現在につながる世界のサッカー、日本のサッカーの伝説の年は、まず1986年、そして1992年、1993年、1994年、1996年、1997年、1998年、1999年、2000年、2002年、2004年、さらに2010年、2011年、2012年、2018年、2022年、
実に多くの伝説に満ちた年があったのです。
それらは「伝説のあの年」として長く長く語り継がれることでしょう。
さぁ、順次、ひもといてみましょう。
伝説のあの年 1998年-1
1998年は、いよいよ日本サッカーにとって史上初の参加となるFIFAワールドカップフランス大会の年です。前年、日本中を巻き込んで艱難辛苦の末に自力で出場権を勝ち取った日本が、未知の舞台でどれだけの戦いができるのか、年の前半はそのことでもちきりでした。
ですから、年の後半がどのような日本サッカーの世界になるのか、あまり考えもせずに新しい年を迎えたのですが、実はこの年も1年を通してみると、かなり起伏に富んだ、前年とは違った意味で「伝説の年」になりました。さぁ、ひもといていきます。
元旦スポーツ紙、5紙が「W杯イヤー特集」を1面トップに、3紙がさらに別冊W杯特集で新年を飾る
年が明け元日、まず度肝を抜かれたのがスポーツ紙の1面トップ記事でした。日刊スポーツ、スポーツニッポン、スポーツ報知、サンケイスポーツ、デイリースポーツの5紙が「W杯イヤー特集」を組んだのです。岡田監督、中田英寿選手、城彰二選手らの写真をあしらって、それぞれ特集企画を打ちました。
さらにスポーツニッポン、スポーツ報知、サンケイスポーツの2紙は別冊でもW杯特集を組むという熱の入れようで、通常版と別冊版の合計のページ数は25ページに及ぶ量でした。いやが上にも今年がサッカーワールドップの年であることを印象づけました。
あれ? 何これ? と思ってしまう異色記事
こうした新年企画記事の中に、ちょっと異色の企画、異色の記事がありました。朝日新聞が元日からの新年企画で「現代奇人伝」という数日間の連載企画を打ったのです。その3回目、1月4日に中田英寿選手が取り上げられました。タイトルは「疾走する孤高の20歳『君が代』は歌わない」(このタイトルは東京本社版のタイトルのようで、大阪地域などでは若干違っている可能性があるらしい)
記事はこの連載企画を担当している記者が中田選手にインタビューした内容に基づいているのですが「中田英寿選手はなぜ『君が代』を歌わないのだろうか」という、日本人にとってはセンシティブ(個人の信条やプライバシーにかかわるデリケート)なことに切り込んでいました。
この記事に関するインタビューは前年11月に行われていたようで、記者が「日本がワールドカップ出場を決めたマレーシア・ジョホールバルでの試合、テレビに流れた両国の国歌吹奏の場面、君が代が流れた時、中田選手は歌ってませんでしたね」とでも聞いたのでしょうか。
中田選手が「国歌、ダサイですね。気分が落ちていくでしょ。戦う前に歌う歌じゃない」と答えました。
記事は、特に中田選手が国歌を重んじないことに焦点をあてたものではなく、他のサッカー選手とはかなり毛色の違う、それでいてチームの中心選手である中田選手の人物像を浮き彫りにしようとする意図だったでしょうけれど、タイトルに「『君が代』は歌わない」とつけ「国歌、ダサイですね・・・・」というコメントを引き出して掲載すれば、企画の意図とはまったく違った受け止めをする読者が一定数出てくることは明白です。
日本代表選手の中で、ただ一人歌わずに目立っているわけではなく、他の選手の中にもいるように、中田選手自身も「国歌吹奏」を聞きながら気持ちの集中を高めているだけなのですが、「国歌、ダサイですね・・」などと言わなくてもいいことを言ってしまい、誤解の火に油を注ぐことになってしまいます。
この記事が、のちに中田選手の足を引っ張ることにならなければいいが、と思わせる記事でした。
天皇杯決勝は鹿島vs横浜F 3-0で鹿島完勝、前年のナビスコと合わせて二冠、全国高校サッカーは雪の国立、伝説の名勝負の末、東福岡が帝京を下し高校三冠達成
元日の第77回天皇杯サッカー決勝に駒を進めたのは、準決勝で磐田を3-2で逆転した横浜Fと、JFL・東京ガスを退けた鹿島でした。
準決勝で敗退した磐田は11月下旬からナビスコカップ決勝2試合、12月にJリーグチャンピオンシップ2試合、そして天皇杯と休みなしの連戦続きで疲労困憊の末力尽きた感がありました。一方の鹿島も磐田と同じ条件でしたが準決勝の相手がJFLの東京ガスということで、いわば格の違いを見せつけました。この年の東京ガスは、3回戦から名古屋、横浜M、平塚とJリーグ勢を撃破して準決勝まで進出、話題をさらったチームでしたが鹿島は3-1で退け決勝に進出しました。
決勝は鹿島vs横浜Fで争われました。約4万8000人の大観衆が詰めかけた国立競技場で躍動したのは、ビスマルク、ジョルジーニョのブラジルコンビと、秋田豊選手を中心とする日本代表4人衆、そして柳沢敦選手、増田忠俊選手といった若手が融合した鹿島でした。試合は3-0で鹿島の完勝でした。
4年前の第73回大会決勝では、加茂監督率いる横浜Fに屈した鹿島、その雪辱を果たして天皇杯初制覇、これでJリーグ三大タイトルをそれぞれ1回ずつ獲得、通算3冠目となりました。
第76回高校サッカーは「ここから、夢が始まる」の大会キャッチフレーズのもと、全国4118校、本大会出場48校の頂点を目指して1月8日決勝が行なわれ、東京・帝京と福岡・東福岡という名門校対新興校の対戦となりました。
東福岡は初優勝を目指す新興校とはいえ、前年夏の高校総体サッカーと全日本ユース選手権を制覇しており、この決勝は史上(全日本ユースがタイトルに加わってから)初の高校三冠に王手をかけた戦いという点でも注目でしたし、帝京は高校総体決勝で敗れている雪辱を期しての戦いという、まさにこの年の高校サッカー界の頂上決戦にふさわしいカードとなったのです。
当日は、午前中から雪が降り始め、試合が始まる頃はまさに降りしきる雪上の戦い、ピッチは降り積もった雪のため真っ白となり境目を示すラインもまったく見えなくなり、カラーボールが使用されての試合となりました。
通常、これでけの雪の中の試合となると、なかなかボールコントロールがままならず、いきおて蹴り合いに終始する試合になりがちですが、この決勝は違っていました。両チームとも不自由なボールさばきにもかかわらず、パスでつなごうという意識を高く保ったまま試合が続きました。
試合はインターハイの雪辱に燃える帝京が「夏以降、東福岡を意識してチーム作りをしてきた」という小沼監督の対策が功を奏し先制、しかし東福岡は前半のうちに同点に追いつくと、早くも前半29分、この大会ケガの影響で出番の少なかった古賀誠史選手と青柳雅裕選手を投入、帝京の作戦を意識して修正を図りました。
そして後半、雪は相変わらず降り続きますが、試合開始直後ほどの勢いはなくなりました。ピッチのうちペナルティエリアの部分だけは雪かきにより少し芝が見える程度になりましたが、雪が固まってきた分、ボールコントロールの難しさは増したことと思います。
その中で東福岡はエース・本山雅志選手をトップにあげ、タメを効かせて中盤の押し上げを待つ作戦が功を奏し、後半5分、本山選手のボールキープを見た途中出場の青柳雅裕選手が走り込み、それに合わせるように本山雅志選手がラストパス、青柳選手が鮮やかに帝京ゴールを陥れました。
雪のハンディをまったく感じさせない2人の見事なボールコントロールで生まれたゴールでした。
試合はその後、ボールの蹴り合いが徐々に増えてきましたが、お互い堅守を維持して時間が経過、帝京は長身の貞富信宏選手を投入して打開を図りますが、東福岡の粘り強い守備を崩せず、試合はそのまま終了のホイッスル。東福岡が選手権初優勝と高校三冠達成という偉業を成し遂げました。
東福岡の志波芳則監督は、準決勝3度目の挑戦で初めて決勝に進んでの初優勝ということで「悲願の」といった枕詞がつきそうなところでしたが、この年のメンバーであれば高校三冠ができるという思いが強かっただけに、むしろホッとした様子で大会を振り返りました。
この年の東福岡高校は、10番をつける司令塔の本山雅志選手を中心に、両サイドに古賀誠史選手と古賀大三選手の快速古賀コンビ、中盤に宮崎啓太選手、DFの中心に手島和希選手といった3年生の核になる選手に加えて、2年生のMF宮原裕司選手、DFの2年生コンビ、金古聖司選手、千代反田充選手といった3年生と同等の力を持った選手がレギュラーを占めており、大会参加校の中でもずば抜けた布陣を持っており「なっとくの高校三冠」でシーズンを完結させました。
帝京高校は夏のインターハイに続いて東福岡に屈し、この年は引き立て役に回ったことになります。
とはいえ、本降りの雪の中のハイレベルな決勝戦は、長い高校サッカーの歴史における名勝負として刻まれる試合となり、この年の東福岡、帝京のイレブンは長く語り継がれるメンバーになったことも確かです。
また決勝を戦った東福岡・本山雅志選手、帝京・中田浩二選手の両キャプテンが揃って鹿島アントラーズに入団することになったことでも話題になりました。
この大会は、東福岡の3年生メンバーをはじめ多くの逸材が揃った大会でした。この大会の主な出場選手と進路
FW 木島良輔(帝京→横浜M)
MF 本山雅志(東福岡→鹿島)、中田浩二(帝京→鹿島)、小笠原満男(大船渡→鹿島)、遠藤保仁(鹿児島実→横浜F)、古賀誠史(東福岡→横浜M)、加地亮(滝川二→C大阪)
DF 手島和希(東福岡→横浜F)
2年生以下
宮原裕司(東福岡)、金古聖司(東福岡)、千代反田充(東福岡)
大所帯になっていく「2002年FIFAワールドカップサッカー日本組織委員会」事務局、古参のメンバーが感じる寂寥感
前年12月に発足した「財団法人2002年FIFAワールドカップサッカー日本組織委員会」は、1月16日、東京・赤坂プリンスホテルで盛大な設立記念パーティを開催しました。
1986年、日本サッカー協会で村田忠男氏が単騎活動を始めてから12年、村田氏がいろいろな人から「あんた何やってるの?」と問い返された日々は過去のものになり、いまやサッカー、そしてワールドカップは、日本代表も初出場を決めたとあって、国民的関心事にまで高まってきました。
これから進める2002年開催までの準備を担う事務局体制も、これまでとはまったく異なり、出入国管理(ビザの発給)や税関、外貨交換に至るまで、いわゆる「ワールドカップ開催対策仕様」の体制となりました。これまで関わってきたサッカー界の関係者、広告代理店の出向者などに加え、関係省庁、開催自治体などを含めた混成部隊、しかも身分、肩書もそれぞれ違う人たちの集団で持っている思惑もまるで違うという人たちの寄り合い所帯になったのです。
特に、ビザの発給や税関、外貨交換などの準備や手続きは所管官庁にとっては「これは自分たちの仕事、サッカー関係者の余計な口出しはご無用」といった感覚が強く「組織委員会事務局」といった一体感とは名ばかりの空気になり、それ以前の「招致委員会」時代から関わっているメンバーにとっては、一つの目的に向かって力を合わせて邁進してきた気持ちのやり場がなくなってしまう寂寥感を覚える状況が生まれました。
ある意味「モチベーション」とか「やりがい」といったプラスアルファの気持ちなど無用、ドライな実務処理能力だけが求められる段階に差し掛かってきたのを、以前からの古参のメンバーは、なかなか受け入れられない時期が半年ぐらい続いたようです。
いよいよ日本代表サバイバルスタート、まずはダイナスティカップ98、岡田ジャパン日本、大会3連覇も収穫に乏しい大会、しかしFWの序列に決定的な差が出た大会?
3月1日からダイナスティカップ98が日本を会場に開催され、それに先立ち1月16日、日本代表候補29人が発表されました。
この中で目を引いたのが初招集のうちGKを除く3選手でした。鹿島・柳沢敦選手、増田忠俊選手、横浜M・中村俊輔選手、特に中村俊輔選手は、いずれはと思われていたものの、この段階ではまだだろうと見られていた中での招集でした。
岡田監督の「一人でも多くの有望選手を見てみたい」という気持ちの表れでした。
29人は1月24日からの宮崎キャンプに参加、続いて2月8日からの豪州キャンプを経て、3月1日からのダイナスティカップ98に臨む20人に絞られました。初招集の3人のうち中村俊輔選手は、豪州キャンプ序盤に肉離れを起こしてしまい離脱、アピールの機会がないまま選外となり、20人の枠に残れたのは増田忠俊選手(鹿島)だけで、さっそくサバイバルの洗礼を浴びることになりました。
ダイナスティカップ98は、日本のほか韓国、中国、香港の4チームによる総当たり戦で、日本は初戦が3月1日の韓国戦、スタジアム開きとなる横浜国際競技場での試合でした。韓国は洪明甫選手をはじめ主力数人を欠いての戦でした。
当日は雪交じりの雨と冷たい風という悪いコンディションでしたが、こけら落としのスタジアムを見たいという59,380人もの観客が詰めかけました。
ワールドカップイヤー最初の公式戦、しかも宿敵・韓国との試合、注目のスタメン、特にFWは中山雅史選手と城彰二選手の2トップでした。カズ・三浦知良選手と呂比須選手はベンチスタートとなりました。中盤は直近の豪州戦で退場処分を受けて、国際Aマッチ出場停止の山口素弘選手に代わり服部年宏選手、DF陣は4バック、もう一つの注目はGKに楢崎正剛選手を起用したことでした。岡田監督は「ワールドカップ本番で守りに回る時間が長くなった時、ハイボールに強くゴールマウスを背負った処理に安定感を見せる楢崎正剛も選択肢に入れておきたい」と狙いを語りました。
試合は前半18分、右からのCKを名波浩選手が左足で鋭くニアサイドに蹴り込むと、そこに走り込んだ中山雅史選手がドンピシャのヘッドで先制、このゴールは横浜国際競技場の記念すべき初ゴールとなり「何かを持ってる中山雅史選手の1998年」を予感させるゴールとなりました。
このゴール、明らかに名波選手と中山雅史選手の磐田ホットラインによるコンビブレーです。前年のアジア最終予選・第8戦カザフスタン戦、中山選手にゴールを取らせんがために何度もCKを送り続けた名波選手ですが、これだけ精度の高いコンビプレーが出来ると磐田での試合のみならず代表でもかなり威力を発揮するのではないかと思わせるゴールでした。
その3分後、日本は同点にされますが、試合は日本は名波、中田、服部の中盤のテンポの良いボール回しから何度かチャンスを作りペースを握り続けます。
しかし、これまで同様、作るチャンスを活かしきれない日本、ようやく後半44分、これも右からの名波浩選手のCKを今度は城彰二選手がヘッドで合わせ勝ち越し、2-1で韓国を下しました。
これで前年のアジア最終予選第7戦、蚕室スタジアムでの勝利に続き韓国に連勝、今回もキーマン・洪明甫選手を欠いての勝利とはいえ、少しづつ日本に韓国コンプレックスがなくなったことを、何よりも選手たちが実感したようでした。
この試合、FW陣のうちカズ・三浦知良選手と呂比須選手は最後まで出番がありませんでした。特にカズ・三浦知良選手は、前年のアジア最終予選第3代表決定戦で後半途中交代で退いて以来、今回も大事な韓国戦でも出番なしとなり、明らかな変化と言える出来事でした。
この時は誰も気に留めなかったと思いますが、この試合は、岡田監督に決定的な決意をもたらした可能性があります。
すなわち「FWの柱は城、序列的に次に中山か呂比須、カズは4番手」
やはり、この大会最大の宿敵韓国を下す決勝ゴールをあげた城彰二選手に対する期待度は、少なくとも岡田監督の中では確かなものになったことでしょう。
ダイナスティカップ第2戦は香港選抜との試合、中田英寿選手の2ゴールなど5-1で圧勝、この試合、カズ・三浦知良選手は後半31分からの出場でした。この日も会場は横浜国際総合競技場、詰めかけた50,743人の観客からは交代出場のカズ・三浦知良選手がコールされると場内からは割れんばかりの「カズコール」が起きました。
第3戦は中国戦、会場を国立競技場に移し53,226人の観客が見守る中、日本は3ボランチという守備重視の布陣を敷き、ボールを奪って速攻カウンターで点を奪うというシナリオを描きました。しかし結果は0-2の完敗、岡田監督が前年10月にW杯アジア最終予選の途中から日本代表監督に就任して以来、13試合目にして初黒星という結果となりました。
カズ・三浦知良選手と中山雅史選手の2トップ、トップ下に中田英寿選手という前線は、中田英寿選手が効果的なパスを出せずドリブル突破を試みるも潰される攻撃で沈黙、カズ・三浦知良選手は後半12分に城彰二選手と交代、中山雅史選手も後半16分に岡野雅行選手と交代しました。
大会は2勝1敗で日本と中国が並びましたが得失点差で日本が優勝、この大会3連覇となりましたが、日本イレブンにはまったく笑顔のない表彰式となりました。
馳星周氏、村上龍氏、W杯日本代表を論じるサッカージャーナリスト陣に参戦「サッカー文化」に新たな文化人が新風
98.3月26日号Number440号は「日本サッカー 決戦へのプロローグ」と題してサッカー特集号となりましたが、その号に作家の馳星周氏と村上龍氏が揃って「特別寄稿」を寄せました。
前年の「W杯アジア最終予選」を多角的に論じる形で、さまざまな分野の人たちが雑誌、テレビ等で発言し「日本のサッカー文化」の花のつぼみが開く一翼を担いましたが、年が明けて、その動きが加速しました。
村上龍氏は、元日のスポーツニッポン紙にも1面に「W杯とスポーツ紙の役割」と題して寄稿しており、いわば本格参戦に向けて年賀状がわりでした。
Jリーグは18チームによる前期、後期1回戦総当たり方式で実施、日程も前期は5月上旬から7月下旬まで「フランスワールドカップ」による中断の長いシーズンに
前年17チームという変則方式だったJリーグに、JFLからコンサドーレ札幌が昇格加入して、この年は18クラブによる前後期2シーズン制で行われることになりました。
10クラブでスタートしたJリーグも6年目にして最多の18クラブ、翌年からはJ1,J2制移行により、J1が16クラブに減るため、この年が最初で最後の最多クラブという点で注目の年であると同時に、初の入れ替え戦にあたる「Jリーグ参入決定戦」が行われ、残留サバイバルの年になるという新たな注目点も生まれました。
日程は前期が3月21日開幕、8月8日最終節、後期が8月22日開幕、11月14日最終節ということになりました。レギュラーシーズン終了後、J1参入決定戦が11月19日から12月5日まで行われ、前後期優勝チームが年間王者を争うJリーグチャンピオンシップが第1戦11月21日、第2戦11月28日の日程となりました。
前期の日程では、日本代表が史上初の出場となる「FIFAフランスワールドカップ98」への準備を含めて5月9日の12節で一旦中断、ワールドカップ終了後、7月25日の13節から再開、8月8日最終17節という異例の設定となりました。
Jリーグチームの中で新監督は、浦和・原博実監督、ヴ川崎・ニカノール監督、横浜F・レシャック監督、磐田・バウミール監督、名古屋・田中孝司監督、京都・ハンスオフト監督、G大阪・コンシリア監督(5月アントネッティ監督就任までの暫定)、C大阪・松木安太郎監督、神戸・フローロ監督、福岡・森孝慈監督の10人、新監督の多い年といえます。ちなみに日本人監督は、柏・西野監督、浦和・原博実監督、平塚・植木監督、名古屋・田中孝司監督、C大阪・松木安太郎監督、福岡・森孝慈監督の6人で、こちらも近年の中では多い年となりました。
Jリーグ監督の中で記憶に留めておきたいのは清水・アルディレス監督の契約更新です。清水は前年暮れにクラブの大きな赤字経営が明らかとなり、筆頭株主の㈱テレビ静岡が撤退、経営危機が表面化していました。そのためサポーターたちが中心となって31万人を超える署名と1500万円の募金を集めるとともに、新たな出資企業の呼びかけを行ないました。
その結果、新年になって地元物流大手の㈱鈴与が、子会社を通じて増資を行なうことを決定、これに、静岡鉄道㈱、静岡ガス㈱・㈱静岡新聞社・㈱小糸製作所が応じて、運営会社も株式会社エスパルスとして営業権を譲り受け、無事2月1日付で新たな経営がスタートすることになったのです。
アルディレス監督の契約更新は、ちょうどクラブの存続が危ぶまれる時期と重なったのですが「今、クラブを投げ出すわけにはいかない」と契約を延長したのでした。アルディレス監督ほどの知名度のある監督であれば、他に条件のいいオファーがあったであろうことは容易に想像がつきます。
清水エスパルスは、唯一の市民球団(全国レベルの規模を持つ大企業の出資会社がないクラブ)という、地域密着のJリーグ理念を体現するクラブだけに、この危機をサポーターを中心とした市民、地元企業そして監督の情熱で乗り越えたのです。
数十年に1人の逸材、小野伸二選手が浦和に入団、高原直泰選手は磐田、G大阪・稲本潤一選手も含めてプロの舞台に勢揃い
この年の新加入選手を見ていくと、有望高卒新人豊作の年という特徴があります。
有望高卒新人の代表格が、浦和に清水商から加入した小野伸二選手です。1月の高校選手権のところで名前が出なかったとおり、高校生活を通じて冬の高校選手権には縁がなかったことも、この人ならではの話題でした。
しかし選手としての可能性は専門家なら誰もが「10年に一度、あるいはそれ以上の逸材」と口を揃える選手で、多くのJリーグクラブが争奪戦を繰り広げました。
98.1.28号サッカーマガジン誌は、そんな彼を特集で扱えるのを待ち焦がれたような気持ちで巻頭から「王国の天才・ついに『彼』は現れた」という見出しを打って堂々5ページの特集を組みました。
そこでは、小野伸二選手がいかに凄い才能を持った期待の選手かを、さまざまな角度から紹介しました。そこから抜粋してみます。
「前年10月末、ちょうど日本代表がW杯アジア最終予選の戦いで苦戦しているさなか、大阪で開催された国体少年サッカー・準々決勝、静岡選抜vs北海道選抜戦で彼が見せたプレーに、思わず関係者の口から「まだ間に合う、いますぐ小野伸二を、次のアウェーでの韓国戦に連れていって欲しい」という声があがった。」
「(小野選手の母校)清水商には父兄やOBとは別に、部外者からなる『ベンチクラブ』というのがある。メンバーは試合の応援はもとより、しばしば普段の練習まで見学に訪れる。(中略)その一人、桜田さん(80歳)は、この10年、毎日のようにグラウンドに足を運んで選手たちの成長をつぶさに見守ってきた。その桜田さんが声を弾ませて言う。『名波を見たときには、こんな子は当分出てこないだろうなと思っていた。そうしたら伸二が現れた』
「(小野選手を獲得した浦和の)宮崎スカウトは確信めいて言う。『名波を超える逸材。10年に1人、いや、それ以上かもしれない』」
「1996年の秋(小野選手が2年生の時)、当時、市原のサテライトでヘッドコーチを務めていたヤン・フェルシュライエン現市原監督は、広島で行われた国体少年サッカーの部を初日から観戦して、静岡選抜の背番号8にクギ付けとなった。『ここ数年で私が見た若手の中では最高の選手、アヤックスのトップチームでもプレーできるはずだ』オランダ代表のオーフェルマルスをはじめ、数多くのトップブレーヤーを育ててきた若手育成のスペシャリストが舌を巻いたのだ。」
「(浦和の)宮崎スカウトが惚れ込んだのは、そのズバ抜けた視野の広さにある。『試合の流れを読んで、ゴールに直結したプレーができる子となると、小野は群を抜いている』」
「そうした視野の広さは独特の思考に支えられている。ボールをもらう前にまず考えるのは『遠くを見ること』だという。言い換えれば『もっともゴールに近い味方を探し出すこと』である。そうすることによって『近くも見ることができる』からだ。簡単な理屈である。」
「しかしそれを実際にグラウンドで表現するとなると、ことはそう簡単ではない。」
「パスコースは3つ持てとはよく言われるが、彼(小野選手)は5つも6つも持っている(宮崎スカウト)」
「まるでスタンドから眺めているかのような目線、それが高校生離れしたプレーの源になっているのだ。」
同誌の特集の極めつけは「才能では中田よりはるかに上」と見出しがついた清雲栄純ユース代表監督の談話です。小野伸二選手に対する期待を次のように語っています。
「高校時代の中田英寿(ベルマーレ)も良く知っているが、小野のほうがはるかに優れている。なかでも目を引くのは攻守の切り替えの早さ。守から攻はもちろん、相手ボールになってから、素早くディフェンスに移る動きは中田にはなかったもの。また大きな違いはボールを受ける時の体の向き。中田の場合、相手のゴールを背にしたまま、無造作にボールを受けることが多いが、小野の場合は常に半身の体勢でボールをもらい、相手のゴールを視野に入れている・・(以下略)」
ここまで、小野伸二選手のほうがはるかに上と書かれた内容を読むと、中田英寿選手も穏やかならぬ気持ちになるのではと思うほどの評価でした。
このあと、まもなく同誌の期待が実現する時が来ます。
高校時代に冬の選手権に縁がなかったといえば、この選手もそうでした。磐田に清水東から加入した高原直泰選手です。サッカー王国・静岡では全国大会で一つ勝つよりも県予選を突破するほうが難しいと言われている激戦ぶりを証明するような2人です。
この2人にG大阪のユースから一足先にトップチームでプレーしている稲本潤一選手を加えた3選手、いずれも冬の高校選手権に縁がなかった選手でありながら、このあとの日本サッカーを牽引していく存在となるという意味で、この年は象徴的な年といえるも知れません。少しミーハー的な言い方をすると、後年、この3人の世界を舞台にした活躍を定点観測的に追跡取材して、年に1回程度放送したフジテレビの「W杯をめぐる冒険」という番組があります。小野伸二選手、高原直泰選手、稲本潤一選手、冬の高校サッカー選手権に縁がなかった3人を取り上げているというのは、冬の高校サッカー選手権の主催テレビ局である日本テレビに何の気兼ねもなく番組を作れるというメリットがあったからではないでしょうか。
これも単に、当サイトがよくやる穿った見方かも知れませんが、一応、書き添えておきたいと思います。
ほかに、横浜Fには鹿児島実から遠藤保仁選手と東福岡から手島和希選手が、横浜Mには東福岡ら古賀誠史選手が入団します。
その中で、鹿島には本山雅志選手(東福岡)、中田浩二選手(帝京)、小笠原満男選手(大船渡)、山口武史選手(熊本・大津)、中村祥朗選手(奈良育英)の大挙5人入団します。前年のビスマルク選手、名良橋晃選手の獲得といい、クラブに必要だと思った選手は遠慮会釈なく獲得する鹿島の戦略を思い知るような補強です。
一方、大学出身者では磐田に順天堂大のFW川口信男選手、神戸に筑波大のFW和多田充寿選手と、駒沢大のMF三上和良選手が入団します。
Jリーグ開幕に先だって3月14日行なわれた恒例のゼロックススーパーカップ’98は、前年のリーグ覇者磐田と今年元旦の天皇杯決勝覇者鹿島、前年のチャンピオンシップを争ったチームの戦いとなりました。
試合は、鹿島がスーパーカップ2連覇で開幕に弾みをつけました。
ワールドカップ初出場のため中断はあるものの、98年Jリーグ前期、威勢よく開幕
3月21日、Jリーグ前期が開幕しました。この年の前期開幕は例年にも増して選手、クラブにとって重みの違う開幕となりました。
選手にとっては、迫りくるフランスワールドカップの日本代表選考が最終コーナーに差し掛かる中、中断までの12節が最後のアピールの機会となるからです。
クラブにとっては、翌年1999年から始まるJ1,J2、2部制のふるい分け順位を決める2年間の順位ポイントの2年目ということで、できるだけ、入れ替え戦対象順位になることを避けなければならないシーズンだからです。
開幕節、注目は2つのダービーマッチ(横浜Mvs横浜F戦、G大阪vsC大阪戦)、中田英寿選手の平塚vs前園真聖選手・カズ・三浦知良選手のヴ川崎戦、小野伸二選手のデビューとなった浦和vs市原戦、高原直泰選手のデビュー戦となった磐田vs京都戦など、いくつもありました。
中田英寿選手、ヴ川崎、前園真聖選手、カズ・三浦知良選手の前で、日本のエースにふさわしい活躍
もっとも試合時間が早く設定された、平塚のホームグラウンドで行われた平塚vsヴ川崎戦は、はからずも、いろいろな意味で話題になる試合でした。
開幕戦の最初の試合ということで、この会場では歌手の森進一さんがアカペラで「君が代独唱」しました。
この両チーム、1994年の開幕戦では昇格したばかりの平塚がJリーグ初代チャンピオンのヴ川崎に挑戦したものの5-1と大敗、スポーツ紙でセルジオ越後氏に「平塚のフロントは(昇格に向けた対策について)一体何をやっていたのか」とこっぴどく叩かれた屈辱の記憶がある試合でした。
その年、平塚のヘッドコーチをしていたニカノール氏が、ヴ川崎の監督に就任して初対戦の相手となったのも何かの因縁でしょう。
また、前園真聖選手にとっては、自分と入れ替わりで日本代表に招集され、そこから日本のエースと呼ばれる立場まで駆け上がった中田英寿選手と、新シーズン最初の試合で相まみえることになり、またカズ・三浦知良選手にとっても、アジア最終予選の第3代表決定戦で途中交代を命じられ、そのあと水を得た魚のように縦横にピッチを駆け巡り、岡野雅行選手のVゴールを演出、日本のエースの座を奪われた中田英寿選手との試合となりました。
意識するなと言われても意識したくなる絡みの試合となりました。
この試合を中継したNHKは「中田カメラ」という専用のカメラを用意、中田英寿選手の動きだけをとらえた画像を収録して、解説の木村和司さんをその画像を使って中田英寿選手の凄さを解説してもらう企画を組みました。
ちなみに、この試合、NHKが中継するJリーグ最初のゲームだったこともあり、放送のオープニングには「日本サッカーの夜明け」というタイトルを入れました。世界のサッカーの檜舞台、フランスW杯に初舞台を踏む今年は、日本サッカーの新たな夜明けが来たということなのでしょう。
日本代表・岡田監督が見守る中、中田英寿選手がリードを奪うゴールに相手を突き放すラストパス、そして圧巻は前半38分、相手CKからのボールを受けた中田選手は、左サイドライン際を持ち前のスピードで独走、約50mのドリブルを見せるなど大活躍、翌日のスポーツ紙も「日本の司令塔の貫禄」(東京中日スポーツ)と、まるで小野伸二選手を中田英寿選手との比較で絶賛した日本ユース代表・清雲栄純監督の談話(98.1.28号サッカーマガジン誌)を否定するかのような見出しを打ちました。
一方、ヴ川崎の前園真聖選手、カズ・三浦知良選手はコンビネーションがまだ不十分でいいところなく、試合は4-1で平塚が圧勝しました。
4年前の開幕戦の借りを返した平塚のメインスポンサー・フジタの藤田一憲社長は「4年前、ヴ川崎に完膚なきまで潰されたのを思うと夢のよう・・」と感極まった様子でした。
ヴ川崎の前園真聖選手とカズ・三浦知良選手、2人とも時代の容赦ない運命(さだめ)には抗うことができなかったのか、中田英寿選手の前に屈した試合でした。
小野伸二選手、日本代表・岡田監督の見守る中、トップ下でスタメンフル出場デビュー
浦和ホームで開催された浦和vs市原戦には平塚の試合を終えて移動してきた日本代表・岡田武史監督も視察に訪れました。
立錐の余地もないほどの観客(19,828人)で埋まった駒場スタジアムに、背番号28をつけた小野伸二選手の名前がコールされると、大歓声は一段と大きくなり地響きが起きんばかりになりました。
とはいえ、まだチームに合流して1ケ月、いかに小野伸二選手といえども、公式戦最初の試合から司令塔としてチームを牽引というわけには行きませんでした。トップ下のポジションでスタメン出場を果たしたものの、ペドロビッチ選手、ベギリスタイン選手といった外国人選手を含めて経験豊富な選手が揃う中盤の中で、やや遠慮がちな位置取りとプレーが見られ、小野選手自身も試合後に呼ばれた異例のインタビューで「今日は引き気味にプレーすることが多かった。次はもっと積極的に行きたいと思います」と語りました。試合は浦和が3-2で勝利、監督初采配となった浦和・原博実監督がうれしいスタートを切りました。
視察に来た岡田監督は「タレント(才能)を持ったいい選手だね」と言い残して会場をあとにしましたが1週間後の日本代表発表リストには小野伸二選手の名前がありました。
高原直泰選手は、高卒ルーキー開幕戦最速ゴール記録でデビュー
注目度では、中田英寿選手や小野伸二選手にはるかに及ばなかったものの、磐田のルーキー・高原直泰選手は開幕戦でいきなりゴールをあげ、その実力の片鱗を見せました。
1-0と磐田リードで迎えた後半25分、FWアレサンドロ選手に代わって投入された高原直泰選手、わずか3分後、藤田俊哉選手からの絶妙なパスを受けると相手DFと競り合いながら、難しい体勢から強引にシュート、ボールは見事ゴール右隅に突き刺さりました。
高卒ルーキーが開幕から出場わずか3分でのゴールは、1994年開幕戦でゴールをあげた城彰二選手の記録を上回る新記録というおまけ付きのゴールとなり、チームメイトから手洗い祝福を受け、磐田スタジアムも歓喜に包まれました。
それでも前年のJリーグチャンピオンチームは貪欲になっています。高原選手はそのあと守備をさぼったところをドゥンガ選手からキッチリと怒鳴られ、自身も追加点のゴールをモノにできなかった反省を口にしてプロ選手らしく初陣を飾りました。
このほか鹿島の柳沢敦選手も開幕戦ゴールでスタートを切るなど、Jリーグ新時代の到来を印象づける開幕節となりました。
昇格した札幌は、清水に4-1で敗れ、Jリーグの厳しい洗礼を浴びた形となりました。
このように注目のカードが多かったことが奏功したのか、開幕節9試合の平均観客数が19,030人と1993年、Jリーグ開幕年の5試合での平均観客数2万3,221人に次ぐ動員を記録、Jリーグ2年目以降、減り続けてきた開幕節の観客動員数に歯止めがかかりました。
フランスW杯への日本代表の初出場、小野伸二選手ら将来楽しみな選手たちのJリーグ入りで、まさに新たなファン層をスタジアムに引き付ける効果が期待できる結果となりました。
2節、ヴ川崎カズ・三浦知良選手、CKを直接決めて1-0の勝利に導き、浦和・小野伸二選手もうれしい初ゴール
2節、ヴ川崎は国立競技場に磐田を迎えました。試合は後半11分、ヴ川崎カズ・三浦知良選手が蹴ったCKを磐田GK大神選手がキャッチミスしてしまいゴールイン、開幕節のうっぷんを晴らす1-0の勝利に導きました。
浦和はアウェーの横浜F戦でしたが、0-1でリードした後半38分、小野伸二選手がゴール前、まったくフリーの状態で福永泰選手からのボールを受けると、あとはGK楢崎正剛選手との1対1、小野選手はまったくあわてることなく楢崎選手との間合いを詰めるとセオリー通り、楢崎選手の右脇を抜くように蹴り込み、うれしいJリーグ初ゴール、横浜Fを突き放す価値あるゴールとなりました。Jリーグの舞台でも高校時代と同じような自然体のプレーぶりは、横浜国際総合競技場の24,310人の観客とNHK-BSの中継を見ていた全国のファンを魅了しました。
4節、鹿島・柳沢敦選手、京都戦で4ゴール、4試合連続で早くも7得点のハイペース
4月1日の日本代表・日韓戦(共催記念試合・アウェー戦)をはさんで4節、鹿島・柳沢敦選手が京都戦で4ゴールの大暴れ、チームの6-0勝利の立役者となりました。柳沢選手はこれで開幕戦から4試合連続ゴール、合計7得点のハイペースで鹿島のエースストライカーの地位を固めつつあります。
4節、開幕以来3連敗で昇格後まだ勝利がない札幌は、4節にして初めて北海道の地でJリーグチームとして試合を行なう歴史的な日となりました。室蘭市入江競技場にG大阪を迎えての試合、後半23分に札幌のエース、テリー・バルデスがゴール、守ってはG大阪を零封して、うれしいJリーグ初勝利をあげました。
突然のように起こった中山雅史選手の4試合連続ハットトリック、ギネス記録に
6節から9節にかけての4試合、とてつもない記録が生まれました。磐田の中山雅史選手が4試合連続ハットトリック、4試合合計で16ゴールをあげるという、とてつもない大記録を打ち立てたのです。この記録は世界のサッカー史でも初めてと認定され、1999年の「ギネスブック」に掲載されるほどの偉業でした。
その16ゴールをつぶさに記録として残したいと思います。
中山雅史選手は、4日前の5節、横浜F戦で1ゴールをあげ、Jリーグ通算50ゴールを記録、チームも4-0で快勝して乗っている状態で迎えました。
4月15日、6節、アウェーC大阪戦、チームも9得点という記録的なゴールラッシュで9-1
1点目、前半39分、相手陣内左サイドでスローインを受けた名波浩選手がゴールライン際まで持ち上がり、得意の左足で速いクロスをゴール前に送ると、中山雅史選手が相手DFの間を抜け出すようにしながら、地面に着いた難しいバウンドのボールをピタリと右足で合わせてゴール。試合後、中山選手は「あれはロマーリオを意識したゴール」とお得意のゴン節で取材陣をけむに巻きましたが、まさしくそれは、1994年アメリカW杯準々決勝オランダ戦で、左サイドを駆け上がったベベトのクロス、難しいバウンドのボールを事もなげに合わせたロマーリオの先制点そのものの足技でした。
2点目、後半8分、センターサークル近くで得たFKをドゥンガ選手が、中山雅史選手のいた位置よりやや左外寄りに蹴り込むと、中山選手は間合いを図ってクルリとゴール方向へ身体の向きを変えボールをDFラインの裏に落とす頭脳的なプレーで、すばやくGKと1対1の状況を作り、GKの動きを冷静に見極めて頭上を抜くシュート、チームの山本コーチも絶賛のプレーでした。
3点目、後半13分、奥大介選手がペナルティエリア内で倒されPK、これを相手キーパーが右に飛ぶのをあざ笑うかのようにゴール正面にズドンと決めました。
4点目、後半25分、中山選手はペナルティエリアの外、ゴール右寄りでドゥンガ選手からのバスを受けると、手薄になっているゴール左寄りにドリブル、相手DFを振り切ってゴール左隅に蹴り込みました。
5点目、後半28分、ゴール正面、相手DFを十分惹きつけるようにしてボールをキープした藤田俊哉選手が右サイドでフリーで待ち受ける中山選手に余裕のラストパス、GKと1対1になってゴール右上隅に確実にゴールを決めました。
中山選手の5得点はJリーグで1試合最多得点のタイ記録(平塚・野口幸司選手、柏エジウソン選手に続く3人目)でしたが、この日チームは、奥大介選手が前半19分に先制ゴールをあげたのをはじめ、藤田俊哉選手が2ゴール、名波浩選手が後半37分、大花火大会の締めくくりとばかり1ゴールをあげて合計9ゴール、C大阪は森島寛晃選手が6試合連続ゴールをあげたものの、焼け石に水、磐田の1試合9得点は、その後も長く破られることのない記録となっています。
4月18日、7節、アウェー広島戦 0-5の完封勝利
1点目(4連続ハットの6点目)、前半11分、広島陣内右サイドで広島がクリアしようとしたボールに磐田サイドバック・古賀琢磨選手が反応、素早くオーバーラップの形で抜け出すと、寄せてきた相手DFを交わしてセンタリング、古賀選手と並走してゴール左側に上がっていた中山選手に渡り、古賀選手に引き付けられて相手GKが右ポスト側に寄っていたため、難なくゴールに蹴り込み先制。
