伝説のあの年 1992年

現在につながる世界のサッカー、日本のサッカーの伝説の年は、まず1986年、そして1992年1993年1996年、1997年、1998年、2002年、さらに2010年。
それらが「伝説のあの年」として長く語り継がれることでしょう。
さぁ、ひもといてみましょう。

伝説のあの年 1992年

この年は、日本サッカーに新たな歴史がいくつも刻まれた年であり、翌年に控えたJリーグスタートを、日本全体に待ち遠しく感じさせるにふさわしい「輝かしい序章の年」という意味で、伝説の年といえるのです。
元日恒例の天皇杯決勝、早くも輝かしいJリーグ序章の年にふさわしい舞台が整えられました。勝ち上がってきた2チームは、人気・実力ともに他のチームを圧倒する読売と日産、数日前の準決勝には数千人程度の観客しか集まらなかったにも関わらず、年が明けたというだけで快晴の国立競技場には約60,000人、満員の観衆が詰めかけました。
試合は日産が延長の末勝利したのですが、白熱した120分のドラマを6万観衆もテレビ観戦のサッカーファンも堪能したのでした。

その1週間後に行なわれた高校サッカー選手権、70回目の節目の決勝はエース・小倉隆史選手を擁する四日市中央工と成長著しい2年生エース・松波正信選手を擁する帝京が対戦、共に譲らず延長でも決着がつかず両校優勝で幕を閉じました。
前年秋から続けられていた、最後の日本リーグは3月中旬、読売クラブが連覇を果たし、夏から始まるJリーグカップ戦や翌年始まるJリーグを牽引するチームとしての評価を不動のものとしました。
このあと、日本リーグに参加していた各チームは、プロであるJリーグ組とアマチュアトップリーグに当たるJFL組に分散しました。
両校優勝
高校サッカー両校優勝
3月、日本代表監督に、初めての外国人監督となるオランダ出身のハンス・オフト氏の就任が発表されました。代表選手の多くがプロ契約をしている中、これまでの代表監督がアマチュアの身分だったことを解消してプロ契約監督を据える意味と、厳しい海外サッカーの世界で揉まれた指導者を迎えるという二つの意味をもっていました。
また、これを機に、代表試合に選手を派遣したクラブには日本サッカー協会が「派遣費」を支払こととなり、やっと諸外国の常識に追いついた形になりました。
日本代表は、この年、合宿や海外遠征などを含めて約130日間もの活動スケジュールを組み、来るべきアメリカW杯アジア予選突破に向けて動き出したのでした。
ハンス・オフト氏
オフト監督

3月に呼称を「Jリーグ」に統一した「社団法人日本プロサッカーリーグ」は、選手登録、移籍規定改正と「プロ選手統一契約書」を発表、いよいよ本格的な活動が可能になった4月以降、Jリーグ参加の10チームは海外キャンプやテストマッチなどでチームの熟成を図り始めました。
5月には「Jリーグ・プレスプレビュー」が開催され。10クラブのプロフィール、ユニフォームなどJリーグの全容を発表、これ以降、各チームがレプリカニユフォームや関連グッズなどの本格的なJリーグ商戦もスタート、メディアの露出も急速に増えてきました。

