伝説のあの年(1992年)

現在につながる世界のサッカー、日本のサッカーの伝説の年は、まず1986年、そして1992年1993年1994年1996年1997年1998年1999年2000年2002年2004年、さらに2010年2011年2012年2018年2022年
実に多くの伝説に満ちた年があったのです。
それらは「伝説のあの年」として長く長く語り継がれることでしょう。
さぁ、順次、ひもといてみましょう。

 

伝説のあの年 1992年

この年は、日本サッカー史に新たな歴史がいくつも刻まれた年であり、翌年に控えたJリーグスタートを、日本中が待ち遠しく感じさせるにふさわしい「輝かしい序章の年」という意味で、伝説の年といえるのです。

元日恒例の第71回天皇杯サッカー決勝、早くも輝かしいJリーグ序章の年にふさわしい舞台が整えられました。勝ち上がってきた2チームは、人気・実力ともに他のチームを圧倒する読売クラブと日産自動車、数日前の準決勝には数千人程度の観客しか集まらなかったにも関わらず、年が明けたというだけで快晴の国立競技場には約60,000人、満員の観衆が詰めかけました。
試合は日産が延長の末勝利したのですが、白熱した120分のドラマを6万観衆もテレビ観戦のサッカーファンも堪能したのでした。

一方、3シーズン目を迎えた91-92日本女子サッカーリーグは前年秋からスタートしていました。過去2シーズンは6チームでしたが、このシーズンから4チームが加わり10チームによる2回戦総当たり方式によりタイトルが争われました。
優勝は、若手有望選手が次々と育っている読売ベレーザが、ライバル鈴与清水FCとの試合でも1勝1分、その他のチームにも負けることなく無傷で昨シーズンに続く連覇を果たしました。

このシーズン、まだ中学1年の澤穂希選手が堂々と読売ベレーザの選手としてデビュー、この先、世界にその名を轟かせる輝かしい最初のシーズンとなりました。

その1週間後に行なわれた全国高校サッカー選手権、70回目の節目の決勝はエース・小倉隆史選手を擁する四日市中央工と成長著しい2年生エース・松波正信選手を擁する帝京が対戦、共に譲らず延長でも決着がつかず両校優勝で幕を閉じました。

前年秋から続けられていた、最後の日本リーグ、91-92日本サッカーリーグ(第27回)は3月中旬、読売クラブが連覇を果たして幕を閉じました。
読売クラブは、この年から采配を振るったペペ監督のもと、日本代表選手もベンチを温めかねない豊富な選手層の中、カズ・三浦知良選手がシーズンを通して活躍、第1節から一度も首位の座を譲ることなく優勝、直近9シーズンのうち5度リーグ制覇を果たしたのです。

読売クラブは、余勢をかって4月に日本サッカーリーグ (JSL) 閉幕記念イベントとして開催された優勝賞金4000万円の大会「ゼロックス チャンピオンズカップ」も制し、秋から始まるプロリーグ初の公式戦ヤマザキナビスコカップ(Jリーグカップ)や翌年始まるJリーグを牽引するチームとして、日産自動車とともに評価を不動のものとしました。

このあと、日本リーグに参加していた各チームは、プロであるJリーグ組10チームとアマチュアトップリーグに当たるJFL組に分散して、それぞれの新しいシーズンに備えることになりました。

両校優勝
高校サッカー両校優勝

日本代表監督に初の外国人 ハンス・オフト氏就任

日本代表関連では、1月18日-30日にかけて、バルセロナ五輪アジア最終予選がマレーシアで開催され、日本五輪代表も6ケ国中3ケ国の出場権獲得を目指して参戦しました。
この時の代表には、三浦文丈選手、永井秀樹選手、澤登正朗選手、名良橋晃選手、相馬直樹選手、小村徳男選手、GK下川健一選手など、プロリーグスタート時には各チームでレギュラー・スタメンで活躍する逸材揃いでした。

しかし、プロリーグスタートのまだ1年前、誰もまだプロの世界を経験していないため、厳しさが足りなかったのか、1勝1分け3敗という成績で出場権を逃しました。
この時はフル代表を率いていた横山監督が、兼任という形で五輪代表監督も務めましたが、いい素材を活かしきれない指揮官としての戦略の弱さだったと言われても仕方ない結果となりました。

3月、日本代表監督に、初めての外国人監督となるオランダ出身のハンス・オフト氏の就任が発表されました。

代表選手の多くがプロ契約をしている中、これまでの代表監督がアマチュアの身分だったことを解消してプロ契約監督を据える意味と、厳しい海外サッカーの世界で揉まれた指導者を迎えるという二つの意味をもっていました。

1年前、日本代表の横山監督が強化委員長を兼任するという体制に批判が高まっていたことから、日本サッカー協会が切り離しのため人選を進め、「プロリーグ設立準備室」室長として多忙な状況にあるはずの川淵氏に強化委員長就任を要請しました。

川淵氏は「プロ化の準備を控え時間的余裕はまったくないのが正直なところ」という状況の中で、やむなく承諾したのですが、すでにこの時、時期が来たら次の日本代表監督は、プロの監督、できれば外国人監督のほうがいいのではないかと漠然と考えていたことから引き受けたといいます。

ただ、すぐ横山監督を交代させようというつもりはなく、後任監督の人選が煮詰まるまでは留任と考えていたようです。

そんな折、川淵強化委員長は、読売クラブのラモス瑠偉選手とカズ・三浦知良選手と話す機会があった時、二人から「代表での活動に対して手当を出して欲しい」と要望され、その時、日本代表活動もプロフェッショナルとしての条件が必要なのかも知れない。そして、この選手たちを納得させられる監督は、やはりアマチュアではダメだ。プロの監督にしなければならない」と感じ、代表監督選定を急ぐとともに、代表活動に対する手当の問題にも取り組み始めたそうです。

川淵委員長のもとで強化委員会は、まず日本代表の監督・コーチを92年3月まで現体制で継続すると発表、表面的には横山監督続投を思われる措置でしたが、その間、プロ監督できれば外国人という方針に沿って水面下で動き始めたのでした。

その動きについてサッカーマガジン誌が報じており、それによると、候補にはブラジル代表監督も務めた経験のあるテレ・サンターナ氏や前イングランド代表監督のボビー・ロブソン氏などもそうですが、条件面などの制約もあり、最終的に二人に絞られたそうです。

一人は、アルゼンチンがマラドーナを擁してメキシコW杯を制した時、ビラルド監督の下でコーチを務めアルゼンチン五輪代表を指揮したことがあるカルロス・パチャメ氏、そして、もう一人がハンス・オフト氏です。

川淵氏は自らオランダに出向きハンス・オフト氏の人柄やサッカー観を確かめ、最終的には、かつてヤマハやマツダで指導経験があり日本サッカーをよく知っている人物ということでオフト氏に絞りました。

しかし、サッカー協会内には「外国人監督ではコミュニケーション面が大丈夫なのか」という慎重論も根強かったそうですが、最後はサッカー協会を実質的に仕切っている長沼副会長のゴーサインを得て初の外国人監督を迎えることになったのです。

その頃オフト氏は、オランダ・ユトレヒトのゼネラルマネージャーをしていたのですが日本代表監督について打診を受けた時の様子をサッカーダイジェスト誌のインタビューの中で次のように話しています。