2点目(4連続ハットの7点目)、後半19分、左サイドで服部選手が名波選手がパス交換したあとアレサンドロ選手にパス、それを見た名波選手がアレサンドロ選手の後ろから外側を回り込み、タメを作ったアレサンドロ選手が名波選手にパス、名波選手はゴールライン際まで走り込み、前節の先制点とまったく同じ左足で速いクロスを送ると、ゴール正面から中山選手がニアサイドに飛び込んでダイビングヘッド、ボールの軌道は見事に変わりゴールイン。
3点目(4連続ハットの8点目)、後半43分、アレサンドロ選手があげたクロスがCKとなり、左CKをドゥンガ選手が蹴りました。ボールは高くあがってファーサイドにいた中山選手に届きます。中山選手は相手DFに身体を寄せられることなく思い切りジャンプしてヘッド、広島GK下田崇選手が取ろうとした手をかすめてゴールに飛び込みました。
4点目(4連続ハットの9点目)、後半ロスタイム、最後尾でパスを受けた福西崇史選手が前線の中山選手めがけて縦パス1本、受けた中山選手はまたGKと1対1、相手DFがスライディングでカットしに来た直前、GKの位置を見極めて冷静に蹴り込みました。
中山選手の2試合連続ハットトリックはJリーグ元年の1993年、横浜Mのラモン・ディアス選手が記録して以来2人目の記録でしたが、この日チームは、後半26分、後半から投入されたアレサンドロ選手がゴールをあげて合計5ゴールをあげました。
守っては、後半27分にDFの要アジウソン選手がこの日2枚目のイエローカードを受けて退場、残り20分ほどを一人少ない中で広島を完封、終わってみれば0-5の圧勝でした。
4月25日、8節、アウェー福岡戦(会場・熊本) 1-7の勝利
1点目(4連続ハットの10点目)、後半8分、相手陣内左タッチライン際からのFKをドゥンガ選手が鋭くゴール前に送ると、ニアサイドで飛んだ福西崇史選手のヘッドをかすめる形になり、そのままファーサイドに流れると、そこで待っていたのが中山選手、ヘッドで押し込むとニアサイドをケアしていた相手GKも間に合わずゴール。
2点目(4連続ハットの11点目)、後半19分、奥大介選手からのパスを受けた中山選手、ボールを持ち出そうとするもミスしそうになったが、後ろから藤田俊哉選手がフォローに来たのを見てバックパス、藤田選手はその勢いでゴール右ポスト近くまで上がり、相手GKと1対1とみ見せかけて、ゴール正面にいた中山選手にマイナスのパス、中山選手は右足で難なくゴール。
3点目(4連続ハットの12点目)、前のゴールのあとも立て続けに2本のシュートチャンスをお膳立てしてもらいながら外していた後半28分、3度目の正直とばかり左サイドを突破した服部年宏選手がゴールライン際から得意の左足でマイナスのクロス、相手DFがクリアしようとダイビングヘッドを試みるも届かずボールは中山選手に、これを左足でかぶせるようにシュートすると、見事ゴール右隅に突き刺さりました。
4点目(4連続ハットの13点目)、後半44分、相手ゴール正面25mのところからドゥンガ選手が蹴ったFKは、相手DFとGKの間に落ちる絶妙のロビング、相手DFに当たったボールが目の前に来た中山選手はすかさず右足を一閃、文句なしのゴールとなりました。
この日チームは、前半19分、奥大介選手がヘディングゴールで先制、後半6分には名波浩選手がボレーシュートで2点目、後半34分にはドゥンガ選手がミドルシュート、中山選手の4点と合わせて合計7ゴール、福岡の攻撃を山下芳輝選手の1点に抑え大勝しました。
4月29日、9節、ホーム札幌戦 4-0の勝利
1点目(4連続ハットの14点目)、前半41分、相手ゴール正面約20mの位置で得たFkを蹴ったドゥンガ選手のボールは、DFにあたり相手GKディド選手がジャンプしてキープしようとしますがゴールラインを跨いでしまい右CKになりました。
それを、またドゥンガ選手が味方とサインを交わすこともなく、すぐにゴール前に放り込むと、ボールはゴール前にいた札幌のDFがクリアしましたが、頭をかすった程度になり、ファーサイドにいた田中誠選手のもとに届きます。迷わず田中選手は叩きつけるようなヘディングでゴール前に送ると、ボールは中山雅史選手のところで弾みました。これを、中山選手は身体をひねるように反転させながら右足でジャンピングボレー、ボールはバーを強く叩きゴールに吸い込まれました。
これまでの3試合連続ハットトリックはすべてアウェー戦、この日はホームに満員のサポーターを迎えての試合です。中山選手はさっそくサポーター席に走り寄り、お得意の右手を差し出して指さすパフォーマンスでゴールの喜びを分かち合いました。
スタンドでは日本代表・岡田監督も見つめていました。
2点目(4連続ハットの15点目)、後半27分、ペナルティエリアの外からドゥンガ選手が中山選手に送ったパスを札幌DF木山選手が先にキープしようとしたものの、ペナルティエリア外方向に中山選手が先にボールをつついた際、木山選手が右腕で中山選手を押し倒してしまいPKの判定、これを中山選手自身が左隅に蹴り込みました。相手GKディド選手もコースを読み飛びましたがコースとボールスピードが勝りPKは成功しました。
3点目(4連続ハットの16点目)、後半36分、センターサークルから15mほど相手陣内でボールを受けたドゥンガ選手はダイレクトで前線にパス、ボールは奥選手への見事なスルーパスとなりました。奥選手は一旦キープしますが相手DFが2枚寄せてきたと見るや、その後方から上がってきた中山選手にDFの間を抜くパス、これが「中山さん、どうぞ」というパスになり、中山選手は相手GKが右側のニアサイドをカバーするように飛んだのを見て、逆を突きファーサイドのサイドネットに突き刺すゴールを決めました。ラストパスを出した奥選手、藤田俊哉選手、奥選手にパスを出したドゥンガ選手が次々と祝福にやってきました。とうとう4試合連続ハットトリックという、とてつもない大記録を達成した瞬間でした。
この場面、ポイントはドゥンガ選手のダイレクトパスでした。この前の1分ぐらいの画面を見てみるとドゥンガ選手は、もう上下運動はせずに中盤でテクテク歩いてボールを動きを追っています。けれども、いざボールを受ける直前には2~3度奥選手の位置をチラ見しており、受けたボールを柔らかいタッチでダイレクトパスしています。まさに一瞬にして決定的な場面を作ったシーンでした。
後半35分も過ぎると、さすがのドゥンガ選手もせわしく動き回るのは苦になりますが、味方がボール支配しているゲームの流れを読んでいるからこそテクテク歩きしているわけで、その中でも常にチャンスの芽を見逃さない目配りだけは欠かしていないのです。
百戦錬磨、王国ブラジルのキャプテンの仕事ぶりをまざまざと見たシーンでした。
この日チームは、後半24分、奥大介選手のシュートがGKに弾かれてこぼれたところに詰めた藤田俊哉選手のゴールで合計4ゴールをあげました。
視察に来ていた日本代表・岡田監督は、次の試合会場に移動するため、中山選手がハットトリックを決めた時には会場を後にしていましたが、その知らせを聞くと「ワールドカップでもきっと点をとってくれるよ」と、中山当確ともとれるコメントを残しました。
中山雅史選手の連続試合ハットトリックは4試合で途切れますが合計16得点、その4試合の前後の試合でも1ゴールづつ決めており6試合連続合計18得点という考えられないようなゴールを決めています。それともう一つ、磐田がチーム全体としてあげた得点も、5節から9節までの5試合で合計29得点、これも歴史に残る大記録です。
中山雅史選手と磐田の大爆発、5つの要因
この中山雅史選手とチームの大爆発について、98.5.20サッカーマガジン誌が特集を組んで分析しました。同誌によると、
①中山選手の動きの質の向上、例えば、クロスが入ってきた時の飛び込むタイミングやスピードを調節している。これまでなら勢いだけで飛び込み、シュートをかえって難しくしていた。また、中山選手自身がパスの出し手にとって出しやすい位置にポジションをとることを常に意識しているため、ボールをもらった時、ダイレクトあるいはワンタッチでシュートできている。
②ゴールに向かう視野の確保の改善、磐田の山本昌邦ヘッドコーチが6節のC大阪戦の2点目を絶賛している。ドゥンガ選手の蹴ったFKを、中山選手は外に流れながら受けているが、これまでならゴールに背を向けたまま、外へ逃げるようにトラップすることが多かった(ゴールに向かう視野を狭めてしまっていた)が、この場面では、クルリとゴール方向に向きを変えボールが相手DF陣の裏に落ちるようにして、自分がGKと1対1の場面を作っている。
以上の2つ、動きの質の向上と視野の確保の仕方については、前年夏、山本昌邦ヘッドコーチが就任して以来、中山雅史選手に対してマンツーマンで指導した結果でした。中山雅史選手も、向上心という点では年齢に関係ない謙虚さで山本コーチの指導を受け入れた結果、飛躍的に改善されたのです。
③チームの布陣変更、4試合連続ハットトリックの幕開けとなった6節のC大阪戦、この試合から磐田は中山、アレサンドロの2トップから中山ワントップ、中山の後ろに奥大介選手を置く布陣に変更した。これにより中山選手の自由度が増し、奥選手のサポートが得られる効果も生まれた。さらに奥選手は好パスも出せる選手であることから、藤田、名波、奥とパスの出所が増えチャンスが増す。中山選手の得点が後半に多いのも、後半遅くなればなるほど相手選手が磐田のパスワークについていけなくなり、より正確なパスが中山選手に届くという効果も生んでいる。(4試合16点中の中山選手の後半得点は13点、チームの4試合25点中の後半得点は21点)
④コンディションを維持するフィジカルコーチの存在、2年前のオフト監督時代まではフィジカルコーチがいなかった磐田、昨年からブラジル代表でもフィジカルコーチ歴があるプリマコーチが、日本代表などで連戦が続く中山選手などのコンディション維持を担っていることも、身体のキレ、後半まで運動量の落ちない成果につながっている。
また、女優でタレント活動もしている(生田)智子夫人の栄養管理も見逃せない成果をあげている。
読めば納得のサッカーマガジン誌特集でしたが、もう一つサッカーマガジン誌の分析にはない理由を❺としてあげておきます。
❺それは、中山選手のゴールをお膳立てした選手の多さです。どういうことかと言いますと、中山選手の近い位置にいる攻撃的MFの選手のみならず、サイドバックの選手、ディフェンスの選手がこぞって中山選手のゴールをお膳立てしているのです。
4試合合計16ゴールをお膳立てした選手をもう一度ピックアップしてみます。
藤田選手、名波選手、奥大介選手、アレサンドロ選手、ドゥンガ選手、古賀琢磨選手、福西崇史選手、服部年宏選手、田中誠選手、実に9人です。
これは単なる偶然ではなく磐田というチームが「オレも中山さんのゴールをお膳立てしたい」「その仲間に加わりたい」という意識が強いチームだということの表れです。
中山選手はセンターフォワード、チームの点取り屋であるとともに、30歳です。ドゥンガ選手、アジウソン選手という外国人選手を除けば最年長でキャプテンも務めています。一般的なイメージからすれば「大黒柱イコール近寄りがたい存在」であってもおかしくないのですが、中山選手のいいところは、自分が決して技術的にうまい選手ではないことを自覚していて、その分、泥臭く最前線から相手を追い回したり、身体ごとゴールに飛び込むようなプレーを厭わずに続ける選手です。30歳を超えてなお向上心を持って居残り練習を続けている中山雅史選手をチームメイトは見てきています。
そしてサポーターからは「ナカヤマ隊長」と親しまれ、チームメイトからは「ゴンさん」と呼ばれるお調子もので、近寄りがたい存在とは真逆のキャラクターです。
それが、チームメイトを「チャンスがきたらゴンさんに点を取ってもらう」「自分もゴンさんのゴールのお膳立てがしたい」という気持ちにさせる原動力となっているのです。
その典型的な例が、前年11月のW杯アジア最終予選の第8戦カザフスタン戦でした。この試合、日本が早々と2点を先制しますが、久しぶりの招集となった中山雅史選手にはゴールが生まれていませんでした。それを見ていたチームメイトの名波浩選手は「このまま前半点がとれないと後半交代させられてしまうかも知れない」と考え、自分が蹴ることになっている右サイトからのCK、FKでは、全部中山選手めがけてキックを繰り出しています。
その結果、前半44分、ペナルティエリア右外側で得たFK、名波選手から中山選手にドンピシャのボールが渡り豪快にヘッドで叩き込むゴンゴールという形で結実しています。
いくらリードしているとはいえ、全部中山選手をめがけて蹴るというのは、いかにも名波選手らしい思考ですが、チームメイトの中山雅史選手という選手が、そうしたくなる選手だということの証左です。
同じことは、4試合連続ハットトリックの3試合目、福岡戦の3点目にも見られました。前のゴールのあとも立て続けに2本のシュートチャンスをお膳立てしてもらいながら外していた後半28分、それまでも繰り返し左サイドを突破していた服部年宏選手が「オレだって何としてもゴンゴールのお膳立てのメンツに入らなきゃ」と繰り出したクロスからのゴールでした。
この当時の磐田の雰囲気というのは「ゴンゴール」が飛び出せばチームは盛り上がり、チームメイトは誰もが、そのお膳立てのメンツに加わるために身を粉にして動き回るという珍しいチームだったことも、この、とてつもない大記録を生んだ要因であることを付け加えたいと思います。
その磐田、8節にチームは首位に浮上、10節にヴ川崎に首位を明け渡したものの、フランスW杯後の中断明けの前期、この時期の貯金がモノを言うことになりました。
森島寛晃選手が開幕から7試合連続ゴールのJリーグ新記録、9節には3選手がハットトリック達成のJリーグ新記録
開幕から9節までの間、他の選手にも記録が生まれました。
7節には、開幕戦から連続ゴールをあげていたC大阪の森島寛晃選手が、この日もヴ川崎戦でゴールをあげ7試合連続ゴールのJリーグ新記録を達成しました。8試合連続が期待された次の試合はノーゴールに終わり連続試合記録は途切れました。
9節には、ヴ川崎・高木琢也選手、浦和・大柴健二選手もハットトリックを達成、すでにご紹介した中山雅史選手と合わせ、この節だけで3人ハットトリック達成という新記録も生まれました。
10節、静岡ダービーで清水に敗れた磐田、開幕戦を落としたものの2節以降8勝1敗と快進撃を続けてきたヴ川崎に首位を明け渡しました。
11節、鹿島vs磐田戦、新・宿命のライバル対決、首位を走り6試合連続ゴールを続ける中山雅史擁するホーム磐田でしたが、試合は中山選手に負けじと柳沢敦選手がハットトリック、アウェー鹿島が3-0で快勝しました。しかし、柳沢選手は、この今季2度目のハットトリックの活躍にも関わらず、翌日発表されたフランスW杯日本代表最終候補25名からは外れてしまいました。
12節、W杯による中断前最後の試合、この節も清水・沢登正朗選手と札幌・バルデス選手がハットトリックを達成、開幕から12節で延べ15回のハットトリックが(うち中山雅史選手が4回)記録され、中断に入りました。
ここまでの12節、Jリーグは1994年をピークに前年まで徐々に観客動員を減らしてきましたが、ワールドカップに対する期待を背にした日本人選手の大活躍、小野伸二選手をはじめとした期待の10代選手の出現など新しい要因も加わり観客動員が上向きに転じました。
その中で、中山雅史選手の4試合連続ハットトリックなど、記録的な得点ラッシュも生まれサッカー人気再来ムードの中でワールドカップ本大会を迎えることになりました。
なお、この段階ではまだ移籍先が決まっていなかったため、まったく話題になりませんでしたが、フランスW杯終了後、中田英寿選手がイタリア・セリエAへの移籍を決めて平塚を離れました。そのため、中断前の12節、アウェーでのG大阪戦が、1995年平塚入団以来3年半近く在籍した、彼のJリーガーとしての最後の試合となりました。
その中断前の最後の試合で、すでに中田選手は顔にまで発疹が出ていて、平塚の植木監督も「W杯も近いし無理しなくていいぞ」と声をかけていますが不調をおして出場していました。中田選手の身体にはすでに深刻な異変が起きていたのです。
中田英寿選手に忍び寄る得体の知れない恐怖、1月はじめから4ケ月間、次第に追い詰められていく気持ちがストレスとなって身体にたまり危機的状況に
すでに日本全体がフランスワールドカップ初出場に向かって盛り上がる一方の中で、1人、追い詰められている代表選手がいました。
誰あろう、押しも押されぬ中心選手の中田英寿選手でした。
発端は、1月4日に掲載された朝日新聞記事でした。同紙の新年企画で「現代奇人伝」という連載があり、中田英寿選手が「疾走する孤高の20歳『君が代』は歌わない」というタイトルで紹介された記事です。
この記事掲載の翌日から、中田英寿選手は思いもよらない恐怖に苛まれることになります。この頃すでに中田英寿選手に密着して取材を続け、中田英寿選手に関する数々の著書を世に出している作家の小松成美氏が著書「中田英寿 鼓動」(1998年12月 幻冬舎刊)の中で、この時期には誰も窺い知ることのなかった中田選手の恐怖と苦悩の日々を綴っていますので、ご紹介します。
「中田が所属するベルマーレ平塚と日本サッカー協会に、ある思想団体から文書が寄せられたのは記事が掲載された翌日、1月5日だった。文面には、国歌をダサイと言った中田への抗議が綴られ、その中田に対してどのような指導と処分を考えているのか、ベルマーレ平塚と日本サッカー協会に問うていた。」
「以来、抗議文は定期的に中田と日本サッカー協会とベルマーレ平塚に送られてきた。新しい文面には、中田を国賊とする旨が記され、日本代表からの辞退や、発言に対する陳謝の記者会見が要求された。」
「1週間、1ケ月と経過する中で、事態は収拾するどころか波の如く広がっていった。抗議の文書は増えつづけるばかりで、中田のマネージメントをする次原(中田選手のマネジメント会社㈱サニーサイドアップ・社長)にも送られてくるようになっていた。その内容は、中田や次原が恐怖を感じるほどにエスカレートしていくのである。」
「事態を打開するためベルマーレ平塚や日本サッカー協会と相談した次原は、警察の指示を受け、最悪の事態を想定して警察に中田の身辺警護を求めた。」
「中田には警察から、一人だけで行動しないこと、自宅から出るときと戻るときはパトカーを配備するので、その時間を連絡すること、不審な者を見かけたらすぐに通報することなどの注意が与えられた。(中略)」
「中田への抗議文は、やがて脅迫めいた文章へと変わっていった。中田への身体への攻撃を思わせる文章を見るたび、次原は生きた心地がしなかった。」
こうした事態に、次原社長は中田選手の身の安全を守るため、私設のボディガードをつけ、ホテル暮らしをさせることにしたのです。
次原社長には、かつて所属選手の前園真聖選手が、スペインリーグ・セビリアからのオファーを受け移籍交渉を進めようとした時、横浜Fからの頑強な抵抗に遭い移籍が破談になった上、前園選手に「わがままな選手」というレッテルを貼られてしまい、マスコミからの厳しい批判に晒してしまうという苦い経験があったことから、中田選手はどんなことがあっても守らなければならないという強い決意がありました。
3月を過ぎても抗議行動は収まりを見せず、4月に入ると㈱サニーサイドアップの事務所にも抗議の電話がかかり続けたのです。
中田選手は、ボディガードに守られホテルに籠る生活の中で、自分を追い詰めてくる目に見えない人物がどこにいるのかわからない恐怖に苛まれていました。しかも、そのことを誰にも話せないため、ストレスが一層積もっていきました。そして、次第に皮膚に発疹が出始めたのです。
中田選手は4月下旬、皮膚への発疹の原因を突き止めてもらうため医療機関を受診しました。その診断結果はアレルギー疾患ではなくストレス由来の皮膚炎としか思えないというものでした。
5月に入ると発疹は顔にまで広がり、はた目にも痛々しいほどになりました。
小松成美氏の著書「中田英寿 鼓動」には、ワールドカップによるJリーグ中断前の最後の試合、前期12節、アウェーG大阪戦の試合のところから、次のように綴られています。
「5月9日、ガンバ大阪と戦うため、大阪・万博記念競技場を走っていた中田は、このままいけば、いつか体が腐敗してしまうのではないかという恐怖を感じていた。体を分厚いゴムが覆っているようで、自分の皮膚の感触は異様だった。息苦しくて、呼吸が荒くなっている。彼は皮膚の痛みから逃れるためにボールを追った。(中略)」
「(試合後)都内のホテルにたどり着き、ボディガードが帰ると、中田はベッドに横になって次原に電話をした。」
「もしもし、俺だけど。酷(ひど)いんだ、全身が。もう我慢できない」
「次原は中田の声を聞き、息を吞んだ。」
「俺、死にたくないんだよ。だから、もうサッカー止める。5月11日から始まる日本代表の御殿場合宿にはいかないよ。これでワールドカップにも行けなくなるけど、それでもいいんだ。とにかく、今日で、すべてを終わりにしたい」
「次原は動転する気持ちを抑えながら、中田の胸のうちを聞いていた。受話器から聞こえる中田の声は、次原の知る中田のものではなかった。今にも倒れてしまうのではないか、と思うほど、中田の声は弱々しく悲しげだった。」
「このことがマスコミに知れれば、必ずパニックが起こるだろう。」
「中田が、サッカーを捨てても今の苦しみから逃れたいという、本当の理由を知る人はいないのだ。」
「次原は、中田に言った。」
「今はとにかく、体のことだけを考えるのよ」
「中田との電話を切った次原は、すぐに日本代表のチームドクター、福林に相談を持ちかけた。翌日、中田を診察した福林は、1週間の御殿場合宿を休んで様子を見ることを勧め、電話で直接中田と話をした岡田(監督)もそれを了承した。」
近づくワールドカップ、日本代表メンバー絞り込みに向けてじわじわと関心高まる
3月にダイナスティカップを制した日本代表は、4月1日、日韓W杯記念試合の第2戦、韓国での試合に臨みました。日韓W杯記念試合の第1戦は前年5月21日、東京・国立競技場で行われ、この時は加茂監督が初招集した中田英寿選手の代表デビュー戦ともなり、試合は1-1の引き分けとなりました。
今回の第2戦、今度は岡田監督が、浦和に加入したばかりの小野伸二選手と、清水の高校生Jリーガー・市川大祐選手を初招集、逆にカズ・三浦知良選手を外すという選考を見せました。
3月27日に発表されたメンバーには、小野、市川両選手に加え1ケ月前のダイナスティカップメンバーから外れた柳沢敦選手、中村俊輔も再招集された一方、1990年9月の北京アジア大会に初招集されて以来、イタリア挑戦時期に辞退した以外、7年7ケ月にわたって日本代表の顔であり続けたカズ・三浦知良選手が外れたのでした。
前年のW杯アジア最終予選から続くカズ・三浦知良選手の不振は、3月のダイナスティカップでも上向かず、Jリーグが始まっても精彩を欠いたままでした。
31歳のカズ・三浦知良選手について、岡田監督はメンバー発表会見で「カズはこの試合では使う予定がない」と説明しました。これを受けカズ・三浦知良選手「若手中心のチーム編成という意図」と自分を納得させていましたが、フランスワールドカップが迫ったこの時期の代表落ちに、心中決して穏やかではなかったことでしょう。
また呂比須ワグナー選手も頬骨折治療中ということで外れました。
前述のとおり、新メンバーで大きなサプライズがありました。小野伸二選手は、すでに「選出されるのではないか」という観測が流れていましたので驚きはありませんでしたが、清水の高校生Jリーガー・市川大祐選手はマスコミをあっと言わせました。
岡田監督は発表会見で「16歳ぐらいから注目していて、この1年でグンと成長した。楽しみだと考えて選出した」と述べましたが、右サイドバックを主戦場とする市川大祐選手の選出は、代表でそこが手薄だという判断があってのことでした。
当の市川大祐選手はなにぶんにも高校生、まだ取材対応も初々しいというより、戸惑い気味という感じの対応でした。
そして4月1日に行われた韓国・蚕室スタジアムでの韓国戦、あいにくの冷たい雨が降り続き、ピッチコンディションも悪い中での試合、韓国は、直近の試合で日本に連敗しているだけにホームでの日本戦は何としても勝つという気迫に溢れていました。
日本は右サイドバックに市川大祐選手をスタメン起用、2トップには柳沢敦選手と中山雅史選手が入りました。
試合は前半26分にDF井原正巳選手が左わき腹を痛めて交代するというアクシデントがあったことも影響して押し込まれてしまう展開に。そして前半40分にアーリークロスからヘッドで韓国に先制を許してしまいました。
後半に入ると日本は積極的にミドルシュートを放つことに活路を求め、後半16分に実ります。相馬直樹選手のシュートが右ポストを叩きましたが柳沢敦選手がつなぎ、それを中田英寿選手がシュート、こぼれ球を中山雅史選手が粘り強くプッシュして同点に追いつきます。
すると岡田監督はすかさず後半20分に小野伸二選手と岡野雅行選手の浦和コンビを同時投入、逆転を狙いに行きました。
ところが後半25分、相馬直樹選手がファウル気味のタックルを受けて転倒、そのあと味方のパスミスが続いたところを突かれ、相馬選手がピッチ外に出て空いたスペースを相手FWが使いゴール、勝ち越しを許してしまいました。
それでも日本は攻め続け何度かシュートを放ちますが、あと一歩のところでゴールは奪えずタイムアップ、試合後、岡田監督は「何としても勝ってやろうという韓国の執念を感じた」と敗因を語りました。
悪コンディションの中にもかかわらず市川大祐選手をフル出場させ、小野伸二選手を25分間テストするという思い切った采配を見せた岡田監督、宿命の日韓戦にもかわらずワールドカップ本番までに少しでも選手層を厚くしたいという事情もにじませる試合でした。
その二人、市川大祐選手は韓国のスピードのある選手と対峙するという難しい仕事を17歳を感じさせないタフさでこなし、相手の力を考えれば立派な及第点という出来でした。小野伸二選手は、25分の中で重いピッチという悪条件もあってか2トップに対して決定的なパスを供給するという仕事は本人もチームとしても物足りない出来でした。しかし、チームメイトの岡野雅行選手とセットで送り出されるなどの配慮もあって、まずまずのデビュー戦となりました。
4月1日のソウルでの日韓戦のあと、代表選手は一旦各チームに戻りました。次の代表関係のイベントは5月7日の25名の代表選手発表です。この25名は、5月開催のキリンカップ2試合を経て、そのままフランスワールドカップ直前合宿を行なうスイス・ニヨンまでを約束されるメンバーです。
一般的に考えれば3月のダイナスティカップ、4月の日韓戦に招集されなかった選手がこのあと招集されるのは絶望的と考えられますが、4月1日の日韓戦に小野伸二選手、市川大祐選手と言うサプライズ招集を行なった岡田監督です。まだ何が起こるかわからない雰囲気も漂っています。
そんな中、4月から5月7日の日本代表発表までに行われたJリーグでは、中山雅史選手の4試合連続ハットトリックや森島寛晃選手の7試合連続ゴール、柳沢敦選手の今季2度目のハットトリックなど、さすがにワールドカップイヤーらしい華々しいアピールも見られました。
一方、海外からはフランスワールドカップグループリーグの初戦の相手となるアルゼンチンが強化試合でブラジルを撃破したというニュースが伝えられスポーツ紙上では、アルゼンチン対策のためにもこの選手を入れるのでは? といった観測記事が載ったり、5月6~7日にかけてはスポーツ紙各紙とも候補選手の当確予想記事が紙上を賑わせました。
岡田監督、25名の日本代表を正式発表、史上最高250名の報道陣、アルゼンチン戦に勝つ!、笑顔一杯の会見
そして5月7日、前日に行われた日本サッカー協会・強化委員会の会合に岡田監督が出席して25名の選考経過などを説明して承認されたこともあり、この日のスポーツ紙朝刊には25名のメンバー表が事前に掲載されました。
当日の記者会見に出席した岡田監督は、事前に記事が掲載されたことは織り込み済みとばかり、笑顔一杯で会見に臨みました。
この日会見場に集まった報道陣の数は250名、この様子を報じた1998.5.27サッカーマガジン誌によると、この数は10年前、1988年8月に、ディエゴ・マラドーナがゼロックススーパーサッカーの試合のため、イタリア・セリエA、ナポリを率いて来日した時や、1993年10月、いわゆるドーハの悲劇のあとに日本代表が帰国した時などで200名近い報道陣が集まった例があるものの、250人となると前代未聞とのことです。
日本が史上初めてワールドカップに出場する、その栄えある22名に向けた最終候補の発表ということで、いかに日本全体の関心が高いかを感じさせる数字だとサッカーマガジン誌は報じました。
岡田監督の25名の選考方針は「アルゼンチンとジャマイカの試合を自分の目で確かめた結果、ディフェンシブに戦わざるを得ないと結論付けた。その戦い方に合う選手を選んでおり、実績で選んだわけでもなく、将来性があるから選んだわけでもなく、ただ、ただフランスで勝つために必要なメンバーを選んだ」ということで「6月14日(初戦のアルゼンチン戦)に臨むにあたり、やり残したことがないように決めた。」ときっぱり語りました。
そして「アルゼンチンに勝つのは非常に難しいが勝てない相手ではない、1-0とか2-1の試合になると思うが勝つ」と笑顔一杯で宣言しました。
発表前日に行われた日本サッカー協会・強化委員会の会合で、25名選出について説明した岡田監督の方針に対して、強化委員会からは「大会直前まで25名で引っ張った場合、大会を目前にして外される3名に対する影響が大きいのではないか」という異論が出されました。
これに対して、岡田監督は、
「ディフェンシブに戦わざるを得ないという方針で、これからチーム戦術を浸透させるためには、途中で離脱する選手のリスクを考えれば、代わりに入る選手も十分戦術を理解した状態にしなければならない。」
「25人は、最終的に登録メンバーとして22人に絞らざるを得ないが、外れた3人が離脱するという意味ではなく、チーム戦術を理解している25人全員でフランスに入るというのが私の考えだ」と説明して、強化委員会の懸念を押し切った形での承認だったのです。
4月1日の日韓戦メンバーとの違いを含めて25名をご紹介しておきます。
背番号、氏名、(年齢)、現所属の順(敬称略)
【GK】
20 川口能活(22)横浜M
1 小島伸幸(32)平塚 ※日韓戦メンバー外
25 楢崎正剛(22)横浜F
【DF】
4 井原正巳(30)横浜M
3 相馬直樹(26)鹿島
5 小村徳男(28)横浜M
2 名良橋晃(26)鹿島
17 秋田 豊(27)鹿島
18 斉藤俊秀(25)清水 ※日韓戦メンバー外
19 中西永輔(24)市原
23 服部年宏(24)磐田
29 市川大祐(18)清水ユース
【MF】
13 北澤 豪(29)ヴ川崎
6 山口素弘(29)横浜F
10 名波 浩(25)磐田
15 森島寛晃(26)C大阪
8 中田英寿(21)平塚
22 平野 孝(23)名古屋
28 伊東輝悦(23)清水 ※日韓戦メンバー外
30 小野伸二(19)浦和
【FW】
11 カズ・三浦知良(31)ヴ川崎※日韓戦メンバー外
9 中山雅史(30)磐田
14 岡野雅行(25)浦和
18 城 彰二(22)横浜M
12 呂比須ワグナー(29)平塚※日韓戦メンバー外
【日韓戦メンバーから選外となった選手、その理由】
柳沢敦(20)鹿島 国際試合での積極性、環境変化の適応能力がまだ足りない。間違いなく日本の将来を担う選手だが今回はスタメンで使えるレベルにはないし交代で使うにも岡野のスピードとか呂比須のヘッドといった特徴に秀でた選手がいい。
中村俊輔(19)横浜M カウンターを狙うディフェンシブなサッカーの場合、ダイレクトパスがうまい小野伸二のほうが向いている。小野伸二はシュート力もある。中村選手はJリーグで成長著しいものの、小野選手との比較で落選となった。
【滑り込んだと言われる選手についての理由】
伊東輝悦(23)清水 ワールドカップ初戦・アルゼンチン戦などは押される展開の中で、何とか1点をもぎ取るサッカーをしなければならない。伊東選手が殊勲の1点をあげたアトランタ五輪のブラジル戦と同じ戦い方になることを考えた時、戦術眼に優れた伊東選手の価値を再認識した。
この発表での会見でも、翌日の新聞各紙の論調も「目立ったサプライズのない順当な選考」という雰囲気でした。
スポーツ紙各紙の取り上げ方は、現役高校生で選ばれた市川大祐選手や小野伸二選手の10歳台コンビ、そして4月1日の日韓戦でメンバー外となったカズ・三浦知良選手の復帰などが中心となった他、清水の伊東輝悦選手を「最後の一人25人目に滑り込み」といった見出しで取り上げたスポーツ紙もありました。落選した選手の中では複数の柳沢敦選手が複数のスポーツ紙で大きく取り上げられました。
5人のFWの中では序列が一番下になるであろうカズ・三浦知良選手に、人知れず忍び寄っていた『落選』の可能性
それにしても、フランスを目の前にしたスイス・キャンプの結果、誰か3人は落選しなければならないのですが、この段階では、岡田監督の「誰か3人外れるとは言っても25人全員でフランスに入り一緒に戦うと考えている」という説明に、記者団からも「大会を目前にして外される3名に対する影響は心配ないのか」といった質問までは出なかったようです。
1998.5.27サッカーマガジン誌は、本文特集の中でDF、MF、FWごとに、何人かの選手にスポットライトをあてて戦い方と選手起用の可能性について論評していますが、目を引くのはFWの部分です。「スタメン候補は中山雅史選手、城彰二選手、呂比須ワグナー選手の3人、カズ・三浦知良選手はFWではスタメン候補ではないが、布陣がワントップをとった場合、その後ろの1.5列目の位置で使われる可能性がある。」と、この段階ですでに、スタメンとしてのカズ・三浦知良選手の序列は4番手に落ちていると見ているのです。岡野選手はジョーカーとして残す可能性が高いですから、FW5人の中では一番下ということになり、25人から22人に絞る際、FWから1人落ちるとすればカズ・三浦知良選手ということになります。
サッカーマガジン誌のように、緻密に日本代表の各選手の状況や岡田監督の戦術、それにもとづく序列などを分析しているメディアは、この時すでに「FWから1人落ちるとすればカズ」と読み切っていたでしょうけれど、残された期間、何があるかわかりません。序列3位までの選手にケガでも起きれば、カズ・三浦知良選手の序列が浮上することもあります。
ですから、この段階では、まだ皆んな口をつぐんで何も言わないだけだったようです。
岡田監督自身も「25名発表の段階では、外す3人が誰かまで決めていない」と断言していますから。
Jリーグ前期12節(5月9日)で一旦中断、5月11日からフランスワールドカップに向けた日本代表活動開始
5月9日の前期12節をもって、Jリーグは7月25日の13節再開まで約2ケ月半、中断に入りました。日本サッカー界はフランスワールドカップに向けてすべてのモードが切り替わりました。
まず、5月11日から25名の代表選手による国内キャンプが始まりました。静岡県御殿場市で5日間行われた合宿には24名が参加しましたが中田英寿選手が不参加でした。
中田英寿選手、皮膚炎発症、静岡キャンプを回避
中田英寿選手は、発熱と発疹を伴う皮膚炎「自家感作性皮膚炎」を発症したため御殿場でのキャンプには不参加と発表されました。数日前の前期12節の試合ですでに発疹はあった中で休まずプレーしたため症状が進んだものと思われました。そのため静岡キャンプへの参加は見送り回復を最優先、投薬治療と疲れやストレスの軽減で症状が収まるのを待つことになりました。
静岡キャンプへの参加を見送って休養に入った中田選手の心の変化を、さきにもご紹介した、小松成美氏の著書「中田英寿 鼓動」には、次のように綴られています。
「中田を追い詰めた(思想団体からの)抗議活動と、それとあいまった肉体的な疲労は、中田のスイッチを一時的にオフにした。が、それで中田の魂が消滅してしまったわけではなかった。」
「ホテルのジムでたった一人走り出した中田は、自分が最も安心していられる場所は、やはりピッチしかないのだということを実感する。中田の体に内蔵されたスイッチが再びオンになった。」
のちにチームドクターの福林徹さんは、サッカージャーナリストの増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」のインタビューで、中田選手を診察した時のことを次のように振り返っています。
「(日本代表との付き合いの中で)一番焦ったこと、とあえていうならば、やはり5月の御殿場合宿に中田が来られなかったことですね。あの時、(所属事務所の次原社長から)電話があって、初めて診断した時には、もうどうなることかと、私個人としては非常に不安でした。」
「皮膚の状態と発熱ですね。それと疲労、彼は心身とも本当に疲れていて、W杯なんてとてもとても考えられない、もう駄目だと、普段の中田と違って『意欲』というものが非常に薄れている状態でした。」
「偏食が原因だとか、色々とみなさんは書いていらっしゃいましたけれど、そういうことではないんです。」
「デリケートな問題であって、野菜が嫌いだからなるわけじゃあない。何よりもストレスです。ですから、ある意味で世間から隔離して、治すということに重点を置くと。」
「でも、それがまたストレスになりかねない。ですから、何よりも静かな環境を与えてみよう。それと治療にはどんなにかけても1週間、その二つを決めて集中しようとしました。(中略)」
「皮膚科のドクターには、毎日非常に長い時間をかけて、丁寧に治療を続けてもらって、それが結果的には非常によかったんだと思います。すぐに良くなりはじめましたのでね。中田はああいうところはプロですね。すぐに体を動かしてましたね。」
絶望の淵まで陥れられながら、何とか帰還した中田選手、その原因となった1月の記事は、日本サッカー界に対する社会の公器を使った言論空間における暴力行為
中田選手は多くの関係者の力もあって危機から脱しました。しかし、中田選手をここまで追い詰めることとなった今年1月4日の記事を看過するわけにはいきません。
中田選手は、前年11月に行われたこの記事に関する取材のあと、記者に対してこう連絡しています。
「『国歌、ダサイですね・・・』と言ったのは、国歌を軽視しているとか誇りを持っていないという趣旨で言ったのではなく、これから試合をする、その直前なので精神を集中したいので歌わないということを理解してもらうために言ったので、誤解を招く恐れがあるので『国歌、ダサイですね・・・』ということは書かないでいただきたい」
そうお願いしたにも関わらず、中田選手の意向を無視して書いたのです。
この記事が掲載されてしまったことで、中田選手はマスコミ不信に陥りました。中田選手がマスコミ不信に陥ったのは、いまに始まったことではなかったのですが、今回の1件は、その極めつけ、もうマスコミは信用しない、マスコミそのものと絶縁する、というほどの不信です。
この記者は、自らが持っている「社会の公器」を「凶器」にして中田選手に2つの「言論空間における暴力」を振るったと思います。
一つは「自身のペン=報道による暴力」です。もう一つは、この記事の読者からの反発という「世論による私刑(リンチ)暴力」です。この記事を書いた記者には、「自身のペン=報道による暴力」を振るったという意識が毛頭なかったのではないでしょうか? 言論の自由を持つ身として普通のことをしたまでだと思っているのではないでしょうか?
