8チーム)程度の参入希望と考えていた事務局の予想に反して、締め切りの6月には20チームから参加希望が寄せられたのです。
この参加の可否確認の段階では、プロリーグスタート時のチームを、何チームで始めるかまでは固まっておらず、20チームからの参加希望を絞り込む作業の中で次第に10チームに収れんされていったようです。
絞り込み作業のため8月以降、参加希望チームへのヒアリングが始まりましたが、途中経過が漏れないよう報道管制を敷きながら、年明けまで続きました。
12 月のトヨタカップには前年に続きイタリア・ACミランが来日、マルコ・ファンバステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトのオランダトリオが世界のサッカーファンを魅了、パラグアイ・オリンピアを破りました。
1991年
元日恒例の第70回天皇杯決勝は、3連覇を目指す日産自動車と松下電器のカードとなりました。試合は戦前の予想を覆して松下電器が0-0からのPK戦を制し日産自動車の野望を阻止しました。
約1週間後の第69回全国高校サッカー選手権決勝は九州勢対決となりました。試合は国見が鹿児島実を延長の末振り切り2度目の優勝を飾りました。
昨年4月から続いていた第2回全日本女子サッカーリーグは6チームによる3回戦総当たりの15試合で争われていましたが、読売ベレーザが14勝1分無敗という圧倒的な成績で優勝、ベレーザの野田朱美選手が16ゴールをあげてMVPと得点王のダブル受賞に輝きました。野田選手は、この年の日本代表の中心選手に成長し、日本のW杯出場に貢献していくことになります。
Jリーグ参加10チームが決定、報われた鹿島の団結、自他ともに認めるサッカー王国・清水も
前年夏以降、小委員会やワーキンググループなどを編成して多方面から幅広く意見を求めると同時に、精力的に続けられていたプロリーグ参加希望チームへのヒアリングは、前年12月の段階で14チームに絞られました。
そして年明けから最終局面となる1月の第三次ヒアリングと日本サッカー協会の「プロリーグ検討委員会」で参加10チームを内定、2月に入り協会の評議委員会、理事会を経て2月14日、その10チームが正式発表されました。
日本リーグ二部の住友金属 ( のちの鹿島アントラーズ ) や、日本リーグに参加していない清水FC( のちの清水エスパルス ) などのサプライズがあった一方、日立製作所 ( のちの柏レイソル )、ヤマハ発動機 ( のちのジュビロ磐田 ) などが落選、明暗を分けました。
全10チームは、その後統一された地域名を呼称とする呼び名と主な出資企業で、鹿島(住友金属ほか自治体と共同出資)、浦和(三菱自動車)、市原(決定時は習志野、JR東日本と古河電工)、川崎(読売新聞社グループ)、横浜(日産自動車)、横浜(九州全域も準地域、全日空)、清水(清水FC)、名古屋(トヨタ自動車グループほか地元企業10社)、大阪(松下電器グループ)、広島(マツダグループ)です。
10チームへの絞り込み作業の過程では、当然のことながら、当落をかけて検討委員会での議論百出があったのですが、これからスタートするプロリーグが「何をもっとも大切にするか」という、いわば判定基準の最優先事項は「地域」との結びつきがどれぐらい強いかどうかという点でした。つまりチームと地元サッカー協会、地元自治体の3者の協調関係がしっかりと築けているかどうかということでした。
とりわけ鹿島の当選については、のちに川淵氏がテレビインタビューに次のようなエピソードを語っています。
「鹿島については、当初いろいろな点で最も評価が低かったので、チーム関係者に対し「99.9999%可能性はありません」と伝えたんです。すると「川淵さん、100%じゃないんだから、その0.00001%って何ですか?」と言うんです。いや本当は100%と言いたいところなんだけど・・・。あきらめさせようと思って「日本にない屋根のついた15000人以上収容のサッカー専用スタジアムを作るっていうんでしたら話は別ですけれどね」と言ったんです。それは絶対できると思っていなかったんで・・」
すると鹿島は、県・市町村、地元企業が一体となって総工費80億円の屋根付き専用スタジアム建設に動き出し、並行して「世界のジーコ」獲得に動きだしたのです。
川淵氏は最終的に鹿島の参入が認められる「キメ手」となった発言について、自身の著書の中で次のように書いています。
「Jリーグに参入するクラブを決める1月の最後の会議で、当落選上の鹿島を入れるかどうか、議論が白熱しましてね。その時、加藤久委員がこう発言したんです。「日本のプロリーグ発足にあたって大事なことは、まず、いい前提を作ることです。ですから絶対、鹿島の参加を認めるべきです。現在JSL2部でやっていても戦力強化はできます。けれども屋根付きスタジアムを作るといっているクラブはないんです。」
この発言が「キメ手」となって全員一致で賛成です。僕ら、鹿島を認めて本当によかったと心から思っています。」
もう一つ、清水の当選も「サッカーの町」として自他共に認めるこの地域とサッカーの結びつきを抜きにしては語れません。当時の日本サッカーリーグは国内有数の大手企業の企業チームによって構成されていたので、そういう大手企業が地元にない清水は、母体となる有力なチームを持たない中で名乗りをあげ、同じ県内でヤマハも名乗りをあげていましたから、極めて不利な状況にありました。
しかし「サッカーの町・清水」は、市民がこぞって、なにがしかのサッカーチームに属しているのではないかと言われるほどサッカー熱が高く、小学生レベルでは、市内全域から優秀な選手を選りすぐって「清水FC」を編成して全国大会に臨んでいたし、中学・高校とも清水市の学校がたびたび全国制覇するほどのサッカーどころです。
特に高校年代では、1980年代以降、清水東、清水市商、東海大一と、清水市内の高校が全国制覇を果たしており、静岡県予選を勝ち抜くことは、全国大会で1勝するより難しいとさえ言われたほどのレベルを誇っていました。