「一番最初に日本サッカー協会から打診を受けたのは昨年9月、手紙で『こういう条件で日本で監督の仕事をしてみないか』というものだった。翌日には私から『日本に行ける時期も含めてこういう条件なら可能だ』と返事をしたので、この後、しばらく話し合いを継続した。最終的に受けることにした理由は、日本代表監督としてワールドカップ出場を果たすという目標が自分にとって大きなチャレンジだと考えたからだ。」

プロの監督を日本代表監督に迎えたことから、これを機に、代表選手たちを送り出すクラブに対して何らかの手当をする必要があるとの考えから、代表試合に選手を派遣したクラブには日本サッカー協会が「派遣費」を支払こととなり、やっと、ラモス瑠偉選手やカズ・三浦知良選手が要望した、諸外国の常識に追いついた形になりました。

日本代表は、この年、合宿や海外遠征などを含めて約130日間もの活動スケジュールを組みました。いまだかつてない活動スケジュールでしたが、ちょうど来年のJリーグ開幕までの間、各クラブの公式戦が秋のナビスコカップだけで、代表選手派遣がしやすい環境だったことが幸いしました。そのため、日本サッカー協会は来るべきアメリカW杯アジア予選突破に向けて、万全の準備体制を敷いたのです。

ハンス・オフト氏
オフト監督

Jリーグ各クラブのユニフォームなどをお披露目

呼称を「Jリーグ」に統一した「社団法人日本プロサッカーリーグ」は、昨年3月から綿密な検討を重ねてまとめた、リーグ規約、試合方式、シーズン設定そして選手との契約や年俸・移籍規定を定めた「プロ選手統一契約書」を発表、ここにプロサッカーリーグ「Jリーグ」の全容が明らかになったのでした。

5月26日には「Jリーグ・プレスプレビュー」が開催され。10クラブのプロフィール、ユニフォームなどJリーグの全容を発表、これ以降、各チームがレプリカニユフォームや関連グッズなどの本格的なJリーグ商戦もスタート、メディアの露出も急速に増えてきました。

10クラブユニフォームを一括制作する権利はミズノが得ました。これにはライバル会社であるデサントやプーマ、アシックスなどからの強烈な抵抗がありました。
そんな中でミズノに決めた理由が三つあるといいます。

一つ目はミズノから提示された「オフィシャル・サプライヤー」ライセンス料として「Jリーグ設立準備室」が受け取る額が、他社に比べてダントツに高かったこと。

二つ目はミズノが、Jリーグ準備室事務所の隣のビルに部屋を借り切って、そこに詰めて準備室の担当である木之本事業部長らと密接にコミュニケーションをとりながら製作を進めるという誠意を見せてくれたこと。

そして三つ目は、ミズノが当時、とんねるずの人気テレビ番組「ねるとん紅鯨団」のスポンサーになっていたことから、番組内のスポットCMに「早く来い来いJリーグ」というCMを流してくれるという提案をくれたこと。

そして、このCMは、日本サッカー史上、テレビでCMが流れた第1号というおまけ付きだったのでした。
「伝説の年1986年」の「初のプロ選手誕生」のところで、奥寺康彦選手がドイツから帰国直後に「徹子の部屋」に出演したのが、日本のプロサッカー選手がスポーツ系番組以外の番組に出演した第1号だったようだと紹介しましたが、この年は日本のサッカーについてテレビCMが流れた第1号になったわけです。

「Jリーグ・プレスプレビュー」でお披露目された10チームのユニフォームは、それぞれ原色を基調としてデザインされた色鮮やかな、そして「これでもか」というほど派手な、これぞプロスポーツ選手の衣裳というユニフォームでした。
このユニフォームデザインは木之本事業部長が妥協を許さないほどの執念で仕上げたものと言われています。

このユニフォームの発表はテレビはもちろんのこと、全国紙、スポーツ紙、サッカー専門誌そして週刊誌などがこぞって記事にしたことから、多くのサッカーファンが、このユニフォームで「Jリーグへの期待」に胸高まるという効果を生みました。

関連グッズなどの商品化権はソニー・クリエイティププロダクツが得ました。10月1日にはJリーグオフィシャルショップ「カテゴリー・ワン」の神戸1号店開店を皮切りに翌年3月までに全国50店舗を展開する出店がスタート、初の公式戦「Jリーグカップ=ヤマザキナビスコカップ」が開催中だったこともあり、各ショップは押すな押すなの賑わいとなりました。

後日談として、関連グッズの商品化による売り上げは、当初想定の数十億円規模をはるかに超える3000億円市場となったといわれ、プロサッカーリーグ「Jリーグ」が生み出した経済効果の大きさを物語る語り草になりました。

ところで、こういった「日本サッカーリーグのプロ化」をマーケティング面、あるいはイベント仕掛け面からバックアップしたのが、広告代理店・博報堂でした。「Jリーグ設立準備室」での膨大な作業においては、博報堂も多くの人的支援を惜しまず、まさに二人三脚で設立準備作業を進めたといっても過言ではありませんでした。

博報堂が、こうした形で「日本サッカーリーグのプロ化」に関わるようになったのは、遡ること8年前の、1984年5月に1984年度「日本サッカーリーグ(JSL)」公式ポスターとして、東京近郊の鉄道駅、地下鉄駅に一斉に張り出された「格闘技宣言」というコピーの衝撃的な写真ポスターを発案した時からでした。

そのポスターは、筋肉隆々の背中からお尻までを惜しげもなく出した釜本邦茂選手の後ろ姿でした。逆光で撮影されたため背中は黒に近いこげ茶色ですが視覚的なインパクトは絶大でした。

このポスター企画以来、博報堂内のサッカー好きのメンバーが、木之本氏が事務局長を務める「日本サッカーリーグ(JSL)」と継続的に接触を持ち続けていたことから、5年後に立ち上げられた「第二次JSL活性化委員会」の頃、正式に取引する広告代理店の選定でも、広告代理店界のトップ企業・電通を差し置いて選ばれたのです。

電通は、すでにトヨタカップやキリンカップの運営を仕切っていて、日本サッカー界の状況に通じていたのですが、それ故、アマチュアサッカーからプロリーグにしようとする動きに対して、それほど魅力を感じていなかったようです。

それ以来、博報堂は社内に「プロリーグ・プロジェクト」というプロジェクトチームを作り、今回の「Jリーグ・プレスプレビュー」をはじめ、節目節目のイベントに力を発揮していきます。
1993年のJリーグ開幕セレモニー、あの記憶に刻まれた40分は、まさに大イベントでしたから、Jリーグプロジェクトに賭けた博報堂の情熱がなかったら見られなかったセレモニーかも知れません。ここで特筆しておきたいと思います。

Jリーグ新外国人獲得の新聞辞令飛び交い、三浦知良選手にも清水移籍報道

いよいよ本格的な活動が可能になった4月以降、Jリーグ参加の10チームは、秋に始まるJリーグ最初のタイトル戦・ヤマザキナビスコカップに向けて、戦力補強と海外キャンプやテストマッチなどを積極的に行ない、チームの熟成を図り始めました。

戦力補強に関しては、すでに、ジーコとリネカーの来日は決まりましたが、幻となった来日話も含めて、さまざまな外国人選手の噂が流れ、サッカーダイジェスト誌が「ジパングの誘惑」と題して特集を組みました。