ましてや記事を読んだ読者による「世論の私刑(リンチ)暴力」など、あずかり知らぬことと考えているのではないでしょうか。
しかし、長い間に、そうした傲慢なマスコミの姿勢は、社会からの選別という裁きを受けていくことになります。
中田選手は、この1件を機に、自分の考えや取り組みを発信する手段をマスコミに頼ることを止めました。自らホームページを開設して直接ファンやサポーターに伝え、その反応を得るという方法に切り替えたのです。
この時は、それ自体が珍しい取り組みで「やはり異端児らしい」とすら揶揄されましたが、実はスポーツ選手など知名度の高い人が、マスコミを頼らず自らホームページやブログなどインターネットを使って情報を発信するという取り組みの先駆けとなったのです。
ここからは歴史を知った者の後付けの話になりますが、21世紀に入りインターネットの爆発的普及、SNSなど新たな情報発信ツールの登場により、その流れは知名度の高い人のみならず、社会一般の常識となっていきます。
その分、新聞をはじめとしたマスコミは「オールドメディア」と呼ばれ、その社会的役割をじわじわと減らしていくことになります。
20世紀、長らく社会のコミュニケーションツールとして全盛を誇っていたマスコミは、それが一部のごく僅かの記者だったとしても「言論空間における暴力」記事を書き、それによってどれほど人が深く傷ついても、時にはそのことによって自死に追い込まれていく人さえ出ても、社会の権力として君臨してきました。
それを傍で見ている一般人は、第4の権力が、時には個人を自死にさえ追い込んでいまう理不尽さ、不条理さに歯噛みしながらも、なすすべなく見送るしかありませんでしたが、インターネット空間という新たなツールの出現によって、個人でもオールドメディアを選ばないという選択が可能になったのです。
そのため、オールドメディアはじわじわと社会の人々の支持を失なうという、歴史の裁きを受けていくことになったのです。
1998年1月4日掲載のこの新聞記事が日本サッカー界の将来を担う大切な人材に対して行った「社会の公器」を「凶器」にして行った「言論空間における暴力行為」は、日本サッカー史の中にも永遠に記録されます。そして永遠に語り継ぎたいと思います。
中田選手は、この1件を機に、単にマスコミと距離を置き自ら情報発信を行なうというだけに留まらず、日本でプレーする、Jリーグの選手としてプレーすることを終わりにするという決意を固めました。
そこで、所属事務所の㈱サニーサイドアップ・次原社長に「フランスワールドカップ終了後に海外移籍が実現できるよう、必要なことは何でもするので取り計らって欲しい」と依頼しています。
そのため、次原社長は水面下で関係先との交渉や情報収集に奔走していました。
静岡キャンプから始まった報道陣の日本代表追っかけ行脚、まずは取材申請組+日替わリ組合わせて連日100人以上が監督、選手からのコメント取りに奔走
5月11日から始まった静岡・御殿場での合宿から「日本代表狂騒曲」とも言うべき、報道陣の追っかけ行脚が始まりました。
この様子を、集まった取材陣の1人でもあるサッカーマガジン誌が1998.6.3号から始まった密着企画「日本代表同時進行ドキュメント」の冒頭で次のように詳しく紹介してくれています。
「日本サッカー協会に取材申請をした報道陣が150人、そのほかにも日替わりでテレビスタッフやフリーランスの記者が集まる。
報道陣は、練習場で選手たちを出迎え、練習後は、あわただしく選手からとったコメントをノートに書きつけてメディアルームに送る。
連日100人以上の報道陣が選手たちの到着を待つ光景は、まるで朝晩の電車の到着を待つ地下鉄ホームの混雑のようだった。」
確かにその後毎朝のスポーツ紙には、各社それぞれの切り口で監督・選手たちからとったコメントをちりばめた記事が大きく掲載されました。単なる合宿ですから通常ならばベタ記事にもならない内容でも、日本中の関心はここにありとばかりに書き連ねてくれました。
5月10日「スポーツ振興くじ法」(いわゆる「サッカーくじ法」)国会成立、2000年からの実施が決まる
「スポーツ振興くじ法」(いわゆる「サッカーくじ(toto)法」)は、以下のスポーツ振興に必要な財源確保のため、宝くじのように広く小口の寄付を募るという考えのもと導入された法律です。
1. 誰もが身近にスポーツに親しめる環境の整備
2. トップレベルの選手の国際的競技力向上のための環境の整備
3. 国際的スポーツ活動への支援
4. スポーツ指導者の養成、資質の向上
スポーツ振興くじは、文部科学省の指導監督のもと、日本スポーツ振興センターにより運営・発売が行われています。プロサッカー(後年プロバスケットボールも追加)の指定された試合の結果または各チームの得点数を予想して投票し、的中すると当せん金を受けることができる仕組みです。
「スポーツ振興くじ法」の制度化は、平成4年(1992年)財団法人日本体育協会、財団法人日本オリンピック委員会から各政党及びスポーツ議員連盟等に要望書提出(1月)から実質的に始まりました。
その一方、青少年の健全な成長やスポーツのあり方をゆがめるものとして、日本共産党、日本弁護士連合会、日本PTA全国協議会など各界が反対して、国会への法案提出も3回延期された経緯があります。その間、所管官庁をめぐって財務省(当初は大蔵省)と文部科学省(当初は文部省)が激しい綱引きを繰り返しました。
前年12月には、国会の参議院文教委員会に、Jリーグの川淵チェアマンが参考人として呼ばれています。
この法案審議では「スポーツ振興くじ=いわゆるサッカーくじ」導入によって得られる収益が、所管する役所にとっては売上金の配分など、利権としてのうまみがあり、その背後にいる国会議員にとっても、その利権を握る「族議員」として利権にあずかることができる立場になることから、必ずしもスポーツ現場の資金不足に役立ててスポーツ振興を図ろうという説得力のある議論にならず「カネもうけ」ありきの議論に聞こえるような審議になっていました。
そのような中、前年11月の日本代表フランスワールドカップ出場権獲得が、法案審議入りの追い風となりました。川淵チェアマンが参考人として呼ばれた前年12月12日の夜には「フランスワールドカップ出場権獲得祝賀会」が都内のホテルで行われ「スポーツ議員連盟」に入っている多くの国会議員も参加したことから、年明けからの法案審議と成立に弾みがつき、この日の成立に漕ぎつけたのでした。
成立した「スポーツ振興くじ法」は以下のスケジュールと方法で実施されることになりました。
2000年10月と11月に試験発売開始・・・・静岡県で2度の試験発売。第1回は10月28日から11月4日、第2回は11月11日から17日
2001年3月3日 – 全国本格発売開始。当初は「toto売り場(toto特約店)」のみでの発売で、マークシート消込み方式のみ、
なお「スポーツ振興くじ法」第9条の規定により、19歳未満の者のくじ購入および譲受、当せん金の受け取りは禁止されている。また、プロサッカーリーグに関わる選手、監督、役員も禁止となっています。
この「スポーツ振興くじ」が目に見えて役に立っていることを示したのは学校のグラウンドの改善でしょう。それまで学校のグラウンドは土が当たり前で、子供たちが走って転べば膝を擦りむいたりすることが当たり前でしたし、雨の日はぬかるんで運動できない場でした。しかし、学校のグラウンドは徐々に人工芝や天然芝が敷き詰められて、子供たちがスライディングしても大丈夫、転んでも膝を擦りむかない環境になっていきました。
こうした全国津々浦々の環境整備からナショナルトレーニングセンターの整備など「スポーツ振興くじ」による成果はめざましいものがあり、後年「ギャンブル助長」だの「青少年健全育成の邪魔」などと言う声が減ったことは確かです。
「スポーツ振興くじ」が社会に定着したもう一つの要因に、マークシートに自分が書き込まなければ投票できないシステムから、いわゆる「宝くじ」のように運を天に任せる購入方式を導入したこともあげられます。
5月 AFCプレーヤーズオブイヤーアワード97 で中田英寿選手が優秀選手とベストイレブンに選出(最優秀選手は?)、井原正巳選手はアジア歴代最強DFに選出
キリンカップサッカー初戦はパラグアイ戦1-1の引き分けに
5月15日、静岡でのキャンプを打ち上げた日本代表一行は、キリンカップサッカーに臨むため東京に移動、皮膚炎発症のため合宿を回避していた中田英寿選手も東京で合流しました。
5月17日の初戦パラグアイ戦を戦いました。会場は国立競技場、観衆は50,340人。
【日本代表スタメン】(敬称略)
GK 川口能活、DF 井原正巳、小村徳男、秋田豊、MF 相馬直樹、名良橋晃、山口素弘、名波浩、森島寛晃、FW中山雅史、城彰二
※中田英寿選手はこの日、国立競技場の最上階にある部屋から観戦。
試合は前半7分、パラグアイにCKからのヘディングで先制を許し、その後はパラグアイが攻めてこなくなり、日本代表のカウンター攻撃のチャンスがつかめないまま後半へ、後半開始からは足をねん挫したDF小村選手に代え斉藤俊秀選手を投入。
後半18分には中山雅史に代えて呂比須ワグナー選手、森島寛晃選手に代えて伊東輝悦選手を投入。
後半33分には守りを3バックから4バックに切り替えるため鼻から出血した秋田豊選手をさげ前線に平野孝選手を投入。
後半41分、相手ゴール近くで得たFK、名波、城選手がボールそばに寄ったところ、相手の壁ができる前に左サイドで相馬選手が城選手にボールを出せと指示、意図を理解した城選手がすぐ相馬選手にパス、すかさず相馬選手は角度のないところから右足インサイドキックで正確にシュート、名手の呼び声高い相手GKチラベルト選手のスキを突いて見事ゴール、同点。
試合はそのまま終了しました。
※カズ・三浦知良選手、小野伸二選手、市川大祐選手それぞれ出番なし。
翌朝のサンケイスポーツは面白い記事を掲載しました。大見出しには「一瞬のスキをついた相馬のゴールはズルくはない!!」の文字、日本人の美意識である「正々堂々としたプレー」には見えなかったという理由で賛否両論が出ていたというのです。
そしてリード文の中で「だが、知性派・相馬は胸を張って主張した。W杯で勝つために必要なのは日本的感覚ではない・・と。」
武士道精神を大切にする日本人、しかし相馬選手のプレーは、その武士道精神に悖(もと)る、ズルいプレーだったのではなく、正当な頭脳的プレーだったと説明して理解を得たいという、時代を感じさせる記事でした。
史上最高の観客を集めたキリンカップサッカー2戦目チェコ戦はスコアレスドローに
5月24日、日本代表はキリンカップサッカー2戦目をチェコと戦いました。会場は横浜国際競技場、観衆は66,930人、これは横浜国際競技場のこけら落としで行われた3月1日のダイナスティカップ・韓国戦の時の59,380人を大幅に上回る史上最高の観客数となりました。4年後に日本で開催される2002年W杯のメインスタジアムに想定されていることもあり、会場警備のシュミレーションも兼ねて、当日は機動隊員50人、警察官130人が配置されました。
【日本代表スタメン】(敬称略)
GK 川口能活、DF 井原正巳、斉藤俊秀、中西永輔、MF 相馬直樹、名良橋晃、山口素弘、名波浩、中田英寿、FW中山雅史、城彰二
この日は、雨模様にも関わらず横浜国際競技場には66,930人もの大観衆の中で、ワールドカップ前、国内での最後の試合、いわば壮行試合の意味合いもありました。
日本は、第1戦同様の布陣で、ケガをしたDF2人と中田英寿選手をスタメンに復帰させた変更のみ。したがってスタートからしばらくは守ってカウンター狙いの布陣、次に後半10分、中山雅史選手に代えて小野伸二選手投入、城の1トップ、2列目に中田選手と小野選手が並ぶ布陣に変更、後半32分に相馬選手に代えて呂比須ワグナー選手を投入、4バック、2トップの布陣にして戦うものの得点を奪えず、スコアレスドローで終了しました。
※カズ・三浦知良選手はこの日も出番はありませんでした。
カズ・三浦知良選手、全体練習後も黙々と孤独なシュート練習、遠くから見ていた岡田監督、思わず「よく練習するなぁ」、2人の胸中やいかに
キリンカップ2戦とも出番がなかったカズ・三浦知良選手、これで4月1日の日韓戦から3試合連続で出番なしとなりました。
このことについて、サッカーマガジン誌「日本代表同時進行ドキュメント」②の中で、伊東武彦記者は次のように書いています。岡田監督とカズ・三浦知良選手それぞれの心情に心を寄せながらインサイド情報を伝えてくれている味わい深い記事です。
「(チェコ戦の試合後)取材陣の待つミックスゾーンにFWの選手は中山雅史以外は姿を現さなかった。(中略)彼らは何かを抱え込んだような表情で帰りの車に乗り込んだ。」
「その頃、記者会見で岡田監督が注目すべき発言を口にしていた。記者の一人が『カズを使わないのはコンディションが悪いのか?』という質問を発した。それに対する返答は『前線は城を柱に考えているので、カズを使うと左サイドで重なってしまう』というものだった。さらに『カズの調子はそんなに悪くない』と付け加えた。」
「公の場で個人の名をあげて『柱とする』と発言したのは初めてのことだった。」
「FW陣のポジション争いは、この日の岡田発言を経て、新たな展開を予感させた。」
「前日の5月23日、昼、練習が終わり選手が三々五々、ロッカールームに引き上げるのを横目に、カズはグラウンドの周囲をゆっくりと走り、ストレッチをこなし、フラビオコーチを伴ったシュート練習をこなした。報道陣と談笑していた岡田監督は、カズのほうに視線をやると、一歩グラウンドのほうに歩み寄って『よく練習するなぁ』と呟いた。翌日のチェコ戦のスタメンについて岡田監督の頭にあったのは、パラグアイ戦と同じ城と中山であり、カズのスタメンの可能性はなくなっていた。」
「(カズは)最後は楢崎を相手にPKを蹴り、ストレッチを終えて引き上げる。その頃にはもうグラウンドには誰もいなかった。」
サッカーマガジン誌伊東記者のレポートが示すように、岡田監督の心の中では「このまま行けば、カズは使いどころがないな」と決まっていたようです。しかし静岡合宿が始まった時から、カズ・三浦知良選手は終始あきらめることなく自分にムチ打っていたのです。静岡合宿で行われた5Kmのクロスカントリーでは、1位市川大祐選手、2位小野伸二選手に続いていたカズ・三浦知良選手が最後に執念を見せて2位でフィニッシュ、そして全体練習後も最後まで居残って黙々とシュート練習を続けてきました。この10日間、孤独に耐えて自分を追い込み続けてきたカズ・三浦知良選手、次第に戦力としての序列が下がっていくのを感じていたその胸中や如何に。それを見つめて『よく練習するなぁ』と呟いた岡田監督の胸中も果たして如何に。
キリンカップの第2戦を前にしたスポーツ紙がこんな記事を1面で報じました。
「カズ(激白)、早く決めてくれ 落選の3人も先発の11人も、日本のため、自分が外れても」(5月22日スポーツニッポン)
「カズ宙ぶらりん不満、メンバー固定を、岡田監督に進言(?)、レギュラー落ち覚悟で」(5月22日日刊スポーツ)
報道陣に対して「監督によってやり方はいろいろあると思うけど」と断りつつも、まさに宙ぶらりんの状態に置かれ続けている今の状況を口にせずにはいられなくなったのでしょう。フランスに向かう前に「いらない」なら「いらない」とはっきりして欲しいという気持ちだったようです。
しかし、岡田監督は、最後の3人切りをフランスまで持ち越すことにしたのです。夢の舞台のすぐ近くまで連れて来られてから、誰か3人は外されることになるのです。
フランス本大会で善戦できそうな形までは作れたものの、勝てる処方箋を見いだせないまま終わった国内での強化
これで国内での強化試合は終わりました。これまでの岡田監督の「ワールドカップの戦い方」についての試行錯誤を総括するように、5月25日スポーツニッポン紙上でスポーツライター・金子達仁氏がこう述べていました。
「我々はフランスに何をしに行くのだろう。(中略)もう一度はっきりさせておきたいのだが「ディフェンシブな戦い」とは、実力的に上の相手から『勝利を奪うため』にとられる戦術であるはずだ。」
「私には岡田監督の考える『勝つための手段』が見えなかった。守りを固めて善戦しようという意図は見えたが・・。(中略)私はフランスには勝ちに行くものだと思っている。(中略)2002年のためには素晴らしい善戦よりも、もっと必要なものがあると思っているからである。」
岡田監督は、キリンカップの2試合とも引き分けに終わったことで、少なくともここまでは「フランスで勝つための戦い方」を示すことができませんでした。金子達仁氏はスポーツニッポン紙上で「岡田監督が胸の内に確固たる『勝つための手段』を隠し持っていることを心から祈る」と締めくくりましたが、岡田監督が勝てる処方箋を見い出せないままフランスに向かわざるを得ないことは明白でした。
こうして岡田監督と25名の選手たちは「誰か3人が落とされる」という自明の理を胸の奥にしまい込みながら、そして「善戦はできるかも知れないが、誰か点をとって勝てるのだろうか」という濃い霧の中に向かうような気持ちを、やはり胸の奥にしまい込みながら、5月27日12時、JAL便でスイス・チューリヒに向けて飛び立ちました。
成田空港には約1000人ものサポーターが、日本サッカー史に新たな歴史を刻もうとする日本代表を鼓舞するために駆け付けました。成田空港ロビーを埋めたサポーターの熱気と、監督・選手たちの気持ちとの間には明らかに温度差がありました。監督・選手たちに屈託のない笑顔を求めることは無理だったのかも知れません。
フランスW杯開幕直前、日本代表に激震、カズ・三浦知良選手落選、傷心の帰国、一方、中田英寿選手は「もう日本には戻らない」決意を胸に秘めフランスへ
日本時間5月28日未明、日本代表の一行がフランスW杯出場のための合宿地となっているスイス・ニヨンに入りました。
日本代表の一挙手一投足を追う報道陣との第二幕がスイス・ニヨンで始まりました。報道陣から日本中のファンに届けられた第1報は「中田英寿選手、ど派手な金髪頭で現地入り」というニュースでした。
中田英寿選手はこの時すでに、ある決意を胸に秘めていて、その準備も着々と進めていました。フランスに向けて旅立つ1週間ほど前、かねて準備していた自前のホームベージが開設されました。これで、自分と、自分を後押ししてくれるファンとの直接コミュニケーションが可能になり、何かと自分の発言を歪めて伝えることが多いマスコミの手を借りることなく、自分の考えをストレートにファンに届けることができるようになったのです。
もう一つ、新聞の見出しになった「ど派手な金髪頭」も、実は巧みな準備の一つだったのです。中田選手は、あの忌まわしい恐怖体験にほとほと疲れ果てており、また日本のマスコミとの冷え切った関係にも嫌気がさしていて、このワールドカップのあとは絶対海外移籍を実現させ、ゼロから再スタートを切る、日本にはもう戻らないと決意していたのでした。
それは所属事務所の㈱サニーサイドアップ・次原社長も同じでした。日本国内で中田選手が選手生活を続けるにはセキュリティ面のコストが無視できないところまで来ていて、何とか、このワールドカップでの活躍によって海外移籍を実現させるため、自分も最善の努力をしなければならないと心に決めていたのです。
そのためにはワールドカップという見本市に来る、世界中のサッカークラブの代理人という、いわば買付人の目に、中田英寿という「商品」が一目でわかるよう「金髪頭」にしたのです。
初めて明確にされた「レギュラー組」と「サブ組」、落選3人の絞り込みの目安に
スイス・ニヨンでの合宿初日に見られた明らかな変化を、サッカーマガジン誌「日本代表同時進行ドキュメント」③の中で、伊東武彦記者は次のように書いています。
「これまで、チームの基本戦術を確認する最初の練習の段階では、はっきりとメンバーを色分けすることはなかったが、今回は最初から明確に色分けされた。キリンップでのスタメン組だった城、中山の2トップをはじめとしたイレブンがイエローのビブスをつけ、あとのメンバーはビブスはない。」
「パスゲームの中、やや精彩を欠いたビブスなし組には、カズ、北沢と2人のベテランがいた。」
「メンバーを固定し、チームの戦術を磨き上げる岡田監督が、一方で心を砕くのが、サブメンバーの扱いだ。」
「キリンカップを戦っている最中に岡田監督はスイスに連絡を取り、ある要請をした。30日のメキシコ戦の翌日に、不出場だった選手たちで地元クラブを相手にゲームを行なうことにしたのだ。」
日本時間6月1日未明、スイス・ニヨンで合宿中の日本代表がスイス・ローザンヌでメキシコ代表とテストマッチを行ないました。戦術やメンバー等の情報漏れを防ぐため報道陣をシャットアウトして行われたこの試合、日本は先制したものの1-2で逆転負け、ただ監督も選手たちも勝負より内容とばかり勝ち負けにはこだわっておらず、練習の成果を出せたかどうかだけが関心事でした。
日本時間6月2日未明、サブ組が地元ニヨンのクラブ(スタッド・ニヨネ)と練習試合を行ない、カズ・三浦知良選手は呂比須ワグナー選手と2トップを組みハットトリック、3-0の全得点を叩き出しました。そこには、どんな試合でも全力を尽くすカズ・三浦知良選手の姿がありました。
一方で、この日の控え組の中から落選の3人が出るのは確実と、報道陣に取捨選択の絞り込み精度を高めさせる結果にもなりました。
6月2日 スポーツニッポン紙に「カズは落選しないはず」という川淵チェアマンの発言が載りました。「ここで落とすなら最初から入れない。落とすんだったら、まだ先のある若い選手を落とすはず」と断言調で語ったそうです。
一方で同紙は「ニヨンでの合宿初日からカズはいきなり古傷の膝痛が悪化、別メニューとなり、25人のメンバーが決まってから一度も試合への出番がない」とカズ・三浦知良選手の代表落ちがにわかに現実味が増していると報じていました。
さらに6月2日 毎日新聞朝刊は1面に「W杯最終メンバー、カズ、北沢は落選濃厚」の見出しで、残る1人は第3GKか市川になる見通しと報じました。なぜ全国紙が個人名を出してまで事前に報じたのか? 岡田監督は大仁強化委員長にもコーチ以下スタッフにも一切話していませんでしたから日本国内のサッカー協会関係の誰かから「おそらく」の但し書き付きで情報が出たのでしょう。この1件を機にサッカー協会は情報漏洩を徹底するよう対応策をとりました。
6月2日 夕刊フジ紙は「今夜22人決定、市川落選、あと2人はカズか北沢か服部か」と最新の岡田監督の選手起用情勢分析から、こちらも具体的な名前を報じました。
その頃、岡田監督は、翌日の登録メンバー22人発表を控えて、夜コーチ陣とミーティングを開きました。そこで岡田監督は各コーチに外す3人についての意見を聞いたそうです。それに対して各コーチがあげた3人の名前は、各コーチばらばらだったそうです。そこで岡田監督は「みんなの意見はわかった。明朝までにオレが一人で決める。誰になっても納得してくれるな」と確かめたところ、各コーチとも「任せます」といってくれたそうです。
灼熱のニヨンで岡田監督、努めて淡々とした口調で落選3名を発表、どよめき慌ただしく速報する報道陣
そして、6月2日(日本時間20時、現地時間正午) ついに合宿地のスイス・ニヨンで岡田監督が最終登録メンバー22名を発表しました。ここまで25名で合宿を続けている中、外れる3名を発表する形となりました。屋外の日差しの強い場所で行われた発表会見で、岡田監督は開口一番「22人は今朝決めました。外れるのは市川、カズ・三浦カズ、北沢の3人です」と述べると記者団からどよめきと、第一報を所属会社に伝える動きのため、記者団の塊が崩れかけました。
しかし、岡田監督は構わず「カズと北沢は日本に帰すことにしました。市川はそのまま帯同します」と付け加えました。
岡田監督の話が終わると同時に今度は記者団から矢継ぎ早の質問が飛びました。
以下、一問一答を記録しておきます。
Q.3人を落とした理由は?
A.市川は飛躍的に伸びると思ったが、壁にぶち当たって実戦ではまだ使えない。カズは、城をFWの柱と考えているので、残りのFWをどうするかと考えると使うチャンスがない。北沢は点を取るということを考えた場合、3バックでは使うポジションがない。
Q.カズと北沢は(外れたことが決まったあと)本人たちが日本に帰りたいと言ったのか?
A.本人たちはチームのために力になりたいと言ってくれたが、ショックが大きかったので、このまま帯同してもチームのためにならないと、私の判断で帰すことにしました。25人で最後まで戦えると思ったが、ショックが大きかった点は、私の見込みが甘かった。読みが甘かったです。
A.本人たち(カズと北沢)は残りたいと言ったわけですね。3人とも帯同させるはずだったのに帰すことにした?
Q.そうですね。25人から3人外しても明るい雰囲気でずっとやっていけると思っていたが・・・。でも想像以上にショックが大きかった。影響力が大きい選手だけに、チームにマイナスになると思いました・・。
A.通告は個別にしたのですか?
Q.全体でミーティングする前に3人を個別に呼び、話した。
Q.22人はどういう基準で選んだのか?
A.トータルで見てグループリーグ3試合を勝ちにいくための選手を選んだ。
Q.市川はどういう形で帯同させるのか?
A.オフィシャルなIDカードを用意している。
Q.GKの場合、大会期間中でも負傷者が出れば入れ替えは可能なのに3人を選んだのはなぜか?
A.全体の中でこのメンバーがいいと判断しただけです。
A.最終メンバーを決めて心境の変化はあるか?
Q.今は14日のアルゼンチン戦のことしか頭にないので、特に変わったことはありません。
A.2人以上故障者が出た場合はどうするのか?
Q.今までに選んだことのある選手を日本から呼ぶことになると思う。カズか北沢を再び呼ぶことはないと思います。
A.メンバーの決定は誰かに相談したのか?
Q.誰にも相談していない。今朝の11時まで自分で考え、あとは個別に部屋に呼んで伝えました。
A.12時からの全体ミーティングで他の22人の選手たちに伝えた時、選手たちの反応、表情はどうだった?
Q.これは仕方のないこと。集めた当初からわかっていたことです。皆プロフェッショナルですから、今後はチームのためと考えてくれるでしょう。
この選考について、それぞれのメディアが、それぞれの解説を試みています。ほぼ共通している点をいくつかご紹介します。
・GKを当初案どおり2人にするとカズ・三浦知良選手は残った可能性が高い。ところが第3GKを登録から外すとチームと一緒に練習ができないこと、また正GKの川口能活選手が退場処分などになってしまうと第2GKがピッチに入ったあと控えのGKがいなくなるリスクがあり、やはりGKは3人登録にしておいたほうがいいという判断があったのです。もともとFW陣の中で最下位の序列だったカズ・三浦知良選手は第3GKとの天びんの結果はじかれたということになります。
・北沢選手は点を取るということを考えた場合、3バックでは使うポジションがないと判断されました。北沢選手は前年のアジア最終予選で日本が中央アジア遠征から戻り、岡田監督が4バックシステムのチーム戦術立て直しのカギとして再招集した北沢選手が、岡田監督の期待以上の働きを見せてくれた選手です。
しかし、ワールドカップ本戦の強豪を相手に3パックシステム(両サイドのウィングバックを含めると5バックシステムになる戦術)の場合、前線は2トップ、2列目に中田英寿選手+前線への飛び出しができる選手の2人だけになります。最近3バックシステムで、チームで点がとれないのは2列目からの飛び出しが見られないためという考えが岡田監督の頭にあり、その役割を担う選手として森島寛晃選手、平野孝選手、北澤豪選手がいるのですが、結局その中から森島寛晃選手と平野孝選手を残し、北澤豪選手がはじかれたということになります。
落選者3名の発表を受けて、報道陣は他の22人(正確には市川選手を含めた23人)からコメントをとりに走る人や、自社に会見の詳報を送る人などに散らばりました。
FWのスタメン候補となった3人の選手は3者3様のコメントを発しました。
中山雅史選手は「ずっと代表で一緒だったカズさんが代表を外れることになりましたが、そまことについては・・」と問われたのに対して、小さく呻き声を出したあと遠くを見るような表情のまま約6秒間ほど沈黙して、やっと「まぁ、いろいろですね」とだけ答えて報道陣を後にしました。
呂比須ワグナー選手は「残念です。けど、このメンバーで戦うしかないんで・・」
城彰二選手は「残念です。ボクはカズさんを目標にやってきたし、カズさんにここまで引っ張ってきてもらったので・・。今度は、僕が引っ張る番だと思うし・・気持ちをもう1回整理して頑張りたいと思います。」
サッカーマガジン誌「日本代表同時進行ドキュメント」④の中で、伊東武彦記者が伝えてきた3人の落選劇には、岡田監督の公式発言とは違う事情があったようです。
「岡田監督は自室に呼んだ北沢に(外すことを)通告した。そして『チームに残ってくれるか?』と聞いた。」
「北沢は『これからのサッカー人生のこともあるし、家族もいれば相談する人もいる。この場では返事できない』と答えた。そして北沢はカズと話し合い、家族に電話した後にチームを離れることに決めた。岡田監督はその場で『俺が帰らせたことにするから』と2人に告げた。そして、その通りに報道陣を前にして話した。会見が終わった後ホテルに戻る車中で、岡田監督は終始無言だった。」
「ニヨンを離れる日、岡田監督は『誤算は25人でフランスに行けないこと』と話した。2人が外れてもチームに同行すると踏んでいたのか。そうでなければスイスに2人を同行させた理由がつかない。当初から外すことを前提にしながら、2人のプロ意識と経験にかけたのか。それならば最後のチャンスになる大きな目標を目前で奪われた2人のショックを、本当に想像できなかったのか・・。」
「(特にカズ・三浦知良選手と北澤選手の落選について)さまざまな憶測が飛んだ。しかし岡田監督の胸中にあったものは、戦いのすべてが終わるまで明かされることはない。」
一志治夫氏の著書「たったひとりのワールドカップ」には、岡田監督とカズ・三浦知良選手、北澤選手の「帰るか、残るか」のやり取りについて、こうあります。
「(記者会見の前)カズは、中山らと昼食をとっていた。当然のことながら、そこには沈痛な雰囲気が漂っていた。」
「昼食の直前、カズはフラビオコーチとボルトガル語で話していた。『僕たちがこのまま残ったら、チームの雰囲気のこともあるしよくないと思う。(かといって)チームを捨てたと思われるのも嫌だ』という内容のことをフラビオに話したという。
「カズたちが食事をしていると、フラビオコーチが通りかかり、手のジェスチャーだけで『これから岡田さんの部屋に行ってくる』と合図を送ってきた。」
「しばらくすると、エレベーターの前にいたカズたちのところに岡田監督がやってきて『25名で戦おうと思っていたけど、自分の考えが甘かった。フラビオから聞いたから、(帰る理由については)わかったから』と言った。」
「(岡田監督は)この段階で、カズと北澤を帰すと決めたのである。」
「フラビオはおそらく、カズと北澤のプライドをどう守ってやるべきか、プロのコーチとして進言したのだろう。」
カズ・三浦知良選手の落選発表から帰国会見まで、日本中で沸騰した議論の一部始終、「人間の尊厳を傷付けた」とまで評された出来事を克明に後世に
「カズ・三浦知良選手落選」のニュース、社会的関心事として大きく報じられ、それを受けて巻き起こった国内のさまざまな反応
「カズ・三浦知良選手落選」のニュースは、瞬く間に日本中はもとより海外にも広く打電され、いろいろな議論を巻き起こすことになりました。
国内では新聞・テレビなどを中心にマスコミ報道を通じて、各界各層からの反応や議論が巻き起こりました。単にサッカー界だけの問題ではなくなり、大きな社会的関心事として、さまざまな意見が飛び交いました。
これも、日本サッカー史上初めて出場するワールドカップサッカー、世界最大のスポーツの祭典ワールドカップサッカー、2002年には日本でも開催されるワールドカップサッカーなるが故の社会的関心と言えますし、近年の日本サッカー最大の功労者であるカズ・三浦知良選手が対象となったが故のことでもあります。
特に発表時間が、日本時間の6月2日の夜、テレビ各局が夜のニュースを流す時間帯だったこともあり、各局とも一斉に、いわゆる街の声を拾う中で、以下の3つの意見に集約されました。
・まず一つは、岡田監督が純粋にワールドカップに勝つために選択した結果が、日本サッカーに限りなく貢献したカズ・三浦知良選手といえども必要ないということであれば、それは仕方のないことで、いろいろと議論が巻き起こることを承知でカズ・三浦知良選手を外すのは相当勇気のいる決断だったと思う、という意見。
・もう一つは、カズ・三浦知良選手なら何かやってくれるのではという期待もあるし、これまでの日本代表への貢献や、外してしまうことによる社会的衝撃を考えれば、何が何でもカズ・三浦知良選手を外す必要はなかったのではないか、という意見。
・3つ目は、なぜフランスに行くまでは「カズ・三浦知良選手はチームにとって欠かせない選手だから」と言ってメンバーに加えておきながら、目前にして外すというやり方をしたのか、「カズ・三浦知良選手はメンバー外」であるほど不要な選手であれば、もっと前に通告すべきだったのではないか、ここに来て外すやり方は、組織をマネジメントする管理者としてはどうなのか、という意見。
6月第1週のテレビ・ワイドショー番組で「カズ・三浦知良選手落選」のニュースは群を抜く放送時間
テレビ番組の中でワイドショーと呼ばれる番組で扱われた「カズ・三浦知良選手落選」のニュースは群を抜く放送時間でした。
ワイドショーと呼ばれる番組で扱われたニュース項目の合計時間を集計したものを毎週単位で発表しているTBS土曜夜の「ブロードキャスター」の「今週のワイドショーランキング」というコーナーでは、6月1日から6月7日までの結果が次のようになりました。
1位 無念の帰国ーカズ代表落ちの波紋 5時間21分04秒
2位 岩手小2女児殺害ー隣人を逮捕 1時間46分17秒
3位 男の花道 元小錦 涙の断髪式 1時間38分02秒
4位 離婚迫られー35歳母 子供3人を絞殺 1時間21分52秒
5位 交際2ケ月 飯星景子”ジワッ”と婚 1時間21分48秒
この数字一つとっても、いかに社会的関心が高かったかがわかります。「サッカーの詳しいことは知らないけれど、カズ選手落選のことについては一言言いたい」という、日本がワールドカップに初出場することになったあたりから関心を持ち始めてくれた、新たな「ふわっとした関心層」が増えたことは明らかでした。
サッカー王国ブラジルでは国民すべてが「代表監督」と言われるほど多くの人が代表チームに対して一家言持っているようですが、ブラジルほどになるのはまだ遠い先にしても、2002年日韓W杯に向けて、日本国民も少しづつ日本代表に対して一家言持つ人が増えていくことを予感させる現象でした。
こうした声に対して、98.6.7に放送されたテレビ朝日のスポーツドキュメンタリー番組「Get Sports」の中でサッカー解説者のセルジオ越後氏がこう指摘しました。
「カズを外せば、国際経験豊富なのにとか、これまであれだけ貢献してきたのに、という議論が当然出るけれど、ボクは、この時点(6月2日)で外すべきではなかったと思う。もう今の段階では、そういう議論している場合ではないと思う。その議論は(5月7日に)25名を選ぶ段階で、カズを外すなら外して、当然、議論・反論は出るにしても、この6月2日時点では、もうその議論は冷めていると思う。」
「5月7日に25名の発表があった時には、カズはJリーグで点も取っていないし厳しいことは明らかだったけど、誰も何も言わなくて、何も言えなくて、(アルゼンチン戦まで2週間を切った)今更こういうことを議論してどうするんだと思う。」
またサッカーライターの金子達仁氏は「試験でいえば最後の追い込みの時期に、(カズ落選)を発表したことについてはどう思いますか?」と問われて「まぁ、(W杯出場が)初めての国ですから仕方ないですけれど、岡田監督の脳裏に(カズを外したことの影響が)残っていなければいいですれどね。監督の頭の中がアルゼンチン戦に勝つために何をするべきか、その1点に集中していることを期待します。そして、選手たちが『監督は正常心なんだ』と安心できるような表情や態度を見せて欲しいと思います。」
セルジオ越後氏はこう付け加えました。
「世論に対していいたいことは、ここまで岡田監督をあんなに支持していたのに(カズ外し)によって、特にサッカーを知らない人たちの意見や雰囲気をああだ、こうだと煽り立てて、せっかく国全体が一つにまとまって応援しようと盛り上がっていた気分に水を差さないで欲しいということです。ブラジルでもロマーリオ落選によって、それまで(ザガロ体制のブラジル代表に対する支持率が)80%から11%に落ち込んでしまい、フランスで開幕を迎えようとしているブラジル代表が大きなダメージを受けている。そんなことにならないように、ボクは、サッカーをあまり知らない人たちに『今は少し(いろいろ意見を言うのは)我慢してくれ』と言いたいぐらいだね。」
「それから日本サッカー協会に、ここは何とかしてもらいたいね。現場が安心して大会に集中できるよう、引き受けて欲しいね。」
しかし、セルジオ越後氏の「サッカーを知らない」コメンテーターがいろいろと煽り立てないで欲しいという虫のいい話が通るわけもなく、国内は静かになるどころか日に日に関心が高まっていきました。
カズ・三浦知良選手と北澤豪選手帰国会見、カズ・三浦知良選手「自分の魂みたいなものはフランスに置いてきたと思っている」
特に6月5日午前、帰国したカズ・三浦知良選手と北澤豪選手が成田空港で記者会見に臨み、落選したことについて一言の恨み言も発さず、前向きなコメントを述べ、さらには「自分の魂みたいなものはフランスに置いてきたと思っている」と名言を吐きました。
この潔い発言がまた、判官びいきの日本国民の琴線に触れ「カズ・三浦知良選手は潔し、それにひきかえ岡田監督は冷酷」といった風潮に火をつけたことも確かです。
カズ・三浦知良選手と北澤豪選手は、スイス・ニヨンを出たあとイタリア・ミラノに入り一呼吸おきます。日本に帰れば大勢の報道陣が待ち構えています。気持ちを整える会見で話すことについて頭の整理をするためにも必要な一呼吸です。
6月5日午前、カズ・三浦知良選手と北澤豪選手が成田空港での帰国会見には約100人ほどの報道陣が詰めかけました。サッカー担当のスポーツ記者で日本に残っている記者はもちろんですが、多くは芸能畑、ワイドショー系の記者たちでした。
約15分ほどの会見でしたが、その内容を記録しておきます。「自分の魂みたいなものはフランスに置いてきたと思っている」という名言を含む会見です。
【カズ・三浦知良選手と北澤豪選手の帰国会見】
Q.まず現在の心境は?