「サッカーの町・清水」にプロチームが誕生することは、いわば必然だったと言えます。
ヤマハと清水、この静岡の2チームの絞り込みは、評議委員会や理事会の場でも最後まで意見が分かれたところでした。ヤマハにしてみれば、メインとなる企業の存在はあっても、県サッカー協会を率いる堀田哲爾氏が清水FCの代表も兼ねていることで、地域との結びつきという点で清水より希薄になってしまったのが悔やまれるところでした。
10チーム決定の翌日、名古屋を本拠とするトヨタ自動車グループと地元企業10社で構成される「愛知プロサッカー設立準備会」は、早々とチーム名を「名古屋グランパス8(エイト)」とすることを発表しました。チーム命名一番乗りのほか法人設立の骨格も出来上がった会見となり、当初はプロリーグ参加に消極的と見られていたトヨタが一旦参加を決めると、行動の早いことから「さすがトヨタ」といった声もあがりました。
また3月3日国立競技場で行われた90-91シーズンJSL13節読売vs古河電工戦には、プロリーグ参加が承認された古河電工とJR東日本の社長が揃って観戦に訪れ、両社がチケット8万枚を用意して大々的な社員への動員作戦を行なったことから公式発表で4万人が入り「国立を満員にしよう」プロジェクト時の42000人には及ばなかったものの、両社、特にこれまでサッカーとは縁がなかったJR東日本の動員力の凄さを見せつけた形となりました。
ところで、これらの10チームをJリーグ創設当初のチームとして「オリジナル10(テン)」と呼ぶことがあります。「オリジナル」という言葉に「最初の」という意味があることから使われるようですが、どちらかというと「オリジナル」という言葉は「複製されていない」という意味での「原型」といった意味で使われることが多く、言い換えれば、その後に参加したチームは「オリジナル」ではなく「複製」なのか? ということにもなります。
ですから、この10チームのことは「オリジナル10(テン)」と呼ばずに「ファースト10(テン)」と呼ぶべきではないでしょうか。
「ファースト10(テン)」はJリーグ創設に参加した10チームの「勇者」です。「伝説の年 1986年」のところで、最初にプロ契約選手に名乗りをあげた木村和司選手を紹介した時にも例えとして書きましたが、南極の極寒の海に多くの仲間たちに先駆けて勇気をもって飛び込むペンギンのことを「ファーストペンギン」と呼び、称えるそうです。
「ファースト10(テン)」は「ファースト10(テン)ペンギン」になぞらえた呼び方なのです。
Jリーグ設立準備室始動、規約・試合方式・選手移籍ルールなど具体的運営方法の検討・決定が本格化
この10チーム発表を受けて専門誌「サッカーマガジン」が「どんなリーグに? 青写真を総チェック」と題して、・何年何月にスタートする? ・リーグの方式は? ・勝ち点、サドンデス方式の可能性は? ・試合日は何曜日? ・入場料はいくらに? 等々の「これはどうなるの」について掲載しています。
また「サッカーダイジェスト」誌も複数回にわたり「プロリーグ特別企画」を組んで全貌を紹介しています。
まさに、このあと、この10チームを交えた「プロリーグ設立準備室」が設置され「サッカーマガジン」誌が列挙した「これはどうなるの」について、一つひとつ決めていく作業に着手しました。
以下、この年の「プロリーグ」スタートに向けた主な決定事項について列挙します。
・3月「プロリーグ設立準備室」開設
【準備室の体制】
室長兼総務委員会・運営委員会座長 川淵三郎氏、副室長兼財務委員会・厚生委員会座長 小倉純二氏、事務局長兼広報委員会座長・佐々木一樹氏、フランチャイズ委員会座長・村田忠男氏、選手統一契約書委員会座長・森健兒氏、事業委員会座長・木之本興三氏、審判委員会座長・浅見俊雄氏、指導者ライセンス制度委員会座長・小宮喜久氏、準備室委員 重松良典氏、鈴木勇作氏、奥寺康彦氏、加藤久氏
各委員会委員総勢62名
この設立準備室の陣容は、主役交代を象徴する陣容となりました。
これまで約6年間にわたり「プロリーグ構想」を練り上げ、それを「プロリーグ設立」の段階まで中心となって牽引してきた森健兒氏と木之本興三氏が主役の座から降り、変わって川淵三郎氏と小倉純二氏が中心となる陣容になったからです。
森健兒氏は4年間にわたる名古屋勤務を終え、東京に戻り三菱重工子会社の社長に就任しており「設立準備室」の中心メンバーとして活動するのが大変な立場にありました。
一方の木之本興三氏は、川淵氏の後任としてJSL総務主事に就き91-92シーズンをもって終了する日本リーグの幕引き役となりました。
このようにして「プロリーグ構想・設立を牽引するリーダー役の交代」という、大きな節目を迎えたことも記録しておきたいと思います。
【決定しなければならない主な事項】
・リーグ規約
FIFA(国際サッカー連盟)規約、JFA(日本サッカー協会)規約に準拠するための確認作業、海外諸国のリーグ規約の学習を経て、ドイツ・ブンデスリーガ規約を範としてJリーグ規約を作成していくこととした。
リーグの基本構造は、各クラブの独立性を優先させてしまい、あるクラブだけが突出した収益を得て、他のクラブにリーグの恩恵が行き渡らない構造をさけるため、リーグの代表者(理事長のちに呼称をチェアマンに統一)に権限を集中させ、まずリーグ全体の収益を最大限に追求することが、個々のクラブにも大きな利益をバランスよくもたらすというモデルを目指した。
こうしたルール作りは法的な錯誤が生じないよう、法律に詳しい専門家の助けがないと難しい作業だ。この時は2人の方が、寝食を忘れて作業にあたっておられたことを、川淵氏が自身の著書の中で、こう書いている。
「ルール作りで頑張ってくれたのは、古河電工出身の弁護士、池田正利さんと、博報堂の法務室にいた小竹伸幸さんだった。2人はそれこそ、事務所に寝袋を持ち込む勢いでルールづくりに没頭してくれた。」