それによると、3月時点までに日本のクラプから接触があり名前があがった選手は、ピエール・リトバルスキー選手⇒のちに市原加入が決定、ビスマルク選手⇒Jリーグスタートには間に合わなかったもののヴ川崎に加入、サルバトーレ・スキラッチ選手⇒Jリーグスタートには間に合わなかったものの磐田に加入、トニーニョ・セレーゾ選手⇒選手としての来日は叶わなかったが監督として鹿島に加入、カレカ選手⇒Jリーグスタートには間に合わなかったものの柏に加入といった具合に、すでに、この時期から多くの外国人選手獲得に向けた動きがあったのです。

またJリーグ参入できなかったクラブでも、静岡県浜松市に拠点を置くPJMフューチャーズにマラドーナの末弟のウーゴ・マラドーナ選手(22)の加入を発表しています。

このPJMフューチャーズには、ディエゴ・マラドーナ自身が加入する可能性もあったのです。PJMフューチャーズは当初、ディエゴ・マラドーナ選手の獲得に向けて動き、彼がナポリでの選手生活に疲れ果てていた時期だったことから、日本行きを決めかけた時、1991年3月に下されたイタリアリーグ15ケ月の出場停止処分、そして4月下旬のアルゼンチンでの麻薬(コカイン)所持による逮捕事件のためPJMフューチャーズ加入は幻となってしまったのです。

ウーゴ・マラドーナ選手獲得は、それに代わる補強でした。

新外国人の獲得ニュース以上に5~6月にかけては「カズ・三浦知良選手、清水に移籍か?」というニュースが連日スポーツ紙を賑わせました。
最終的には6月15日、カズ・三浦知良選手自身が記者会見して、ヴ川崎(読売クラブ)と契約更新することを発表して決着したのですが「清水に移籍か?」という観測が流れた背景には、パス(選手の保有権)の問題が関係していました。

当時、カズ・三浦知良選手の保有権は、三浦知良選手の父・納谷宣雄氏とブラジルのクラブ、キンデ・ゼ・ジャウーが各50%を持っていました。父・納谷宣雄氏は清水エスパルスの相談役という立場にあり、キンデ・ゼ・ジャウーも清水エスパルスの姉妹クラブという関係にあることから、清水エスパルスから強い誘いがあったようです。

カズ・三浦知良選手は静岡愛・清水愛も強い選手ですから、一時は心を動かされた時期もあったようですが、一方では、すでに立場を確立しているヴ川崎(読売クラブ)での活躍を通じて日本と自身のワールドカップ出場という夢につなげたいという思いも強く、悩んだのです。

最終的には、やはり後者を選択しました。そして推定年俸1億円(1億2000万円とも)、日本人初の1億円プレーヤーの誕生という記録もつきました。その後、ラモス瑠偉選手も推定年俸1億円で契約したとのニュースが伝わり、この年、一度に2人誕生したことで、本格的なJリーグがスタートしていない段階での高額年俸は是か非かという議論も巻き起こしました。

しかし、特にカズ・三浦知良選手は「自分たちは子供たちに夢を与える存在であるべきで、年俸は夢の具体的な目標なので、自分たちが妥協せずに高い目標を実現していく必要がある」という持論を自信をもって主張していて、むしろ清々しいプロサッカー選手像を見せてくれました。

7月末にはジーコと並ぶ大物外国人、ゲーリー・リネカーが名古屋に合流するなど、9月からの初の公式戦Jリーグカップ(冠大会・ナビスコカップ)に向けて、盛り上がりが徐々に高まっていきました。

Jリーグ初のタイトル戦、ナビスコカップをヴ川崎(読売ク)が制覇

そしていよいよ9月5日、Jリーグ最初の公式戦「92ヤマザキナビスコカップ」が開幕したのです。10チーム総当たりの予選リーグで4位までが準決勝に進むという方式の中、民間放送も何試合か試合を中継、衛星放送WOWOWも放映権を取得して参加しました。テレビ局側も手探り状態だったとはいえ、プロ化するとこれほど変わるのかといった変化でした。

開幕日は5試合中4試合が行われました。翌年1993年5月15~16日の歴史的なJリーグ開幕については5月15日のヴ川崎vs横浜M戦、5月16日の鹿島・ジーコいきなりのハットトリックなど、語り継がれることが多いのですが、この1992年9月5~6日、プロ化初の公式戦開幕日のことは、あまり触れられる機会が多くありませんので、このページ「伝説のあの年1992年」で、しっかりと語り継いでおきたいと思います。

9月5日の4試合の中でもっとも注目を浴びたのは名古屋vs清水戦、名古屋3-0快勝ととも高卒ルーキー小倉隆史選手の初ゴールでした。お正月の高校選手権決勝でも起死回生の同点ゴールを決めている小倉選手、早くも、こうしたインパクトの強い舞台で決める選手というイメージをサポーターに植え付けるゴールでした。

翌日広島スタジアムで行われた広島vsヴ川崎戦は、当代随一の人気チームヴ川崎(この時はまだ頑なに読売クラブと呼称)の試合が見られるとばかり1万3861人が詰めかけました。広島ビッグアーチとは異なりキャパシティの小さなスタジアムは超満員となりました。

Jリーグの川淵チェアマンが、かつて日本リーグ時代に入場者数をアバウトな、しかも嵩増しした数字を発表したことを恥じて、Jリーグではすべて実入場者数発表とすることにしたわけですが、この広島スタジアムの観客は、嵩増しなどまったく必要のない堂々たる入場者数となりました。

スポーツ紙も、この華やかな開幕戦の様子を、記者の顔が紅潮しているのではないかと思わせるようなペンの走りで報じています。名古屋vs清水戦を報じた「スポーツニッポン」大西純一記者の記事から、その雰囲気を感じてみたいと思います。

「スタンドをウェーブが何度も回る。その波の合間で歓声とホーン、そしてサンバのリズムが交錯し、カラフルなフラッグが揺れ続ける。本場・南米や欧州のムードが絶妙にブレンドされ、独特の雰囲気だ。ついに始まった。サッカー新時代の夜明けがついに来た。8029人の観衆が一つになってフィールドを盛り上げれば、真新しいユニホームに袖を通したイレブンたちだって、血がたぎった。日本リーグ時代とは、全く異質なプレーを見せ続けた。・・・・」

この9月5日以降、日本のサッカー人気はうなぎ登りに高まっていきました。あいだにアジアカップ優勝も挟みましたから、それはもう熱狂的というレベルになっていきました。

その一方で、プロとなった選手の躍動についていけない部分もひずみとなった現れました。レフェリングに対する各チームの不満でした。

開幕戦の名古屋vs清水戦では、清水が「レフェリーがひどい」と幻の2点に対する不満をぶちまけ、3節でもヴ川崎vs浦和戦で、土壇場で決勝点となるPKをとられた浦和GK土田尚志選手が「あれはファウルじゃない」と不公平なジャッジに涙の抗議をしました。

8節の浦和vs名古屋戦では、浦和サポーターが2度にわたるノーゴールの判定の都度、200人ほどがグラウンドに乱入、その後、長くその過激さで知られることになります。

10月11日まで1ケ月余リ続けられた予選リーグの結果、1位ヴ川崎(読売)、2位清水、3位名古屋、4位鹿島までが準決勝に進出しました。以下、5位浦和は勝ち点で鹿島と並んだものの得失点差で涙を飲みました。あの3節ヴ川崎のPK判定なかりせば、その後の浦和の歴史も違うものとなっていたかも知れません。
6位市原、7位横浜M、8位G大阪、9位広島、10位横浜Fでした。