A.カズ・三浦知良選手
今日はお忙しい中、お集りいただき、ありがとうございます。
こういう形で帰ってくるとは自分でも思っていなかったんですけれど、自分がずっと志してワールドカップを目標にやってきて、このような形で帰ってきましたが、自分の人生もそうですし、サッカーもまだまだ続くと思うし、やり残していることがあるので、前向きに目標を持ってまた頑張りたいと思います。ここまでずっと支えてくれたファンの方とかには感謝していますし、今回、このようになって、あらためていろんな人たちに支えられているんだなと実感しています。これからもいままで以上に頑張っていきたいと思っています。どうも、ありがとうございました。
A.北澤豪選手
思ったよりも早く帰ってきてしまったんで、自分でも悔しく思っていますが、人生終わったわけではないし、まだまだ先に進んでいかなければならないし、自分としても、一つひとつの目標に向かって頑張っていきたいと思います。こういう時に自分の支えになっているものが浮き彫りになってきたので、そういう家族やファンの人たちのためにも、これから先、もっと頑張りたいと思います。今日はありがとうございます。
Q.イタリアに2日間滞在して、髪を金髪にしたのは何か大きな決意の表れでしょうか? そして気持ちの整理はつきましたか?
A.カズ・三浦知良選手
(金髪にしたことと決意とかは)全く関係ありません。イタリアは個人的に好きなので、ゆっくりさせてもらいました。いまは気持ちの整理はついています。
A.今日フランスに入るメンバーに、一言エールがありましたら・・。
【カズ・三浦知良選手が北澤選手を促すように小声で「エール」と言ったのに反応して】
A.北澤豪選手
いま一番大事なのは、こういう状況の中でも皆んながしっかり日本代表を応援して、必ず一次予選を突破してもらうということを願いたいですね。
Q.カズ・三浦知良選手
日本が一次リーグを突破して決勝トーナメントに出れるよう願ってるし、北澤もボクもこういう形で帰ってきましたけれど、自分たちの日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきたと思ってるんで、絶対頑張ってくださいと言いたいですね。
Q.日本のサッカーファンに中には「残念だ」という声と「やっぱり」という声がありますが岡田監督から告げられた時はどんな気持ちでしたか?
A.カズ・三浦知良選手
いままでプライドを持って、日本代表として誇りを持ってやってきたので、自分自身、(落選に)絶対納得してはいけないことだと思うけれど、ただ、また目標を持って戦えばいいんだと、気持ちは切り替えました。
Q.岡田監督からどういう言葉で伝えられたんですか?
A.カズ・三浦知良選手
機内で新聞読んだんですけど、新聞のとおりだと思います。
A.北澤豪選手
帰ってきた理由に関しては、監督と自分がお互いに話して決めたことです。残っているメンバーの人たちに気を使ってもらっては自分としても避けたいし、残ったメンバーがそのために力を発揮できないようなことになってはいけないんで、それは話しました。
Q.スイスに行く前に聞きたかったのか、スイスでの合宿が終わる直前にサイが投げられるのと、どっちがどうだっか、いまどう思いますか?
A.カズ・三浦知良選手
そういうことは何も考えていなかったんで、何もありません。
Q.いま一番何をしたいですか?
A.カズ・三浦知良選手
いや、別に、特にしたいことはないですけど。
Q.やり残したことはありますか?
A.カズ・三浦知良選手
それはプレーヤーである以上、常に、Jリーグで優勝しても、また次の年優勝しなければならないと思うし、何か達成しても必ず次に目標が出て来るもので、これはもう辞めるまでずっと付きまとうものだと思っている。人生と同じで、これで満足ということはないのもで、まだまだやり残している、まだまだやらなければということを実感している。
Q.ヴ川崎の森下社長に伺いたいのですが、これで日本代表にヴ川崎所属の選手が20年ぶりにいなくなってしまったということになりますが、いかがですか?
A.ヴ川崎・森下源基社長
二人の選手が所属するチームの責任者として二点ほど感想を述べさせてください。
第一点は、結論から先に申し上げますと、どうして出発前に22人が決まらなかったのか、若い選手を試して結果的にダメだったということはあり得ると思いますが、少なくとも岡田監督を含めて日本サッカー協会の皆さんは、ここにいる2人の力というのは「ドーハ」以来、十分承知しているはずと思います。
その2人さえも向こうに行って試したいというのは、可能性を模索するという意味かも知れませんが、それは自信がないことの裏返しでもあると思います。
その2人があえて、こういう悲しい、悔しい思いで帰ってきたのは、マスコミ報道は(岡田監督の)勇気ある決断とか、いろんな意味でとらえているようで「非情なる采配」という評価もあるようですが、私は「非情なる采配イコール非礼なる采配」だとあえて言わしていただきます。なぜならこの二人がどういう選手であるか十分承知して、若い人たちにそういう判断を下すのとは立場が違うと思うのです。
第二点は、今度のこういう結果について、日本サッカー協会から我がヴェルディに二人を帰しますという報告はいただきましたが、それ以来、私のところにはなんら説明がございません。(中略)こうしたケアのなさが、二十二人の選出も含めた対応ができない(いまの協会を)象徴しているとあえて言わせていただきます。
ここにいるカズは、皆さんも知っているように、日本のサッカーをどれだけ引っ張ってきたか、そのことも含めて世界中にカズが落ちたというニュースが伝わっています。こうした人間(カズ)に対する扱い、ケアについて、実に不本意であり不愉快であります。
Q.カズさんは16年間サッカーを続けてきて、勝つために君が必要だと言われてずっとやってきて、今回は勝つために君は必要ないと言われた、この一言でいま挫折感を味わっていらっしゃいますか?
A.カズ・三浦知良選手
別にこういうことは初めてじゃないんで、ブラジルでもイタリアでも海外に出ていた時は、割としょっちゅう言われたし、特にブラジルでまだ10代でブロの世界がわからない時でしたけど1試合出て結果出せなかった時は、そのあと半年以上、紅白戦すら使われない時もあったし、それに比べれば、まだまだサッカーもやらせてもらえるし、ヴェルディでも戦えるし、日本代表の道だってまだまだ残っているし、そういう意味で、自分では挫折感とかは持たないようにしています。
カズ・三浦知良選手と北澤豪選手の帰国会見のあと「カズ落選問題」の議論は、ますますヒートアップしました。中には「カズ・三浦知良選手と北澤豪選手という人間の尊厳を傷付けたやり方ではなかったのか」というところまで踏み込んだ意見もありました。
スポーツジャーナリストの二宮清純氏、岡田監督の選考方法を口を極めて批判「こんなやり方は、非情なる決断でも勇気ある決断でも何でもない、単なる優柔不断、冷酷ですよ。」
カズ・三浦知良選手と北澤選手の帰国会見は午前でしたから、その日の午後のテレビ・ワイドショー系番組はさっそく、その模様を詳しく伝えました。
そんな中で特に口を極めて岡田監督のやり方を罵ったのが、スポーツジャーナリストの二宮清純氏でした。二宮氏は6.5放送の日本テレビ「ザ・ワイド」にゲストコメンテーターとして出演し、司会の草野仁キャスターの「今のところの皆さんの一般的な声は、これほどのサッカーの功労者・カズ選手をああいう形で落とすのはひどいじゃないかという感情も含めた意見、もう一つは、監督の方針に沿って論理的に選手を選んでいくことを考えれば、これは当然の判断だという意見が、交錯して結構大変な状況になってるようですが?」という問いに答えてこう述べました。
「誰を選ぶか、誰を落とすかについては監督の権限があるわけですから、私は感想はありません。」
「けれども、首の切り方というんでしょうか、マスメディアでは岡田さんの決断を『非情なる決断』とか『英断』とか『信念の決断』とか言ってますけど、こんなの大嘘ですよ。優柔不断なだけですよ。早めに22人にすればよかったんですよ。この決断の遅さ、優柔不断さ、決断できなかったわけですから。それがこういう騙し討ちみたいな形になってしまったわけですから。」
「私は同情論から彼ら(落ちた2人)を弁護しているわけではなくて、今回の岡田監督の見込みの甘さを言いたいんです。彼(岡田監督)はこう言ってるんです。『カズと北澤については予想以上にショックが大きかった、私の見込みが甘かった』と。」
「私の見込みが甘かった、と言ってますけど、ワールドカップのメンバーから外されるというのはサッカー選手にとっては死刑宣告と同じですよ。死刑宣告しておいて、予想以上にショックが大きかった、私の読みが甘かったと言ってるんです。この程度の読みしか出来ないしか出来ない人がワールドカップ戦えますか? アルゼンチン戦どうやって戦うんですか? この岡田監督の優柔不断さ、決断できないから人を傷付けてしまった。これは人間の尊厳にかかわる問題ですね。ボクは今回のことに関しましてガッカリしました。」と、一気にまくし立てるように答えたのです。
そして、まだ言い足りないと思ったか、続けました。
「おそらく岡田さんは早くからカズ、北澤あたりは必要ないと思ってたと思います。であれば早くから22人にしておけばよかったのに、テストマッチにも使わずに『彼(カズ)の国際的な経験が必要だ』とか思わせぶりな態度で、最後にこれです。騙し討ちですよね。」
「江戸時代でさえ、公儀介錯人が政治犯の首を斬る時は、黙祷して首に水をつけて斬るわけですよ。この人(岡田監督のやり方)はね、騙し討ちですよ。他の残った22人の選手たちも、もの凄く精神的なショックを受けてると思いますよ。これは『非情なる決断』ではなく単なる『非礼なる決断』!! 冷酷ですよ。何も弁護することありません。」ぴしゃっと断じました。
あまりの厳しい内容に、草野仁キャスターが話を少し柔らかくしようと思ったか、
「これは前にこのスタジオでも出た話なんですが、アメリカ代表あたりは、まず20人だけ選んでおいて、あとから2人を追加して、彼らを迎える形でまとまって現地に向かうというやり方をしている国もあるようですが、日本のやり方は極めてマイナス影響を及ぼす形になってしまったようですね。」と繋ぎました。
二宮氏の舌鋒は続きます。
「日本はマラソン代表の選考もそうですけれど、選ぶのがヘタなんですよ。岡田監督は、必要ないんであれば、5月にキリンカップのメンバーを選ぶ時に『カズ、もうお前の力衰えたから、悪いけど、ここは身を引いてくれ』と言ってれば、ここまで問題はこじれなったと思うんです。それが、さきほども言いましたように『お前の国際経験は必要だ』と思わせぶりな態度で連れて行って、二階にあげてハシゴを外すようなやり方でですよね。」
「カズと北澤が偉いと思ったのは、岡田監督に対して不平不満を一言も言いませんでしたよね。彼ら立派ですよ。他の選手に影響を与えたくないとか、彼らなりの精一杯の態度ですよ。岡田監督一人だけ、やってることが子供ですよ。単なるわがままですよ。」
二宮氏の岡田監督批判は果てしなく続きそうに思われたところで、草野キャスターが遮るように言いました。
「どうなんでしょうね、これは穿った見方かも知れませんが、三浦知良選手を外すということは、彼自身がこれまで築いてきたことや、いろいろと支持してくれる人たちのこと、さまざまな影響力の大きさから言って、なかなかこれは(外すことは)難しいことで、それを先送りしてしまったという見方もありますが・・・」
それに対して二宮氏は、
「昨年、ジョホールバルの(アジア第3代表決定戦の)時、カズと中山を外して呂比須と城を入れました。これは素晴らしい決断でした。けれども今回のことは、それとは全く別問題なんですよ。さきほども言いましたけれど、死刑宣告するならするで、そのやり方、礼儀というものがあるんですよ。カズが功労者だからということではなくて、一人の人間に対して、それだけの優しさとか、それだけの思いやりを持っている人が代表監督になるべきで、この人(岡田監督)にはまったくそれがありませんね。ただ冷酷なだけです。それを『非情なる決断』だとか『しょうがないこと』とか『立派な決断』であるとか・・・。メディアも一体何を考えているのか・・。」
次に、草野キャスターが「日本サッカー協会の対応はどうなんですか、結果的には岡田監督にいろいろなことを押し付けた形になっているんじゃないかという声も出ているようですけれど」と問うと、二宮氏は、
「それもありますね、岡田監督が昨年、日本代表の危機を救ったということもあって、日本サッカー協会も岡田監督に強く言えないところがあると思うんですね。」
「それにしても岡田監督はですね、ボクは指揮官としても甘いと思うんです。岡田監督は『25人から3人外しても明るい雰囲気でやれると思っていた』と言ってるんです。ワールドカップというのは武器のない戦争だって言われているぐらいの厳しい戦いですよ。ピクニックに行くんじゃないんですからね、この優柔不断さ、一体何なのかって思いますよ。」
草野キャスターが話しをどう振ってみても、二宮氏のコメントは、やはり岡田監督批判に結びついてしまいました。
ここで、かつてNHK-BSで「Jリーグダイジェスト」のキャスターを務めた経験があり、現在は草野仁キャスターのもとでサブキャスターを務めている勝恵子さんが、かつてのサッカー知識を生かして口を開きました。
「日本サッカー協会のサポートということを考えると、例えば最初に20人を選んで、あとで2人足すという方式でしたら、代表選手はどんどん国際試合を消化していって、国内でいい選手を見る他の協会スタッフがいればよかったと思うんですね。そういう人がいれば現地に行っている岡田監督と連絡を取り合って、足していくという方法もあると思うんですが、結局は、そういう体制にしようという考えが、サッカー協会にも岡田監督にもなかったということですかね? 」
これに対して二宮氏は、
「そういうサポートを、今のサッカー協会に望んでも無理なことでしてね。なぜなら、協会幹部の一人が『カズは選ばれるだろうね、ここまで来て落されるわけないよ』なんてことを平気で言っていて、落ちたあとに『岡田監督の勇気ある決断に拍手を送る』とか言って、とにかく支離滅裂なんですよ。ですからサッカー協会にはあまり期待しないほうがいいと思いますよ、本当に。」
二宮氏の大舌鋒会もそろそろと見たのか、草野キャスターが「二宮さん、これはスポーツ界全体に言えることだと思うんですが、このあたりで選手を決める際の、ちゃんとした尺度の設け方、あるいは、こういうものに対するシビアなものの見方というのをスポーツ界全体として形作っていく方向性が必要だと思うんですが・・・」と問うと、二宮氏は、
「まさにおっしゃるとおりで、今回のこともカズに対する同情論の問題ではなく、決定システムをもっとガラス張りにすることだと思うんですよ。こういう決め方をしているから、いろいろな穿った見方が出てくるんであって、サッカー協会も今回のことを教訓に、もっとガラス張りにするよう、エりを正してもらいたいですね。」
ということで、やっと話のオチがつきました。
岡田監督の「恩師」が辛い決断の胸のうちを代弁「私情を捨てて『鬼』になって切った」
このように、この番組では岡田監督批判一色だったかのような趣きでしたが、実はそうではなく、岡田監督は決して優柔不断でこうしたのではない、彼は外したくないカズを悩みに悩んだ末、まさに断腸の思いで切ったんです」と擁護する方がいました。
それは岡田監督が「恩師」と仰いで指導を受けている作家の濤川(みなかわ)栄太さんでした。
「カズの力、カズのスター性、カズの存在感、それから世界における名前の重さ、そういったことを一番よく知っているのは岡田ですからね。」
「そしてカズを一番好きなのは岡田じゃないですか? とにかく(カズを)誉めてましたね。『あれほど練習熱心な男はいない』と。確かに全盛期に比べれば、ちょっとパワーは落ちてきてますけど『カズの単なるプレーヤーの部分だけじゃなくて、チーム全体に対する、いい意味での影響力、これが物凄く大きいんだ』と」
「だから、カズを外したくないんだという気持ちが私にはビンビン響いてきましたね。だから岡田は、個人的な『情』だけで言ったら、絶対カズを使いたかったと思う。カズが衰えても使いたいと・・。」
「だけど、私情を捨てて『鬼』になって切ったんでしょうね。」
「岡田君はおそらく、(ワールドカップ)の第1試合、アルゼンチン戦の試合開始のポイッスルがなる瞬間まで、どうやったら勝てるか考え続けると思います。」
「その中で、A案、B案、C案、D案といった戦略戦術案があったんでしょう、スイスに行くまでは当然カズは戦力として入っているから連れて行ったんで、切るために連れてったんじゃないです。」
「それがスイスに来て、いよいよ緊迫してきて、試合の直前の段階になって軌道修正していく、そして彼は、最後の作戦をたてたんでしょうね。」
「こういう戦略でいく!! その大戦略を決めた時に、その作戦のためにはカズより、別な選手を使おうと考えたと思うんです。決してカズを否定したわけでも何でもなく、作戦の中でより良い駒を使わなければならないという、勝負師としての究極の判断ですよ。」
今回の問題は「監督と選手のサッカー文化の土壌の違い」とする意見あり「日本型企業社会が「サッカー型企業社会」に変化していく先駆け、とする意見あり
以上のように岡田監督の「カズ外し」を「単なる優柔不断、人間の尊厳にかかわる冷酷なやり方」と厳しく批判する意見と「いやいや、岡田監督は、個人的な『情』だけでいったら絶対使いたかったカズを『私情を捨てて『鬼』になって切った』」と胸の内を代弁する意見が交錯する、極めて根深く思える議論がなされた一方、「カズ落選」の出来事を監督と選手のサッカー文化の土壌の違いと分析したコラムや、「カズ落選」の出来事を「日本型企業社会」が「サッカー型企業社会」に変化していく先駆け、と分析したテレビ番組がありましたので、それをご紹介します。
98.6.24号サッカーマガジンコラム「ビバ! サッカー」サッカージャーナリスト・牛木素吉郎氏、「カズ落選」は岡田監督とカズ選手のサッカー文化の土壌の違いによるもの
「『これも一局の将棋』という「ことば」があるそうだ。(中略)ある局面で飛車を動かしたとして、それで1局の将棋が進行する。しかし、その場面で角を動かす手もあって、そう指したとしても、それはそれで勝負になる。その後の展開はまったく違うものになるけれども、こちらも『一局の将棋』だというこどある。(中略)」
「岡田監督は、カズのいないチーム作りを構想した。それはそれで間違ってはいない。しかし、カズを入れたサッカーを構想することも可能である。それはそれで『一つのサッカー』である。」
「どちらかが正しく、一方は間違っているというものでもない。どちらも成り立つが、指し手がどちらを選択するかである。」
「岡田名人はカズのいない指し方を選択した。それでいい。結果は対局者の責任である。(中略)」
「誤解を恐れずに端的に言えば、岡田監督はパスとチームワークのドイツ型を選択した。しかし、カズを軸にチームを組み立てれば、ドリブルと個人技のブラジル型のサッカーになる。選択肢としては、これもあり得る。」
「ドイツの文化とブラジルの文化の違い、岡田監督のサッカー文化とカズのサッカー文化の違い、というのはこじつけに過ぎるだろうか。文化の違いに『価値判断』を持ち込むのは適当でない。(中略)」
「代表選手に選ばれるのは『名誉』ではあるが、選ばれなかったのは『不名誉』ではない。監督と価値観が違っただけのことである。」
98.6.8 TBS新サンデーモーニング キャスター関口宏、アシスタントキャスター中江友里、有村かおりアナウンサー、ゲスト元日本代表・加藤久氏、諸井虔・秩父小野田㈱会長ほか、「カズ落選」は日本型企業社会が「サッカー型企業社会」に変化していく先駆けか
この日の「新サンデーモーニング」は、朝8時の番組開始早々、毎週恒例の「今週一番気になったニュースは?」という街の声を拾うコーナーから始まりましたが、関口キャスターも「圧倒的、9割近くがカズのことに関心があるという声でした」と驚き、この問題に53分もの時間を割いて、次の3点に焦点をあてていきたいと紹介しました。
①密室の通告をカズはどう受け止めた?
②岡田決断は非情な采配? その称賛と誤算
③到来! サッカー型社会とは?
このうち①と②について他の番組同様、さまざまな憶測、意見が交錯していることを紹介したあと、③到来! サッカー型社会とは? について長い時間を割きました。
同じTBS系の夜のニュース番組「ニュース23」の筑紫哲也キャスターが「実は世の中がそういう時代になっているということを、スポーツって、しばしば象徴的に示すんですね。」とコメントしたところを引いて、サッカーの世界に起きたことが、企業社会において、長年培ってきた「日本型」がいま、いや応なく押し寄せるグローバルスタンダード・世界標準の波に突き崩されている状況に重ね合わせ「『カズ』『サッカー』がいま日本に突き付けるのは・・・」というナレーションを付けました。
番組は、街頭インタビューの中にあった「ボクもカズと同じ年代なんですけど、いくら実績があってもダメな時は切られるんだ、日本にもとうとうそういう時代がやってきたんだ。」という反応に着目しました。
また経営者向け月刊誌「プレジデント」が、これまで表紙には経営者や各界のリーダーの顔を載せていたが、今月号は中田英寿選手を表紙に、本文特集では作家の堺屋太一氏と岡田監督が「勝てるリーダーの条件とは」というテーマで対談を掲載して、同誌の神田久幸編集長の「日本の企業社会もサッカー型に変わっていくのかな、という視点で企画しました。」という話しを紹介しました。
ゲストの諸井虔氏が意見を述べました。
「これまでの日本社会における経営のあり方というのは『全員経営』といいますか、みんなでお神輿担いでいくようなやり方でした。みんなで同じ方向を向いて頑張る、あまりチームワークを乱すようなことはしない。経営状態が悪化して何か手を打たなければならない時でも、社員を1割カットしてしまうやり方はせずに、全員の給与を1割カットするというやり方をとってきました。」
「しかし、最近になって『日本の経営者には戦略がない』と言われ、ワイワイみんなで議論していくうちに方針が決まるというやり方をしていることが指摘されています。あるいは決断できない、責任をとらないといった点も海外の経営者と比べて言われるようになってきています。」
「いままでは、どの会社も本業を中心に右肩上がりで成長できました。終身雇用や年功序列を維持しながらできました。しかし、これからは場合によっては本業を投げ打ってでも新しいことを始めなければ、国際競争の中で生き残れない時代に入ってきています。」
「そうなると社内のこれまでの人も仕組みも全部入れ替えなくてはならない、という場面が出てきます。その時、経営者は会社を守っていくためには相当非情なことを決断しなければならなくなります。」
番組はこのあと、厳しい国際競争社会の中で、生き残っていくためには経営者とともに、それぞれの社員たちの行動も変化を求められているとして、月刊プレジデント誌、評論家の堺屋太一氏と岡田監督の対談内容から引用しました。
岡田監督「サッカーでは、どこへ走っても、どこに蹴ってもいいが、だからこそ、どこへ走るか、どこへ蹴るかを自分で判断するしかない。ですから自分で判断させずに型にはめていくとプレー中の状況判断まで鈍くなってしまいます。」
「サッカーチームというのは、ある程度型にはめると一定レベルまでポーンと伸びるんです。ところが、そこから先は全然伸びなくなるんです。」
堺屋太一氏「日本の経済も、これまで役所が主導して、日本社会全体に同じ教育をして、みんなが欧米のまねをしてきて先進国の中レベルまでは来たわけです。ところが、そこから先、世界のトップレベルまではいけない現実にあります。今の日本の経済状況は、(型にはめたサッカーチームと)そっくりだと思います。
ここで、企業経営に関する専門家である日本ビジネスマン研究所の西山昭彦所長が、企業経営の環境変化について、
「これまでの日本の企業経営は、さまざまな規制に守られて、その枠の中で、一つひとつの局面でいちいちサインを出したりベンチが指示を出しながら進めていく『野球型経営社会』でしたが、これからは金融ビックバンに見られるような国際競争社会、すなわち完全自由競争社会、これは、サッカー日本代表と同じです。何をやってもいいけれど、勝つためには監督はもちろん、選手一人ひとりが、その場面場面でベストの判断をしなければならない『サッカー型経営社会』になっていくと思います。」
「今後、世界で戦うためには、企業経営においては特に『経営判断のスピードと、瞬時の的確な判断力』が要求されます。例えば一つのマーケットが生まれた時、それをいち早く取りに行くスピードを考えた時、これまで日本がやってきた、稟議とハンコの手続きをそのままやっていたら、電子メール1本でゴーサインが出る企業に勝てっこないと思います。」と解説しました。
番組はサッカー日本代表の中田英寿選手が「自分にはお手本はいらない」と語っていることにも着目、「彼は型にはめられることを嫌い、自分の瞬時の判断の確かさを信じて日本代表の中心選手になった。」と、企業社会でも、能力の高い人であれば若くても評価され登用される社会になっていくのかも知れないと示唆していました。
この堺屋氏と岡田監督の対談、西山所長の解説等を受けて諸井氏が発言しました。
「決断力、判断力そして、そのスピードの問題は経営者だけのことではなく、社員一人ひとりもスピードと判断力を高めていかなければならないということになります。日本代表では、岡田監督が大きな作戦をたてますが、試合の中では、中田英寿選手のように、一人ひとりが瞬時に判断していかなければならないわけで、企業社会でも社員一人ひとりがそれをやっていかなければならない。社員一人ひとりまで判断力を高めていかなければならないとなると、これは、ずいぶん時間がかかるなぁと感じました。」
最後に関口キャスターが「日本もだんだん『サッカー型経営社会』に変わって、確かに欧米に追い付いていくのかも知れませんが、なんか、これまで日本の企業経営が大切にしてきたもの、できるだけ仲良くとか、社員を守っていくというような風土が失われていくような気がするんですが」と振ると、
諸井氏が「これまでの日本はある意味『悪平等社会』に過ぎるようなところがあって、格差をあまりつけない社会でした。それをアメリカのような超格差社会にしてまっていいのかと言えば、そこまではしたくない、日本とアメリカの中間ぐらいのところがいいのではないかと思いますし、そういうビジョンははっきりしておかなければならないと思います。」と述べました。
このように、ちょうど、右肩上がりの成長を続けた日本経済が曲がり角を迎え、厳しい国際競争社会の中で生き残りを賭けて戦っていかなければならないこの時代、サッカー日本代表選手の生き残りを賭けた様子や、試合における選手の瞬時の判断の様子は、これからの日本の企業社会の姿の先駆けとなっているのではという視点に立った番組でした。
社会現象となった「カズ落選問題」、明快だった岡田監督の本心と、未経験の監督が招いた見通しの甘さ
6月2日のカズ・三浦知良選手の落選発表から、6月5日の帰国会見とその後の新聞・テレビなどの報道は、連日、各界各層の反応・意見を織り交ぜながら、繰り返し、その経緯を詳細に伝え続けました。
その中には、ヴ川崎関係者もありJリーグ関係者もあり、一般文化人・芸能人もあり、サッカーライターなどの専門家も数多く登場しました。
ヴ川崎関係者にはニカノール監督、ラモス瑠偉選手、柱谷哲二選手などの現所属の人に加え都並敏史選手のように、現在は別のクラブにいて、かつてカズ・三浦知良選手や北澤豪選手と長くプレーした人も含まれていました。
そのため議論は感情論も含めて、さまざまに入り乱れ、何が真相で、何が問題だったのかわからなくなるほど混乱しましたが、5月7日の25名発表から6月2日の3選手の落選発表まで、岡田監督が一貫して述べて来た内容を虚心坦懐に聞いていれば、岡田監督の本心は極めて明快だったことがわかり、なぜそういう判断をしたのかを考えれば、結局、岡田監督が昨年、加茂監督の後任として代表監督に就くまでは、どのカテゴリーの監督も経験したことがないのに、いきなり代表監督になってしまった、その経験のなさが招いた見通しの甘さによるものであることが明確にわかります。
その点を、はっきりと書き残しておきたいと思います。
岡田監督が選手選考で持っていた、極めて明快な本心
岡田監督は、25名を決めた5月7日から、繰り返し「25人でワールドカップを戦うんだ。」という言い方をしていました。この真意は「3人外れる選手はいるが、この選手にも残ってもらってワールドカップを戦う、自分の中ではあくまで25人で戦うんだ」という意味だったのです。
そのために、ベンチに入れるようにするためのスタッフ用のIDカードの手配や、滞在中の日当やボーナスなどの待遇面も抜かりなくしていたのです。サッカー協会は、試合に出ない選手に日当やボーナスは出せないということなので、岡田監督が自分のポケットマネーを出すことにしたいたのです。
一方で必ず、カズ・三浦知良選手のことを「単に技術や技だけではない形でチームに貢献できる選手だ。その意味で欠かせない。」と付け加えていました。
これを繋ぎ合わせると、岡田監督が代表選手の選考にあたって決めていた、極めて明快な本心が浮き上がってきます。
すなわち「最後は3人を外さなければならないということで、最終的にカズを外すことになったけれども、チームに貢献できる選手なので、そのまま帯同してもらいたい。カズは、そうしてくれると思う。」
そう本気で信じ切ってニヨンまで言い続けてきたのです。決して優柔不断だったためでも、最初から決めていて、騙す気持ちだっためでもなく、本気で「カズであっても22人から外れれば、25人として残ってもらえる」と考えていたのです。
ところが、岡田監督がカズ・三浦知良選手に最後通告してみたら一旦戻ったものの「帰らせてもらいます」という答えでした。残ってくれるとばかり思っていた岡田監督は、自分の見込み違いに気づきました。
ただ、岡田監督がいくら会見で「3人外れる選手はいるが、この選手にも残ってもらってワールドカップを戦うつもりだ」という話と「カズは、単に技術や技だけではない形でチームに貢献できる選手で、その意味で欠かせない。」という話をセットで繰り返し話しても、当のカズ・三浦知良選手が「あぁ、これは『外れるのはカズだけど、そのあとも帯同してくれよ』というメッセージだな」と感じなければ、何の効果もないし、メッセージとして受け取って欲しいと期待すること自体、無理な話です。
むしろ、カズ・三浦知良選手は、岡田監督がしきりに会見で言っているその話を見聞きして「試合に出る可能性は限りなく少なくなったかもしれないな。でも22人に残れればワールドカップメンバーという夢は実現できるから」と解釈していたと思いますから。
岡田監督が「自分の見通しが甘かった」と吐露した真意
岡田監督は3人の落選者を発表した会見で「自分の見通しが甘かった」と肩を落としながら吐露しました。その真意は、ここに至るまで自分が、カズ・三浦知良選手や北澤豪選手の胸のうちを察することができなかった、その見通しの甘さを思い知ったという意味です。
岡田監督は、カズ・三浦知良選手や北澤豪選手に、日本にいる時から「22人から外れることがあった場合でも、精神的支柱として25人とて残ってもらいたいんだけれど、いいか?」と腹を割って話しをしたことはありませんでしたし、そうする気持ちが頭になかったのです。
セルジオ越後氏や二宮清純氏などが「フランスに向かう前に決めておけば、こんな騒ぎにならなかったのに」と口を揃えていますが、岡田監督は「3人は外すけれど、その選手も一緒にフランスでやるんだ」という気持ちしか持っていませんでしたから「フランスに向かう前に決めておいたほうがいい」という発想が湧かなかったのです。
カズ・三浦知良選手に外れることを通告すれば「22人から外れるのであれば、代表メンバーではないんだから、残るのは勘弁して欲しいし、外れた人間が帯同してしまえば22人にも余計な気を使わせると思う」という話になるとは考えていなかったのです。
むしろ「わかりました、外れてもその役割で帯同しましょう」と言ってくれると思い込んでいたのです。
それまで、ずっと、そういう気持ちで会見もしてきたものですから、やれ「思わせぶりな言い方をしておいて」とか「二階にあげてからハシゴを外すようなやり方で」とか「25人みんな仲良くやっていきましょうなんて、子供のビクニックみたいなことを・・」といった集中砲火を浴びることになったのです。
では、なぜ、そんな集中砲火を浴びるようなことをしてしまったのか。普通に考えれば不思議でしょうがない変なやり方を、なぜ、してしまったのか。
それは岡田監督が、ここまで、どのカテゴリーの監督もまったく経験したことがない監督未経験者だったからです。そういう人がいきなり日本で最高の経験と技術を持つプロフェッショナル集団の、日本代表監督になってしまったからです。
二宮清純氏が言っていました。「ジョホールバルの時のカズと中山の2枚替え、これは素晴らしい采配でしたけど、今回はそれとはまったく違うんです。」
ところが岡田監督は、そこが理解できていませんでした。ピッチから選手を途中交代させるのと同じ程度の気持ちで最終メンバーから外してしまったのです。
しかも岡田監督としては、22人から外れても一緒に帯同してもらってチームの精神的支柱になってもらいたいと本気で思っていて、6月2日にそれを通告しても大丈夫だと思っていたのです。
カズ・三浦知良選手にとってのワールドカップが、自分のサッカー人生の究極の目標であることを、岡田監督は知識としては知っていたかも知れませんが、その目標を取り上げることが死刑宣告と同じなんだとは思っておらず、チームに帯同してフランス大会に残ってもらうんだとしか考えていなかったのです。
岡田監督は「これほどショックが大きいとは思わなかった。僕の見込み違いだった。プロ選手だから受け入れてくれて、そのあともチームに帯同してくれると思った。」と言っています。
実はショックが大きかったのは岡田監督自身だったと言っていいでしょう。カズ・三浦知良選手にとっての「ワールドカップ」がどういうものか何もわかっていなかったと気づいた自分自身に対してショックだったのです。これまで一度も監督という立場を経験したことがない人ですから、死刑宣告をどうやってすべきかについても何もわかっていなかったのです。
それが、まったく監督を経験したことがない未経験者の思考なのです。監督として、一度でも選手を何かの大会のメンバーから誰かを外すという決断をしたことがある人であれば、よほど用意周到に、その選手の心を傷つけないようにしないと大変なことになるということを骨身に沁みてわかっています。
そこが岡田監督の最大の弱みであり、よりによって、社会的関心が最大限に大きい今回、それを暴露してしまったのです。
カズ・三浦知良選手と北澤豪選手から「残るか帰るかは考えさせてください」と言われ「30分ぐらいしか時間がないから、それまでに返事をくれ」と一旦帰したあと、二人から「日本に帰らせていただきます」という返事をもらいました。
「そうか、25人のままフランスに入ることができなくなったな」と思っていた矢先、フラビオコーチが岡田監督のもとを訪れます。
フラジオコーチから「カズ・三浦知良選手、北澤豪選手は、自分のサッカー人生の集大成のつもりでワールドカップメンバーに入ることを目標にして頑張ってきた選手たちだ。その選手たちを最後の土壇場で外された。それはそれでいいけれど、本人たちは、このまま帯同することが、他の選手たちに余計な気遣いをさせ、かえって迷惑をかけると思うから、チームを去ったほうがいいと判断している。」といったようなことを言われたに違いありません。
選手たちのフィジカルコンディションだけでなく、精神的なケアにも心を砕いてきたフラビオコーチからそう言われて、岡田監督は、自分の見通しの甘さを思い知ったことでしょう。
これまで「ディフェンシブな戦い方の戦術を25人で練り上げ、最後は3人外れてもらうけど、そのままフランスを戦うんだ。外れたから帰りたいというなら帰れ」と考えてきたことがまるで甘い考えで、むしろ、カズ・三浦知良選手や北澤豪選手は「落ちた自分たちが帯同していることで、22人に余計な気を使わせてしまう」と考えていたのです。
岡田監督は、自分がそこまで思い至らなかったことに、フラビオコーチの訪問を受けて、言われて初めて気づいたのです。
それまで岡田監督は「日本代表監督は孤独です。結局誰にも相談できないんです。最後は自分で決めなきゃならないんです」という固定観念に縛られて、自分の考えていること、やろうとしていることが真っ当な判断なんだろうかと自問することなく、突っ走ってしまいました。
自分が何の監督経験もなく日本代表監督になったことで、経験から来る智恵や判断の確かさといったことが、まだ備わっていないのではないかと自戒することなく、とにかく自分一人で決めなきゃならないんだという信念に固執して、「25人を選んで、そのままフランスに全員で乗り込んで戦う、いやだと思うヤツは帰れ」というぐらい、自分が描いたロジックに何の疑問も持たずに6月2日まで引っ張ったのです。
「25人を選んだのは、ディフェンシブに戦う戦術を、可能な限り多くの選手に共有してもらって、いざ本番の時にその戦い方が破綻しないようにするため」だったはずですが、最後は「25人でフランスに入るんだ」ということだけが自己目的化してしまったのです。
ところが、いざ、本人たちに通告して初めて「あれ、自分の描いたロジック通りにいかないな」と感じ、そのあとフラビオコーチの訪問を受けて、自分の描いたロジックが、とんでもない甘いロジックだったことに気づいたのです。
その後、その見通しの甘さが引き起こした社会の衝撃の大きさに驚いたことと思います。