ある程度タイムリミットがある中でのルール作り。このような方たちの存在なくして「プロリーグ設立」は成し得なかったであろうと、つくづく思う。
・試合形式
試合形式を引き分けなしの延長Vゴール&PK戦方式を採用したいとFIFAに申請した。FIFAからは「リーグ戦での延長Vゴール&PK戦方式は望ましくない」との見解が示されていたが「サッカーはなかなか点が入らない上に引き分けではつまらない」という日本の文化、すなわち「引き分けの文化がない」国なので認めて欲しいと交渉、Jリーグスタートの直前の翌年3月にFIFAからの許可が下りた。
・試合参加
各チームは、その時点での最強チーム(ベストメンバー)で公式戦等に臨まなけれはならない、という規約を設定することとした。しかし、なにをもって「ベストメンバー」とするのか基準まで設けることはできない。それでも、例え「精神条項」的規約であっても入れておくべきだと川淵準備室長は譲らなかった。
この判断は、後に、いわゆる「サッカーくじ」を導入することになった時、各チームが意図的に戦力ダウンさせた状態で試合をしたことにより、昇格・降格に影響するような事態になれば大問題になる、それを防止するためにも入れておきたいという深謀遠慮が働いたことによる。
・シーズン設定
シーズン設定は春に第一ステージ(前期)、夏から秋にかけて第二ステージ(後期)の設定とし、土曜、水曜の週2回の試合により実戦の間隔を詰め、選手の持久力を意識的に高めることとした。その体力、持久力のついた選手が国際試合の中3日、中2日といった過密日程に堪えられる日本代表に結びつくことを狙った。
・選手の処遇(契約、年俸、移籍)
サッカーの世界におけるクラブと選手の契約の世界基準は、クラブと選手の合意がすべてで、契約期間が満了した場合、クラブ間の移籍金の合意さえできれば、すぐにでも移籍が可能になる。
日本のプロ野球界には、選手が移籍の権利を得るフリーエージェント(FA)の期間まで我慢しなければならない制約があることから「プロサッカーリーグ」では、その規約を採用せずサッカーの国際基準に沿った「統一契約書」を作ることとした。
年俸の設定は、試合に出ていないのに大金だけを得られる仕組みではなく、定額支給分+出場給+特別給(個人・クラブの成績や代表選出などのプレミアムに対して支給する分)といった、能力給の仕組みにして、出場機会に恵まれない選手が、機会を求めて積極的に移籍するのを後押しする形を目指した。
選手の移籍にはクラブ間で「移籍金」のやりとりがあるが、その額の算定について統一基準を設定するため、海外リーグのルールを確認してドイツ・ブンデスリーガが採用している「年齢別係数」を取り入れることにした。そして若い選手ほど獲得したいクラブが高い移籍金を支払わなければならない係数を設定して、年齢が34歳に達した場合には移籍金係数をゼロにして自由に移籍できるような仕組みを目指した。
・放映・放送権、商品化権の一括管理
「プロサッカーリーグ」がスタートした場合、入場料収入と合わせて大きな収益源になると見込まれるのがテレビ放映・放送権収入であることから、個別クラブが試合ごとに放映権を設定するのではなく「プロサッカーリーグ」が契約を一括管理する方式をとり、それをリーグからクラブに再配分する仕組みを目指した。
この仕組みは日本のプロ野球とは違っているがアメリカのプロスポーツ界でとっている方式でリーグ全体が潤うことが長期的に重要との判断から選択した。
日本国内におけるテレビ放映・放送にはNHKと民放各社があり、それぞれ公平に放映・放送権交渉を進めるものの、長期的・安定的に放映・放送してくれるパートナーが欲しいと考えるのがリーグ側の本心、例えば大相撲中継は国技という位置づけだからこそではあるが、どんな時にもNHKが放送してくれる。
その意味でNHKに長期的・安定的な放映・放送権契約を希望するのは自然の成り行きで、そのNHKからは映像の二次使用権などを管理する「映像管理子会社」の設置の智恵も出してもらうなど、いい関係性で進められることとなった。
またロゴマークやキャラクターそのものの使用や、それを使った商品の製造・販売の権利である商品化権もリーグが一括管理することによって、目の届かない商品化の横行や統一感を失った商品の横行を防ぐことを目指した。
・7月 プロリーグ正式名称「社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)」、代表者呼称「チェアマン」、Jリーグロゴマーク発表
以上の「準備室」の作業を見るにつけ、一旦、開幕という形でスタートしてしまえば、そこはプロスポーツの世界、それぞれのスタジアムで繰り広げられる試合の熱気と観客の歓声に包まれる夢舞台の世界となり、そこまでに積み上げられた地道な規約の検討・制度設計の試行錯誤の労苦の日々は、ともすれば忘れ去られてしまいそうになります。
けれども、この「次の伝説までに何が」のページにおいては「プロのチームが戦いを繰り広げるスタジアムの熱気と歓声に包まれた夢空間という非日常体験の世界」を実現させるために、休日返上で準備を積み重ねた労苦の記録を書き残し、長く記憶に留めたいと思います。
・11月「社団法人日本プロサッカーリーグ」設立 初代チェアマンに川淵三郎氏就任
・1992年3月 第27回日本サッカーリーグ(最終シーズン)閉幕
・1992年秋 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)初の公式戦、ナビスコカップ開幕
・1993年春 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)スタート
さて、90-91シーズン日本サッカーリーグ(第26回)は5月5日終了しましたが、読売クラブが2位日産に勝ち点差7をつけるぶっちぎりの優勝を遂げ、プロリーグ発足を前に、読売クラブ強しを印象づけ、日産との2強時代という声も多くあがりました。