準決勝のカードは1位ヴ川崎(読売)vs4位鹿島、2位清水vs3位名古屋の組み合わせです。
Jリーグ参入10クラブ決定時に、驚きをもって報じられた清水と鹿島、アマチュアリーグ時代に実績があった企業チームを差し置いて選出された、当時の雑音を見事に封じるベスト4進出となりました。

そして準決勝ヴ川崎(読売)vs鹿島戦、会場の国立競技場には39390人が詰めかけました。試合はカズのゴールでヴ川崎(読売)が勝利しましたが、ここでもまた審判の判定が鹿島・ジーコを激怒させました。

問題のシーンは後半19分、ヴ川崎(読売)が先制したあとのプレー、鹿島イレブンがリスタートの準備を整えて各ポジションについていたのですが、ヴ川崎(読売)が歓喜のままピッチ外に。そのスキをつくように鹿島が再開してジーコがドリブルで運び約40mのゴールを決めたのです。

しかし主審はゴールを認めませんでした。怒ったジーコは「我々はポジションについているのだから笛は必要ないはずだ。負けるはずのない試合をレフェリーのジャッジのために負けた。何か月も血の出る思いで練習してきたのに納得いかない。」と猛抗議、イエローカードを受けてしまいました。

ただジーコの主張に一つ誤った解釈があったのは「キックオフの再スタートに笛は必要ないが、再開を指示する主審の合図は必要」という点で、この時もレフェリーが「私は再開の合図をしていない、だからノーゴール」と言われれば、それまでということになります。

けれども、ジーコの感覚では「欧米では同じシーンであれば、もたもたしていたチームのほうが問題であり、レフェリーが明確な合図をしていなくてもゴールは認められるのが普通」ということだったと思います。

ですからジーコは「これでは日本のサッカーがだめになる。外国から優れたレフェリーを呼んで、実際に笛を吹いてもらって(日本の審判は)勉強すべきだ」と語って大会を終えました。

ジーコのこの時のレフェリーに対する不信感は、翌年になっても尾をひくことになり、ついには1994年1月のいわゆる「ジーコつば吐き事件」につながっていくことになります。

このあとも、たびたび指摘されるレフェリングの問題、審判の立場をいたずらに貶めることにに対して慎重になり過ぎるあまり、審判員の領域が少しアンタッチャブルな存在になっていたのではないかと感じさせるところがありました。

一つの要因として川淵チェアマンの持論である「フェアプレーの精神」があります。川淵チェアマンはアマチュアリーグ時代に「プレーの質はちっとも向上しないくせにラフプレーや汚いプレーが横行している。そんなことで何がプロ化か」と苦々しく思っていた時期があり、プロ化したからといって、フェアプレー精神にもとるプレーは絶対に許さないという気持ちを強く持っていました。

ですから試合を裁くレフェリーの判定には、いくら不満だからと言っても従わないと試合が成り立たないという思いが強かったと思います。
それはそれで重要なことですが、かと言ってレフェリングの質の問題解決も急務だったのです。
Jリーグは翌年1993年5月、Jリーグスタート前に初の外国人審判員としてイングランドからマーチン・ボデナム氏を招へいしています。その取り組みは迅速だったと言えますが、日本人レフェリーの劇的なレベル向上に結び付いたとは言い難いところでした。

選手のプレースピード、あるいはプロ意識、いずれも急速に高まった、そのスピードにレフェリーがなかなか追いつけなかったと言えます。

それもそのはず、これまでの日本リーグ(JSL)は週1回間隔の試合スケジュールだったものが、Jリーグ最初の公式戦は予選リーグ9試合が36日間に消化されました。4日に1回の試合スケジュールはレフェリー陣にとっては、かなりのハードスケジュールであり、いかに準備期間中にトレーニングを積んだとはいえ体力的に未知の体験だったことと思います。

その意味ではレフェリー陣の強化策が後手に回ったのかも知れません。
何といっても欧州・南米のレフェリー陣と、この頃の日本人レフェリー陣には、いわばサッカー後進国がゆえの致命的なレベル差があったと思います。

例えばWOWOWが毎週放送しているイタリアリーグ・セリエAの試合におけるレフェリーの動きを見ていると、その差を痛感します。彼らは試合においてボールが次にどう展開していくか、自然と身についた予測力をもとに自分も動きます。

ボールや選手の動きを予測する判断のスピードも速い、30mとか50m走る走力に加え5mとか10mの短い距離に対する瞬発力も凄いわけです。

選手も同様の能力、いわばサッカー選手に必要な能力を高める努力を重ねましたがレフェリー陣の能力向上がずっと後追いになったと思います。

この時期、国際的に通用していた日本人レフェリーが、1986年メキシコW杯と1990年イタリアW杯に連続して選出された高田静夫さんだけであり、高田さんはいわば特異なケースということになります。プロリーグのスタートを見据えて、もう少しレフェリー陣の育成も図る必要があったのではないかと記録しておきたいと思います。

Jリーグ最初の公式戦、92ヤマザキナビスコカップ決勝は、鹿島を下したヴ川崎(読売ヴ)と、名古屋を下した清水エスパルスの対戦となりました。
迎えた11月23日、国立競技場は「有料入場者数」56,000人、10月16日の準決勝から1ケ月と1週間が空いたその間、日本代表がアジアカップで見事優勝を果たすという快挙を成し遂げたこともあり、決勝の舞台は、さながら日本代表選手たちの凱旋試合の様相を呈し、国立競技場はヴ川崎(読売ヴ)のチームカラー・緑と、清水エスパルスのチームカラー・イエローオレンジに二分されて染まり、異常なほどの熱気に包まれました。

こうした大舞台になると無類の勝負強さを発揮するようになったカズ・三浦知良選手、この日も主役はやはり彼でした。両チーム固い守りで0-0のまま迎えた後半12分、一瞬のチャンスを逃さず決勝ゴールを突き刺したのです。試合はそのまま終了、サッカー王国静岡を象徴するクラブ清水を、同じ静岡出身の三浦知良選手の一撃で下したヴ川崎(読売ヴ)が、栄えあるプロ化初タイトルを手にしたのでした。

プロリーグ最初の公式戦は、空前の盛り上がりを見せて幕を閉じました。予選リーグから決勝までの合計観客動員数は53万3345人、1試合平均1万1111人はキャパシィの小さなスタジアムでの試合が多かった中で申し分ない成果です。
レフェリングの問題やサポーターの暴走問題など、その後も長く続く課題も露呈しましたが、概ね大成功のうちに終了しました。

決勝前夜に都内で開催された、日本サッカー協会・医科学研究会(のちの医学委員会)が、サッカー現場における選手・観客の安全性に関する調査(サーベイランス)の一環として行われた、帝京大・仲沢真講師グループの調査結果を発表しました。

その調査結果から、日本のプロサッカーリーグ(Jリーグ)の観戦者層に関する大変特徴的な結果が判明したのです。
それによると、今回のナビスコカップを観戦に来た人たちの3分の1は、この1年間で初めてサッカー観戦を経験した人たち、女性だけを抜き出してみると約半分が、この1年間で初めてサッカー観戦を経験したというのです。