これまで疑いをもたなかった自分のロジックが甘かったことを思い知らさせてショックを受けたせいかどうか、岡田監督は落選者発表会見でも失敗を重ねています。
それは、カズ・三浦知良選手、北澤豪選手たちが帰国することに決めたことについて「俺が帰したことにするから」と打ち合わせたまではよかったのですが、会見で「(彼らが)想像以上にショックが大きかった。影響力が大きい選手だけに、チームにマイナスになると思ったので自分の判断で帰すことにしました。」と言ったのです。
カズ・三浦知良選手や北澤豪選手が帰ることを決めたのは「落ちた自分たちが帯同していることで、22人に余計な気を使わせてしまう」と考えたからです。岡田監督も、それを会見で言ってあげるべきでしたが、そのことに気が回らなかった自分に対してショックを覚えたあまり「彼らのショックが大きかったので」という言い方をしてしまったのだと思います。
強い日差しを浴びながら、立ったまま会見していた岡田監督は、遠目からは淡々として受け答えしているように見えましたが、間近にいた記者たちには、目は充血して、顔は引きつって、怒ったような表情に見えていたそうで、実際のところは、ある種パニックの心境だったと言っていいでしょう。それを務めて表情に出さないようしながら受け答えしていたのかも知れません。
岡田監督は、論理的に考え最適解を見出す思考能力の高い人です。そして、それに基づいて導き出した考えを貫く信念の強さも持ち合わせた人です。
だからこそ、前年秋のアジア最終予選の過酷な状況でも冷静さを失わず、針の穴を通すような難しいミッションを成し遂げられたのだと思いますし、その功績はいささかも貶められることはありません。
一方で、加茂前監督も誉めていた岡田監督のその「信念の強さ」ゆえ、時として自分が組み立てたロジックの陥穽に陥ることがあります。ですから、そのロジックに破綻が生じ、裏目に出た時には、惨憺たる結果を招くことを、図らずも露呈してしまったのです。
サッカーマガジン誌・伊東武彦記者は「(カズ・三浦知良選手と北澤選手の落選について)岡田監督の胸中にあったものは、戦いのすべてが終わるまで明かされることはない。」と、岡田監督の胸中を推し量ることは留保していましたが、上記のように明快だった本心と、監督未経験のため招いた見通しの甘さを岡田監督に確認すれば「そのとおりです」と追認するに違いありません。
昨年、加茂監督更迭のあとを受けて1試合限定で指揮をとったあと、国内のサッカージャーナリストたちは一斉に「これまで、どのカテゴリーの監督も経験したことのない人を、そのまま代表監督にするなんてあり得ない」と論じました。その人たちは、その後、ここまで沈黙を余儀なくされてきましたが、今回の「カズ外し」問題を見て「それ見たことか、言わんこっちゃない。だからダメなんだよ。日本サッカー協会は・・」と感じていることでしょう。
けれども、この議論に賛意を示す気持ちにはなれません。ワールドカップ出場権を獲得した監督なのだから、という立場からではありません。仮にジョホールバルでの戦いが終わった翌日から日本サッカー協会がワールドカップ本大会仕様の新監督探しを始めたとして「この人なら岡田監督に代わる新監督としてふさわいのでは」という人を据えるところまで持ってくるのは、時間的に難しいだろうというのが理由です。
ワールドカップ出場権を獲得した監督を降ろして、日本サッカー界として受け入れられるだけの力量を持った監督を、12月4日の本大会抽選会までの20日間程度のあいだに契約まで持ち込むのは絶望的なミッションだと思います。
ですから日本の場合は、アジア最終予選を第3代表決定戦までもつれ込むような形で戦った末、出場権を勝ち取ったことで岡田監督以外の監督を据える選択肢を失ったと思いますし、もっと早く出場権を獲得していたら、なおのこと代えることがなかったと思います。
したがって岡田監督とともにフランスワールドカップを戦うことになった日本代表は、そのプロセスで起きることも含めてすべてを受け入れざるを得ない運命(さだめ)にあったと言うべきでしょう。
ここまで「これでもか、これでもか」というほど岡田監督の言動や下した決定について書き綴りながら、一方では「そこまで書き綴る必要があるだろうか」という気持ちも抱いています。
岡田監督には「日本サッカーの歴史」という法廷の被告席に座ってもらって審判を受けてもらっているようなものです。
この時の「敗北という結果」という結果を知っている者の後付けで記述していますし、「将」としての結果責任として記述せざるを得ないという気持ちで記述しています。
歴史に「たられば」はないのですが、もし、違った結果であれば、これまでのような記述にはなり得ないのです。どうしても、こういう時には複雑な気持ちを抱きながら書き進めています。
来たるべき6月14日のワールドカップ初挑戦、その直前に起きた「カズ外し」問題によって、岡田監督をはじめとした日本代表も複雑な思いを胸にしまい込みながら、残りの日々を過ごすことになり、日本全国のサッカーファンも、各界各層も、さまざまな気持ちを交錯させながら、その日を迎えることになりました。
渦中のカズ・三浦知良選手、5月7日の25名発表から6月5日の帰国までの胸の内
5月7日の25名発表から6月5日の帰国まで、新聞・テレビ・サッカー専門誌などの報道を通じてカズ・三浦知良選手の心情を推し量りながら書き綴ってきましたが、三浦知良選手の胸の内は実際どうだったのでしょう。
カズ・三浦知良選手への長期間にわたるインタビューをもとにまとめられた、一志治夫氏の著書「たったひとりのワールドカップ」から引用します。
・4月1日の日韓戦メンバーから外れ、25名発表以降、キリンカップを通じても出場機会がなかったことについて
「僕は、岡田さんは自分のことをよく知っているから使わないのだ、と思っていた。どんな状況になっても、先発だろうが、途中出場だろうが、カズにはこれだけの実績と力があるから、もうここであえて使う必要はない、と。僕とか北澤は、これだけチームに長いし、いつ(ピッチに)入っても別に、戦術も理解してくれているし、戸惑うことはないだろうと見ているのだろうと思っていた。自分が使われていないということに関しては、そういうふうに理解していた。それは外される直前、最後の最後までずっとそうだった。」
・スイス・ニヨンに入ってから、膝の調子が思わしくないのではないかと報じられたりした中で6月1日の地元チーム、スタッド・ニヨンとの練習試合でハットトリックを決め、あとは6月2日の発表を待つばかりとなった頃の様子
「地元チームとの練習試合の2日前の夕方、約100発のシュート練習は、どの体勢からも思い通りの孤を描いて飛んでいった。」
「カズの中では、ワールドカップに向かっていく心身は、万全になっていた。どんな形でも、もし出場できたら、活躍できるという自信があった。三戦のいずれかでチャンスは巡ってくるだろうと、心待ちにしていたのだ。」
・6月2日、3人の落選者発表当日の様子
「僕は、その日、午前11時ぐらいまで寝ていたんです。日本からの電話で起こされた。日本では、(毎日新聞に出たことで)その前の日の夜に部屋に行って、岡田さんと怒鳴り合いになったとか出てたらしいけど、全然そんなことはない。僕、スイスで、それまで岡田さんの部屋に行ったことなんてなかったもの。」
「それで11時40分頃、岡田さんから直接、部屋に電話がかかってきて、『ちょっと来れるか』と言われて、『あぁ、いっすよ』って、そんな感じで行った。そのとき、僕は外す三人が決まって、その三人を帰すか、帰さないかを相談されるのかと思ったんです。」
「岡田さんも、ワールドカップを25人で戦うと言っていても、やっぱり外す三人の立場とか雰囲気とかいろいろあるでしょう。井原にはもう相談して決まっていて、井原には井原の意見があって、俺は俺の意見で聞かれるのだろう、と思った。まさか自分だと思うわけないからさ。それだったら、最初からここまで連れてこないっていうのもやっぱりあったし。」
「それで岡田さんの部屋に行ったら自分だった。」
「でもね、もう岡田さんの部屋に入って、岡田さんの顔を見たとき、そんな他人の相談なんかじゃないと、すぐ思いましたけどね。」
「岡田さんは、外す理由を『三試合を考えて使う場面がみつからない』って言った。それ以上はこっちも何も聞かないし、たぶん岡田さんの部屋には五分もいなかっただろうな。そのまま現地に残るか残らないかを話し合って、岡田さんから『帰るか、残るか』って聞かれたから、『チームを捨てたっていう感じにされちゃんうじゃないか。その帰し方だけはきっちりしててほしい』って僕は言った。」
「それで、『帰るか帰らないか考えます』って、岡田さんの部屋を出た。自分の心の中では帰るって決めていて、考えるって言った時点で帰るつもりだったんだけど。」
「あとは誰が外されたのかってことも別に聞かなかった。」
「やっぱり僕はいろんな意味で岡田さんを信じていたわけだから。僕の力を認めて選んでくれた、こういう風に使いたいと思っているから選んでくれている、と選手は当然思うよね。僕は岡田さんを信じていたし、岡田さんも僕を信じてくれていたと思っていた。でも、そうじゃないとわかったから、もうそれ以上その場で喋ることなんてないでしょう。別に僕と岡田さんの人間関係は終わらないけど、選手と監督としてはいったんそこで切れたわけです。お互いの信頼関係が。」
「岡田さんのことを嫌いになるとかそういう低レベルの問題じゃなくて、この時点における信頼関係は終わりますよね。加茂さんのコーチの時から三年以上一緒にやってきて、最終予選も一緒に戦い抜いたという意識もあるし、自分の力はある程度認めてくれたと思っていたし、だから選んだと思っているし、そういう信頼関係ができたと思っていた。男気を感じてやっているような部分もあった。しかし、そうじゃなかった。それ以上岡田さんの部屋で聞くことも、話すこともないでしょう。」
「僕は淡々としていたと思いますよ。もし、そのときのビデオがあったら見せてあげたい。それぐらい淡々としていた。」
「僕はいつもそうなんだけど、何かを得たときはそのとき喜んで一瞬で消える。優勝したとか得点王をとったとか。」
「だけど、悔しい思いをしたときは、その瞬間は淡々としているけど、家に帰ってからトーンが落ちたりすることが多い。だから、今回に関してはワールドカップを見てて胸が痛むとか、バッショとの(フランスで会おうという)約束が果たせなかったなぁ、とか、自分自身の罪や寂しさを感じる。(中略)」
「それで、僕は自分の部屋に戻って帰る準備をしていたら、キーチャン(北澤)が来て、『カズさんどうするんですか』って言うから、『え、お前(も)か』って。『そうです』『信じられねえよな、お前かよ』って。あるわけないと思っていましたから。」
・落選発表の岡田監督発言について
「岡田さんが『ショックが大きく、帰すことにした』と言ったと聞いて、僕もキーチャンもすごくショックだった。そう言われたことが。『最終的にチームが帰すことにした』でいいんだけど、なんでそういうふうに言ったのかなって・・・・。」
「僕は帰り方というのはすごく大事だと思っていた。大事っていうか、チームを捨てたように思われると嫌だし。僕としては、いままで日の丸のために戦ってきたと言ってたのがね、自分たちが外されたら、じゃあ帰るのかっていうふうに見られてしまったら、っていうのもあった。」
「でも、やっぱり僕たちと市川は違うからね。それは実績も年齢もやってきたことも、彼のいまの立場と僕の立場じゃ違うし、周りの選手たちに与える影響も全然違う。あのあと三週間以上も僕たちがチームと一緒にいることがいいかって言ったら、やっぱり難しいと思うんだよね。周りも気を使うだろうし、やっぱり僕も気持ちを切り替えたいというのもあったし、だから、結局最後は、チームのために帰るということにしておいてほしいということは言ったんだけどね。」
「それが『ショックが大きかったので帰らせた』となるとは思わなかった。」
・帰国会見後のマスコミ報道について
「翌日の新聞には、曲解して、『(カズ)納得いかない、岡田監督に』とか出ていたけど、そうじゃなくて、『納得してはいけない』と言ったんです。」
「自分は誇りをもってやってきて、絶対に力があるって自分を信じて、必要な選手なんだって、そう思ってやってきたわけです。外されたことで『あぁ、そうですか、実力の世界なんだからしょうがないです』という納得は、今回、絶対にしちゃいけないな、ということなんです。」
【私見】カズ・三浦知良選手「2度の悲劇」と「現役を続けるサッカー人生」との因果関係
カズ・三浦知良選手は帰国会見で「自分の魂みたいなものはフランスに置いてきたと思っている」と名言を吐きましたが、「ドーハの悲劇」に続く今回の「ニヨンの悲劇」、この2度の悲劇が、その後の人生も含めて、一生消えない痛恨事となっているのではないか視点に立ってみると、現役を続けるカズ・三浦知良選手のサッカー人生との因果関係に思い至らないわけにはいきません。
もっと踏み込んで、歴史を知ってしまっている者の「後付け」という誹りを受けることを承知で言うと、カズ・三浦知良選手が、現役生活を辞めようとしないのは「ドーハの悲劇」を乗り越えて、今度こそはワールドカップの舞台に立てる、夢が結実すると信じていた自分のサッカー人生が、今回の「ニヨンの悲劇」の落選によって、一生消えない痛恨事となってしまい、カズ・三浦知良選手のサッカー人生を、出口の見えないジャングルの中に迷い込ませているからではないかと思うのです。
カズ・三浦知良選手は、サッカー選手生活を続けているとはいうものの、その出口、終着点がどこにあるのかわからなくなったまま続けているのではないかという気がしてならないのです。
なぜなら、カズ・三浦知良選手というサッカー選手は、プロになってワールドカップという舞台に出ること、日本代表をワールドカップに導くことだけをサッカー人生の目標にしてきた選手です。そのためにブラジルに渡り過酷な環境、条件に耐えてプロ契約を勝ちとり、日本代表をワールドカップに出場させるためにブラジルでのプロ生活を切り上げ日本に戻ってきた選手です。
そして1993年「ドーハの悲劇」によって一度は夢を絶たれたものの、捲土重来、4年後に夢を結実させるところまで辿り着いた選手です。ワールドカップ開幕をあと2週間ほどに控えたところで直前合宿地のスイス・ニヨンまで来ることができた選手です。その選手が、まさしく最後の最後で代表から外されてしまったのですから、これ以上の痛恨事はありません。もうワールドカップの舞台に立つチャンスが巡ってこないことは年齢的に明白ですから。
まさに土壇場の土壇場というドラマ仕掛けのようなタイミングも一層、痛恨の深さを大きくしたと思います。
これがもし4月1日の日韓戦に呼ばれなかったことに続き、5月7日発表の25名にも呼ばれなければ、確かに痛恨の深さが浅くなった可能性があります。けれども、カズ・三浦知良選手は自らを信じ続けて4月1日以降も、試合に練習に全力を尽くし続けます。それが25名の中に入った要因かどうかは定かでありませんが、とにかく25名の中に入ってしまったのです。
そのため、最後の最後、土壇場の土壇場で外されるという衝撃的なことが起きてしまったのです。
そのタイミングであったことが、カズ・三浦知良選手の痛恨の深さを、一層深いものに、一生消えないほどの深さにしてしまったのではないでしょうか?
あれほど目標にしてきたワールドカップの舞台が目の前もいいとこ、まさに目の前で取り上げられたのですから。
その意味で、カズ・三浦知良選手にとって、ワールドカップの指揮をとる監督が岡田監督になったことが運命の分かれ目だったのです。
カズ・三浦知良選手が、なぜ現役選手を続けているのか、ご本人が折々のインタビューなどで話していることを額面どおりに受け止めたくても、どうしてもそう思えないのです。
「二度の悲劇、しかも二度目は本当に目前でしたから、一生の痛恨事になってしまったのでしょう? それで『自分は何を区切りにサッカーを辞めればいいのか・・・』と、そのあと、ずっと彷徨い続けているんでしょう?」
そう問いたいのです。
セルジオ越後氏が98.6.7放送のテレビ朝日「Get Sports」の中で言っていましたが、日本サッカー協会は結局、「カズ落選」騒動から日本代表を守るような動きも、カズ・三浦知良選手をケアした形跡もありません。でも今からでも遅すぎるということもありませんので、日本サッカー界全体に対して強く希望します。
日本サッカー界がやるべきことは、カズ・三浦知良選手が「これで、心置きなく辞められます」と思えるような場を用意してあげることだと強く感じます。仮にカズ・三浦知良選手が、その用意された場をやんわりと辞退したとしても、です。
あくまで私見ですが、カズ・三浦知良選手は「俺はどうしたら『カズ・三浦知良』であることを終われるんだ? 誰か教えてくれ!!」と思いつつ選手生活を続けているに違いないと思います。
日本サッカー協会、岡田監督の自宅周辺に警察の特別警戒を要請、前年に続く警戒体制
カズ・三浦知良選手と北澤豪選手の落選発表のあと、日本サッカー協会には抗議の電話やFAXが約500件入ったとのことです。日本サッカー協会は、両選手の帰国会見のあと、一部の過激なサポーターによる暴走や不測の事態に備え、岡田監督の自宅周辺に警察の特別警戒を要請する事態になりました。
前年のW杯アジア最終予選の時に次ぐ2度目の警戒要請となりました。
キャプテン・井原選手ケガ、果たして初戦は大丈夫か
6月2日、日本時間の20時すぎから行われた22人の最終メンバー発表が一段落して、またチーム練習が再開された直後、ミニゲームの中でDFの要・井原正巳選手にアクシデントが発生しました。右ひざ靭帯を少し損傷したというのです。初戦のアルゼンチン戦まで2週間を切ったこの時期の負傷、どうやら、それまでには回復しそうなケガのようで、井原選手の表情には笑顔もありましたが、日本代表、またしても悩みを抱えたのです。
岡田監督に「最も素敵なお父さん・イエローリボン賞」
同じ6月2日、日本では父の日に因んで「最も素敵なお父さん・イエローリボン賞」の選考授賞式が行われ、時の人でもある岡田監督がスポーツ界からの選出ということで受賞しました。今年で17回目となる同賞、サッカー界からは初めての受賞者となり、岡田監督の代理で八重子夫人が出席しました。
ちなみにこの年の受賞者は、岡田監督のほかに、政界から土屋義彦・埼玉県知事、経済界からは日立製作所の金井務社長、文化芸能界から歌舞伎俳優の中村橋之助さん、俳優の村上弘明さんでした。
この「最も素敵なお父さん・イエローリボン賞」を報じた3日の新聞各紙には、一方で「非情なカズ外し、岡田監督、仕事一徹」の見出しと、八重子夫人の「うちでは百点パパ」のコメントが隣り合わせに並ぶことになりました。
最後の国際試合ユーゴ戦、善戦するも見えない得点の形
日本時間6月4日未明、ユーゴスラビアと最後のテストマッチ。カズ・三浦知良選手がつけていた背番号11番を小野伸二選手がつけることになりました。1990年イタリアW杯以来8年ぶりにワールドカップの舞台に復帰したユーゴスラビアは、名古屋でプレーするストイコビッチ選手を中心に今大会も強豪国の一つに数えられており、仮想クロアチア戦となるうってつけの相手でした。
結果は0-1、日本はやはり強い相手から得点を奪うのは容易ではないように思われました。キリンカップのパラグアイ戦、チェコ戦、そしてローザンヌでのメキシコ戦、そして今回のユーゴ戦、あげた得点はわずかに1点、もはやテストの機会もすべて終了しました。
どういう攻めで得点をあげるのか日本のサッカーファンには何も見えないまま、岡田監督とそのメンバーが本大会で何かを見せてくれるのか、願望にも似た思いで見守るしかありませんでしたが、岡田監督は違っていました。
岡田監督は、これまでの試合と比べて、決定的なチャンスが作れて、これなら行けるとアルゼンチン戦に向けて大きな手応えを得たそうで、3人を外した直後のゲームだったけれど、選手たちも落ち着いてやれたことも大きかったというのです。
そして、エクスレバンに入ってから陣中見舞いに訪れたアーセナルのベンゲル監督に「オカダもいろいろ大変だろうけれど、無理しないで、そういう時は煙草でも吸って気持ちを楽にして」と声をかけてもらったことで、ずいぶん気が楽になったそうです。
ユーゴ戦の観戦スタンドには中田英寿選手のプレーを追う欧州エージェントの姿
このユーゴ戦、実は中田英寿選手のサッカー人生を左右する大きな岐路となる場でした。中田選手は、このワールドカップのあとは絶対海外移籍を実現させ、ゼロから再スタートを切る、日本にはもう戻らないと決意して、所属事務所の㈱サニーサイドアップ・次原社長に海外移籍を計らって欲しいと依頼しています。
そのため、次原社長は、欧州のエージェントの中から適任と思われるエージェントの選定に奔走し、イギリスのスポーツマネジメント会社に所属するコリン・ゴードン氏に「一度、中田英寿をぜひ見て欲しい」と依頼して、このユーゴ戦の場をセットしていたのです。
すでに何度かご紹介している作家・小松成美氏の著書「中田英寿 鼓動」(1998年12月 幻冬舎刊)の物語は、中田英寿選手の代理人になったゴードン氏が、スイス・ローザンヌで行われる日本vsユーゴ戦で、初めて中田選手のプレーを自分の目で確かめるため駆け付けるところから始まっています。
ですから、この項は小松成美氏の著書「中田英寿 鼓動」から引用する形で、経緯を記録することにします。
このゴードン氏が「中田英寿の移籍交渉を手掛ける」と判断しなければ、中田選手がいくら、もう日本に戻らず海外でプレーする」と心に決めていたとしても、絵にかいた餅になります。
その意味で、このユーゴ戦は中田選手の将来を決めるといってもいいほどの重要な意味を持つ試合であり、中田選手も所属事務所の次原社長から、そのことを告げられていますから、身震いが出るほどの気持ちでいたのでした。
中田選手がイギリスのスポーツマネジメント会社の関係者と初めて東京都内で接触したのは、2月21日のことだったといいます。そのスポーツマネジメント会社が中田選手の海外移籍の意思を直接確認したところから、水面下の活動が始まったのです。
その後、ゴードン氏は母国のイギリスで、以前、清水エスパルスの監督をしていたオズワルド・アルディレス氏に会う機会があり(アルディレス氏はプレミアリーグ・トットナムの監督経験があることからゴードン氏と旧知の間柄だった)、その際、アルディレス氏から中田英寿選手について「彼は世界でやっていけるクラスの選手だ。失敗はないよ」と聞かされており、その意味でも中田英寿選手のプレーを確かめたかったのです。
通常、ワールドカップイヤーの年の移籍交渉は、ワールドカップが始まる前に水面下で交渉が行われるのが普通で、それがワールドカップ期間中に延びるケースというのは、評価の低い選手がワールドカップの舞台を自分のアピールの場にする場合、もしくは、ワールドカップの舞台を経て前評判がさらに高まることが確実視される場合のみだといいます。
中田選手は、まだ欧州各クラブの獲得候補リストに入っていない選手ですから、ワールドカップの舞台で自分をアピールして各クラブのスカウトや代理人の目に留まり獲得交渉に入ってくれることを目指すしか道はないのです。
そこでゴードン氏は、現地時間6月3日にスイス・ローザンヌで行われるユーゴスラビアとのテストマッチに、各クラブの関係者がまず見に来てくれるよう手配しました。小松成美氏の著書「中田英寿 鼓動」によると、ゴードン氏が次原社長に報告した当日の観戦クラブは次の12クラブだったといいます。しかし折しも航空会社エール・フランスのストの影響で、当日は5クラブしか会場に来れなかったそうです。
・イタリア・セリエA トリノ、ボローニャ、ラツィオ、インテル、ユベントス、ベネチア
・イングランド・プレミアリーグ アーセナル、リーズU、ニューキャッスル
・スペインリーグ レアル・マドリー、アトレチコ・マドリッド
・スコットランド・プレミアリーグ セルティック
試合当日、日本から駆け付けた次原社長と通訳のフジタ女史に、ゴードン氏は「ゲームが終わったミーティングしましょう」とだけ告げました。
スタンドのスカウトたちや関係者が関心を持っている日本代表の背番号8は、その頭髪の色からもすぐ目に付きました。
ゴードン氏は試合が始まって10分ほどで中田選手の実力の見極めがついたそうです。しかし、その一方で、中田選手が日本代表の中で「小さな違和感を抱えながらプレーしている」ことも見逃さなかったといいます。
ゴードン氏の手元に届けられている中田選手の資料の中に次のような記述があったといいます。「自分勝手なパスを出すことが多い中田は、周囲のリズムに馴染み、合わせられるようになるまで時間がかかるスロースターターである」
それを読んだゴードン氏は「それは間違っている。相手のリズムに合わないのではなく、中田のパスにある戦略が、2歩も3歩も先を行き過ぎているのだ。」だから資料にある「自己中心的」という評にも頷けたそうです。
そしてゴードン氏はこう感じたそうです。「ここで中田が見ている世界を共有しているのは、私だけなのかも知れない」と。
さらにゴードン氏は、観戦中に感じたことを次々とノートに殴り書きしていきましたが、その中に一つ、こういうメモを残しました。
「彼には優れた監督が必要だ。中田の才能をさらに磨き導ける監督を擁するクラブ、それを探さなければ」
ユーゴ戦が終わって、次原社長たちとゴードン氏たちはミーティングに入りました。けれども試合を見たチームのスカウトやエージェントからゴードン氏にひっきりなしに電話が入り、なかなかミーティングに入れなかったといいます。彼らは異口同音に「なぜあんな選手がいたことにいままで気がつかなかったんだろう」と言っていたそうです。
彼らに向かってゴードン氏が言った言葉が洒落れてます。「サッカーの神様は素晴らしい才能を天から無造作に撒くんだよ。確かに南米やヨーロッぱには大勢の才能がこぼれ落ちている。だけど、そのほかの広大な地に散らばった才能だってあるはずなんだ。僕らは、どこに落ちたか分からない才能を探し当てることを怠っていた。今、ようやく、その才能のひとつに巡り合えたってわけだ。」
次原社長はゴードン氏から今日の中田選手の印象を一通り聞き終えると、こう切り出しました。
「中田自身はこう言っています。『海外で自分の力を試したい気持ちも覚悟もあるけれど、移籍してもずっとゲームに出られないのでは意味がない。レギュラーとしてピッチに立てることを目標にしたいので、素晴らしい選手たちが揃っているトップクラスのチームより、自分にも出出場機会が与えられるミドルクラスのチームがいいのではないか』と。私もその考えに賛成です。」
それに対してゴードン氏はこう言いました。「私もプロサッカーの選手だった。その経験から中田の考えは正しいと思う。それに加えてもう一つ大事なことは、彼を理解し活かす戦術を授けてくれる監督のもとでプレーすることだ。そういう監督に出会えば、中田は自分がもっとたくさんの練習が必要なことを痛感するだろう。」
そして、こう続けました。「私は一日も早く中田の移籍先を決めなければと考えていましたが、今日の彼を見て考えが変わりました。彼の実力があればワールドカップのグループリーグ3試合が終わるのを待つべきだ。その3試合を見れば、必ず複数のクラブが新たに獲得に動く。異例だが、中田のために名乗りをあげたクラブをすべてテーブルの上に載せ検討していきたい。」
次原社長はこう答えました。「中田にはそう伝えます。6月14日、トゥールーズで行われるアルゼンチン戦のあと再会しましょう。試合の夜、選手にはわずかながら自由時間が与えられますので、ぜひ中田とゆっくり食事をしながら話をしてください。」
衝撃の発表の舞台となったスイス・ニヨン、その後のベースキャンプとなったフランス・エクスレバン、この2つがキャンプ地に決まった裏話
はからずも日本サッカー界を揺るがす歴史の舞台となったスイス・ニヨン、そして、そのあとワールドカップ期間中の日本代表のベースキャンプ地となったフランス・エクセレバン、この2つがキャンプ地に決まった経緯が、当時の日本サッカー協会・小倉純二専務理事の著書「平成日本サッカー秘史」(2019年4月講談社刊)で紹介されています。
「(フランスW杯)本大会出場が決まると、次にやらなければならなかったのは大会前、大会期間中のキャンプ地の選定だった。こういうのは、出場を早く決めたチームから、どんどんいいところを取っていく。出場がアジア第3代表決定戦までもつれ込んだ日本は出遅れた感は否めなかった。」
「キャンプ地がスイスとイタリアの国境に近い、W杯の会場地でいうとリヨンから車で1時間ちょっとの温泉地、エクスレバンに決まったのはフランス(サッカー)協会のおかげだった。」
「(話の)きっかけは、97年(12月)のトヨタカップだった。クラブ世界一を決めるトヨタカップには、欧州、南米の両方から大陸連盟や各国協会の幹部がやってくる。」
「その中の一人にUEFAのコンペテション委員長をやっているフランス人がいて、フランスサッカー連盟のベルベック副会長の伝言を携えて私のところへやってきた。」
「フランスサッカー連盟とは94年のキリンカップにフランス代表を招聘してから、親密なコミュニケーションがとれるようになっていた。」
「ベルベック副会長の伝言は『ワールドカップ初出場、おめでとう』ということと『大会期間中のキャンプ地はどうするつもりだ?』ということだった。」
「ベルベック副会長に連絡を取ると『もし、本大会の組み合わせ抽選会に来るなら、その時に視察して決めたらどうか。フランスサッカー連盟が全面的に協力するよ』という温かい申し出があり、それに乗っかることにした。」
「(97年)12月4日にマルセイユで行われた抽選会に乗り込んだ。(中略)岡田監督も出席した抽選会で日本はH組に入った。抽選会の翌朝、ホテルの前に車が2台迎えに来ていて、スタッフを二手に分けて(大会前のキャンプ地と、大会期間中のキャンプ地の)候補地を見て回った。」
「W杯出場を決めた後は岡田監督も選手も想像以上の狂騒に巻き込まれ、正直なところ、私もキャンプ地のことまで頭が回っていなかった。他の国の役員に抽選会で『明日、キャンプ地を下見に行く』と告げると、『えっ? まだ決めてないのか』と驚かれたくらいだった。」
「W杯初出場だから、とにかく何事にも不慣れで、それだけにフランスサッカー連盟のサポートは本当にありがたかった。」
その結果選定された最初のキャンプ地、スイス・ニヨンは、スイス西部の国際都市ジュネーブと、西部のもう一つの大都市ローザンヌとの中間地点に位置していて、その両都市もそうですがレマン湖の湖畔にある相当古い街のようです。ヨーロッパ全体の地図の中ではほとんどフランスの国境近くということになります。
本来なら古都散策ぐらいの息抜きもさせてあげたいロケーションですが、それどころではない気持ちで10日間近くを過ごしたのかと思うと残念ですし、選手たちの誰かが後年、ご夫婦ででも観光に訪れることはなかったのだろうかと思いを馳せても、おそらく「また訪れてみたい」という気にならない10日間近くだったのではないかと思ってしまいます。
6月5日に移動して6月27日に離れるまで、大会期間中のベースキャンプに選定されたフランス・エクスレバンは、スイス・ニヨンから約100Kmぐらい南方向に移動したところにあります。ここは西側にある湖に面しており温泉保養地として人気がある街のようです。
試合地と行ったり来たりではありますが20日以上滞在しましたから、選手たちも多少は街を楽しんだと思いますが、なにぶん成績が成績でしたから、いい思い出にはならなかった滞在なのかも知れません。
そもそも6月5日にエクスレバンに入った日本代表、カズ・三浦知良選手と北澤豪選手の離脱、井原正巳選手のケガと、気持ちが沈む材料ばかりのままエクスレバンに入りましたから地元小学生の歓迎の歌(「さくらさくら」を日本語で歌ってくれた)も堅い表情のまま聞き、そのまま宿舎に移動したそうです。
外国で地元の人たちから歓迎セレモニーを受けて滞在するという経験も初めてでしたし、気持ちが沈んだまま現地に入ったということで仕方がないのかも知れませんが、それは監督・選手たちの問題というより、むしろ日本代表選手団を率いる日本サッカー協会の目配りのなさを指摘すべきでしょう。
そもそも地元エクスレバンで、どういう受け入れを考えているのか情報をとるぐらいのことは当然ですし「どうやら子供たちの歌による歓迎セレモニーもあるようだ」という情報を掴んでいれば「仏頂面しているなよ、作り笑いでもいいから笑顔を見せて、状況によっては握手とか応じるんだぞ」ぐらいのことを移動のバスの中で言っておくべきでした。
まぁ、結果的に、せっかくの歓迎にも堅い表情のままでした、と記録するしかありません。
この小倉純二専務理事(当時)の著書には、スイス・ニヨンとフランス・エクスレバンが、他の候補地との比較でなぜ選ばれたのかまでは記録されていませんが、フランスサッカー連盟のありがたい協力なくしては設定できなかったと思うと、長く語り継ぎたい出来事だと思います。
フランスサッカー連盟とは、フランスW杯終了後、岡田監督が辞任したことで、後任の日本代表監督選びをする際、また深いつながりを持つことになります。
フランスサッカー連盟と日本サッカー協会のつながりを、この段階で理解しておくと、後任代表監督選びの話がスムーズに頭に入ってくることを記録しておきます。
フランスW杯チケット問題が表面化、サッカービジネスに巣食う悪徳業者の餌食になったか
日本代表の初舞台が目前に迫ってきた6月11日、現地フランスに行ってその晴れ舞台を直接応援すべく意気込んでいた日本人サポーターたちに冷や水を浴びせかける思いがけないニュースが飛び込んできました。
「6月14日のアルゼンチン戦を観戦しようと申し込んでいた日本人サポーター1万4700人分の入場チケットのうち、少なくとも1万人分がまだ確保できていない(朝刊発売段階では1万2000枚と報じられたが夜までに若干改善)」という衝撃的なニュースが、6月11日朝の新聞各紙、日中から夜にかけてのテレビ番組を通じて日本全国に流れました。
日本が初出場を果たすフランスW杯、日本からは、グループリーグの3試合を中心に、累計約4万人のサポーターが国内旅行代理店が企画した観戦ツァーに申し込んでいたようです。6月4日のスポーツニッポン紙によると、最も集客したのがJTBの8000人、近畿日本ツーリストの5900人、日本旅行と日通旅行がそれぞれ4000人と続くそうです。
またFIFA公認旅行業者(世界で17社)に昨年入札参加して、日本で唯一指定業者となったジェイワールドトラベルという会社も2000人集客したそうです。
入場券の定価は、席によって日本円で3400円から8400円となっているが、実勢価格(実際にツァー参加者に売られる価格)は3~4万円で、国内旅行代理店は、それに航空券・宿泊代等を含めたツァー料金を設定して集客しています。
6月4日の段階では、何の問題もなさそうに見えたチケット入手、実は、いざ出発が近づいて各旅行代理店が現地に「いよいよ出発ですから、手配したチケット、よろしくお願いしますよ」と確認をとったところ、次々と「手に入らない」という驚きの話になったようなのです。
この突然の事態を受けて、観戦ツァーを企画した国内大手旅行代理店が次々とツァーをキャンセルせざるを得ないと発表、少なくとも6000人が観戦予定者が観戦できなくなる状況になりました。
すでに出発予定日ということで成田空港には大勢の観戦予定者が集まりましたが、そこで旅行代理店から観戦ツァー中止の通告を受け、空港内は一時騒然となりました。
旅行代理店の中には、ツァー参加者から「最終的にチケットが入手できなくても、それを承知で参加します」という「同意書」を提出した参加者だけをフランスに連れて行くという措置をとったところもあり、同意した参加者は「可能性を信じて行く」とか「ずっと前から計画していたので現地に行くだけでも行く」といった切ないコメントを残しながら、この日は約1700人がフランスに出発しました。
この日夜のテレビ朝日「ニュースステーション」は久米宏キャスターの「このような事態は予測できなかったのでしょうか? 旅行会社の対応をまとめてあります。」と、事の経緯を紹介しました。
・そもそも今回のフランスワールドカップで発売されるチケットの総数は64試合分、合計250万枚。
・国内各旅行代理店が、そのチケットを間違いなく入手できる方法は、二つのルートがあり、一つはFIFA公認旅行業者(17社・チケット総数の5.3%)から購入するルート、もう一つは各国サッカー協会に割り当てられたチケットを、日本の場合は日本サッカー協会から購入するルート、しかし、それだけでは、国内の観戦希望者に十分行き渡るだけのチケット入手は到底難しいという見通しを、各旅行代理店は持ったようです。
・そこで、国内各旅行代理店は、公式スポンサーに割り当てられた分(総数の13.5%)や、各国サッカー協会に割り当てられた分(総数の23.5%)で売れそうにない分(自国と関係ない試合など)、そして開催国フランス国内の法人・個人向けに割り当てられた分(総数の52.3%)で、それぞれが消化しきれないチケットをかき集めて再販する「仲介業者」を頼った模様です。
・しかし、今回のワールドカップを実質的に取り仕切る「フランスワールドカップ組織委員会」は「仲介業者」を認めておらず、そこに流通したチケットは「闇ルート」からのものということになります。しかも「仲介業者」の中にも元請け、下請け的に複数の業者を経由しているケースがありチケットの流れがまったく不透明だというのです。
・そのためアルゼンチン戦だけでも約1万枚のチケットが一体どこで詰まっているのか、まったくわからないのが実態です。
では、こうなった責任はどこにあるのか、大元(おおもと)である「フランスワールドカップ組織委員会」がしっかりと管理しなかったためではないか、そう思って「ニユーステーション」は「フランスワールドカップ組織委員会」の報道担当を電話で直撃しました。
Q.日本の旅行代理店にチケットが届いていませんが?