ブラジルの至宝ジーコがプロリーグ参加の住友金属に加入
5月21日、JSL二部のチームながら最後の10チーム目に滑り込んだ形でプロリーグ参戦が決まった住友金属(鹿島)に、ブラジルの至宝ジーコが契約のため来日しました。すでに引退しており年齢も 38 歳とはいえ、世界的名選手が、日本のしかも弱小クラブに入団したということで、日本はもとより世界のサッカーメディアが取り上げるニュースとなりました。
ジーコが住友金属(鹿島)に加入することになる前、JSL事務局に「ジーコを指導者として迎えたいチームはないか」という話が持ち込まれたそうで、事務局は最初、古河電工に打診したそうです。けれども古河電工から「うちは必要ありません」と返事が来たことから、川淵総務主事が、戦力が落ちる住友金属(鹿島)で選手として迎えるようにしてはどうかと提案して住友金属(鹿島)に話が持ち込まれたというのです。
話を受けた住友金属(鹿島)では、当時、JSLの運営委員として窓口となっていた平野勝哉氏がジーコとの交渉にブラジルに飛びました。そして平野氏はジーコに対して「チームの戦力としてぜひ必要だ」という話だけではなく、日本のプロリーグ計画について、細かい内容まで説明するとともに「鹿島という地域が、いかに町づくりを考えていて、その中核がサッカークラブ・鹿島なので、その町づくりを手伝って欲しい」という言い方で口説いたそうです。
それがジーコの気持ちを動かし加入につながりました。
5日間の日本滞在の過密日程の中、サッカーダイジェスト誌が単独インタビューに成功して、いくつか質問を投げかけています。
その中には、選手としてのパフォーマンスや住友金属という弱小チームでプレーすることへの思いについての質問だけではなく、かつてアメリカで北米リーグがスタートした時、サッカーの王様「ペレ」を迎えて一時は盛り上がったものの、ペレが去ってしまうと急速に熱が冷め、ついには失敗に終わった例をあげ「日本に誕生するプロリーグが北米リーグのようにならないためには、どうすべきだと思いますか?」と問いかけています。
これは一人の選手に対する質問としてはかなり異例の質問ですが、ダイジェスト誌にしてみれば、ブラジルのスポーツ大臣をやった人ならば何らかの見解を持っているのではないかと思ったのでしょう。
ジーコはこう答えています。少し長くなりますがインタビュー記事から引用します。
「アメリカがやってきたことを見ると、彼らは間違った観点からサッカーを始めたと思います。(中略) アメリカは(圧倒的人気を誇る)アメフトに対抗させるためサッカーを選びました。ここに大きな間違いがあったと思います。すぐにもビッグマーケットをつかもうとしたところに彼らのミスがあったと思います。(中略) ペレいう偉大な選手を連れてきて、すぐ7万、8万という観客をつかんだ。だがペレがいなくなった途端に多くの観客が消滅してしまった。創設当初と同人数の観客を動員する魅力が北米リーグからは失せていたのです。(中略)もしアメリカが最初は少ない観客からスタートし、それを徐々に拡大していったのなら、こうした観客はサッカーが好きだからスタジアムに来たのでしょう。しかし残念ながら現実はペレがいたから行ったのであって、サッカーが好きだから試合を見に行ったのではなかったのです。しかし日本の場合は違う。日本はまず基盤から始めているし、観客をつかんでからそのマーケットを拡張しようとしている。日本のプロジェクトは順調に進むと思います。」
まさしくジーコ選手は、住友金属からオファーを受けた時の交渉の中で、日本のプロリーグ計画について説明を受け、鹿島の町づくりの中心となるサッカークラブ・鹿島の話を聞いて、ジーコ選手自身が「この計画であれば地に足のついた着実な内容だ」と共感したに違いありません。そして、このプロリーグの成功に自分自身も力になりたい、そこに自分が行く意味を見出したからオファーを受けたに違いありません。
日本の「プロリーグ計画」は、ジーコという「お金だけのために行くのではない、町づくりも含めた長期にわたるであろうプロジェクトを成功させる一員として行くのだ」と考えてくれた偉大なプレーヤーを得たことで、成功への階段を一歩上がることができたと言えます。
2002年W杯招致委員会設立、活動本格開始
6月10日、日本サッカー界が悲願とする両輪の一つ「2002年W杯招致」を実現するため「招致委員会」の設立総会が開催されました。日本スポーツ界の重鎮、主要経済団体のトップ、そして全国知事会など行政各団体のトップが東京・ホテルオークラに一堂に会し、名誉総裁には高円宮殿下を仰ぎ、会長に元日産自動車会長で前経済同友会代表幹事の石原俊氏を選出しました。
総会後の記者発表で、石原会長から正式に「2002年FIFAワールドカップ開催の立候補」が宣言されたのです。これにより開催地決定に必要な条件をすべて満たすタイムリミットである1995年2月までの約4年間、日本はスポーツ界、そして経済界、行政が一丸となって準備を進めていくことを確認したのです。
記者発表で日本サッカー協会・村田忠男専務理事が説明した主な開催条件には、特に政府が決定したり、政府が保証する以下の事項が含まれていました。
【政府決定事項】
1.ワールドカップ歓迎の意思表示
2.ワールドカップ成功のためのあらゆる保証の約束
【政府保証事項】
1.役員・選手・報道関係者・観戦客への査証(ビザ)の発給
2.大会開催・運営に必要な器具・用具の輸出入の自由
3.大会中の役員・選手・報道関係者・観戦客の安全確保のための警備
4.あらゆる通貨の持ち込み/持ち出しの自由と交換の保証
5.ワールドカップ用の国際通信施設の設置
6.国内会場間の航空機・鉄道・道路の輸送の確保
これらを読むと、ワールドカップサッカーの開催が、いかに国を巻き込まないとできないイベントか、一目瞭然です。ですから、日本サッカー界が「FIFAから2002年はアジアでと求められているので、W杯招致」を希望したからと言って、そう簡単に実現できるわけではない大事業であることがわかります。