また年齢層では女性観戦者の7割が24歳以下、男性観戦者の5割も24歳以下ということで、プロサッカーリーグ(Jリーグ)のスタートが、いかに新たなファン層を引き付けたか、特に若い女性ファンをスタジアムに引き付けたかということがはっきり示されました。

この特徴は、翌年のJリーグ開幕によって一層顕著になりますが、これは欧州・南米といったサッカー先進地域の観客層と全く異なる観客層を、日本のプロサッカーリーグ(Jリーグ)がスタジアムに引き付けたという意味で、世界的にも特筆されるデータとなったのです。

これには、いろいろな要因がありますが、非常に大きな要因として時代背景があります。
まず1980年代前半から東京・原宿代々木公園横の歩行者天国を発信源としたいくつもの若者集団文化(例・竹の子族)によって、若者のパフォーマンスが一般化してきました。

そして1980年代半ばから日本の社会は、例えばジュリアナ東京からヴェルファーレにつながるディスコブームの中で、女性が積極的に行動することか普通になってきたという時代背景もあります。

それらのパフォーマンスや積極行動を知っている若者たちや女性たちにとって、お気に入りのフラッグやグッズ、チアホーンなどを抱え、色とりどりのフェイスペインティングを施してスタジアムに向かうという行動は、新たな自己表現の場を得た喜びに溢れた行動だったのです。

そうした時代背景の中で育った若者たち、女性たちにとって、これでもかというほど原色を多用したユニフォームをまとってプレーする、若いエネルギーに溢れた選手たちの姿は、野外コンサート会場のアーティストたちに向けるのと同じような感情移入の対象として。格好の存在であり、彼らを声の限り応援することによって、自分たちもスタジアムの中で選手たちと同じ空間を共有することができる喜びを味わうことができたのです。

これは、6,7年前からプロサッカーリーグ構想を温めてきた森健兒氏や木之本興三氏、そして、それを引き継いでプロリーグ発足に漕ぎつけた川淵三郎氏、小倉純二氏たちが、サッカーファンに対して「非日常空間」「夢空間」を整えるんだという熱き心で、多くのブレーンやマーケディング専門家たちの智恵を借りて作り上げた舞台仕掛けが、見事にマッチした結果でした。

本来、サッカーというスポーツは手を使わない格闘技と言われるほどの激しいスポーツであり、下手をすると国同士の戦争にさえなりかねない熱いスポーツですから、日本より何十年も前に成立した欧州や南米のスタジアムには、そうした激しさ、熱さを求めるファンの空気が漂っていて、若い女性や子供たちにとってはある種不安さえ覚えます。

のちに日本のサッカースタジアムは若い女性や子供たちが安心して観戦できる世界でも稀なスタジアム空間と称賛されることになりますが、プロリーグ初の公式戦で「非日常空間」「夢空間」のコンセプトに誘(いざな)われて足を運んでくれた多くの若者たち、多くの女性たちが、その先導役を果たしてくれたのだと特筆したいと思います。

ゲーリー・リネカー
リネカー選手

8月開催のダイナステイカップを日本初制覇

3月、日本代表監督に就任した初の外国人監督ハンス・オフト氏の初采配は、5月末から6月上旬に開催されたキリンカップ92となりました。キリンカップはこの年からナショナルチーム3チームによるリーグ戦大会となり「FIFA公認国際Aマッチ」となった大会でもあります。この年はアルゼンチン代表とウェールズ代表が参戦、オフトジャパンがどう挑むのかメディアの注目も高い大会となりました。

初戦のアルゼンチン戦には国立競技場に5万人の大観衆、キリンカップ史上最高の動員となりました。試合はアルゼンチンのエース・バティストゥータの豪快な1発を浴び敗戦でしたが、アルゼンチンのバシーレ監督やFWカニージャ選手が、日本の守備的MF・森保一選手を絶賛、それまで無名だった森保選手は一躍、日本のサッカーファンの知るところとなった試合でした。

日本はウェールズ戦にも0-1で敗戦しましたが、いずれも世界の強豪国だったことから、その相手と渡り合った自信のほうが大きく、オフト・ジャパンとしては収穫の多い船出となりました。

6月、オフト監督の母国オランダへの遠征をこなした日本代表は、8月イタリア・セリエAの強豪ユベントスを迎えて2試合を戦いました。これは報知新聞社創刊120周年記念としてセットされた「サッカーフェスタ92」で、ユベントスは92-93シーズンセリエA開幕を控えて、ロベルト・バッジョ、ジャンルカ・ビアリ、アンドレアス・メラーなどベストメンバーが来日しました。

第1戦、日本はカズ・三浦知良選手と吉田光範選手のゴールでロスタイムまでリードを奪っていましたがアンドレアス・メラーに同点ゴールを決められ土壇場で勝利を逃してしまいました。
第2戦は国立競技場に6万人の観衆を集めて行われました。日本は前半ロベルト・バッジョのPKであっさり先制を許しましたが、その後はチャンスも多く作り出し、満員の観衆を何度も沸かせユベントスの猛攻にも耐え続け、この試合もロスタイム、今度は日本が井原正巳選手のゴールで土壇場で追いつき、そのまま試合終了、真夏の夜の大観衆を酔わせるにふさわしい日本代表の戦いぶりに多くのファンが「やれるぞニッポン!!」の思いを強くした試合でした。

ユベントス戦での手ごたえをもって5日後、日本代表は、東アジアカップともいうべきダイナスティカップに臨むため北京に降り立ちました。日本、韓国、中国、北朝鮮によるリーグ戦と、上位2チームによる決勝戦方式で開催されたこの大会、初戦の相手は韓国、フィジカルに勝る韓国に押し込まれながらも耐えてドロー発進しました。

第2戦の中国には、福田正博選手、高木琢也選手のゴールで2-0の快勝、第3戦の北朝鮮にも、先制されたものの、福田正博選手の同点ゴールを皮切りに、高木琢也選手の2ゴール、カズ・三浦知良選手のゴールで4-1と粉砕、グループリーグ2勝1分の首位で決勝進出を果たしました。

決勝の相手は韓国、前半どしゃ降りの雨の中、日本は先制を許しましたが、後半雨も止み日本のバスが通りだすとほぼ互角の試合に、そして後半22分、ラモス瑠偉選手の投入でリズムが良くなり後半38分、ラモス瑠偉、浅野哲也とつないだバスを途中交代で入ったばかりの中山雅史選手が見事同点ゴール、延長に持ち込みました。そして延長前半6分、またもラモス瑠偉選手が起点となり最後は高木琢也選手がゴール、しかし、その1分後同点に追いつかれ、そのまま試合はPK戦。韓国が2人失敗したのに対し日本は4人目のキッカー・北澤豪選手が決めて全員成功。ついにアジアサッカー連盟主催の公式大会初の優勝を飾ったのでした。

広島開催の1992年アジアカップも日本初制覇

10月下旬、広島で開幕した第10回アジアカップ、これまで日本は第8回大会まで参加してこなかった大会で、前回初参加するも予選リーグ敗退と、まったく実績がありませんでしたが、8月のダイナスティカップを制して自信をつけていた今回の日本代表は違っていました。

グループリーグ初戦でUEAと引き分けスタート、2戦目の北朝鮮戦も1点リードを許す展開でしたが、後半35分、わずか3分前に投入された中山雅史選手がCKからのボールを強烈なヘディングで叩きつけ起死回生の同点ゴール、引き分けに持ち込んでグループリーグ突破に望みをつなぎました。