A.チケットはすべて配布されている。現に昨日の試合は満員だ。
Q.日本の旅行代理店は「受け取っていない」と言っています。
A.我々は公認業者からチケットを受け取ったという「受領書」を日付、サイン入りで受け取っている。
Q.仲介業者は違法ですか?
A.販売を許可されているのは、「フランスワールドカップ組織委員会」「公認旅行業者(17社)」「FIFA(国際サッカー連盟)」の3つだけです。
この電話のやりとりは、結局、公式見解を聞かされただけで、知りたいことは何もつかめませんでした。そのかわりという感じで「ニュースステーション」は、イギリスでチケットの予約を受けていた業者が倒産したため、日本やベルギーの業者にも影響が出ていると次のように報じました。
「ロンドンにあるこの業者は公認業者ではないが、およそ4万枚の予約を受け付け、840万ポンド(注・日本円約18億円、テレビ字幕では240万ポンドと表示)の予約金を集めていた。ところが今月4日に倒産、破産管財人などが事務所を調べたところチケットは1枚も残っていなかった。被害にあったのはベルギーなどヨーロッパ各国のほか、日本の業者も含まれているとのこと」
つまり暗に、詐欺業者にチケット代金がかすめ取られたことを示唆していました。
翌12日のサンケイスポーツ朝刊は「パリのホテルでブラジルサポーターなど約1000人が『予約したチケットが入手できなかった。旅行代理店にだまされた』として建物内で大暴れして警察が出動する騒ぎになった」と報じました。
また、アルゼンチン戦、クロアチア戦、ジャマイカ戦の3試合合計で、まだ2万4000人分のチケットが手に入らず、これはツァー参加者全体(約4万人)の3分の2にあたるとも報じました。
この問題を扱った番組のコメンテーターの中には「前回の1994年アメリカW杯の時は、スタジアムのキャパシィがアメフト用スタジアムということで、どれも大きなスタジアムだったこと、参加国も24ケ国と少なかったことでチケット入手困難ということはなかった。今回、フランス大会はスタジアムのキャパシティは小さいし、参加国は増えたことで、そもそもチケット入手が厳しい環境になったことが背景にあると思う」と紹介する専門家もありました。
結局、ニュースステーションが報じた「認められていない仲介業者」というのは悪質なブローカーであり、しかも二重、三重に入り組んでいることから、試合直前になったら、ダフ屋から1枚10万円ぐらいで出回るのではないかといった指摘も出されました。
特に、日本の観戦ツァー募集の過程で、チケットがプラチナ化してしまい、それを嗅ぎつけたブローカーが、日本からの観戦者には高く売れそうだと思わせてしまった面もあると指摘する専門家もありました。
そして、国内旅行代理店が、W杯チケットの大量確保という初めての経験にも関わらず、チケット入手が確実でない見通しのまま、ツァー参加者を募集した認識の甘さ、無責任さも問われかも知れないと指摘する専門家もありました。
「フランスワールドカップ組織委員会」の事務局長などは会見の席で日本の旅行会社のツァー募集のパンフレットをかざして見せ「チケットが入手できる見通しがないのに募集をかけている」と指摘していました。
チケットが手に入らない問題は、日本だけではなさそうですが、日本の場合、初めて経験する国だけに、そういう悪徳業者に引っ掛からないようにする免疫がまったくなかった点が悲劇的でした。
国際サッカービジネス界にうごめく悪徳業者、国をまたいだチケット販売の闇、これも世界の舞台に初めて立つ国が経験しなければならない通過儀礼の一つなのでしょうか。
6月13日のスポーツニッポン紙は「明日いよいよ決戦、芸能人サポーターも続々出発」と、チケットを持った人、もたない人を含めて出発した芸能人の様子を伝えました。
同紙によると、ミュージシャンの徳永英明さん、電撃ネットワークらがフランスに向かったほか、ナインティナイン・岡村隆史、矢部浩之の二人はテレビ朝日の企画で渡仏、チケットは一人分だけとのこと、また落語協会で作るサッカーチームの監督兼選手の春風亭正明さんも現地抽選頼みのチケットに賭けて出発した、とありました。
さらに、スタジアムに入った日本人サポーターが頼りにする日本代表応援団「ウルトラス・ニッポン」のメンバー約200人もチケットが手に入りないまま現地入りしました。
「ここまで来て、日本代表の応援を諦めてたまるか」という気持ちで14日朝からチケット入手の行動を始めました。旅行会社が彼らに用意した資金は一説によると日本円で3000万円にのぼったそうです。すべてフラン紙幣とドル紙幣に両替された「軍資金?」を用心深く各自バッグに詰めてトゥールーズの街に散っていきました。
このチケット入手のことについてウルトラスリーダーの植田朝日さんと、メンバーの山崎利之さんが、2007年に出版された「日本サッカー狂会」(国書刊行会刊)の中でこう紹介しています。(敬称略)
植田 急に「券がない」と言われて地獄だった。もう正直、「ワールドカップ嫌だよ」という感じ。
山崎 (チケット持ってる人も)カテゴリーもバラバラですから、ある程度近い席って感じで交換(見知らぬ外国人が持っているチケットを見せてもらって、良ければ交換)して行くしかないんですよ。
植田 4枚、6枚とか集めて交換したいと思っても、(条件の)いい席と(こちらの)悪い席を取り換えてもらえるわけはないでしょう? だから、俺たちの席はどんどん悪い席へ移っていくことになる。
山崎 俺なんか、チケット交換してる時に、何度もダフ屋と間違えられてるんですよ。人相のこともあると思うけど(一同笑い)。
植田 誰にも文句言われない席にどんどん人を集めて、そこに核を作ってしまえば、みんなも応援はしたいから。(中略)場所なんかどこでもいい。10人ぐらいの核さえできちゃえば、1万人でも乗せることができるから。
試合が始まってからの応援の様子については、後の項に譲ることにして、ウルトラスのメンバーはこうして、まさに地獄のようなチケット入手の苦労の末、初戦を迎えることになったのです。
この1ケ月間「カズ落選問題」「チケット未着問題」と、社会的インパクトの大きい出来事を生みながら、とうとう地球上最大のスポーツの祭典「フランスワールドカップ」が始まり、世界の舞台に日本が初めて立つ日がやってきました。
フランスワールドカップ開幕、文化と芸術の国フランスらしい大仕掛けの前夜祭と開幕祭と銘打った開会式
6月10日、FIFAフランスワールドカップ1998が開幕しました。前日6月9日夜にはパリを舞台に大仕掛けの前夜祭が行われました。
この開幕祭を中継放送したTBSのオープニングには「発案ミシェル・プラティニ、構想5年、製作費11億円、十数万人が参加」という字幕が流れ「パリの街と世界の文化の融合」をテーマにしたイベントが始まりました。
最大の見ものは高さ20m、重さ38トンの4体の巨人な樹脂製のロボットのような人形、それぞれの名はラテン・アメリカを象徴する「パブロ」、ヨーロッパを象徴する「ロメオ」、アジアを象徴する「ホー」、アフリカを象徴する「ムーア」、四大陸を象徴するその巨人たちが、18時半頃、凱旋門、オペラ座、シテ島、士官学校の4か所で眠りから覚め、コンコルド広場を目指し、コンコルド広場に飾ってあるワールドカップトロフィーモニュメントを目指すという嗜好でした。
その巨人とともに、さまざまな形をした植物や動物などをかたどったコスチュームをまとって歩いたり、それぞれのロボット人形の高さ3mぐらいのミニチュア版がパフォーマンスを見せたり総勢4,500人もの参加者と、それを街中に響き渡るサウンドが盛り上げるという、パレードともカーニバルとも思える大イベントでした。
巨人たちの両足の部分には2台のセダン自動車が組み込まれ、それぞれの運転手が交互にゆっくり走らせながら進んで、5時間近くをかけてコンコルド広場に到着した4体のロボット人形は、高さ30mはあろうかというワールドカップトロフィーモニュメントを囲むように止まりました。
そして、サッカーボールを持った大人たち、子供たちがワールドカップトロフィーモニュメントの周りに作られたサッカーフィールドのようなステージに集まると、巨人たちが両手を広げました。するとワールドカップトロフィーモニュメント一番上のサッカーボールが照明に輝き始めました。「サッカー賛歌」ともいうべきパフォーマンスでした。
次に、ワールドカップトロフィーモニュメントのすぐ周りから、それぞれ、木と水と空気と大地を象徴するイブ・サンローランデザインのコスチュームをまとった4人の女神役が登場、約10mの高さまでせり上げられてパフォーマンスを披露しました。
続いてステージでは、ミニチュア版ロボット人形がパフォーマンスを披露、さらに4体の巨人が横一列に並んで、それぞれが胸に付けたゼッケンで「1998」の数字を作りました。
この頃から雨と風が強まり、巨人たちの胸につけたゼッケンも風に負けてはためくぐらいでしたが、コンコルド広場には6万人ほどの市民が詰めかけてイベントを見守ったそうです。
イベントはこれで終わらず、惑星をイメージした8個の大きなバルーンが登場、また、巨人とともに植物や動物などをかたどったコスチュームをまとって街を練り歩いてきた、すべてのチームが集結、最後は宇宙人のようなコスチュームをまとった人たちも大勢入場、地球から宇宙へというメッセージなのか、ワールドカップトロフィーモニュメントから1機の円盤型宇宙船が飛び立つという演出もありました。
シャンゼリゼ通りには、街灯毎に長さ4m以上もの出場国の国旗が掲げられ、開幕を待ちわびた多くの市民、各国サポーターたちが繰り出し、まさにお祭り騒ぎの賑やかさとなりました。
文化と芸術の国フランスの威信をかけた前夜祭、パリの街を舞台に繰り広げられた延々6時間におよぶイベントは、スケールの大きなアートとテクノロジーが融合したようなショーでした。
次に6月10日、大会初日、パリ郊外サンドニ・フランス競技場では開幕戦に先立ち、開会式セレモニーが行われました。
テーマは「子供の夢」、ピッチ全体が緑のシートで覆われて、緑の草原をイメージした庭に5つのカラフルな大きな花が開き、花弁の中心部に大きな丸いものが乗っています。
次にシートが取り除かれ、大きな花のモニュメントが残ると、大きな丸いものの皮がむけるように、中から大きなサッカーボールが姿を現しました。
次に屋根から宙づりにされた32人の人たちが出場国の国旗カラーデザインの衣裳をつけて降りてきました。そして、まるで空中ショーのようなパフォーマンスを見せます。フィールドでは芝を痛めないよう大きな平たい靴をはいた、着ぐるみの大勢の人たちがサンバのリズムを奏でるドラムを叩きながら踊り、空中ショーの32人は、グループリーグの組分け毎に隣り合わせになっていて、それぞれの国旗を翻して見せました。
その中に初めて日本の国旗がH組の国々と並んで翻ったことになります。
セレモニーを実況したNHKの野瀬正夫アナウンサーは「これまでワールドカップの本大会に出場したことがあるのは65の国と地域だけ、FIFA・国際サッカー連盟に加盟している国と地域は198ありますが、まだ、その3分の1ですよ」と解説の早野宏史さんに振ると「日本もここに参加できて、ボクも本当にうれしい気持ちがしてきましたね」と、あらためて初出場の喜びを実感したようでした。
最後に、5つの大きな花の中心の大きな丸いものから、無数の風船が空に向かって出ていきました。子供たちの夢が世界に届けというメッセージのようでした。
出場国を紹介したり、演出の内容を説明するような場内放送は一切せず、5つの大きな花、空中に浮かぶ5つの大きなサッカーボール、32人の空中パフォーマーが翻した出場国の国旗、ピッチで繰り広げられる大勢の着ぐるみの人たちのサンバの踊り、それら全体を映し出して15分ほどの開会式セレモニーは終わりました。
このあと開幕戦の両チームが入場、FIFAアベランジェ会長のメッセージ、フランス国歌の吹奏が行われ、13歳のフランス人少女による「フットボール憲章」の朗読、両国国歌の吹奏が行われ、いよいよ大会が始まりました。
前夜に6時間にわたるパリ市内を舞台にしたイベントを行なったあと、開幕戦直前のセレモニーでは、フランスのシラク大統領、フランスワールドカップ組織委員会のプラティニ委員長とも特に演説することなくシンプルにまとめました。これも開催国フランスの流儀なのでしょう。
当サイトでは、1986年メキシコW杯から、1990年イタリアW杯、1994年アメリカW杯と大会の模様を記録に残してきましたが、大会前夜祭や開会式セレモニーの内容までつぶさに記述したのは今回が初めてでした。日本が出場するということの重み、大会に対する関心の深さをそのまま反映した記録です。
前夜祭でごった返すパリの、とあるホテルの一室、ゴードン氏から次原社長に示された新たなリスト、そこにはユーゴ戦後の打ち合わせにはなかったクラブの名が
6月9日の前夜祭の夜、パリ市内のとあるホテルにイングランドのエージェント会社のケビン・ゴードン氏と中田英寿選手の移籍を任されている所属事務所・次原社長とそのスタッフが合流しました。
6月14日の日本代表の初戦、トゥールーズでのアルゼンチン戦を見に来る欧州各国リーグのクラブが、ゴードン氏の尽力でリストアップされ、そのリストが示される打ち合わせだったのです。
ここでも、作家・小松成美氏の著書「中田英寿 鼓動」(1998年12月 幻冬舎刊)から、その様子をご紹介します。
次原社長が目にしたリストには次のクラブが並んでいました。
・イタリア・セリエA ユベントス、サンプドリア、ペルージャ
・イングランド・プレミアリーグ アーセナル、トットナム、ニューキャッスル、アストンビラ、ニューキャッスル、サンダーランド
・フランスリーグ パリ・サンジェルマン、マルセイユ
・スコットランド・プレミアリーグ セルティック
次原社長は、中田選手の移籍がもう後戻りできないところまで来ていることを実感する一方、中田選手の移籍が、スポンサー付きとかジャパンマネー目当ての移籍などと疑われるようなことだけは絶対にしない、あくまで実力で掴んだ移籍と言われるものにしなければならないと、あらためてゴードン氏に伝えました。
ゴードン氏は「あなたの言うとおりだけれど、まったく心配ありません。中田選手はヨーロッパの各クラブが『金を出しても欲しい選手』になっています。」と答えるとともに、こう付け加えました。「中田選手のように大きなビジネスになる選手の周りには、金儲けのことしか考えない人間も群がりますから、そこは慎重に進めなければなりません。」
ゴードン氏はJリーグの移籍金に関する規定が、若い選手の足かせになっていることををすでに調べていて、
「中田選手は、移籍が難しいといわれるJリーグにあって、その条件を正式にクリアできる唯一の選手といっていいでしょう。ですから選手も、この機会を逃してはいけないんです。」
2人はトゥールーズでの再会を約束してミーティングを終えました。
開幕戦ブラジルvsスコットランド戦は、ブラジル、相手オウンゴールが決勝点
開幕戦は、前回優勝国がその栄誉を担うことになっています。今回はブラジル、ここまで16大会連続出場、世界で唯一の全大会出場を続ける絶対王国です。
対するはスコットランド、英国の一地域でありながらサッカーの母国の特権で英国4協会の一つとして欧州予選に出場、見事勝ち抜いて1990年イタリア大会以来、本大会にやってきました。
力の差はあるものの、第1戦の難しさは、歴代最多優勝回数を誇るブラジルといえども難しく、この日も「らしくない」プレーが続出しました。
それでも開始4分、キャプテン・ドゥンガ選手が放ったシュートで得たCKを、サンパイオ選手がヘディングで合わせ、ブラジルが先制しました。
日本のスポーツ紙各紙は「Jリーグで活躍している選手たちであげた先制点」と報じました。
ただ前半38分にはサンパイオ選手が相手選手を倒してしまいPKを与え、同点に追いつかれました。それでも後半28分、ドゥンガ選手から右サイドのカフー選手にロングバス、これをシュートまで持ち込んだボール、GKがはじいたもの味方DFに当たってしまいオウンゴールとなって、ブラジル勝ち越し。これが決勝点となり何とか白星スタートを切りました。
この大会、もっとも注目される選手の一人、ブラジルのFWロナウドは得点こそなかったものの、前半19分、相手ペナルティエリアの右外でボールをキープするとドリブルしながら反転、相手DF2人をかいくぐってシュートまで持ち込みました。ボールは惜しくもGKに弾かれましたが、今大会いけると本人も感じたであろう一撃でした。
夢の舞台フランスワールドカッブ、いよいよ日本代表が世界最高峰の舞台に登場
フランスワールドカッブが開幕すると、日本が参加する大会、しかも4年後には日本が開催国になる大会とあって、テレビも新聞も連日ワールドカップにニュース一色となりました。
あとは、この熱気がいつまで続くかという思いの中で、いよいよ、その日がやってきました。
あらためて、最終登録された22人の選手とスタッフたちを記録しておきます。
背番号、氏名、(年齢)、現所属の順(敬称略)
【GK】
1 小島伸幸(32)平塚、 20 川口能活(22)横浜M、 21 楢崎正剛(22)横浜F
【DF】
4 井原正巳(30)横浜M、 3 相馬直樹(26)鹿島、 5 小村徳男(28)横浜M
2 名良橋晃(26)鹿島、 17 秋田 豊(27)鹿島、 18 斉藤俊秀(25)清水
19 中西永輔(24)市原、 13 服部年宏(24)磐田
【MF】
6 山口素弘(29)横浜F、 10 名波 浩(25)磐田、 15 森島寛晃(26)C大阪
8 中田英寿(21)平塚、 22 平野 孝(23)名古屋、 7 伊東輝悦(23)清水
11 小野伸二(19)浦和
【FW】
9 中山雅史(30)磐田、 12 呂比須ワグナー(29)平塚、 14 岡野雅行(25)浦和、
18 城 彰二(22)横浜M
【監督】岡田武史、【コーチ】小野剛、 【フィジカルコーチ】ルイス・フラビオ、
【GKコーチ】ジョゼ・マリオ、
【団長】大仁邦彌、【総務】湯川和之、【主務】山下恵太、【プレスオフィサー】加藤秀樹、 【ドクター】福林徹、【トレーナー】徳広豊、田中博明、並木麿去光、【エキップ】麻生英雄、寺本一博(アシックス)、【栄養士】浦上千晶、【シェフ】野呂幸一、【コック】鈴木義之
※現地には日本サッカー協会・長沼健会長、強化委員会・今西和男副委員長など数人の幹部が滞在したが詳細不明
※ほかにエクスレバンに日本サッカー協会臨時事務局を開設、岡田武夫国際部長、小野沢洋広報部長ほか2名が滞在。
※また日本代表テクニカルスタッフ(主として対戦国スカウティングを担当)として、影山雅永氏、四方田修平氏も滞在
6月14日、フランス・トゥールーズ、日本代表第1戦、アルゼンチン戦
観客33,500人、天候・晴、気温20℃、キックオフ14時30分(現地)
フランスに入る直前での「カズ帰国」、キャプテン・井原正巳選手のケガと、やや動揺する要因を抱えながらエクスレバンで事前調整を行なっていた日本代表、はじめの頃、現地では花粉が飛んでいて、それに悩まされる選手、スタッフもいた中、井原選手のケガもよくなり、選手たちのコンディションは十分整った状態で、この日を迎えました。
岡田監督も最後の調整試合ユーゴ戦での戦いで、やれるという手応えを得て、6月8日にはアーセナル・ベンゲル監督の陣中見舞いを受け、ベンゲル監督から「あまり無理しないで」と声をかけてもらったことで気持ち的にもポジティブになって初戦を迎えることができました。
あとは岡田監督が描いた戦術で守り切れて、日本が点を奪えるのかというシンプルな試合予想となりました。
対するアルゼンチン、パサレラ監督のもと、派手さはないものの前線から最後尾まで実力派の選手を揃えた優勝候補の一角です。
岡田監督が送り込んだ先発は次の11人(敬称略・数字は背番号、(C)はキャプテン)
・GK 20川口能活
・DF 4井原正巳(C)、17秋田豊、19中西永輔、3相馬直樹、2名良橋晃
・MF 10名波浩、8中田英寿、6山口素弘
・FW 9中山雅史、18城彰二
対するアルゼンチンの先発は、
・GK ロア
・DF アジャラ、センシーニ、ビバス
・MF サネッティ、アルメイダ、シメオネ(C)、ベロン、オルテガ
・FW Cロペス、バティストゥータ
日本のスタメンの中で目を引いたのが3バックの一角、中西永輔選手です。これまで使われてきたDF陣といえば、小村徳男選手、斉藤俊秀選手でしたから、これは思い切った起用ですが、岡田監督は3バックの布陣ということで、5月のキリンカップ以降、単にこれまでのDF陣の延長で考えるのではなくニュートラルに考えて選手を見てきています。
そういう意味では中西永輔選手が一番岡田監督のイメージに合う動きをしてくれたということになります。
中西選手は、5月のキリンカップの2戦目、チェコ戦で初めて3バックの一角としてスタメンに起用されました。それは1戦目のパラグアイ戦で秋田豊選手が鼻骨を骨折したために巡ってきたチャンスでした。まさに岡田監督が最も心を砕いてきた「ディフェンシブな戦術を25人すべてに身体で覚えてもらい、スクランブルの際に破綻をきたさないようなチームにするんだ」という意図が試される起用でした。
中西選手は、ただひたすら岡田監督の意図どおりに動くことだけを考えて走り回りました。
その結果、国内での強化試合をすべて終え、スイス・ニヨンに移動してから最初の試合、日本時間6月1日未明、スイス・ローザンヌで行われたメキシコ代表との試合にも3バックの一角としてスタメン出場を果たしました。
報道陣をシャットアウトして行われたこの試合で、岡田監督は中央に井原正巳選手、左に秋田豊選手、左に中西永輔選手を並べる3バックシステムで十分やっていけるのではないかと考え、そのあとはすべてこの布陣で試合・練習を重ねアルゼンチン戦を迎えたのです。その意味では、岡田監督にとって中西永輔選手を使えることに気づいたというか、探し当てたことがアルゼンチン戦をポジティブな気持ちで迎えることができた大きな要素になっていると思います。
トゥールーズ競技場を埋めた日本人サポーターが掲げる日の丸の小旗が鮮やかだったアルゼンチン戦
歴史的な第1戦の舞台はフランス南部の都市トゥールーズ、あと100kmも南に行けばスペインとの国境、内陸部の人口約50万人の都市です。周辺地域を含めた都市圏人口規模では、パリ、リヨン、マルセイユに次ぎ、フランス第4の都市圏となっています。いかにも南仏らしい赤レンガの建物に彩られていて「バラ色の街」と呼ばれているそうです。
街を貫く川に大きな中洲がありスタジアムはそこに建っています。収容人員は37,000人ほどといいますから、日本がワールドカップ招致の際にFIFAから厳命された40,000人以上の収容スタジアムとは違っています。
ちなみにフランス大会で使用された10会場のうち5会場は40,000人未満のスタジアム、最小はモンペリエの34,000人でした。日本がW杯招致活動をした時のFIFAからのスタジアム基準、40,000人以上の施設という厳命は一体何だったんでしょう。
さてトゥールーズ競技場、スタジアムの周辺にはチケットが手に入らない大勢の日本人サポーターがチケットを求めてさまよっているのではないかと思われましたが、実は川の中州にあるスタジアムには川にかかる橋のところのゲートでチケットの有無をチェックされるため、スタジアムの周辺は閑散とした様子だったのです。サポーターたちは街の中でチケット探しをしたりしていたようです。
スタジアムの中はというと、小ぶりなスタジアムですから空席などは見られずほぼ満席の雰囲気です。6割ぐらいが日本人サポーターで、両手で日の丸の小旗をかざしている眺めは壮観です。チケット問題の関係もあり、どこが日本人サポーターのエリア、どこがアルゼンチンサポーターのエリアということなしに、入り乱れている感じのスタンドでした。
両国の国歌吹奏がありましたが「君が代」の吹奏に合わせて場内の日本人サポーターが、やっと「君が代」を唄えるとばかりにスタジアム全体に歌声が鳴り響きました。これまでワールドカップを見に行ったサポーターたちは、自分の国が参加していない、したがって「君が代」を高らかに歌える機会がないことを淋しく思いながら観戦していたのですが、今回遂に歌える機会を得たということで、ひときわ大きな声を張り上げたに違いありません。それを思うと、これぞ「ワールドカップ」を実感させる目頭が熱くなるシーンでした。
ロイヤルボックスには高円宮殿下ご夫妻も観戦していらっしゃいます。殿下ご夫妻はこのあとクロアチア戦、ジャマイカ戦ともに観戦のご予定だそうです。
国歌吹奏が終わるとすぐ「ニッポン、ニッポン、ニッポン」の応援コールが響き渡りました。ウルトラスの植田リーダーの狙い通り、タイミングよく応援コールを始めればスタジアム全体に散らばる日本人サポーターが呼応してくれているのでした。
応援席とピッチが極めて近く、テレビ画面で見ると、タッチラインのすぐ向こうにスポンサー看板が並び、そのすぐ後ろにサポーターが並んでいるように見えるぐらいの距離感でした。
最前列近くに席を確保できたサポーターにとっては、世界最高の舞台をこんな間近で見れるということで至福の喜びだったに違いありません。
対戦相手アルゼンチンは、前回1994年アメリカ大会、あのマラドーナのドーピング検査による薬物反応により大会から追放されたため、優勝候補の一角からいきなりガタガタとなり、決勝トーナメント1回戦でルーマニアに屈した苦い経験を持っています。
今大会は、1978年自国開催のワールドカップ優勝時のキャプテンを務めていたパサレラが監督として規律を重んじるチーム作りをしてきた、手堅いサッカーが持ち味のチームです。
試合は、アルゼンチンの様子見といった感じで始まりました。日本のサポーターはほとんど途切れることなく声を出し続け選手たちを後押しします。
サポーターの応援に後押しされたわけでもないでしょうが、日本が開始2分の山口素弘選手の遠目からの初シュート、9分には名波浩選手の右CKから大きく逆サイドに放ったボールを城彰二選手がキープして、またゴール前を横切るサイトチェンジのような折り返し、それに名波選手が反応しましたがゴールラインを割ってしまいました。13分には名波選手が送ったボールを相馬直樹選手がヘディングシュートを放ちますがオフサイドなど、幾つか、いけそうな攻めを見せていました。
やられた感のない失点、前半28分、それでも失点は失点、そのまま重く日本にのしかかる
こうして、前半20分過ぎまではアルゼンチンの繋ぐサッカーを寸断して互角の攻防を進めていた日本、ゴール前までボールを運ぶものの、なかなか決定的な場面というほどのチャンスは訪れませんでした。その後、アルゼンチンは中盤からドリブルを仕掛ける場面が増えてきました。
次第に日本が押し込まれてゴール前で守る時間が長くなってきた前半28分、試合が動きました。
日本のペナルティエリアの15mほどのところからベーロンが出したパスにCロペスが反応、右足のヒールで日本DF陣の裏に浮き球を送りました。これに秋田選手が素早く反応して小さくクリア、これを相馬選手がさらにクリアしましたが、大きなクリアとはならずに相手中盤のアルメイダに渡りました。
アルゼンチンは二次攻撃とばかりに、それをオルテガに送ると横にドリブルしてシメオネにパス、シメオネは腰を落として狙うようにして壁パスとばかりにオルテガに斜めのパスを繰り出しました。
それがオルテガに渡るかと思われましたが、その足先をかすめました。ちょうどその時、バティストゥータを前からブロックするようにマークしていた井原選手が、オルテガに渡るかというボールをカットできるかも知れないと足を伸ばしたのですが、ボールはオルテガと井原選手の間をすり抜けたのです。そして、井原選手はバティストゥータのマークを外す形になってしまいました。
すり抜けたボールは、ディフェンスに戻っていた名波選手に届いたのですが、ボールが二人の間をすり抜けてきたことから、名波選手がコントロールする間もなく右足にあたってしまったのです。当たったボールは浮いて、ちょうどバティストゥータが胸トラップして落とせる場所に飛んでしまいました。
胸に当たって落ちたボールをシュートしようとするバティストゥータの動きを察知した川口能活選手は、前にダッシュしながら右側に身体を倒してブロックを試みました。しかしバティストゥータはその動きを読み、右足でチョップキック、ボールは横に倒れた川口選手の身体の上を越えてゴールに吸い込まれてしまいました。テレビの時計計時がちょうど27’59を過ぎたところで、公式記録は28分となりました。
スタンドの日本サポーターたちも、日本時間の14日22時少し前、日本中でテレビ観戦していたファンも、一瞬何が起きたかわからないゴールシーンでした。プレゼントゴールのような形でゴールをゲットしたバティストゥータも一瞬のことに驚いたような表情でしたが、すぐチームメイトと喜びを分かち合いました。
試合を実況していたNHKの山本浩アナウンサーは「何かリズムを壊されて、息を吸っている間に点をとられてしまいました、ニッポン」と表現しました。
前半37分には左サイドからシメオネが入れたクロスにバティストゥータが高い打点のヘディング、ボールは右ポストに当たってゴール前に戻り、それをCロペス選手が押し込もうとしましたが川口能活がストップ、追加点は阻止しました。
そのまま0-1で前半を終了しました。
日本の中盤からDFにかけては、よく相手の攻撃を跳ね返しマイボールにするシーンが多いのですが、中盤から前線に入れるボールのうち、特にサイドからのクロスがほとんど通りませんでした。普段の試合なら一度作り直したり、崩しのパスを入れたりするところですが、相手MF、DF陣の危機察知能力、ボール奪取能力の高さを体感しているのでしょう。
とにかくシンプルにボールを入れようとする意識が強いためか精度が低くなり、長すぎてゴールラインを割ったり相手DFの網にかかるばかりでした。これがワールドカップという場なのでしょう。どうしても、いつもの精度が出せない攻撃ばかりになっていました。
ハーフタイムを終わって出てきた岡田監督にNHKのアナウンサーが一言インタビューをすると、岡田監督からは「絶対切れることなく集中して、必ずチャンスは来ると思うんで切れることなく集中していけ、ということを言いました。」という答えが返ってきました。
ハーフタイムのスタジアムをテレビカメラが映し出すと日本人サポーターの多い席が映り、磐田の山本昌邦コーチ、ナインティナインの矢部浩之さんが映り込こんでいました。こぶりなスタジアムらしく肩寄合う感じの座り方でした。
後半10分、最後尾近くから山口素弘選手が長いクサビのパスを入れると城選手がポストに入り中田選手に渡します。それを中田選手がペナルティエリアのすぐそばまで持ち込みますが、相手選手が後ろから一人、前から一人寄せてきたため身体が伸び切った状態でのシュートになりました。ボールはポスト左にそれましたが、やっと形らしい形になった攻撃でした。
後半16分、アルゼンチン、Cロペスに代えてバルボ投入。後半20分、日本、中山選手ら代えて呂比須ワグナー選手投入。
後半20分から23分にかけては日本、自陣前にくぎ付けにされ相手FKを立て続けに浴びました。最後はGK川口能活選手が相手の波状攻撃を身を挺して食い止め、一旦、くぎ付け状態を切りました。
後半27分、アルゼンチン、DFセンシーニが指を痛めてチャモに交代。
後半31分、日本、センターサークル付近で得たFKを中田選手がすばやく右サイドを駆け上がっていた名良橋選手にロングパス、これが見事に通ったものの、名良橋選手はこれを止めずに右アウトサイドにかけるようにダイレクトシュート、しかし枠方向には飛ばず。やはり「止めていたら寄せられてしまう、はやく打たなくちゃ」という気持ちが、正確性の保証がまったくないダイレクトシュートに向かわせてしまったようです。
後半32分、アルゼンチン、シメオネの長いドリブルから右に流したボールが中央のバティストゥータに渡りフリーでシュートを許しましたがオフサイド。
後半33分、今度は日本、中盤でボールを受けた呂比須選手がドリブルで突進したところを倒されFK、これを呂比須選手が蹴り急いでしまいバーの上へ。これもピッチに入ってまだいくらも時間がたっていない呂比須選手の気持ちの余裕のなさでしょう。絶好の位置からのFKですから、じっくり自分の間合いをとって一発で仕留めてやるぐらいのゆとりがあればと思うのですが、傍で見ているほど生易しいものではないということなのでしょう。
後半36分、日本は右CKから名波選手が入れたボールが相手DFに弾かれたものの、これを相馬選手が拾い左サイドの山口素弘選手にパス、山口選手はゴールまで30mのところから正確なパスをゴール前に入れると秋田選手の頭にピタリと合いヘッドで叩きつけるように折り返します。
さきほど山口選手にボールを出した相馬選手がそのままゴール前に走り込み、秋田選手の折り返しに合わせようとスライディングを試みますが、わずかに合わず。
後半39分、日本、相馬選手に代えて平野孝を投入。
後半43分、日本、左サイドで平野選手がうまく処理してCKを獲得、これを蹴った中田選手のボールは相手DFに弾かれますが、日本が奪い返し右サイドの中西選手へ、中西選手は相手DF二人に寄せられますが間を割って入りペナルティエリアに侵入、ペナルティマーク付近にいた呂比須選手にグラウンダーのパスを送ります。千載一遇のチャンスでしたが呂比須選手が寄せてきた相手DFに当たり外れました。