7月末にはジーコと並ぶ大物外国人、ゲーリー・リネカーが名古屋に合流するなど、9月からの初の公式戦Jリーグカップ(冠大会・ナビスコカップ)に向けて、盛り上がりが徐々に高まっていきました。
そして9月5日Jリーグカップが開幕、10チーム総当たりの予選リーグで4位までが準決勝に進むという方式の中、1位読売(まだ企業名を冠したチーム呼称が許容されていた)、2位清水、3位名古屋、4位鹿島が進出、準決勝で鹿島を下した読売と、名古屋を下した清水が決勝に進みました。
迎えた11月23日の決勝戦、国立競技場は初めて「有料入場者数」という表現で観客が発表され56,000人、サッカー王国静岡を象徴するクラブ清水を、同じ静岡出身の三浦知良選手の一撃で下した読売が、栄えあるプロ化後の初タイトルを手にしたのでした。
ゲーリー・リネカー
リネカー選手
10月下旬、広島で開幕した第10回アジアカップ、これまで日本は8回大会まで参加してこなかった大会で、前回初参加するも予選リーグ敗退と、まったく実績がありませんでしたが、8月に東アジアカップともいうべきダイナスティカップを初めて制覇して自信をつけていた日本代表は、グループリーグで前回覇者のイランを破って勢いに乗り、決勝でサウジアラビアも撃破、これまで長い間アジアで勝てない姿を見せてきた日本のサッカーファンの前で、初めての高々とナンバーワンのカップを掲げたのでした。
大会MVPに輝いた三浦知良選手は、この大会を境に、自他ともに日本をワールドカップに導く代表の期待のエースと認める選手になりました。
このように日本サッカーが大きく前進した年でしたが、海外に目を向けてみますと、ワールドカップサッカーの中間年に4年周期で行なわれる欧州選手権が6月スウェーデンで開かれました。
この大会に出場権があったユーゴスラビアが国内紛争のため国際試合参加禁止の制裁を受けたことから、デンマークが代替出場となり、そのデンマークが優勝を果たすという思いがけない結果となりました。
この大会は、ユーゴの参加禁止に加え、ソ連が崩壊直後ということでCIS(独立国家共同体)の名称で、ドイツは東西ドイツ統一後、初の国際大会参加となるなど、激動の欧州を反映した大会となりました。
第10回アジアカップ
第10回アジアカップ
日本がアジア予選で敗退したバルセロナ五輪サッカーは、7月から8月にかけて開催され、地元スペインがカンプ・ノウスタジアムを埋め尽くした五輪史上最高と言われる95,000人の大観衆の後押しを受けて劇的な優勝、スペイン中央政府に対する抵抗感情が強いと言われるバルセロナの地で、この時ばかりはスペイン国旗が打ち振られ歓喜に浸ったのでした。
ほぼ単一民族の国といえる日本とは異なり、多くの国で複雑な民族感情に揺れ動く中、戦われているサッカーの国際試合のありようが、日本のサッカーファンにも少しづつ見えてきた時期でしたが、「国民性・民族性がもっとも現れるのがサッカーの国際試合」と言われるサッカーの本当の怖さを、まだまだ実感するまでには至っていないのが、この時期だったと言えます。
毎年12月上旬開催が恒例となったトヨタカップ。その出場権を賭ける大会として、南米にはリベルタドーレス杯がありますが、欧州はこの秋のシーズンから名称を「欧州チャンピオンズカップ」から「欧州チャンピオンズリーグ」に変更して、各国リーグと並行してシーズンを通して戦う大会に衣替えしました。翌年春に最初の覇者が誕生します。
この年のトヨタカップは、南米覇者サンパウロと、さる5月に欧州カップを制していたバルセロナという人気チーム同士の対戦となりましたが、サンパウロがクラブ世界一に輝きました。
バルセロナ五輪優勝
バルセロナ五輪決勝スペイン代表
この年は、サッカーメディアの面でも大きな変化がありました。サッカー専門誌の御三家ともいうべきサッカーマガジン、サッカーダイジェスト、サッカーストライカーの3誌が11月から12月にかけて相次いで月1回刊から月2回発行に踏み切りました。長年、サッカー情報の遅れ時差に飢餓感を覚えていたサッカーファンにとって大きな進展でした。
12月下旬、翌1993年元旦の決勝に進むチームを決める第72回天皇杯は、昨年と同じ読売・日産という、お約束のチームが勝ち残る「輝かしい序章の年」にふさわしいエンディングを迎え「伝説の1992年」は幕を降ろしました。
サッカーダイジェスト
サッカー誌が月2回発行に