続く第3戦の相手は前回覇者のイラン、やはり強敵だけあり前半2度もヒヤリとする場面を作られながら凌ぎ、迎えた後半、相手に退場者が出て10人となったところで日本はラモス瑠偉選手を投入、次々とチャンスを作り出し、そして後半40分、遂にカズ・三浦知良選手が決勝ゴールを決めて勝利、見事準決勝進出を果たしました。

準決勝の相手は中国、日本は開始30秒にあっさりと先制され中国が守備的な戦術に切り替えてしまったことから前半は攻めあぐねたまま終了、しかしハーフタイムで落ち着きを取り戻した日本は、後半に入ると息を吹き返し、後半3分に福田正博選手、後半12分に北澤豪選手がゴールをあげて逆転、その後、また同点に追いつかれ中国の攻勢にさらされましたが、後半20分に投入された中山雅史選手が、後半42分、またしても高い打点のヘディングシュートを叩き込み3-2とリード、そのまま試合終了、決勝進出を果たしました。

11月8日に行われた決勝の相手は大会3連覇を目指すサウジアラビアでした。日本は、森保一選手を累積警告で、GK松永成立選手を前の試合の退場処分による出場停止で欠く不安のある試合でしたが、前半35分、進境著しい高木琢也選手のゴールで先制、その後はスタンドのほとんどを埋め尽くす大観衆の声援に後押しされ、試合を優位に進めた日本が見事勝利、遂にアジアの頂点に立った瞬間でした。

これまで長い間アジアで勝てない姿を見せてきた日本のサッカーファンの前で、柱谷キャプテンが、そして井原正巳選手が初めての高々とナンバーワンのカップを掲げたのでした。
大会MVPに輝いた三浦知良選手は、この大会を境に、自他ともに日本をワールドカップに導く代表の期待のエースと認める選手になりました。

この大会、一つトピックがありました。当然この本大会に出場しているはずの韓国の姿がなかったのです。実は韓国、本大会出場権を争う予選を大学生・実業団選抜チームで戦い敗退してしまったのです。6月に行われた予選がプロリーグの日程と重なったための対応で、日本にとっては難敵の不在は幸運でした。

オフト監督は就任1年目にして日本にビッグタイトルをもたらしました。大会前、日本代表の司令塔として欠かせないラモス瑠偉選手が、規律を重んじるオフト監督のやり方に不満を募らせ、代表辞退もほのめかせたのですが、オフト監督は毅然と「不満なら出ていってもらって構わない」と応じ、その一方、チームに残ることを決めたラモス瑠偉選手をチームのキーマンとして起用するマネジメント能力を発揮しました。

オフト監督は、代表監督を引き受けた時「日本の選手は技術、体力、精神力ともアジアのトップクラスだ。足りないのは経験と自信だけ」と語っており、今年のキリンカップ、オランダ遠征、ユベントス戦、ダイナスティカップと続く試合の中で、経験と自信の両方ともつけさせ、見事に日本代表をアジアの頂点に立たせたのでした。

5月代表初招集の森保一選手、わずか半年で不動のメンバーに

選手起用では、守備的MF森保一選手の発掘、中山雅史選手投入のズバリ的中、高木琢也選手の辛抱強い起用による活躍、そして前線の選手の役割の明確化など、その采配の見事さが「オフトマジック」と呼ばれるようになりました。
特に森保一選手の日本代表招集は、当時まったく無名だったこともあり、驚きをもって見られましたが、オフト監督はマツダで指揮をとっていた頃から、彼の資質を見抜いていました。

守備的MFとしての森保一選手の見事さを語るエピソードが二つ残っています。
一つは5月のキリンカップ・アルゼンチン戦でした。この試合、実は森保選手の日本代表デビュー戦だったのですが、試合後のアルゼンチン監督・選手から出た、日本選手の中で誰が一番目立ったかという質問の答えは、カズ・三浦知良選手でもラモス瑠偉選手でもなく「17番の森保選手」だったのです。カニージャ選手にいたっては「いやになるほど17番がいつもいるんだ。(中略)僕にとって一番嫌だったのは、あの17番だよ」

もう一つのエピソードは、アジアカップを制覇した時のことです。この大会、試合ごとにマンオブザマッチが選ばれ、日本選手がすべて受賞しました。その中で森保一選手が選ばれることはなかったのですが、決勝戦前に、意外なことが起きました。
決勝戦には累積警告のため出場できない森保選手を、数人のカメラマンたちが手招きして呼び寄せると、唐突に森保選手が大写しになったパネル写真とオルゴールを手渡したのです。そして一人のカメラマンから「これはオレたちがお金を出し合って、実質上のMVPであるキミへのプレゼントなんだ。ほんの心尽くしだけど受け取ってくれないか」というのです。

なんとカメラマン仲間たちは、ファインダー越しに見た森保選手のプレーこそが日本優勝の影の立役者であることを見抜いていました。
カメラマンたちは、基本的にボールを持った選手たちを追っていて、ここぞという時にシャッターを切るのですが、なぜかシャッターを切ろうとしたその瞬間、いつも被写体の背後にスッと映り込んではすぐに消える背番号17の姿、逆に相手がフリーになりそうな瞬間、矢のようにファインダーに映り込んでくる背番号17の姿に気が付いたというのです。

つまり、常に味方をフォローする位置に、そして相手のチャンスの芽を摘む位置にポジションをとっていることをファインダー越しに知っていたため、カメラマンたちは、彼こそが影の立役者だと感じていたのです。

オフト監督は、自分が代表に呼び起用した森保一選手の活躍に目を細めたことと思います。

またオフト監督は、チーム戦術のカギとなる「チーム・ディシプリン」「アイコンタクト」「トライアングル」のキーワードで選手を指導しました。そのキーワードは選手はもとより監督の戦術を理解しようとするメディアにもわかりやすく伝わり「オフトマジック」は一層もっともらしくなっていきました。

この大会を制覇したことで、カズ・三浦知良選手をはじめとした日本代表の各選手も、多くのサッカーファンも「日本はワールドカップに行ける可能性が高まった」と自信を深めました。
その自信を胸に翌年のアメリカワールドカップアジア予選に、すべてを懸けていくこととなります。

最後に、この歴史的な偉業を成し遂げた日本代表を記録して記憶に留めたいと思います。
GK松永成立、前川和也
DF柱谷哲二、井原正巳、都並敏史、堀池巧、勝矢寿延
MFラモス瑠偉、福田正博、北澤豪、吉田光範、森保一
FW三浦知良、高木琢也、中山雅史
監督ハンス・オフト、コーチ清雲栄純

日本代表サポーターの誕生元年

このアジアカップ広島大会は、日本代表に「サポーター」という集団が初めて生まれた大会としても歴史に刻まれています。
サッカーマガジン誌が、そのいきさつを克明にレポートしていました。
それは日本が勝ち進むにつれて、ゴール裏に陣取る人数が日に日に増えて、決勝の日には数百人規模になったのです。
その数百人が肩を組んで横に動いて応援する光景は、他の観客にとっても記者席に陣取る人たちにとっも初めて見る壮観だったのです。
これらの、にわかサポーターを束ねたのは、代表サポーター歴10年の萩本良博さんで、いわゆるチャントやみんなが参加するパフォーマンスなどを組み込んでいました。