「開催条件」の説明にはまだ先がありました。それは費用の問題と施設の問題です。
【財政】
1.スタジアムなどの施設は開催国で負担で用意する。
2.大会収入は以下の3つの柱
・入場料収入
・テレビ放映権料収入
・広告収入
(招致・運営費用は民間で捻出、スタジアムは自治体で建設)
【スタジアム】
1.12都市で12のスタジアムが必要
2.2~3のスタジアムは最小8万人収容(決勝戦、準決勝戦用に)
3.その他は最小4~6万人収容(グループリーグ用に)
4.観客席は全席座席、観客席の3分の2は屋根または上部スタンドで覆われていること。
以下略
当時、すでにヨーロッパや南米でワールドカップを開催した国々が幾つかあり、日本でも1986年メキシコ大会、1990イタリア大会などを通じて会場が各地に散らばっていることは知っていましたが、いざ日本でこれだけのスタジアムを用意しなければならないことを知った時、いかに日本にはそのようなスタジアムが少ないかを思い知らされ、愕然となります。
それらの建設にかかる費用は莫大であり、建設されてワールドカップで使用されたあとスタジアムがどうなるのか、なかなかイメージが湧かなかったわけですが、その利用がサッカーにとどまらずスポーツ全体あるいは文化活動も含めて検討されなければ、巨大な閑古鳥が鳴く施設だけが残ることになります。
もしそうなってしまったら、サッカー関係者はおろか、国をあげて推進した日本政府・全国の自治体が大変な批判にさらされることなりますので、いい加減な取り組みが許されない、巨大プロジェクトが始まったことになります。
ですから、むしろ「2002年ワールドカップ招致」という取り組みは、日本のスポーツ文化の振興を本気で考えなければならないきっかけを作ったと言えますし、実際にこのあと、さまざまな検討が始まりました。
このあと「2002年W杯招致委員会」は、FIFAのあらゆるイベントの機会をとらえて「日本開催計画」について周知しながら、支持を得る対外活動も積極的に展開していくことにしました。
8月27日には、海外で初の発表会をイタリア・ローマで開催しました。
欧州各地から集まった記者たちからは「日本は経済的に豊かなので招致は成功するだろう」という好意的意見があった一方「日本人はサッカーをやるのか」といった辛辣な言い方をする記者や「日本はワールドカップという世界的イベントを開催するにふさわしいサッカー人気のある国なのかどうか疑問だ」「現在の日本にはまだサッカー人気の基盤ができていない。ワールドカップではグループリーグの毎試合に35000以上を集めなければならない。テレビ視聴率にしても17~20%を確保しなければならない。そうなるまでに日本はあと10年足りないように思う」といった厳しい意見も出されたのです。
また、ある外国人記者からは「今のワールドカップはスポーツというよりビジネスだ。招致成功のカギの一つはFIFAへの莫大な収入源の確保とその保証だ。もし日本がそれを約束できるのなら開催の可能性も出てくる。」という話も出たようで、このあたりは、少し裏読みが必要な話だったかも知れません。ただ聞き流してしまうと、後で後悔しそうな話ではあります。
この時はまだアジアの他国は、2002年W杯に名乗りはあげているものの、具体的な招致活動にまで進んでいる国はない様子でした。先頭を切っているという自負が、のちの「気の緩み」に繋がらなかったかどうか、この時点では思いもよらないことだったと思います。
日本代表、キリンカップで初優勝
これまで長きにわたり、なかなか国際試合で勝てなかった日本代表は、6月にキリンカップで初優勝という驚きの結果を出しました。
日本代表は、横山監督が強化委員長と代表監督を兼任するという体制に批判が高まっていたことから、日本サッカー協会が切り離しのため人選を進めていました。
その結果「プロリーグ設立準備室」室長として多忙な状況にあるはずの川淵氏を強化委員長に据えることになり3月14日発表されました。
当の川淵氏は「私自身はプロ化を控え時間的余裕はまったくないのが正直なところ」ということで、やむなく承諾した様子でしたが、技術担当副委員長に加茂周氏、総務担当副委員長に藤田一郎氏をお願いすることで、実質的なことは二人に任せていくこととなりました。
しかし、日本サッカー協会は、実は人材が払底していることを対外的に知らしめたような人選となってしまいました。
6月上旬、キリンカップ91が、1988年以来3年ぶり(89年、90年は代表スケジュールの関係で休止)に開催されました。
ブラジルの名門で、ベベト、ビスマルク ( のちヴェルディ、アントラーズで活躍 ) らを擁するヴァスコ・ダ・ガマ、イングランドリーグの名門でゲーリー・リネカー (W杯メキシコ大会得点王) を擁するトッテナム・ホットスパー、そしてタイ代表を招いて、日本代表を含めた総当たり戦が全国各地で行われました。
日本代表は、日本リーグでぶっちぎりの優勝を果たした読売クラブのカズ・三浦知良選手、ラモス瑠偉選手、武田修宏選手、読売に新加入予定の北澤豪選手らの強力攻撃陣が好調で、山形で行われた初戦タイ戦に1-0で勝利すると、2戦目京都でのバスコ・ダ・ガマも2-1で破りました。
そして最終戦、国立競技場に45000人の観衆を集めてトッテナム・ホットスパーと対戦しました。
トッテナム・ホットスパーは、エースのゲーリー・リネカーをイングランド代表の遠征から呼び戻して万全の態勢でしたが、試合開始直後の前半2分、日本が北澤豪選手の見事なダイビングヘッドで先制すると勢いづき、前半8分、40分とカズ・三浦知良選手が2ゴール、後半にも阪倉裕二選手が代表初ゴールを決め、結局4ー0と圧勝、文句なしの勝ちっぷりで、日本代表がキリンカップ初優勝を飾りました。