ロスタイムは3分の表示でしたが試合は45分+4分30秒を回ったところで終了ホイッスルが鳴りました。
中盤から最後尾の守りに関しては、やられた感のない試合でしたが、如何せん、日本の両サイドからのクロスがほとんど味方選手に合うことがないほど、普段どおりにやれないワールドカップのプレッシャーをまざまざと見せつけられた攻撃でした。
アルゼンチンの前線と中盤は、バティストゥータ、Cロペス、オルテガ、ベーロン、シメオネそしてサネッティの6人が入れ替わり立ち代わり、自在にボールを回しながら中央攻撃を何度も仕掛けてきます。
その結果、日本はファウルで止めることになり、そこで相手にFKの機会を与えてしまうという戦いになってしまいます。この試合で日本が犯したファウルは35回、この数字は第1戦を戦った32チーム中最多という記録を残しました。
必然的に日本は、自分の陣内での守りに時間が割かれるため、最前線の城選手と中山選手にボールを供給する中盤との距離が長くなってしまい、相手陣内でマイボールになったあとの攻めに時間がかかってしまう戦いになってしまいました。
そして、攻めに転じても相手の寄せの速さ、ボール奪取能力の高さを見せつけられ、攻撃に関しては、守る相手の役者が一枚も二枚も上のチームと試合をした体感が選手たちの中には残ったのではないかと思います。
その一方、GK川口能活選手を含めたDF陣は、それぞれ冷静に対応できたという手応えを持ったようで、収穫ではありました。
岡田監督は、交代枠を一人余して試合を終えましたから、采配に対する批判もありましたがバランスを崩してまで攻めに出た時に負うリスクの大きさを考えれば、このバランスを保ったまま同点を目指すという采配を責められないところもあります。
兎にも角にも、アルゼンチンの速く正確なボール回しを見せつけられてしまうと、我が陣営の攻撃の手薄感が際立ってしまう、そんな初戦だったと思います。
チケット問題、悲喜こもごも、それでも現地自治体の好意で大型スクリーン前で観戦
さて、チケットは無くても現地まで行ったサポーターと、チケットをより多く確保しようとした旅行会社等との衝突は、現地でも繰り広げられました。
旅行代理店の中には、手に入ったチケットを限られたツァー客に渡すため抽選会を実施するところもあれば、ダフ屋が横行しチケットの価格は高騰、1枚36万円で販売するダフ屋まで出現。背に腹は代えられないとダフ屋から20万円ほどで入手するところもあり、また、どうしても手に入らない代理店は、ツァー客から吊し上げのような批判を浴び、ただただお詫びするだけというところもありました。
6月15日のスポーツ報知朝刊によると、神奈川県のある家族は、高校、中学、小学生の4人の子供さんと両親合わせて6人、合計240万円を投じた大サッカー観戦ツァーが、チケット抽選のため2人しかスタジアムに入れない家族離れ離れの観戦ツァーになってしまったと報じていました。
このチケット問題を受けて、アルゼンチン戦を開催するトゥールーズ市は「日本人サポーターに、せめてスクリーンで試合を見て欲しい」と、市内のスポーツセンターと公園に試合を実況中継する巨大スクリーンを設置した。また座席も8,000席用意し、軽食や飲み物を無料配布したそうです。
スタジアムでは約37,000席のうち33,400席が埋まったといいます。6~7割が日本人サポーターだったそうですから単純計算で約22,000~23,300人、スタジアムに入れずトゥールーズ市が用意してくれたスポーツセンター内の巨大スクリーンの前で応援した約5000人、公園のスクリーンで観戦した人も合わせると約7,000人ほど、スタジアム、大型スクリーンともサポーターの数ではほぼ3倍とアルゼンチンを圧倒しましたが、試合結果はそうはいきませんでした。
チケット問題が表面化した日本時間6月11日には、どれぐらいの人たちが観戦できなくなるのだろうと見通しが立ちませんでしたが、結局、トゥールーズ競技場の収容能力に見合う観客が入り、そのうち日本人が6~7割だったといいますから、これ以上は無理なところに、さらに7000人ほどが入場できなかったほか、ツァー自体のキャンセルのために現地に向かわなかった人たち6000人ほどいるわけですから、そもそも存在しないチケットをあるかのように見せかけて旅行代理店からの予約申し込みを受けて予約金だけをだまし取った「空売り」や「二重契約」があったことは間違いなく、FIFAも事態を重く見て原因究明に乗り出さざるを得なくなりました。
国内各地もあちこちで大型画面前に大勢が集結、いわゆる「パブリックビューイング」文化の先駆け
一方、都内をはじめ全国のスポーツバーや大型スクリーンを備えている施設は、日本時間の放送時間帯が20~24時と仕事帰りの観戦にちょうどいい時間帯だったこともあり、どこも超満員の盛況ぶり、みな青いレプリカユニフォームをまとって日本代表の戦いぶりに一喜一憂しました。
新宿歌舞伎町にある映画館前の大型スクリーン前には約5000人が集結、六本木のディスコ「ヴェルファーレ」には約1800人が集結、40インチのモニター36台を組み合わせて巨大画面にして投影、人気タレントも大勢駆け付けて大盛り上がりの観戦となりました。
長野では、さる2月の冬季五輪で表彰式会場に使用されたセントラルスクウェアに170インチの大型スクリーンが設置され、時折雨交じりのあいにくの空模様にも関わらず約2000人が集結、まるでトゥールーズスタジアムで応援しているかのような熱い観戦となりました。
中山雅史選手、名波浩選手の出身地、静岡県藤枝市ではJR藤枝駅前広場にアストロビジョンを設置、続々と詰めかけたサポーターは最終的に約3000人、こちらも雨模様の中、ずぶ濡れのまま熱い応援が繰り広げられました。
2002年W杯の試合開催地に選ばれた大分市では、市内中心部のアーケード街に2台の大型ビジョンを設置、約3000人が集結、平松守彦県知事も加わり応援を繰り広げました。
プロ野球ダイエーホークスのホーム球場「福岡ドーム」では、プロ野球の試合終了後、アルゼンチン戦のパプリックビューイングに切り替えられ、約2万人のサポーターが縦10m、横35.2mの「ホークスビジョン」と呼ばれる大画面を見ながら応援を繰り広げました。
お気づきのとおり、まだ、この頃は国立競技場や他のJリーグスタジアムでのパブリックビューイングというアイディアがなく、福岡ドームの取り組みは、サッカー日本代表のパブリックビューイングの先駆けとなったのではないかと思われますので記録に留めておきます。
翌朝15日のスポーツ紙・全国紙報道は、概ね日本代表の健闘を称えるニュアンスでした。
・スポーツ報知「日本0-1 強豪アルゼンチン苦しめた!! 胸張れ世界デビュー」
・日刊スポーツ「日本1点涙 世界最強3トップ バティの1発だけ 候補アルゼンチンといい勝負」
・スポーツニッポン「日本惜しいっ0-1 歴史的初戦アルゼンチンに真っ向勝負、攻めた!」
・サンケイスポーツ「日本悔しいッ アルゼンチンに惜敗0-1」
・東京中日スポーツ「日本負けたアルゼンチン戦 よくやった!!0-1惜敗」
・毎日新聞夕刊「日本惜敗 W杯堂々の初陣 アルゼンチンに0-1」
新聞・テレビ等が報じたアルゼンチン戦は「これなら次はいける」「目標の1勝1敗1分けは十分可能」といった総括で、次戦クロアチア戦に対する日本中の期待は高まりを見せました。
しかし、同じメディアでも現地でシビアに試合を見ていた専門家は、こうした新聞・テレビの論調は「冗談ではない」と辛辣でした。
98.7月2日号Number447号に「緊急速報・日本vsアルゼンチン」をレポートした金子達仁氏は次のように語っています。
「おそらく日本では、2度の世界チャンピオンに輝いた国を相手に1点差の試合を演じたということで『日本善戦』だの『次につながる敗北』といったフレーズが氾濫していることと思う。もしかすると『決勝トーナメント進出が見えた』とやっているところまであるかも知れない。」「冗談ではない。」
「(中略)アルゼンチンは勝ち点3という最低限の収穫を手にしした。日本には何も残らなかった。(中略)」「私は、悔しい。」
「日本は自らチャンスを放棄してしまった。真の意味で善戦を演じるチャンスを捨てて、0-1という見せかけの善戦に逃げ込んでしまった。」
テレビ視聴率、サッカー中継史上最高60.5%を記録、ドーハの悲劇を大幅更新
日本サッカーの歴史的1戦、日本vsアルゼンチン戦をテレビ中継したNHK総合の視聴率が60.5%(関東地区)を記録、サッカー中継で過去最高として記録されている1993年のW杯アジア最終予選日本vsイラク戦、いわゆる「ドーハの悲劇」となった試合中継の48.1%を大幅に更新、史上最高を記録しました。
日本vsアルゼンチン戦の60.5%は、21時22分から23時30分までの平均視聴率で、23時23分の試合終了ホイッスルの時の瞬間最大視聴率は66.0%に達しました。試合はNHK衛星でも同時放送されていましたから、60.5%に衛星放送の6.8%を合わせると67.3%に達し、サッカーのみならず日本国内で中継された過去のスポーツ中継の中で最高記録となっている1964年東京五輪の女子バレー決勝日本vsソ連戦の66.8%を抜く「スポーツ中継史上最高視聴率」ということになりました。
テレビ視聴率に詳しい専門家によると、今回は「日曜日の夜、キックオフ時間がゴールデンタイムだったこと」「雨のため在宅者が多かったこと」「ニッポンの活躍が見たいという国民意識、特に35~50歳の年齢層の視聴がよかったこと」が揃ったことが要因ではないかと分析しました。
そして「土曜日の夜でキックオフ時間がゴールデンタイム」になる次戦クロアチア戦にも高視聴率が期待できそうとまとめていました。
アルゼンチン戦後の中田選手、中山選手交代に不満を岡田監督に表明、その夜、ゴードン氏と会った中田選手「チーム選びの最大の基準は監督を選ぶこと」と基準を伝える
この項も小松成美氏の著書「中田英寿 鼓動」から引用する形で、経緯を記録することにします。
中田選手は試合終了後、控室に戻る途中、右足の脛(すね)に強烈な痛みを感じたそうです。試合中は集中していて痛みを感じなかったのが、集中が解けた途端、出てきたのです。チームドクターの見立てでは「この傷は一生消えないだろう」というほどで15㎝ほどの長さの傷でした。アルゼンチンの選手に巧妙に受けたスパイクでした。
中田選手は後半16分の中山雅史選手の交代に不満を持っていました。それまで何度かパス供給を続けていく中で、次第に2人のイメージが出来つつありゴールの予感がしていたからです。中田選手はそのことを岡田監督に率直に伝えました。岡田監督はそれを聞きはしましたが、こう釘をさしました。
「お前と俺の考えがずれれば、それは、すぐにチームに跳ね返る。ヒデの言うこともわかるが、今は気持ちをひとつにしていくしかないんだ」
この小松氏の記述から推察すると、中田英寿選手は、自分の意に反して中山選手を替えられたことを引きずり、気持ちを切り替えて、平塚のチームメイトである呂比須選手をどう生かすかに全神経を集中するところまではいかなかったと思います。
思い起こせば、アトランタ五輪のナイジェリア戦のハーフタイムに続く2度目の、監督への不満表明です。今回は、押しも押されぬチームの大黒柱となった中田選手からの不満表明ということで、岡田監督は聞くには聞きましたが、暗に「二度と口にするな」と釘をさしたのです。
アルゼンチン戦の夜、中田選手は監督に外出の許可をとって次原社長とゴードン氏が待つホテルに入りました。
ゴードン氏は、あらためて中田選手にこう伝えました。
「あなたの実力がヨーロッパで活かされることは間違いない。ただ、最初にどの国の、どんなチームを選ぶかが、あなたの将来に大きく影響する。私が一番知りたいのは、あなたが何を基準にチームを選ぶかということです。」
中田選手はこう答えました。
「僕がヨーロッパのクラブに移籍するとしたら、一番大切なことの一つは監督のことです。正直に言って僕は、サッカーを始めてから今まで、完全に監督を信頼できたことがない。サッカーに関する考え方が食い違ったり、戦い方に疑問を持ったりしてきました。だから、移籍するチームを決めるときには、まず監督と話し合いをしたいです。僕が求めるのは、実践するサッカーの理論をすべて言葉にして表現できる監督、僕が百パーセント納得できるサッカーの理論を持っている監督です。僕がまったく疑うことなく信じられる戦略を提示してくれなければ嫌です。」
「そうじゃなければ・・・・。僕のプレーを信じ、僕の戦略を全面的に支持してくれる監督かな。そういう監督なら、話し合い、トレーニングを重ねてチームを作っていけると思うから。とにかく、どちらかのタイプの監督です。中途半端は駄目だと思う。」
ゴードン氏は「分かりました。あなたの求める監督を見つけ出しましょう。広いヨーロッパの中でなら、あなたの求める監督も見つかるでしょう。私は、そのために、地の果てまで駆けずり回る覚悟はできています。」と答えました。
そして2人は食事そっちのけでサッカー談義に盛り上がり、その様子は通訳のフジタ女史も呆れるほどでした。
以上、小松成美氏の著書「中田英寿 鼓動」から、中田選手がゴードン氏に伝えた内容を記述しました。
自分のサッカー観に絶対の自信をもった基準の表明です。「サッカーを始めてから今まで、完全に監督を信頼できたことがない。」という言い方は、それまでの日本のサッカー選手には考えられない言い方だと思いますし、世界のサッカー選手の中でさえも、ここまで言い切る選手はごく一握りではないかと思います。それほどまでに「自分のサッカー観のほうが正しい」と思っているということです。
それが中田選手の凄さであり、ゴードン氏も初めて中田選手のプレーを見た6月4日のユーゴ戦のメモに「彼には優れた監督が必要だ。中田の才能をさらに磨き導ける監督を擁するクラブ、それを探さなければ」と書き込んでいて「自分と同じ考え方を持った選手だ、やり甲斐がある」と感じたと思います。
その一方、この自らの信じるところを何ら臆することなく表明してしまう中田選手の、生来の流儀といってもいいやり方を、今後のサッカー人生の中で、どこまで貫き続けられるのか、ついつい心配になってしまうところです。
6月20日、フランス・ナント、日本代表第2戦、クロアチア戦
観客35,500人、天候・晴、気温34℃、キックオフ14時30分(現地)
日本代表の第2戦、舞台はフランス西部、大西洋にほど近いナント、人口約30万人の都市です。大西洋に注ぐロワール川の河口から約50km内陸に入ったところにあります。ベースキャンプ地のエクスレバンからは直線距離で500km以上離れた場所での試合となりました。
会場のボージョワール競技場は収容能力39,000人ほどですが、この日は公式発表35,500人とのことで、この日も一杯の観客で埋まったといっていいと思います。
スタジアムは、観客席を大きな屋根が覆っている関係で、応援している人たちにとってはありがたい競技場ですが、陽ざしはかなり選手を痛めつけそうです。
日本は、アルゼンチン戦から中5日、疲れはとれていてコンディションは悪くない中での試合となりましたが、この日のナントの気温は34℃、陽のあたるところでの気温は40℃ぐらいに達したといいますから、選手たちにとっては前年に体験したアジア最終予選の第2戦アウェーのUAE戦と同じぐらいの過酷な条件となったようです。
この過酷さがクロアチアにとっても相当なダメージになった場合、どちらがより大きいかの勝負になるかも知れません。
この日の日本の先発は次の11人、アルゼンチン戦とまったく同じでした。(敬称略・数字は背番号、(C)はキャプテン)
・GK 20川口能活
・DF 4井原正巳(C)、17秋田豊、19中西永輔、3相馬直樹、2名良橋晃
・MF 10名波浩、8中田英寿、6山口素弘
・FW 9中山雅史、18城彰二
対するクロアチアの先発は、
・GK ラディッチ
・DF ソルド、スティマッチ、ビリッチ
・MF ヤルニ、シミッチ、ユルチッチ、アサノビッチ、プロシネツキ
・FW スタニッチ、スーケル(C)
対戦相手クロアチアは、1991年に勃発した旧ユーゴスラビア内戦の末1995年に分離独立を勝ち取った国です。そのような背景からワールドカップ初出場ということになりますが、厳しいヨーロッパ予選を勝ち上がってきた実力は評価が高いチームです。
クロアチアのスタメンで目を引くのは、アレン・ボクシッチ、ズボニミール・ボバンという2人の世界レベルのプレーヤーが故障離脱していたことです。この2人が元気にスタメンに名前を連ねていたらアルゼンチンとほぼ同じぐらい脅威となったことでしょう。
ですから、この日のクロアチアは、慎重すぎるほど慎重な布陣と戦い方をしてきました。
ちょうど日本がアルゼンチン戦に敷いた布陣と同じ、守る時はウィングバックがDFラインに入り5人の陣形、攻めの好機の時だけウィングバックがオーバーラップするといった戦い方です。
開始2分、日本が左サイドで名波選手から相馬選手にパス、相馬選手が縦に走ってクロス、これまでの日本の得点パターンを思わせるような攻撃が出ましたが、これは相手DFに頭で跳ね返されました。上背のある相手DFの壁を越えるクロスが出せるかどうかが試された場面でした。
前半9分には2分の時と同じシチュエーションから名波選手がパスを繰り出しましたが受けた相手はオーパーラップしてきた中西選手、左足でマイナスのクロスを送りましたが、相手DFに足で跳ね返されました。
フィールドに紙吹雪のなごりが散らばって、風で少し飛ぶのがわかります。その風が選手に涼風となっているのか、ムッとした風になっているのか、おそらく前者だと思いますが・・。
前半10分、クロアチアが右サイドでプロシネツキがフェイントを入れながらゴール前にクロス、秋田選手がマークしていたスーケル、少し秋田選手から離れる動きをしたあとクロスのボールに右足を合わせハーフボレー、バーを越えて事なきを得ましたが、危険な男・スーケルの左足だったらと思うと、という場面でした。
前半12分になろうかという時、日本のゴール前に放り込まれたロングボールに対応した中西選手が相手選手を倒してしまいFK、ペラルティエリアの角付近でゴールまで20m弱、蹴るのはスーケル、得意の左足で右ポストの内側一番上を狙ったとわかるキックを繰り出しました。ボールは右ポスト外に外れましたが、怖さ十分の左足でした。
その直後、日本のカウンター攻撃、城がペナルティエリアの中に持ち込んで一度切りかえしてからシュート、それは相手DFにブロックされましたが、こぼれ球を拾った相馬選手が持ち込み左足でシュート、ボールはGKの逆を突くコースに飛びましたが右ポスト外にわずかに外れました。
前半17分、これはプレーではなくスタンドが映り、なぜかタレントのうじきつよしさんの横顔が大写しになりました。日本のテレビクルーによるものか国際映像かわかりませんが・・。
その映像の直後、日本が秋田選手から前線の城選手にクサビのパスを入れましたが城選手がヘッドで秋田選手方向に戻すように打つと、それが相手中盤アサノビッチへのパスになってしまいました。それをアサノビッチが前方に送ると、井原選手がクリアしきれず、ノーマークのスタニッチに通ります。スタニッチはドリブルでやや右に流れながらシュート、しかし川口選手の位置取りが良くファーサイドのコースも消していたことからシュートは左ポスト側に外れました。
スタニッチのシュート地点はペナルティエリア内でしたので、もしニアサイドに強烈なシュートが撃ち込まれたら危ないシーンでした。
前半19分、中盤でフリーでボールを持った中田選手から中山選手に当てるような強いパスが送られました。受けた中山選手が相手DFに押し倒される形になり日本のFK、ゴール前20mちょっとの場所です。
ここで名波選手と中田選手がボールサイドに立ちトリックプレーを見せます。前年のアジア最終予選のアウェー韓国戦でも見せた「ポヨン」です。名波選手が発案、岡野雅行選手が命名したこのトリックプレー、今回は名波選手がチョンとボールを蹴り上げると中田選手がロビングを相手DFの壁の後ろに落とすように上げました。
相手の壁のところに並んでいた城選手が意図を察していち早く振り向きボールのところに寄りましたが、如何せん、一度頭で前に送ったため、ボールはゴールラインを割ってしまいました。NHKの実況を解説していた山野孝義さんも思わず「いまのボールねぇ、落としちゃダメですよ、城、スライディングしてでも、ここはシュート打って欲しかったですよ」とコメントしました。
前半29分、NHK実況の野瀬正夫アナウンサーが解説の山野さんに「これまでのところ、どちらのペースだと見ていますか?」とたずね山野さんが「クロアチアのペースだと思いますね、クロアチアは最初から来るかなと思ってたんですけど、引き分けでもいいんじゃないか、というような戦い方をしていますね」という見立てをしたところで、クロアチアがこの試合初めてのCKを得ました。左から入れたCK、後ろにこぼれたボールを中田選手が拾い、振り向くのが難しいと見て、ペナルティエリアの外側にいた城選手に横パスを送ります。城選手は中に運ぼうとしますが相手に寄せられそうになります。そこに相馬選手がフォローに来たことから城選手はヒールで相馬選手に出そうとしました。しかし、そのパスはズレてしまいスーケルに渡ってしまいます。
その時、副審が旗をあげ実況の野瀬アナウンサーも「オフサイド、オフサイド」と連呼しましたが主審はプレーを止めませんでした。スーケルに渡ったボールは中西選手がカットして事なきを得ましたが、解説の山野さんが「レフェリーがよく見てましたね。敵からのボールはオフサイドになりませんね」と理由を話してくれました。そして「いまのは、城の判断ミスなんですよ、あれは相手のゴール前でやるプレーですね」と付け加えると、野瀬アナウンサーが「自分のゴール前でやるプレーではない(いうことですね)」とまとめました。
中田選手から中山雅史選手にピンポイントのキラーパス、中山選手、見事なももトラップからシュート、この試合最大のチャンス
前半33分、中盤でプロシネツキがドリブルしながら突破しようとするところを名波選手がカットを試みると、今度は後ろを向き持ち直そうとしましたが、それを中田選手がかっさらう形でインタセプト、中田選手はそのままドリブルを始めました。その時、中田選手の前方10mほどのセンターラインあたりに中山雅史選手がいて、中田選手のドリブル開始と同時にゴール前への疾走を開始しました。中田選手も30mほど疾走、その間、前線の様子を確実に視野にとらえ右足で狙いすましたミドルパス、これがゴール前に走り込んだ中山選手の受け地点にピタリと届きました。
中山選手がそれを右太ももでトラップするとペナルティエリアに少し入った地点に落とすことに成功、ゴール正面でキーパーと1対1の絶好のチャンスを迎えました。
4月、4試合連続ハットトリックを達成した頃の中山選手であれば「いっただきぃ!!」と声をあげんばかりにキーパーの動きをよく見て左側に蹴り込んだでしょうけれど、今大会に臨んでからは相手の寄せの速さに、狙う暇を与えてもらえない気持ちだったと思います。キーパーとは10mほどの距離がありましたから左でも右でも打ち抜けたでしょうが、現に、右側から相手DFが捨て身のスライディングでブロックに来るのが目に入りました。
それでも中山選手は、右足のアウトサイドにかける気持ちで右側を狙ったと思います。キーパーが2~3mのところまで詰めてきたところでシュートしたのですがキーパーが左手を伸ばしてちょうど届いてしまいました。
実に惜しいチャンスでした。なかなか訪れないであろう限られたチャンスを生かすことはできませんでした。あまり大げさに悔しがったりしない中山選手もさすがにピッチに突っ伏して、こぶしでピッチを叩きつけました。
前半34分、中田選手が左サイドからのスローインを受けて相手選手に寄せられながらもキープ、そのままペナルティエリアの前まで持ち込むとシュート、しかしブロックされたボールがアサノビッチに渡り40mほど疾走を許します。山口素弘選手が寄せに入るとライン際のスタニッチにパス、スタニッチはゴール正面にいたスーケル選手めがけてクロス、スーケルはマークしていた秋田選手の後ろからヒョイと前に出てそのボールを受けに入りました。入れ替わられた秋田選手がスーケル選手の腰のあたりを後ろから捕まえようとしますが逃げられてしまいました。
スーケルは川口選手の目の前でボールコントロールのため後ろ向きになりますが、川口選手はあわてて飛び込まず、スーケルが前を向いてシュートを打とうとするボール目がけてスライディング、ボールを絡めとって事なきを得ました。
スーケルは味方に両手で「フォローに来てくれよ」というポーズをとりました。
前半38分、右サイドセンターライン付近でボールを受けた秋田選手、前方に出すコースがないと見たかバックパスを出します。出した相手が井原選手だとすれば、かなり距離があるところに緩いパスを出しましたから、その間にいたスーケルにお誂え向きのパスになってしまいました。スーケルはドリブルで疾走、井原選手が少しでも外側に押し出そうとしながら必死に並走します。そこに中央後ろから中西選手が全速力でフォローに入り、そのままスライディング、見事ボールをカットして味方に繋げました。
ここもスーケル1人の突破だったことで助かりましたが、危うく致命的なパスミスとなるところでした。
前半ロスタイム1分の最後のプレーで日本CKを獲得、左から中田選手が打ったCKは大外、城選手に合いますがヘディングはゴール右にはずれ前半終了。
前半の途中から、クロアチアが無理に前線にボールを放り込む場面が減り、後ろでボールを回す場面が目立ちました。
ハームタイム終了後、後半からクロアチアは、DFスティマッチに代えて、FWブラオビッチを投入しました。これにより最前線にいたスタニッチが一列下がって右サイドに入り二列目をスタニッチ、アサノビッチ、プロシネツキの3枚に厚くした形になりました。
けれども、その陣形を生かした中盤にボールを集めるサッカーはまだ見られず、後半しばらくは日本ペースが続きました。
日本は、ここが勝負どころと見たのか、後半16分、中山雅史選手にに代えて岡野雅行選手を投入しました。岡野選手はさっそく中田選手からのサイドへのパスに反応する形で突破を図り攻撃を活性化させました。
しかしクロアチアはバックラインを下げさせ、岡野選手に裏をつかせないように対応したため岡野選手にボールが出ても、すぐ相手DFが寄せてきて突破は見られなくなってしまいました。
後半22分、今度は、クロアチアがMFプロシネツキに代えて、同じポジションにマニッチを投入しました。
この時間あたりから日本の前線と最終ラインの間が間延びしてしまいクロアチアの中盤が自由にボールを持つ時間が増えてきました。
25分には中西永輔選手ににイエローカード、アルゼンチン戦に続いて2枚目となったため、3戦目ジャマイカ戦は出場停止となりました。
27分、アサノビッチ選手からのセンタリングを受けたスーケル、GK川口能活選手が前に出ていたのを見てチョップキックでシュート、バーに当たって外れたもののヒヤッとする場面でした。
クロアチア、それまで抑え気味にしていた攻撃のモードが、プロシネツキ交代、マニッチ投入あたりから、積極的に前に出る場面が増えてきました。
クロアチア、アサノビッチからスーケルにクロス、スーケル、切れ味鋭い左足を一閃
そして後半32分、センターサークルの少し自陣側から名波選手が中田選手に出した縦パスを中田選手がダイレクトで軽く山口選手にはたいたのですが、それを山口選手と対面の位置にいたアサノビッチ選手が素早くカット、ボールはスーケルに渡り、それをアサノビッチに返すとアサノビッチは中央にスルーパス、これは井原選手がスライディングしながらカットしましたが、再びボールがアサノビッチのもとへ、今度はアサノビッチ、左へ流れながらペナルティエリアに侵入、そこから真横にクロスを入れます。アサノビッチ選手についていた秋田選手はジャンプしますが届かず、中央の井原選手そして右サイドの中西選手の頭をかすめるようにボールがスーケルに渡ります。
スーケルは左足でトラップしたあと、そのまま身体を90度捻るようにしてまた左足を振りぬくとボールは、ブロックに飛んだ中西選手の両足の間を抜け、川口選手の左下に飛んできました。川口選手が辛うじて手で弾こうとしましたが、弾ききれずワンバウンドしたボールが無情にもゴールに吸い込まれてしまいました。
日本が、中盤でボール奪取を狙っていたクロアチアの網にかかり、アサノビッチが持ち上がった時、相手のツートップがボールをもらえる位置に動いていて、アサノビッチがそこに正確にクロスを供給し、受けたスーケルが一発で仕留めるという、ここぞという時の正確性・集中力を見せつけられてしまいました。
やはりクロアチアはただの初出場国とはわけが違う国でした。
1点を許した日本、後半34分、DF名良橋選手をさげてMF森島寛晃選手を投入、後半39分にはMF名波浩選手をさげてFW呂比須ワグナー選手を投入します。その直後、右サイドでボールを受けた中田選手がペナルティエリアに張っている呂比須選手にピンポイントのクロス、呂比須選手が相手DFの前に出るように倒れ込むようにヘディング、頭ですらすようなシュートを放ちましたが、わずかにゴール左にそれました。
後半43分、クロアチア、FWスタニッチを下げDFトゥドロを投入、ガッチリと守りを固めたクロアチアの牙城は崩せずロスタイム2分、前線に入れる長いボールはことごとく相手に阻まれて47分6秒、試合終了ホイッスル。日本は連敗となりました。
多くの専門家が指摘したのは、日本のミスの多さ、特にパスミス、日本は味方選手に丁寧に出すパスが持ち味なのですが、そのためスピードが緩いバスが多くなり、味方との距離が長い場合はカットされるリスクが大きくなります。また自陣で守っている中で味方選手の状況を確認もせずに出すバックバスによるミスなど、この大事な試合で、これほどミスが多くては勝てないという点が一つ。
そしてもう一つは、岡田監督の試合の流れを読む未熟さというか、勝利に向けて打つべき手が後手に回っているという点でした。岡田監督はアルゼンチン戦で得た守りの手応えを大事にするあまりバランスを崩したくない気持ちが強すぎて、勝ちに行く選手交代や布陣変更策の手を打つのが遅すぎたという点です。
そのため、やり方次第では勝つことさえできた試合だったけれど、この日の選手のミスの多さと監督の采配では負けて当然という評価が多かった試合でした。
選手たちにも悔いの残る試合だったと言えそうです。
スタンドの3分の2は日本人サポーター、おそらく23,000~24,000人といったところでしょうか。ハームタイムに実況の野瀬アナウンサーは「ニッポンのサポーターが8割以上いるんではないでしょうか」とコメントしました。解説の山野孝義さんも「ニッポンのホームといっていいですね」と応じましたから、かなりの割合に見えたことでしょう。もし8割だとすると28,000人ほどになり、まさに、かなりの数です。
そしてサポーターの「オ~~オオオ~~~ニィポン、ニィポン、ニィィッポン!!」の応援コールも場内一杯に響き渡る音量でしたから、第1戦に続き応援では相手を圧倒したようですが、試合終了のホイッスルの瞬間、静まり返りました。勝利を信じてほとんど休むことなく続けた応援でしたが報われませんでした。
岡田監督「惜しい試合でも負けは負け」
試合後の会見で岡田監督は質問に答える形で次のように述べました。
Q.連敗となりましたが?
A.目標は一次リーグ突破でしたが、決勝トーナメントに行くチャンスは少なくなりました。勝つしかない、チャンスは必ず来ると粘り強く思っていましたが、世界の壁、世界のゴールは遠かったという気持ちです。
Q.惜敗というもどかしさはあるか?
A.もどかしさと言いますか、選手には素晴らしい経験になる試合でしたが、ワールドカップは結果がすべて。惜しい試合でも負けは負けです。
Q.世界の壁と言われましたが?
A.個人の力ではかなわないのは大会前からわかっていました。それをチームの力、組織の力で勝負しようと思っていた。残念ながら結果は出ませんでした。
Q.具体的には?
A.相手1人に対して、2人の力で勝とうと努力してきました。
Q.スーケルにやられましたね。
A.失点は中盤での自分たちのミスパスが原因。そこから速攻でやられた。あそこで競り勝つか負けるかがポイントだった。
Q.暑さの影響はあったか?
A.両チーム同じことなんで。クロアチアより体力もコンディションも負けていないと思ったし、15分過ぎたら(相手に)疲れてくる選手が出てきて、中盤の攻撃で(こちらが)フリーになる選手が出てくると考えていたが。
Q.あと1試合残っていますが?
A.日本のサッカーはこれで終わりではありません。2002年、2006年とずっと続く。これですべて終わったわけではないんです。
Q.次の目標は2002年日韓共催W杯ですか?
A.日本のサッカーにとってはそうでしょう。しかし、私にとってはまだジャマイカ戦が残っている。いいサッカーをして勝ちたい。その一戦に全力を尽くすだけです。
Q.今後については?