特に第2戦の北朝鮮戦から特大のフラッグと大太鼓が応援席に加わり、代表応援席らしくなってきたのと、もう一つ伝説が生まれています。
それは、その後長く日本代表サポーターのリーダー的存在となる植田朝日さんと、中山雅史選手の3年前の出会いから生まれた「中山のテーマ」が、この日初めてスタジアムにこだましたのです。

植田朝日さんは、小学生の頃から日本代表と読売クラブを国立競技場のバックスタンドで応援はしてきた名物少年として知られていたのですが、高校1年の時にイギリスにあるロンドン暁星高校に留学中、ユニバシアード大会サッカー日本代表のキャプテンとしてイギリスに来た中山雅史選手と出会い、中山選手の底抜けに明るい人柄に触れて、中山選手の熱狂的ファンになったというのです。

そしてキャプテンだった中山選手を「中山隊長」と呼んで慕い続け、このアジアカップで植田朝日さんが作った「中山のテーマ」を初披露した結果、日本で生まれた初めてのサポーターソングとして、多くのサポーター仲間に認められ、最高傑作とも評価されました。

「中山のテーマ」を初披露した北朝鮮戦で、中山雅史選手はまさに起死回生の同点ゴールを生んだのです。最高傑作のサポーターの応援ソングが選手に力を与えた瞬間でした。中山雅史選手は準決勝の中国戦でも決勝ゴールを決め、再びスタンドから「オー! ナカヤマ! ナカヤマ、
ナカヤマ、ナカヤマー!」のコールが響き渡り、日本代表全体のムードを高める効果も生み出しました。
大会期間中、次々と代表サポーターの仲間入りが後を絶たず、遂に数百人規模に膨れ上がったのでした。

サッカーマガジン誌は、この大会における代表サポーターのことを大きな見出しで次のように表現しました
「サポーター軍団に拍手! 歴史的なアジアカップ優勝。11月8日は日本に初めてサポーター革命が起きた、記念日でもあった・・!」

サッカー先進国では、こうした集団が「ウルトラス」と呼ばれていたことから、翌1993年には、自らのグループを「ウルトラス・ニッポン」と名乗り、次第に社会的にも認知されるグループになっていったのです。

そのほかの日本代表関連では、9月から10月にかけてUAEで、1992年U-19アジア選手権が開催されました。
翌年開催予定のいわゆるワールドユース選手権アジア予選も兼ねていました。この年の日本ユース代表は2月に立ち上げられ、当初、永井良和氏が監督に就任しましたが、3月、日本サッカー協会の川淵強化委員長の日本代表スタッフ総入れ替えの方針のもと、フル代表監督にハンス・オフト氏が就任したのをはじめ、日本ユース代表も永井監督のもとでコーチを務めていた西野朗氏が昇格して監督(37歳)、山本昌邦コーチ(34歳)体制となりました。

選手には、FW上野優作選手、FW大柴健二選手、FW平野孝選手、FW城彰二選手、MF伊東輝悦選手、MF山口貴之選手、MF阿部敏之選手、MF佐藤一樹選手、MF佐藤尽選手、服部年宏選手、DF白井博幸選手、GK川口能活選手らが名を連ねていました。

5月にはアジア一次予選があり同組が韓国、中国、北朝鮮という難敵でした。のちの時代には考えられない組み合わせです。いわゆるシードという方式がなかったことと、東アジアの国同士が戦う組み合わせて、これまでなら、あえなく一次予選敗退となってもおかしくないところです。

ところが西野監督は、ここで思い切った作戦に出ます。4月に最も難敵と思われる韓国にあえて遠征に出たのです。戦う相手の国に遠征すれば手の内を悟られてしまうリスクが大きく、当然周囲からは難色を示す意見が出ましたが、西野監督には、それよりも韓国サッカーを選手たちに肌で感じさせ、首脳陣も通用するところや修正すべきところを実戦で掴むことを優先したのでした。

その作戦は当たりました。5月23日の初戦・韓国戦に1-0で勝利したのです。ユース代表が韓国に勝ったは15年ぶりのこと、しかも90分以内の勝利となると、この年代では日本サッカー史上初めての勝利をあげたのです。日本は25日の中国戦に引き分け、9月から10月にかけてUAEで開催されるアジア最終予選に駒を進めました。

9月25日から行われたグループリーグ、日本は開催国UAE、イラン、インドと同組で、初戦のインド、2戦目のイランに連勝して早々とグループリーグ突破を決めましたが、最終戦UEAに敗れたためグループ2位となり、準決勝は別組1位の韓国との顔合わせとなりました。

5月に一次予選には勝ったものの、翌年のワールドユース出場権がかかったこの試合、一度は同点に追いついたものの最後は勝ち越され敗退、1979年日本で行われた大会に開催国として出場して以来14年ぶりの出場権獲得はなりませんでした。

しかし三位決定戦に回った選手たちに西野監督は2つのモチベーションを与えたといいます。一つはグループリーグで敗れたために2位になってしまったリベンジ、もう一つは4年後のアトランタ五輪を目指すことになるイレブンに「次は3位まで出場権が与えられる。その3位決定戦だと思って勝ち抜け!」

見事なモチベーターです。檄を受けたイレブンは後半3ゴールをあげてリベンジを果たし銅メダルを獲得しました。
しかし選手たちの中には、ワールドユース出場権を逃した悔しさを深く胸に刻み、4年後にはアトランタ五輪出場権を勝ち取ったメンバーがいました。FW城彰二選手、MF伊東輝悦選手、MF服部年宏選手、DF白井博幸選手、GK川口能活選手です。

また翌年1993年夏、日本で開催されるU-17世界選手権を目指す日本代表が、5月に、1992年U-16アジアユース1次予選に出場しました。U-17世界選手権には開催国として出場権を得ていましたが強化の一環として参加したものです。しかし、U-19アジア一次予選同様、東アジアの難敵揃いの中、中国に1-3、北朝鮮に1-4で敗れてしまいました。中国はアジア予選を突破して本大会に出場することになりますが、まだまだ強化は途上であることを痛感させられました。

この年の国内サッカーは、
まず夏休みの行事として定着した東京・よみうりランドの全日本少年サッカー大会、この年は第16回を迎え決勝は前年初出場で初優勝を成し遂げた栃木・下都賀ジュリアンズと静岡・清水FCとの対戦となりました。

この年の清水FCは、圧倒的な攻撃力を見せ、決勝T1回戦で山形県代表・FCドラゴンを16-0、準々決勝こそ1-0の僅差でしたが準決勝で長崎・国見を7-0で下し決勝に勝ち上がってきました。そして決勝も6-1の大差で勝利して通算8度目の優勝を飾りました。

ところが、この全日本少年サッカー大会における清水FCの優勝は、この時が最後となりました。翌年も決勝まで勝ち上がったものの、同じ静岡の浜松JFCに敗れ準優勝、さらにその翌年1994年は3位と、徐々に常勝軍団・清水FCの力が落ちていきましたから、この1992年は、いわば清水FCの最後の輝きだったのです。