日本代表は、読売クラブ所属の攻撃陣に加え、日産の柱谷哲二選手(翌年読売に移籍)、井原正巳選手らのDF陣という骨格が固まり、このあと快進撃に入る日本代表をけん引していくことになります。 ちなみに、この時のユニフォームは赤で、この年まで3年ほど着用したものでしたが、翌年からは青を基調とした、長く続く「サムライブルー」と呼ばれる色調に代わったのです。
しかし、キリンカップ優勝の余勢をかって自信満々で臨んだ7月27日の第15回日韓定期サッカーでは一転、0-1で韓国に敗れ、冷や水を浴びた形になってしまいました。
これで日本は定期戦3連敗、対韓国戦6連敗、韓国は日本に対しての自信を深めるのと比例して、日本がやや苦手意識を感じる対戦となりました。
強化委員長の兼任が外れ、荷が軽くなったはずの横山監督もキリンカップ優勝の評価が長続きすることはなく、そう遠くない日に監督の座を降りざるを得ないという見方が大勢となりました。
女子代表は早々と第一回女子W杯出場果たす
キリンカップサッカーと相前後して、福岡を舞台に第8回AFC女子アジアカップサッカー選手権が開催されました。この大会は今年11月、初めて開催される女子W杯(開催国・中国)の出場権(上位2ケ国)もかかった大会でした。
ところが大会直前、大黒柱の木岡二葉選手が骨折してしまいチームに暗雲が立ち込めてしまいました。日本女子代表が結成されてから10年間、ここまで全試合出場を果たしてきた木岡二葉選手の離脱ということで鈴木保監督をはじめチーム全体が大きなショックを受けたのです。
しかし大会に入ると逆に「木岡さんを何としてもW杯に連れていこう」という団結心を強め、W杯出場がラストチャンスとなるであろうベテラン本田美登里選手、同じくベテランGK鈴木政江選手、木岡選手からキャプテンマークを託された野田朱美選手そして長峯かおり選手、半田悦子選手、加治真弓選手、高倉麻子選手、松田理子選手さらには木岡選手の代役となった内山環選手らが身体を張って戦い、ついに準決勝でチャイニーズ・タイペイ(台湾)とW杯出場権を賭けることになりました。
試合は40分ハーフの前後半そして10分ハーフの延長戦でも決着がつかず0-0のままPK戦となりました。双方4人づつ成功させたあとチャイニーズ・タイペイ(台湾)の5人目をGK鈴木政江選手が完全に読み切ってブロック、日本の5人目は加治真弓選手でした。加治選手は神戸で教員を続けながらサッカーに打ち込んできた選手で、鈴木監督はその冷静さを買って5人目に指名したのです。そして加治選手はその期待に見事応えて成功させ、日本女子代表は歓喜のW杯出場権を獲得したのでした。
野田朱美選手がスタンドにいたギブス姿の木岡選手を背負ってイレブンの中に戻ってくると、選手たちはこらえ切れず涙で顔をクシャクシャにしながら二人に抱きつき喜びを分かち合いました。
多くのファンから声援の後押しを受けることもなく、設備的にもサポート的にも厳しいプレー環境の中で、ただ、ひたむきにサッカーに打ち込んできた女子代表の苦労が報われた瞬間でした。
そして11月、中国で開催された第1回女子W杯に初出場を果たしました。日本のグループリーグの相手は、初戦ブラジル、2戦目スウェーデン、3戦目アメリカでした。いずれも強豪であることは、その後の長い女子サッカー界での戦歴が物語っていますが、その頃は、まだ未知の相手でした。
日本代表は初戦こそが最も重要と意気込んでブラジルと対戦しましたが、思わぬ形でリードを許すことになりました。開始3分ブラジルが放ったシュートが日本ゴール前で混戦になり主審の笛がなったところで、日本イレブンは誰もが相手によるキーパーチャージと思ったところ、ゴールの判定、日本選手による抗議も受け入れられず試合再開となってしまいました。
結局、この判定が日本選手たちを動揺させてしまい、自分たちのゲームができないまま0-1で落としてしまいました。そして2戦目0-8、最終戦0-3と落して3敗、日本女子サッカー界初のワールドカップ挑戦は世界の厚い壁に跳ね返される経験となりました。
それでも、日本女子サッカーの世界の舞台での第一歩は確実に記されました。男子より先に、しかも第1回W杯の舞台に立つという歴史的な経験をした。
この記念すべき大会に参加した次の18名の選手たちと、指導者を記録と記憶に留めておきたいと思います。
GK鈴木政江選手、GK坂田恵選手、DF本田美登里選手、DF渡辺由美選手、DF加治真弓選手、DF山口小百合選手、DF高萩陽子選手、DF大部由美選手、DF黒田今日子選手、MF松田理子選手、MF高倉麻子選手、MF木岡二葉選手、MF内山環選手、FW野田朱美選手、FW半田悦子選手、FW長峯かおり選手、FW手塚貴子選手、FW水間百合子選手
鈴木保監督 宮内聡コーチ
日本の女子サッカーは、1970年代半ば以降、静岡や神戸でチームが立ち上がり、1980年に初めて女子全国選手権がスタートしました。
当初は、静岡県清水市で結成された中学校名を冠した「清水第八」が本田美登里選手や木岡二葉選手らの活躍で、全国選手権7連覇を果たしましたが、その後、読売クラブの女子チーム・ベレーザも台頭して、直近の第2回女子サッカーリーグでは初優勝を果たしています。
彼女たちは、まだ女子サッカーに対する世の中の視線が厳しい時代からサッカーに打ち込むため、フルタイムの仕事もあきらめながら黙々と技を磨いていました。
そして、女子W杯の開催が決まると一層厳しいトレーニングに励み、レベルの高いアジア予選を勝ち抜いて出場権を獲得したパイオニアたちでした。
その後、その多くのメンバーが指導者として全国各地で指導育成にあたり、のちの「なでしこジャパン」を構成する多くの優秀な選手たちを育てました。
この年の第1回女子W杯出場は「なでしこジャパン」が世界に冠たる道を歩み始めた大きな節目の快挙といえます。
夏休み恒例、東京・読売ランドで開催された第15回全日本少年サッカー大会は、栃木・下都賀ジュリアンズと広島・高陽FC、ともに初出場同士の決勝となりました。試合は延長の末下都賀ジュリアンズが1-0で優勝を果たしました。
同じく夏の大会、第2回全日本ユースサッカー選手権は、徳島市立高と長崎・国見高との対戦となりましたが徳島市立高が1-0で勝利、優勝を果たしました。
9月1日、日本サッカーリーグとしての最終シーズン、91-92シーズンの幕開けを告げる三大タイトルの一つ、第18回JSLカップ(リーグカップ)決勝が、読売クラブvs本田のカードで行われました。試合は点の取り合いとなりましたが延長に入る寸前、読売クラブが本田から移籍した北澤豪のゴールで4-3とし、実に6年ぶりとなるJSLカップ(リーグカップ)のタイトルを手にしました。
本田はプロリーグへの参加を見送ったことを受けて、主力選手7人が移籍、大幅な戦力ダウンが危惧されましたが、むしろ黒崎久志選手ら残った選手たちの「意地」を存分に示した試合となりました。
11月3日、スポンサーがついた、もう一つのリーグカップ・コニカカップ91の決勝が行われました。トヨタvs本田というJSLタイトルの常連とは言えないカードとなりましたが、壮絶な打ち合いとなり延長後半終了間際、トヨタが劇的な逆転ゴールをあげ6-5で初タイトルを手中にしました。
初タイトルに湧き、すでに名古屋グランパスエイトに名称を決めているトヨタに、6月のキリンカップにも来日したイングランド代表のストライカー、ゲーリー・リネカーの加入が決まったようだという報道が出て、ジーコに続く大物選手のプロリーグ参戦に日本中が湧き立ちました。
逆に本田はJSLカップ決勝に続いて、またも涙を飲みましたが、むしろ、プロリーグ参戦の他チームから補強のため引き抜かれるかどうか、テストの場と考えて頑張っている選手も多く、ここにもプロリーグスタートの副次効果が出ているとの指摘もありました。
コニカカップの名称で行われたのはこれが最後で、わずか2年のカップ戦でしたが、1992年からはヤマザキナビスコがスポンサーとなり、プロリーグ初の公式戦となった1992年Jリーグカップ=ヤマザキナビスコカップに継承された大会でもあります。
アルゼンチンからマラドーナ逮捕の衝撃的ニュース
この年の海外サッカー関係では、アルゼンチンから4月下旬、マラドーナ選手逮捕のニュースが飛び込んできました。麻薬(コカイン)所持の現行犯によるもので、世界中がヒーロー・マラドーナの転落と報じました。30歳になったマラドーナに何が起きたのでしょうか。
日本でもサッカー専門誌が詳細に報じました。各専門誌はアルゼンチンやイタリアの現地専門誌と提携関係を持っていることから、直接情報を得て報じたのです。
それらの記事を総合すると、若い頃から、ことサッカーにおいては素晴らしい才能、それは単にボール扱いといったテクニックの面だけではなく、ゲームの中で瞬時の判断を求められる場面において、ことごとく最良の選択ができる稀有の才能を発揮できたという超人的な能力により、数々の栄光に包まれたマラドーナには、人知れず苦悩と苦痛に満ちた人生があったようです。
栄光のマラドーナについては、すでに述べてきていますので、苦悩と苦痛に満ちた人生の部分を書き留めておきたいと思います。
・マラドーナは小柄な選手ですが、筋肉の鎧をまとったような身体でゴムまりのよう軽やかに動ける選手です。そのような身体は少年時代からの肉体改造で作られたもので、のちに背中の痛みが持病のように出る選手になっていたようです。身体に慢性的な痛みを抱えると、どうしても痛みから解放されたいという欲求から過度の鎮痛剤を利用することが多くなることは、よく指摘されることです。
・マラドーナの身体的苦痛は、その天才的な動きを封じようとする相手チーム選手からの執拗なマーク・タックルなどによっても増幅しています。1982年から1984年にかけて在籍したバルセロナ時代には悪質タックルのため左膝のため3ケ月欠場、その後も苦痛に顔を歪めるタックルをたびたび浴びていました。それらを鎮痛剤で紛らわせたかどうかまでは定かでありませんが、マラドーナ選手生活を通じてずっと身体的苦痛と戦わなければならなかったのです。
・マラドーナは、15歳でアルヘンティノスJrsでプロ選手としてキャリアをスタートさせてからボカJrsを経てスペインのバルセロナ、イタリアのナポリと移籍していますが、移籍に伴う苦悩というのも、スーパースターの階段を駆け登るごとに増幅していったようです。
バルセロナへの移籍は、ボカJrsがマラドーナ獲得時に背負った莫大な移籍金などによるクラブ財政の破綻を回避するための売却の色彩が濃いものでした。そのためバルセロナでは活躍しても自身の醜聞などが報じられるとクラブ会長に疎まれ居場所をなくしかねない状況になったのです。
そんなマラドーナをイタリア・ナポリが獲得したのですが、この獲得にナポリを縄張りにするマフィアが絡んでいたのではないかと囁かれ、マラドーナ自身もマフィア関係者とのつながりを指摘されるようになりました。
そうした移籍と、彼の華々しい活躍の結果、マラドーナには「彼を諫(いさ)める人」が誰もいなくなったという指摘があります。クラブ上層部も、チームの監督なども、活躍してくれる彼には誰も意見しない、誰も干渉しないといういう状況を生み、それが孤独な彼の相談相手になる人物が誰もいないという状況を生み、じわじわと違法行為の罠にはまってしまうマラドーナを誰も止められなかったというのです。
特にマラドーナの場合、人間的に彼を導いてくれる監督に巡り合えなかったのが不幸だと指摘しているジャーナリストもいました。
・マラドーナにはアルゼンチンにもイタリアにも常に彼を擁護してくれる熱狂的な支持者がいた一方で、例えばイタリアでは、彼がW杯準決勝で、こともあろうに開催国を破ってしまったことが仇となったしまったのです。イタリア南部の町ナポリの選手マラドーナは、イタリア北部の地域の人々にとっては「憎き敵(かたき)」でしかなく、彼がナポリに加入した当初から持たれていた数々の疑惑、例えばマフィアとの関係、女性との醜聞、税金問題そして麻薬使用疑惑等々の中から、これはと思う疑惑を暴き出し、彼をイタリアから追放する行動に出たのではないかと指摘されています。