これも夏の大会として定着してきた高円宮杯全日本ユースサッカー選手権は、第4回大会を迎え、静岡・藤枝東と読売ヴェルディユースの決勝となりました。もともと高校チームとクラブチームの垣根を取り払って争われる真の高校年代日本一を争う大会として始まった割には、過去1989年のプレ大会を含めて3大会、クラブチームが決勝はおろかベスト4にすら進んだことがない状況でしたが、やっとクラブチームの王者・読売ヴェルディユースが決勝に勝ち進んできたのです。
試合は、藤枝東が3-1で読売ヴェルディユースを下し優勝しました。

一方、この年、全国女子高校サッカー選手権の記念すべき第1回大会が神戸市で開催されました。決勝は宮城・聖和学園と埼玉高校(現・埼玉平成高校)の対戦となり1-0で聖和学園が優勝しました。この両校は初期の女子高校サッカー選手権の常連校として活躍しました。

1992年欧州選手権はデンマーク、バルセロナ五輪サッカーはスペインが優勝、トヨタカップは南米サンパウロが欧州バルセロナを撃破

このように日本サッカーが大きく前進した年でしたが、海外に目を向けてみますと、ワールドカップサッカーの中間年に4年周期で行なわれる欧州選手権が6月スウェーデンで開かれました。
この大会に出場権があったユーゴスラビアが、国内紛争のため国際試合参加禁止の制裁を受けたことから、デンマークが代替出場となり、そのデンマークが優勝を果たすという思いがけない結果となりました。
この大会は、ユーゴの参加禁止に加え、ソ連が崩壊直後ということでCIS(独立国家共同体)の名称で、ドイツは東西ドイツ統一後、初の国際大会参加となるなど、激動の欧州を反映した大会となりました。

さて、15ケ月(1年3ケ月)にわたる出場停止処分を受けていたディエゴ・マラドーナが6月30日処分が解かれ、その後、スペイン・セビリアで再スタートを切りました。

第10回アジアカップ
第10回アジアカップ
日本がアジア予選で敗退したバルセロナ五輪サッカーは、7月から8月にかけて開催され、地元スペインがカンプ・ノウスタジアムを埋め尽くした五輪史上最高と言われる95,000人の大観衆の後押しを受けて劇的な優勝、スペイン中央政府に対する抵抗感情が強いと言われるバルセロナの地で、この時ばかりはスペイン国旗が打ち振られ歓喜に浸ったのでした。
ほぼ単一民族の国といえる日本とは異なり、多くの国で複雑な民族感情に揺れ動く中、戦われているサッカーの国際試合のありようが、日本のサッカーファンにも少しづつ見えてきた時期でしたが、「国民性・民族性がもっとも現れるのがサッカーの国際試合」と言われるサッカーの本当の怖さを、まだまだ実感するまでには至っていないのが、この時期だったと言えます。

毎年12月上旬開催が恒例となったトヨタカップ。その出場権を賭ける大会として、南米にはリベルタドーレス杯がありますが、欧州はこの秋のシーズンから名称を「欧州チャンピオンズカップ」から「欧州チャンピオンズリーグ」に変更して、各国リーグと並行してシーズンを通して戦う大会に衣替えしました。翌年春に最初の覇者が誕生します。
この年のトヨタカップは、南米覇者サンパウロと、さる5月に最後の「欧州チャンピオンズカップ」を制していたバルセロナという人気チーム同士の対戦となりましたが、サンパウロがクラブ世界一に輝きました。

バルセロナ五輪優勝
バルセロナ五輪決勝スペイン代表

サッカー専門誌の御三家、月1回刊から月2回発行に

この年は、サッカーメディアの面でも大きな変化がありました。サッカー専門誌の御三家の一つサッカーマガジン誌が8月号で通算400号を迎えたのに続き、11月から12月にかけて、サッカーマガジン、サッカーダイジェスト、サッカーストライカーの3誌が相次いで月1回刊から月2回発行に踏み切りました。長年、サッカー情報の遅れ時差に飢餓感を覚えていたサッカーファンにとって大きな進展でした。
また、女子中高生などを愛読者層に持つビジュアル系のサッカー誌として前年から季刊(年4回)発行されていたサッカー・ai誌も、この年のサッカーの急速な盛り上がりを受けて翌年1993年春から隔月刊化されました。

テレビに日本のサッカーやJリーグを取り上げる番組が登場

これまで、テレビに日本のサッカーが取り上げられるとすれば、スポーツニュースの中で短く流れることがせいぜいでした。長くサッカー専門番組として親しまれてきたテレビ東京系の「ダイヤモンドサッカー」も海外の試合が中心で、それも1988年3月に一旦終了していました。入れ替わるように1989年6月からNHK-BSが海外の試合を放送するようになり、昨年1991年9月からはBSのWOWOW(ワウワウ)がイタリアリーグ(セリエA)の放送を始めました。

いずれも海外のサッカー試合放送という時代が続いたわけですが、この年1992年、いよいよJリーグが始まるということで、テレビに日本のサッカーやJリーグを取り上げる番組が登場し始めました。

1月、日本テレビ系列の静岡第一テレビ制作による「さんまの史上最大のスポーツバラエティ「だからサッカーは面白い」」が放送されました。1時間30分枠という長い時間のなかで、カズ・三浦知良選手、ラモス瑠偉、武田修宏選手をゲストに迎え、当時36歳の明石家さんまさんが楽しいトークを繰り広げました。番組の中には毎年開催されている「静岡カップ」の試合ハイライト、その前座試合のザ・ミイラvs静岡サッカーレジェンドの試合ハイライトが流されたほか、Jリーグ参加10チームの紹介そして住友金属に加入して鹿島アントラーズでJリーグを戦うことになるジーコ選手の紹介・インタビューなど、盛りだくさんのコーナーがありました。

明石家さんまさんは、このあと、トヨタカップやワールドカップなどの時に「さんまの・・」とついた冠番組を持つようになりましたが、これが最初の「さんまの・・」となりました。

夏になると、もう一人のサッカー大好き芸能人、とんねるずの木梨憲武さんの出番が来ました。2人の人気番組、日テレ系の「とんねるずの生でダラダラいかせて」の1コーナーの中で「くやしかったら俺を倒して行け!」ということで木梨さんと元日本代表GK・田口光久さんのペアがJリーグ各チームの2人のペアと、PK合戦で勝負をするという企画が始まりました。
10チームすべての対戦ということで10週続いた企画でした。

このあと、いろいろなバラエティ番組が、PK対決という企画を取り入れるようになりましたが、このとんねるずの企画がその先駆けといえます。

そして年末・大晦日には神奈川テレビをキー局に独立系UHF11局ネットの「ゆく年くる年」特番として「サッカー維新、Jリーグ元年」と題した2時間番組が放送されました。
1992年は「日本サッカー維新の年」、1993年は「Jリーグ元年」ということで、年をまたぎましょうという企画でした。
1992年十大ニュースや視聴者が選ぶ1992年ベストイレブンなど、視聴者参加の大晦日らしい楽しい番組でこの年を締めくくり、カウントダウンで1993年元旦を迎えました。

テレビ放送において、新しい年に日本サッカー、Jリーグの話題が数々取り上げられる予感を十分感じさせる「ゆく年くる年」となりました。

 

12月下旬、翌1993年元旦の決勝に進むチームを決める第72回天皇杯は、昨年と同じ読売・日産という、お約束のチームが勝ち残る「輝かしい序章の年」にふさわしいエンディングを迎え「伝説の1992年」は幕を降ろしました。

サッカーダイジェスト
サッカー誌が月2回発行に