2月中旬から下旬にかけてマラドーナがナポリの司法当局から麻薬使用疑惑について聴取を受けたことから、イタリアリーグは3月中旬のリーグ戦後にマラドーナの尿検査を実施、コカイン反応が出たことを受けて、リーグ懲罰委員会による15ケ月の出場停止処分が下されたのです。
傷心のマラドーナはアルゼンチンの自宅に戻りました。マラドーナのさらなる不幸は、アルゼンチン国内のクラブで彼を買い戻せるだけの財政力のあるクラブがなかったことだと指摘しているジャーナリストもいました。
彼を迎えたアルゼンチン国民の多くは、彼を擁護してくれました。しかし、彼を以前から快く思っていなかったメディアが彼の足をすくいました。そのメディアがイタリアから戻ったマラドーナを標的に逮捕劇の一部始終を念入りにレポートしたことで、世界中を騒然とさせる出来事に発展したのです。
ディエゴ・マラドーナをめぐる出来事が、これで終わりではなかったことは、このあとの年でもご紹介することになります。サッカーの神に愛され、自らも子供のような無垢な気持ちでサッカーを愛せる一人の人間が、大人社会のさまざまな思惑、嫉妬、陰謀などに翻弄されてしまう様(さま)は、何とも心痛むものです。けれども「サッカー」という魔物のような魅力をもったスポーツの世界に生きるが故に起こることなのかも知れません。
コパ・アメリカはアルゼンチン優勝、トヨタカップはレッドスター
90-91欧州チャンピオンズカップはフランスのマルセイユとユーゴのレッドスター・ベオグラードとの決勝となり0-0のままPK戦となりレッドスターが勝利、12月のトヨタカップへの出場権を獲得しました。この試合、マルセイユには、このシーズン、レッドスターから移籍したストイコビッチ選手がいました。ストイコビッチ選手は開幕早々のリーグ戦で膝を負傷してしまい、このシーズンの大半を棒にふり、古巣のレッドスターが欧州制覇を果たす様子をベンチから見守るしかありませんでした。
7月、チリを舞台に南米選手権(コパ・アメリカ)が開催されました。わずか10ケ国の参加ながらブラジル、アルゼンチン、ウルグアイなどの強豪揃いで欧州選手権にひけをとらない大会、この年は、ブラジル、アルゼンチン、開催国チリそしてコロンビアが決勝リーグを総当たりで戦いました。その結果、初戦でブラジルを下したアルゼンチンが全勝で優勝しました。
アルゼンチンは、後に「バティゴール」と呼ばれる豪快なシュートで、世界屈指のストライカーに成長したバティステュータ、そして中盤で闘将と呼ばれるようになったシメオネなど、マラドーナの不在を感じさせない新たなタレントが国際舞台に登場した大会でした。
12月のトヨタカップでは、サビチェビッチ、ミハイロビッチ、ユーゴビッチ、パンチェフなど、後に欧州ビッグクラブの主力選手となる才能をずらりと並べたユーゴスラビアのレッドスター・ベオグラードが、南米リベルタドーレス杯の覇者チリのコロコロを3-0で退け優勝しました。
しかしユーゴスラビアのチームとして国際試合の決勝に臨んだのは、これが最後になりました。このあと、ユーゴスラビアという多民族国家が分裂して、それぞれ独立した国となリ、ベオグラードはセルビアの首都になったからです。
ところで、日本における海外サッカーのテレビ放映は、それまでテレビ東京の「三菱ダイヤモンドサッカー」が長らくファンの期待に応えてきましたが1988年3月に終了しました。しかし一昨年1989年6月からは、NHK-BSが本格放送を開始したことで、かなり海外サッカーを楽しめるようになっていました。
そして、この年9月から、当時、世界最高峰のリーグといわれていたイタリアリーグ(セリエA)の1991~1992年シーズンの放映を、衛星放送WOWOW(わうわう)が始めました。
イタリアリーグ(セリエA)は、世界中のトップクラスのプレーヤーがほとんど集結したリーグでしたから、世界のスター選手を見たいなら、この放送を見るべしというぐらいの価値がありました。
WOWOWは、毎週1試合を「スーパーサッカー・セリエA」という番組名で、2時間枠ノーカットで放映するとともに、エンターティメント性あふれる番組づくりで、海外サッカーファンのみならず多くの視聴者に新たな楽しみを提供してくれた、画期的な番組となりました。
この番組にサッカーをこよなく愛する一人のミュージカル俳優がメインキャスターとして登場しました。のちに多くの番組やCMなどでも活躍する川平慈英さんです。兄のジョン・カビラさんも後に多くのサッカー番組に登場しており「川平兄弟」として知られています。
WOWOW「スーパーサッカー・セリエA」が川平慈英さんをメインキャスターに起用されて放送を見た頃は、アナウンサー経験がなさそうで「ちょっと無理のあるキャスティングだなぁ」と多くの視聴者が感じたと思います。
したがって、WOWOWはなぜ彼をメインキャスターに起用したのだろうと考えました。確かに彼はユース年代に読売ユースでプレー経験がありサッカーに関する知識は十分なものがありましたが、いかにミュージカル俳優経験があるといっても、舞台セリフとテレビカメラの前での語りとでは、ずいぶん違うわけですから、視聴者に「ちょっと無理のある」と感じられてしまったと思います。
しかし、次第にわかってきたのは、彼の持つエンターティナーとしてのキャラクターが、そういう雰囲気を持たせたい番組にはピッタリで、「スーパーサッカー・セリエA」も、いままでのスポーツ番組とはまったく違う、陽気でリズミカルで、少し砕けた感じの番組にしたいと考えたからのキャスティングだというこことです。
川平慈英さんが、この番組出演を皮切りに次々とサッカー関連の番組に出演するようになり、兄ジョン・カビラさんとともに使う「いいんです!」や「くぅ~~っ!」といった決まり文句で番組を楽しく彩ったことはご存じのとおりです。