A.攻守のどちらかができたら、どっちかができない。世界に追いつくには相当時間がかかる。ずる賢くやる時はやっていかないと数年かかる。選手たちはこれからもあるが、私は次が最後かも知れません。
アルゼンチン戦に続きチケット入手できた人、できなかった人、さまざま観戦模様、国内でも各地に応援の輪
翌朝の毎日新聞朝刊は、クロアチア戦観戦に来た日本人サポーター30人に取材、チケットの入手方法を聞いた結果を報じました。それによると30人中18人が観戦ツァーや日本サッカー協会の抽選販売といった、いわば通常のルート組で、7人がダフ屋から入手したと答え、相場は8~10万円だったそうです。残り5人は自分のツテで欧州に来てから入手した人でした。
また同紙は「フランス組織委員会」が、チケットの大量不足問題に対応するため、緊急措置として各国が売りさばけなかった券を回収、6月12日から14日にかけて日本の旅行代理店向けに印刷しなおして供給した券が含まれていたと報じました。そして「券不足でやみ値が10倍以上になる一方、相当数の余剰券が存在したちぐはぐな実情を示しており、組織委の不手際があらためて指摘されている」と締めくくりました。
またスタジアムに入れなかったサポーターのためにナント市が大型スクリーンを3ケ所に設置、スタジアムの入口では大型スクリーンへの移動方法を日本語でアナウンスしてくれる配慮もしてくれました。この日チケットを持たないままやってきた日本人サポーターは約4000人ほどだったようですが、最後までチケットが手に入らなかった約2000人が大型スクリーンに移動して試合に見入ったといいます。
それも空しく、試合終了後、呆然としたまましばらく席を立とうとしませんでした。
一方、日本国内でも各地でアルゼンチン戦に続き応援の輪ができました。
東京・新宿歌舞伎町の映画館前の大型ビジョン前には約12,000人(15,000人との情報も)が詰めかけました。これに対応して新宿警察署から約150人が警備にあたりましたが、あくまで混乱防止が目的、盗難抑止までは目が届かなかったためか、試合後、歌舞伎町交番に10人ほどが、観戦に夢中になっている間にスリ被害に遭ったと訴えました。中には背負っていたリックサックから財布はもちろんのこと携帯電話、手帳、本などありったけを盗られ、日本代表の敗戦とスリ被害のダブルショックとなった人もいました。
六本木のディスコ「ヴェルファーレ」には約1600人が集結、試合前にWOWOWアナウンサーの柄沢晃弘さんを司会に、サッカー解説者・信藤健仁さん、イラストレーター肥塚正さんによるトークライブなどで観戦を盛り上げました。
川崎・映画館チネチッタが映画用スクリーンを使って館内に約900人、場外のモニタースクリーン前に約1000人が集結、敗戦の瞬間には泣き出す女性も。
大阪・此花区舞洲アリーナの600インチ大画面前には約2000人が集結。
福岡・福岡ダイエーホークスのホームスタジアム、福岡ドームではアルゼンチン戦の時、ダイエーホークスの試合終了後だったことから、スタジアム内の「ホークスビジョン」を見ながら約2万人が応援しましたが、今回は試合中ということでスタジアム内スポーツバーの画面だけでの応援でしたが、それでも約1000人がホークスの試合そっちのけで応援しました。
テレビ視聴率、アルゼンチン戦をさらに更新、60.9%を記録
日本サッカーが歴史上初めてワールドカップの舞台で戦ったアルゼンチン戦は、歴史的試合にふさわしい60.5%のテレビ視聴率を記録、サッカー中継における視聴率の記録を大幅に更新したばかりでしたが、今回のクロアチア戦は、それをさらに更新する60.9%を記録しました。
特に、前年のアジア最終予選のヒーロー・岡野雅行選手が投入された後半、その岡野選手が右サイドを突破してクロスをあげた後半18分には瞬間最大視聴率67.9%、こちらもサッカー中継における記録を更新しました。
これについて専門家は「クロアチア戦の放送曜日・時間帯の関係で、翌日が学校が休みの金曜夜だったことから、母親と就学児童がともにテレビ観戦に向かったことが要因」と分析しました。
ワールドカップ初勝利を信じて、この日も日本列島は家庭でも繫華街でも、いたるところでサッカー日本代表の応援風景が見られた夜となりましたが、最後は落胆のため息が列島を覆い尽くして終わりました。
グループリーグ敗退決定、岡田監督辞意表明、専門家は冷徹に「善戦では済まないのがW杯」
日本がクロアチアに敗戦、翌日21日、アルゼンチンがジャマイカを破ったため、アルゼンチンとクロアチアが2勝、これで日本のグループリーグ敗退が決定しました。
これを受け、岡田監督が記者団に「責任をとります」と語ったことから、マスコミは一斉に「岡田監督辞意表明」を報じ「ジャマイカ戦を花道に」といった論調になりました。
さらに日本サッカー協会・大仁強化委員長が続投要請するつもりであることも報じ、岡田監督が「続投要請を受けても固辞」という姿勢であることから、後任監督選びに入る模様と付け加えました。
アルゼンチン戦、クロアチア戦ともに0-1だったことから、グループリーグ敗退が決まったとはいえ、まだ「ここまでは日本善戦」のムードが漂っていましたが、専門家の目は冷徹でした。「善戦するだけでいいなら、日本の力があればできることはわかっていた。W杯はそれでは済まない場、勝しかない場である」と厳しい指摘が出ました。
98.7.8サッカーマガジン誌で財徳健治氏は次のように書いています。
「(アルゼンチン戦、クロアチア戦とも)結果として残った0-1のスコアに、日本では善戦したとの声が多いらしい。賛成できない。『いつでも』とは言わないが、善戦するだけでいいなら日本の力があればできる。それくらいのことは分かっている。」
「W杯は善戦するための場ではない。慰めにしかならない声に加担したくはない。出場の目標をかなえた後は「w杯で勝つ」。それしかない。日本代表は厳しく内容を問われるチーム、存在になったのだ。むろん、選手たちも『善戦した』では満足していないはずだ。(中略)」
「アルゼンチンもクロアチアも試合の内容はどうあれ、日本から『勝ち点3』すなわち勝利を計算していたはず。(中略)結果として残るものの差、グループリーグ敗退と決勝トーナメント進出を考えると、これこそが圧倒的な違いとなるのだ。」
「W杯新入生の日本に、先輩たちのありがたい「鞭(むち)」。ズシリと感じた痛みにひるんでいては、明日につながる戦いはできない。」
また98.7月16日号Number448号で対談した金子達仁氏と、作家の馳星周氏は「善戦はもういらない」という見出しのついた対談で次のように語り合っています。
馳 「(観戦しにフランスに)来る前は、初出場だから(勝てなくても)仕方ないって思っていた部分があったのは認める。でも、スタジアムで分かった。勝たなきゃ満足できない。テレビで観てたらどうか分からないけどね。現地に来ていて、日本が本当に出るんだってことは、ものすごい感動たろうと思ってたけど、そうじゃない。ここで勝ってこその感動なんだって。」(中略)
馳 「(現地にいる間に)日本から電話がかかってきたり、かけたりするじゃないですか。『どうなの、そっちのテレビとか新聞の反応は?』って僕が聞くと、『善戦』『惜敗』だっていうじゃない。思わず叫んだよ。『死んでしまえお前ら! 』。編集者は『馳さんそんなに怒らないでも・・・』って、でも、これが怒らずにいられるか。」
金子 「もう善戦はいい。」
馳 「善戦、惜敗はいらない。頼むから勝ってくれ。ヤケ酒じゃなくて祝杯あげたいよね。壊れたいよ、壊れたい。実際に僕ら、ヨーロッパや南米の人間じゃないから、金子さんにヨーロッパのクラブチームがいいから観に行ってください、っていくら言われたって、まぁ、実際そうだとは思うんだけど、自分がその一員にはなれないわけでしょ。」
金子 「やっぱり、日本代表に勝ってもらうしかないんです、俺たち。」
馳 「そう、勝つしかない。」
風雲急を告げる中田選手移籍に向けた動き、移籍市場でも暗躍するサッカービジネスに巣食う悪徳エージェント
クロアチア戦を終えてグループリーグ敗退となった段階から、中田英寿選手の海外移籍に向けた活動が、急速に進み始めました。
一つはワールドカップ期間中に、エージェントを名乗りながら暗躍している有象無象の輩に、中田選手の所属事務所・次原社長が翻弄されかねない状況が生まれたためです。
ここからまた、小松成美氏の著書「中田英寿 鼓動」から引用する形で、経緯を記録することにします。
実はアルゼンチン戦が終わった翌日あたりから、次原社長の携帯には、多くのマスコミから中田選手の移籍先がどこになるのかを聞きたいと、ひっきりなしに電話がかかってきていました。一部のスポーツ紙が憶測で記事を書いていて、その確認のためでした。
さらに次原社長を悩ませていたのが、クラブの関係者やエージェントを名乗る見知らぬ人間からの電話でした。
そうした動きはロンドンにいるゴードン氏のもとにも届いていて、ゴードン氏は次原社長に連絡を入れました。
「クロアチア戦が終わったら、各クラブは中田獲得に向けて動き始める。中には胡散臭い話も多くなる。中田の名前はワールドカップの2試合で世界中に知れ渡ったから、怪しげな連中も大勢動き始める。」
次原社長は、中田選手のために数多くのエージェントと接触して、少しでも条件のいい移籍を実現したいという気持ちと、移籍市場という巨大なビジネスマーケットに巣食う得体の知れないエージェントから中田選手を守らなければならないという気持ちの間で揺れ動いていました。
グループリーグ敗退同士の日本とジャマイカ、両者に垣間見えたメンタルの違い
2戦を終わってエクスレバンで調整中の日本代表は、現地時間6月22日午後から23日午前にかけて変則的な休みが与えられました。岡田監督が「ここ(フランス)では休みはいらない」という方針だったこともあり、丸一日の休みにはせず半日×2という休ませ方をしたのです。
アルゼンチン戦、クロアチア戦に連敗した日本代表には明らかに変化が見られました。表向きは「ジャマイカ戦に全力を尽くす」「こんどこそ勝ちに行く」と、これまでと何ら変わらないコメントに聞こえますが、岡田監督も選手たちも、どこかトーンが弱くなっていたのです。
それもそのはずです。ワールドカップが始まるまでは初戦のアルゼンチン戦に監督も選手たちも全集中してきて、アルゼンチン戦に負けたあとも「次こそは」と気持ちを奮い立たせてきた結果として「グループリーグ敗退」という現実を突き付けられてしまったのです。
ここで更に対ジャマイカ戦に向けて気持ちを立て直せといっても、一度切れた気持ちを奮い立たせるのは、基本難しいことでしょう。集中力が高まっていればいるほど、その集中力が切れた時の落差が大きいと思います。
これは日本人の精神性によるところもあるでしょう。日本人は、物事に熱心に取り組むことを通じて集中力を高め、その精度を高めることができる国民性を持ってはいますが、逆にその集中がプツンと切れた時の反動も大きいという面です。
それがジャマイカ戦で、ジャマイカの持つ国民性との差にならなければと漠然と考えてしまいます。
そのことは岡田監督ものちにこう振り返っています。
「ジャマイカがアルゼンチンに5点も取られて負けているのに、試合後、選手たちがスタジアムのファンに向かって拍手しながら笑顔で引き揚げていったのをテレビで観てショックを受けました。」
「自分たちは昨日、クロアチア戦でなんでこうできなかったんだろう。ジャマイカと日本の敗戦に対するこの受け止め方の差は、一体何なんだ。」
「国民性とか、文化とか、歴史とか、そういう要素をすべてサッカーチームというのは象徴するのだろうか」
6月26日、フランス・リヨン、日本代表第2戦、ジャマイカ戦
観客39,100人、天候・曇り時々晴、気温25℃、キックオフ16時00分(現地)
日本代表の第3戦、舞台はベースキャンプ地のエクスレバンから西へ約80km、日本代表が試合を行なう3都市の中でエクスレバンからもっとも近い場所です。
リヨンは、都市単体ではフランス第3の都市ですが、都市圏の大きさでは第2の規模をもつ大都会で、フランスの新幹線にあたるTGVがパリからリヨンまで最初に開通したことでも知られています。
会場のジェルラン競技場は収容能力44,000人ほどですが、この日は公式発表39,100人とのこと、両国ともグループリーグ敗退が決まった同士の試合からか、やや空席があったようですが、ジャマイカサポーターはごくわずか、大半がブルーのユニフォームを着た日本人サポーターで埋め尽くされた感がありました。
この日の天候は午前からの雨があがり曇り時々晴で気温25℃、第2戦のクロアチア戦の条件に比べれば少しはマシというところだったでしょうが、湿度が高い分、気温以上に蒸し暑く感じる中での試合となりました。
この日の日本の先発は次の11人、クロアチア戦でイエローカードを受け累積による出場停止処分の中西永輔選手のところに小村徳男選手が入っただけの変更でした。(敬称略・数字は背番号、(C)はキャプテン)
・GK 20川口能活
・DF 4井原正巳(C)、17秋田豊、5 小村徳男、3相馬直樹、2名良橋晃
・MF 10名波浩、8中田英寿、6山口素弘
・FW 9中山雅史、18城彰二
対するジャマイカの先発は、
・GK ローレンス
・DF ロー、シンクレア、グッディソン(C)
・MF マルコム、ガードナー、シンプソン、ウィットモア、ドウズ
・FW ホール、ゲイル
対戦相手ジャマイカは、南北アメリカ大陸の間にあるカリブ海の島国です。キューバ島の南にあり当時人口約250万人程度、ワールドカップ出場枠が今大会から32ケ国に増えた恩恵を、日本同様受けた国で、北中米・カリブ海予選を3位で通過、本大会初出場を決めました。
英語圏の国で「レゲエボーイ」の愛称を付けられたジャマイカ代表チーム。とはいえ、何人かの選手はイングランド・プレミアリーグでプレーしており個人技では侮れない実力を持つチームです。
ワールドカップ初出場の日本代表を指揮して、これが最後の試合になることを心に決めていた岡田監督、試合前のミーティング、のちに「一度ぐらいは気の利いたことを言ってみたいと思っていた」と振り返った、とっておきの訓話を繰り出しました。
ある詩の一節を引用したもので、こう話したそうです。
「地球が誕生して数十億年、人間が生まれて数万年、その中の人生80年なんて短いし、サッカーのゲームなんて90分しかない。だからこそ、その一瞬一瞬を無駄にしなうよう、精一杯生きようじゃないか」
この詩の出典について、作家・井上靖の詩集「遠征記」からひいたと書いている方もいましたし、小説からひいたと書いておられる方もいましたが、どうも、井上靖の別の詩集「北国」の巻頭にある「人生」と題した詩ではないかと思います。
この訓話を選手たちはどう聞いたでしょうか? アルゼンチン戦、クロアチア戦、勝利がダメでも勝ち点、勝ち点がダメでも得点を、と身体と心を目いっぱい研ぎ澄まして、それこそ全集中して戦ったにもかかわらず結果が出なかった、そこから来るどうしようもない脱力感から、もう一度身体と心を立て直して「勝利」を目指し、結果としてダメでも最低でも勝ち点だけでももぎ取って帰るんだ、そういう闘争心に火をつけることができたとすればいいのですが・・。
岡田監督は、第2戦のクロアチア戦の翌日、ジャマイカがアルゼンチンに0-5で大敗したにも関わらず、ファンに向かって拍手しながら笑顔で引き揚げていったのを観てショックを受けたそうです。ジャマイカと日本の敗戦に対するこの受け止め方の差は、一体何なんだ、と。そのことも紹介してもよかったのではないでしょうか。「最後は、みんながそれぞれ持っているサッカーの楽しさを出し合って、笑顔で引き揚げるようにしようぜ、俺たちも」とか・・・・
この日のテレビ中継は、日本時間6月26日23時キックオフということで、NHKが22時35分から放送を開始しました。総合テレビでの中継は実況は山本浩アナウンサー、解説は木村和司さん。NHK-BSの実況は野地俊二アナウンサー、解説は加茂周さん。このあとの記述はNHK-BSの放送からひいています。
試合は立ち上がりから日本の攻勢が見られます。開始1分、最後尾からテンポよいパス回してセンターサークル付近の中田選手にボールが渡ります。中田選手はドリブルで持ち上がり右サイドの城選手にパス、城選手もドリブルで持ち上がってからフォローに上がってきた名良橋選手に戻すと、名良橋選手はダイレクトパスでペナルティエリア内に侵入していた名波選手に送ります。
そのパスは名波選手の隣りにいた相手DFがクリアを試みますが、目の前にいた名波選手へのパスになりました。名波選手はもらったパスをノートラップで強烈な左足シュート、ボールは惜しくもポストとバーの角のところを通過してしまいました。
いきなりの強烈なシュートでしたからスタジアムは一瞬大歓声に包まれました。
次に前半5分、左サイドから小村選手が相馬選手にパス、それをまた小村選手に返して相馬選手が左サイドを駆け上がります。小村選手は今度はやや中寄りの名波選手にパスを出します。名波選手は相馬選手の走りに合うように左足アウトサイドで押し出すようなパスを送ります。これは勝手知ったるコンビネーションの如くピタリと相馬選手に通ります。相馬選手は縦に走りながらゴール前に直角のクロスを入れると、そこに中山選手が相手DFと競り合いながら突っ込んできました。最後は中山選手が相手DF2人囲まれる形になりながら足を伸ばしてボールに触りに行きました。相手GKを含めて4人がもつれ合う形のプレーとなりましたがボールはクロスバーの上、日本のCKとなりましたが、これもいい形の攻めでスタジアムが湧きました。
前半9分、今度は右サイドで名良橋選手のパスを受けた中田選手が、左サイドでフリーになっていた城選手に距離・強さともに申し分ないパスを送りました。城選手には少なくとも3つの選択肢がある絶好のチャンスとなりました。一つはもちろんダイレクトでシュート、2つ目はワントラップしてのシュート、3つ目は右サイドに上がってきた中山選手にパスを出す、城選手は瞬時の判断でダイレクトボレーを選択しました。ボールは見事にヒットしたものの飛んだコースは右サイドのポスト外側でした。
悔しかったことでしょう。3試合目にして初めて絶好のフリーのチャンスをもらったのですから。解説の加茂さんは「同じ外れるにしてもバーの上に行ってしまうのと値打ちが違ういいシュートでしたね」とコメントしてくれました。
前半15分、この試合初めてジャマイカが日本陣内に攻め込みます。右サイドから中央2列目のウィットモアにパスが通り、ウイットモアは詰めてきた相馬選手をかわすと右ウィングのホールにパス、ホールがゴールライン際まで運ぶとゴール前にクロス、これは川口選手がパンチングで逃れると、今度は左サイドからクロス、これはゴール前を横切り小村選手が頭でコーナーキックに逃れました。
ジャマイカはそのCKからのボールをヘディングシュート、ゴールネットを揺らしましたが、GK川口選手についていた選手が守備を邪魔したとしてノーゴールの判定、事なきを得ました。
このシーンで目についたのは、右サイトからのクロスに対しても左サイドからのクロスに対しても日本のDF陣の寄せが甘く自由に蹴らせていたことでした。
前半22分、ジャマイカが中盤でガードナーがドリブル、センターサークル付近で名良橋選手のタックルを交わしフリーになると、さらにドリブルで30mほど突進、ペナルティエリアのすぐ前でウィットモアにパス、ジャマイカ4人に対して日本のDFが3人の形を作られました。ウィットモアはペナルティエリア内に侵入、やや右側に持ち直してシュートを放ちますがボールは川口能活選手の正面に。
解説の加茂さんが思わず「いゃぁ、危なかったなぁ」と口走る不利な場面を作られました。
前半25分を過ぎたあたりから日差しが出て蒸し暑さが増したせいか日本代表の動きがガクンと落ち中盤が間延びしてしまいました。
そんな中、前半28分、日本の最後尾で奪ったボールからパスがつながり、城選手まで届きます。城選手はドリブルで持ち上がりペナルティエリアのすぐ手前まで相手DF2人を引きつけ、並走してきたフリーの名波選手に横パスを送りました。名波選手はペナルティエリアのラインあたりでGKと1対1の場面から得意の左足でダイレクトにシュートしますが、ボールは大きくバーを越えてしまいました。名波選手は最後尾からのパスをまず受けて中田選手に出したあと約60mほど走ってからのシュートチャンスでしたから、抑えが効かなかったようです。
前半36分、ジャマイカ、ゲイル、ゴールまで25mあたりからミドルシュート、不意をつかれたシュートは右ポストの一番上あたりをかすめるように外れましたが、危ない一振りでした。
前半37分、中盤で中田選手が倒され日本のFK、右サイドに展開したボールを名波選手が切り返しから狙いすましたクロス、ファーサイドで待ち構えていた相馬選手がセオリーどおり頭で折り返したボールはゴール正面で待ち構えていた城選手のもとへ、城選手はももでトラップ、ボールを前方向に落として、そのまま左足でシュート、完全な崩しによるシュートでしたが、ジャマイカDFグッディソンの捨て身のブロックに合いゴールならず、城選手は思わず顔を両手で覆って悔しがりました。
日本、チャンスを逸したあとのピンチが交互にきて、2度目は仕留められ失点
そのあと、日本に目立たないミスが2つ続き、それが失点につながりました。一つ目は相馬選手のスローインの時、相手選手がスローインの邪魔をしていると見た相馬選手、思わずスローインを途中で止める形になりましたが、やり直しが認められずファウルスロー扱いに、二つ目は相手スローインのボールを受けた選手を後ろから抱え込んでしまったとして小村選手がファウルをとられ、相手FKのリスタートとなりました。
このリスタートからのボール、ジャマイカはDFにボールを戻してゆっくり攻めるかに思われましたが、最後尾から1本のロングボールを前線に放り込みました。このボールをFWゲイルが井原選手と競り合いながら横にヘディング、もう一人のFWホールを秋田選手がつぶしにかかったのですが、その裏からウイットモアがボールを拾うように回り込みゴール正面に、ウィットモアの前に相馬選手、その後ろに川口選手が重なる形になったため、川口選手はウイットモアのボールの出所が見えず、自分の右サイドに打たれたボールへの反応が遅れてゴールを割られてしまいました。
これで3試合とも日本は先制を許しました。
前半43分、日本、左サイド深い位置から相馬選手が入れたスローインを秋田選手がダイレクトで目の前にいた中田選手に送ります。中田選手は中央の広大なスペースにいた山口選手に送ると、山口選手は右に並んできた名良橋選手にパス、名良橋選手は狙いすまして前方ゴール前に放り込むと、中山選手が相手DFと競り合いながらもヘッドで合わせ、向かい側にいた城選手に折り返しました。
城選手に絶好のボールが渡ったかに見えましたが、城選手のジャンプのタイミングがほんの少し遅れてしまったため、ボールを下から持ち上げるようなヘディングになってしまい、ボールはゴールポストを大きく跨ぐようにして外れてしまいました。解説の加茂周さんも思わず「惜しいんだけどな」と呟きました。
後半44分、ジャマイカ自陣からシンクレアがロングボールを前線に送りますが、名良橋選手へのパスになりました。名良橋選手は中央の中田選手めがけて強いパスを送ったものの、中田選手についていた相手DFの長い脚が出てカット、これがセンターサークル付近にいた19歳ガードナーに渡ります。これを名良橋選手が奪いにかかりましたが、ガードナーは身体を翻してかわすとドリブルを開始、並走した名波選手をスピードで振り切りペナルティエリアのところまで運びました。途中からマークについた井原選手がゆく手を阻んだため立ち止まり後ろ向きにボールをキープ、そこに名波選手、相馬選手も戻ってきてガードナーを1対3で止めにかかりますが、またゴール方向に向きを変え井原選手の脇から突破にかかりました。
井原選手はボールを奪いに飛び込みますがかわされてしまい倒れてしまいました。すかさず名波選手もカットしようとしましたが股の間を通されてしまいます。次に相馬選手がボールを奪いにかかりますがガードナーは体勢を立て直します。そして、目の前に名良橋選手が寄せてきたと見るやガードナーはシュートを放ちました。ボールは枠方向には飛びませんでした。そのためレフェリーは日本DFの足にあたって外れたと判断したのかCKの判定となりました。
これだけ日本DF陣を相手に動き回ったガードナー、疲れ切って仰向けに横たわったものの、1人でほんろうした満足そうな表情でした。
この大会での躍動が目にとまり、イングランド・プレミアリーグ、ボルトンへの飛躍を果たしたガードナー、ボルトンには実に14シーズン在籍しましたから中田英寿選手がのちにボルトンに加入した時もチームメイトとなる縁を持っていました。
ロスタイム2分、日本、右サイドの名良橋選手から中田選手に渡ったボールを中田選手、中央を駆け上がったフリーの名波選手に、これを名波選手がDFの裏に落とすようなロビング、中山選手が反応してボールに追いつき右足でシュートしますが、ジャマイカGKが身体に当ててブロック、それを名良橋選手がゴール前にクロス、これは相手DFに当たって大きくはねた後、相手GKがCKに逃れました。
その右からのCK、名波選手が中田選手にショートパス、それを再び中田選手が名波選手にショートパス、今度は名波選手は左大外に井原選手が走り込んでいるのを確認、ゴールマウスを横切るようなスピードのあるクロスを送ります。ボールが井原選手のヘディングの打点より少し前に来たため井原選手はヘッドでなくスライディングしながら左足で折り返します。折り返したボールはコントロールが効かなかったために相手DFに渡りチャンスはついえました。
ロスタイムの日本の波状攻撃、特に中田選手と名波選手のコンビネーションでチャンスが生まれ、最後のどれかが枠に飛べば1点というところでした。
前半のジャマイカ、チャンスはそう多くはなかったはずですが、先制ゴールをあげたウイットモア、ピッチの中央、セントラルミッドフィールドでプレーする長身の彼が的確にボールを前線に送った時にチャンスが生まれており、まさに大黒柱が彼であることがはっきりした前半でした。
対する日本、過去2戦と比べれば決定的チャンスの数も多く、試合自体を支配していましたが、如何せん最後の決定力、これが差となってしまいました。
ハーフタイム、激しい雨が落ちてきました。
後半に向けた選手交代は両チームともなし。少し弱まったものの、雨のままの後半開始となりました。
後半2分、中田から名良橋へ、名良橋のクロスはCK、これを中田が左から直接狙ったかに見えるキック、ボールはクロスバーのわずかに上、ネットに転がりました。いつもは表情一つ変えない中田選手が「入れたかったな」という気持ちだったか、小さく顔を歪めました。
後半3分、ジャマイカが中央のウィットモアから左サイドのガードナーへ、これをガードナーが軽く前に出すとペナルティエリア内に上がってきたシンプソンに通ります。シンプソンは後ろに井原選手がマークに来ているのを確認しながら、左足でヒールパス、これをホールが拾うと、GK川口選手と1対1の状態に、川口選手がホールとの間合いを詰めてきたことからホールは右アウトサイドにかけてボールをゴールマウスを横切る方向に出しました。するとプロックしようと倒れ込んだ川口選手の右わき腹の下をすり抜けたボールは、DFに入った小村選手の足先に当たったあと右手拳あたりに当たってゴールラインを割りました。
それを見たジャマイカ・ホールはすぐさまハンドをアピールしましたが主審はCKのジャッジ、PKのピンチを免れました。
このあと雨の残る中、また強い陽射しが照り付けました。
前半8分、相手のパスをカットした山口選手から名波選手、中田選手と繋いだパスを中田選手は右サイドに流れながら前方にボールを出すと、中央から中山選手が走り込みペナルティエリアの右角あたりでボールに到達、さらに2歩ほど走り少し角度がなくなりましたがシュート、GKの逆サイドを突くコースに飛びました。相手GK、身体を目いっぱい伸ばしてボールをはじきました。そこに城選手が詰めて来ましたが無情にもボールは左方向に転がってしまい相手GKに蹴り出されてしまいました。
そのボールを中盤で受けたウイットモア、キープして一旦センターサークル付近でDFに返したあと右サイトを駆け上がります。DFからのボールはセンターサークル付近まで降りてきたゲイルに渡り、そこから右サイド前方のウイットモアに繋がります。ウィットモアが受けた地点はペナルティエリアから20mほど手前だったため、日本DF陣はウィットモアの後方に4人いましたが、それぞれ5~7m離れていました。ボールを持ったウイットモアはノーマークのまま縦にボールを運びペナルティエリアの線上をエリアの半分ほど進み切り返しにかかります。
この時、一番近くの日本選手が2mほど内側にいた小村選手、ウイットモアのシュートコースを消しにかかりますが、ウイットモアは切り返して左足に持ち替え、小村選手の重心が左足にかかったタイミングでシュートを選択、小村選手の後ろでは川口選手がニアサイドに構えていましたが、そのサイドは1m以上空いています。ウイットモアのシュートは、体勢を立て直し狙いすましてシュートブロックしようとした小村選手の右足先をかすめ、川口選手のニアサイド側、1m以上空いたコースに打ち込まれてしまいました。
時計の針は後半9分を回ったところでした。
ふだんセントラルミッドフィールドでプレーしているウイットモア、日本がDFラインをかなり上げているのを見て、ボールをもらう時もDFラインを確かめながら、オフサイドにかからない上がり方をしていました。
日本DF陣も、よもや上がっていったそのタイミングでシュートまで持ち込むとは思っていなかったのでしょう。さきほどのウィットモアの後方の4人の距離感、ペナルティエリアに侵入してきた段階でも小村選手1人、しかもまだ2m空けている守りがそれを表しています。不用意の誹りを免れない悔いの残るディフェンスでした。
後半10分、左サイドのスローインをもらった名波選手、ゴール方向に向き直してルックアップ、右サイドを駆けあがっていた名良橋選手を見逃しませんでした。20m以上の弾道の高いクロスはペナルティエリア内に侵入した名良橋選手にピタリ、これを名良橋選手、軽くジャンピングボレー気味に右足で合わせると、ボールは左ポストの下側を叩き外れてしまいました。
後半11分、最後尾から井原選手がクサビのパスを中田選手に、中田選手がはたいて山口選手、それを名波選手、また山口選手とつないで山口選手は最前線の城選手にスルーパス、これを城選手についていたDFがカットしようとしましたが、ボールが城選手に渡ります。ちょうどペナルティエリアの左サイドに入ろうという位置、ゴールまでは10mほどある距離でしたが城選手はワントラップからシュートを打ちます。しかしボールはゴールポスト左にはずれてしまいました。結果はどうあれ足に完全にヒットしていればという場面でした。野地アナウンサーが「決定的でしたぁ!!」と叫ぶと加茂さんも「これは本当に決定的ですよ。」いかにも恨めしそうなコメントでした。
後半14分、日本、ゴール正面20mの地点でFKを獲得、このタイミングで選手交代、城選手に代えて呂比須ワグナー選手、小村選手に代えて平野選手投入、DFを4バックに。
代わった平野選手がFKを蹴るとCKに、中田選手が蹴ったCKがこぼれてペナルティエリア外に、そこにいた平野選手がオーバーヘッドでペナルティエリアに送ると、ボールはゴール正面の呂比須選手の足元に、これをDF1人を交わして右側に持ち出しシュート、ボールはGKが右に飛んで辛うじて弾きます。こぼれたボールが走り込んできた中山選手の右側に、中山選手はボールをチョンと前に出しシュート体勢に入ろうとしましたが、蹴り出しがちょっとだけ大きくなってしまったため、一瞬早く相手DFのクリアに合ってしまいました。
このあとテレビ画面にはセンターサークルあたりで名良橋選手に押しとどめられているGK川口能活選手の姿が映ります。CKの際に自分も上がって攻撃に加わろうとしたのでしょう。川口選手の焦りが見えた場面でした。
雨は弱くなったものの降り続いている状況です。
後半16分、ハーフウェーライン付近左サイドから名波選手のパスが中田選手に通ります。中田選手はドリブルでペナルティエリアまで持ち込み相手DFに囲まれながらも持ちこたえて、一旦ボールを下げます。そこに平野選手が走り込み得意の左足でシュートを放ちますが、ジャストミートせずゴール右側に流れました。しかし、そこに中山選手が待ち構えており、小刻みに下がりながらシュートを打ちました。しかし下がりながらのシュートだったため力が弱くGKにキャッチされてしまいました。
GKの目の前の位置に呂比須選手がいましたので、もし見えてれば呂比須選手にフワリとしたボールを渡すと呂比須選手がゴール正面でヘディングできたかも、という場面でしたが、それは「たられば」ということになると思います。
後半17分、中盤で山口素弘選手が相手のパスをカット、ダイレクトで名良橋選手に渡すと名良橋選手もダイレクトで縦パスを強く送りました。それが呂比須選手に通ります。呂比須選手は自分を追い越して右サイドを駆けあがった中山選手に出します。中山選手は中を見ながら走ったままクロス、ボールはペナルティエリア左サイドに走り込んできた平野選手に合いました。これを平野選手、走ったままの勢いでジャンプ、ヘディングしますが惜しくもGKが右に飛んで手の届く範囲に落ち弾き出されてしまいました。
後半27分、ジャマイカ、FWホールに代えてボイド投入。
後半28分、最後尾、井原選手から左サイド相馬選手にボールが渡ります。相馬選手、前が空いていて、前線の状況を十分見てからアーリークロス、これはDFの網にかかりましたがキックの距離感が残ったのではないかと思います。
中山雅史選手がW杯日本人初ゴール、日本、何度もチャンスを作った末、遂に歴史的ゴール
後半29分、日本が自陣左サイドでFK、相馬選手、名波選手、中田選手とボールが渡り逆サイドの名良橋選手に、名良橋選手は秋田選手に戻し、山口選手、名波選手と渡ります。名波選手が左サイドの相馬選手の駆け上がりに合わせるようにボールを送ると、相馬選手は2~3歩進んでから切り返してボールを右キックに持ち替えます。そしてルックアップ、前線遠いサイドの呂比須選手をターゲットに40mぐらいはあろうかという長いクロスを送ります。
ボールは呂比須選手に届き、呂比須選手はDF一人を挟んで前方に走り込んできている中山選手にヘッドでフワリとしたパスを送ります。中山雅史選手は勢いを止めずに身体を捻るようにかぶせてボールを当てにいきます。ボールは見事に右足にヒット、バウンドしてゴールに吸い込まれました。
長いクロス、折り返し、シュートという絵に描いたような崩しの、日本代表の歴史的初ゴールでした。
この初ゴールで、日本サポーターの応援ボルテージがまたあがってきました。
中山選手、右足を痛めた模様、交代を求めず痛みをこらえながらプレー
後半31分、異変が生じます。ペナルティエリア内で相手DFとボールを奪い合った中山雅史選手が、倒れたあと右足を痛めたようで苦痛に顔を歪めました。すぐ立ち上がりましたが左足でケンケンしながらプレーに戻ったのです。この時、右足のどこかを痛めたのでしょうか。その後のプレーには絡んでいたものの、やはり右足を痛そうにしていることは間違いありませんでした。チームドクターも「ただごとではない」と直感していたようで、ピッチに入ろうとしたのですが線審に制止されて待機している間に中山選手が立ち上がりプレーに戻ったため、直接診ることができませんでした。
後半32分、センターサークルの少し相手陣内で中田選手が相手DFから強烈なバックチャージを受けて倒れました。相手DFマルコムには即イエローガード、中田選手の右足首の後側に入ったタックルで、中田選手も相当痛かったようですが立ち上がりました。しかし2~3歩左足でケンケンするほどの痛みだったようです。
そのファウルの直前には「日本ベンチが小野の準備をしているようだ」と、NHKの実況が伝えた矢先でした。
中田選手ものちに、この場面を振り返って「残り15分を切ってDFから足首にガーンとタックルを入れられた。あれは、はっきり言って物凄く痛かった。でも痛がらないように。残り時間を考えたらとても転がってる場合ではなかったし・・」と話しています。
後半34分、日本最後の選手交代、名波選手に代えて小野伸二選手投入。この交代、岡田監督の描いたゲームプランに沿った交代だったかも知れませんが、中山選手、中田選手と2人のケガ人をピッチに残したまま最後のカードを切ったことになります。日本ベンチの誰か一人でも2人のケガの状況を推し量ることはできなかったのでしょうか?
岡田監督自身も、特に骨折した中山選手を残したまま、小野選手を入れてしまい交代枠を使い切ってしまったことを「あと1分、中山の様子を見て動けなくなるのを確かめていれば、1人減った状態(動けない選手が1人いる状態)にせずに済んだし、同点に追いつく可能性もあったと思う。あと1分我慢できなかった。」と後悔しています。
後半35分、ジャマイカ、FWゲイルに代えて、FWバートン投入。
後半36分、ジャマイカゴール前でのボールの奪い合いからジャマイカ逆襲、ロングパスが右サイドのボイドに出ると、ボイド、ペナルティエリアのすぐ外で切り返して強烈なシュート、川口選手、反応して辛くも右手に当てコーナーに逃れました。
交代出場からわずか3分、小野伸二選手、股抜き後、果敢にシュート
後半37分、ジャマイカDFからのロングボールを名良橋選手が跳ね返すと、平野選手、山口選手とボールが渡り、右サイドに回っていた相馬選手に渡ります。相馬選手は前に持ち出すとパスコースに小野選手が顔を出したことからパス、小野選手は目の前に詰めて来た相手選手の両足の間を事もなげに抜いてボールをキープ、さらに詰めてきた別の選手もかわして左足でシュート、その距離ゴールまで20数mありましたが思い切りよく打ちました。しかしボールはジャストミートせずゴール右側に外れていきました。
ロスタイムに入ってすぐ、日本、右サイドからスローインを受けた小野伸二選手がゴール前の呂比須選手へクロス、ボールは相手DFのブラインドになった呂比須選手の肩にあたりゴール脇に外れていきました。ジャマイカ、MFシンプソンに代えてアール投入。
ロスタイム3分の表示。
ロスタイム1分、GK川口選手、ロングキックを前線に送ります。一度DFに跳ね返されたボールをマイボールにして呂比須選手、中山選手と繋ぎ右サイドの小野選手へ、小野選手自分で中に切れ込むと見せかけて右足アウトサイドで上がってきた呂比須選手にパス、呂比須選手、GKとの距離10m弱、トラップしている時間はないと見たか右足アウトサイドにかけるようにニアサイドに狙いを定めてダイレクトでシュート、しかし無情にもシュートはわずかに枠の外。
ロスタイム3分22秒ほどでタイムアップ。
日本、1点はあげたものの、またしても敗戦、ワールドカップ初挑戦が終わりました。
サッカーマガジン誌が伊東武彦記者のレポートで連載してきた「日本代表同時進行ドキュメント」も7週目のジャマイカ戦を持って脱稿となりましたが、そこには「スタジアムを打ちつける激しい雨音と、日本人サポーターの悲鳴が響き渡る中で逆転を目指した猛攻の果てに、岡田と選手が見た明日とは?」という言葉で締めくくられていました。
悲しい戦いの時はいつも「涙雨。」今回もまた、死力を尽くしてピッチをあとに控室に歩みを進める選手たちの頬には涙と雨のしずくが光っていました。
日本代表に立ちはだかった世界の壁、夢、抱いた根拠なき夢が、グループステージ3戦3敗270分で消え、日本サッカー史上もっとも濃密だった12日間の祝祭は終わりました
高鳴る心臓の鼓動、夢にまで見てきたW杯のピッチ、選手もサポーターも日本全国のサッカーファンも同じ夢を胸に臨んだフランスW杯、しかしW杯での勝利はおろか勝ち点1さえも、こんなに遠く厳しいとは・・・。
「出場するからには勝ちたい」「グループリーグ突破を目標にしたい」とまだ未体験の世界の舞台に対する希望、願望を抱いて戦ったものの、そう甘いものではないことを、戦った末に思い知らされました。
考えてみれば今大会、アジア最大のライバル・韓国が出場5回目にして初めて引き分けによる勝ち点1をあげたほど苦難の道を歩んでいるのに、日本がおいそれと、それを上回る成果をあげられそうだと思うこと自体に無理があったことを思い知らされたのでした。
日本代表は3試合270分を通じて中山雅史選手があげたわずか1得点だけが初出場の証しでした。
3試合で得た唯一の得点だけを土産に日本代表、帰国の途に
中山選手、実は右足すね部分の腓骨(ひこつ)を骨折していたことが判明
ジャマイカ戦の試合終了直後、中山選手がレントゲンを撮るため病院に直行というニュースが流れました。検査の結果、右足の腓骨を骨折していたというのです。後半31分のプレーの時です。腓骨というのは膝から足首までの、いわゆる「すね」の部分にある2本の骨のうちの細いほうの骨です。もう1本の太い骨は脛骨(けいこつ)といい、こちらが折れれば大事(おおごと)ですが、腓骨は筋肉が付着している関係で、折れてしまっても太いほうの脛骨に問題なければ動きを続けられることがあります。
中山選手は痛みがあるにも関わらずこらえて、結局試合終了までプレーを続けていました。チームドクターは、すぐ、病院での検査を促しました。中山選手は日本サッカー史上、ワールドカップでの第1号ゴールをあげた選手ですから当然のようにインタビューのリクエストが来ていましたが、チームドクターは検査優先を通し、病院で骨折が判明したのです。
後半33分に相手DFから右足首に強烈なバックチャージを受けた中田選手も、腫れが次第にひどくなっていったようです。
岡田監督は、試合直後のNHKのインタビューで、
「3試合を通じて岡田監督自身が、この世界の舞台で感じたことはどういうことでしょう?」という質問に答えて、
「勝負というものがそんなに甘くないということはわかっていたが、もっともっと、やらなければいけないことがたくさんあるなと感じた。ただ、最後のこの試合で選手の持っている力を全部出させてやれなかったことは僕の責任だと思っています。」と語りました。
ジャマイカ戦のことは、2戦目が終わったあとのジャマイカの選手たちのふるまいが脳裏から離れなかったようで、岡田監督はのちにこのように語っています。
「ジャマイカは0-5で負けても笑顔で拍手してスタンドにアピールできた。なのに、こっちは0-1で負けてモチベーションを見失なった。この差は一体何なんだろうか? (中略)」
「もうちょっとW杯という大きな枠組みの中での1試合という捉え方が自分にできなかったのか、選手にもそうしてやれなかったのかな、とは思うんです。(中略)我々の設定した目標があまりにも単純で明確に過ぎた。もっと、老獪に、うまくごまかしながら3試合やらせてあげられなかったかな、と思うんです。でも、そうすると、そこまで集中できたかどうかはわからない。難しい判断です。」(増島みどり著「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」1998年12月文藝春秋社・刊より)
岡田監督のこの自問自答は、この大会に臨むために自身が組み立てた戦略、それはアルゼンチン、クロアチアの試合を接戦でも何でも切り抜け、ジャマイカ戦に勝負を賭けられるようと描いた戦略が、実際には第3戦目には何も意味をなさなくなった時の「プランB」を用意していなかったことに気づいた自問自答だと思います。
岡田監督は「老獪に、うまくごまかしながら」という表現を使いましたが「もし2戦目までで決勝トーナメント進出を逃したら、ジャマイカ戦は徹底して楽しんでやるぞ、何も失うものがないと考えて、日本サッカーのいいところを見せるぞ」といった「プランB」でも用意できていれば違ったものになったと思うし、そもそもジャマイカのあの2戦目終了後のふるまいは「あとはプランBで行きますよ」とスタンドに向かって意思表示していたようなものだと気づいたのだと思います。
ただ最後に「そうすると、そこまで集中できたかどうかはわからない。難しい判断です。」と付け加えていましたが、それは日本代表という国民性や文化、歴史を背負った集団が、ジャマイカ代表選手たちのように簡単に「プランB」に切り替えられるのかどうかはわからないという意味だと思います。
岡田監督は、2戦目が終わった段階でジャマイカ代表のふるまいから、ある種のインスピレーションは受けたわけですけれど、それを「プランB」にまで落とし込むほどの時間も精神的余裕もなかったことでしょう。それは致し方のないことで、これこそが、ワールドカップ初出場のチームの限界であり、監督未経験の指揮官の限界でもありました。
リヨンでのジャマイカ戦を終えた日本代表は、エクスレバンに戻りキャンプをクローズして帰国準備にかかりました。
現地応援サポーター、全国各地のスポーツバーなどでのサポーター、テレビ観戦の全国のファン、歓喜の期待空しく12日間を終え、フランスのメディアは「日本のサポーターは世界一」と称賛
この日の公式入場者数は39,100人とのこと、ジャマイカサポーターはごくわずか、大半がブルーのユニフォームを着た日本人サポーター、アルゼンチン戦、クロアチア戦とチケット問題でスタジアムに入れなかった人が多かった2試合に比べ、両国ともグループリーグ敗退チーム同士の試合ということでダフ屋のチケット相場が大幅に値崩れ、日本円で15000~25000円程度で、希望した人が全員入れた初めての試合となりました。
これまで2試合敗戦とはいえ「次こそは」と意気込んでいたサポーターたちだっただけに、敗戦のショックは大きく、スタンドからは、その気持ちを表すかのように「カズコール」が響き渡りました。
日本代表サポーター「ウルトラス・ジャパン」のメンバーの中には、カズ・三浦知良選手が落選帰国した日に成田空港まで出迎えにいったメンバーや、フランスに応援に行った時にカズ・三浦知良選手のユニフォームをまとって行ったメンバーもいたほどですから、心情的には「カズさんがいてくれたら、こんな結果にはならなかったのでは」と考えるのも無理からぬことだったと思います。
そんな日本代表の応援サポーターの中には若い芸能人も含まれていたと6月27日の各スポーツ紙は報じていました。
「TOKIOの国分太一(23)、長瀬智也(19)、V6の井ノ原快彦(22)、森田剛(19)が、26日、リヨンのジェルラン競技場で、W杯サッカー「日本vsジャマイカ戦」を観戦した。日本の歴史的ゴールを目の当たりにした長瀬や森田は『絶対、後半に点をとってくれると信じてました。結果は負けてしまったけれど、日本のサッカーの歴史に残るゴンゴールを生で見られて本当に幸せです。満足です。』と興奮しながら話した。」
フランスワールドカップにおける日本のサポーターは、チケット問題に翻弄されたことが現地のメディアでも大きな話題となり、一部メディアからは「日本人サポーターが法外な値段でチケットを買い漁った」という批判を受けましたが、グループリーグの応援を終えた日本のサポーターたちに対して、現地メディアは総じて「最も熱烈で、最もさわやか」「日本のサポーターは世界一」と驚きと称賛をもって報じました。
なかでも試合後、スタンドで整然とゴミ拾いをする姿は「チケットはないがエチケットはある」と、見事に語呂合わせで称賛、フランス組織委員会の関係者も「整然としたゴミ拾いの姿はW杯初出場国の価値を高めた」と口を揃えました。
一方、日本国内での観戦は、試合開始が日本時間の午後11時ということもあって、第1戦のアルゼンチン戦、第2戦のクロアチア戦で見られたようなパブリックビューイング形式の賑わいはなかったものの、熱心な若者たちを中心に、ある街ではカラオケ店で、ある街ではスポーツバーで、ある街では地元放送局のロビーで、といった具合に観戦が行われました。
東京では、日本サッカーの「聖地」ともいえる国立競技場ではスタジアムの外にあるチケット売り場に設置されたモニター画面前に日本代表のユニフォームを着た約800人ほどが集まり観戦しました。
NHK総合が放送した日本vsジャマイカ戦の視聴率はビデオリサーチ社から平均52.3%と発表されました。NHK-BSでの視聴率5.6%を加えると58.1%、午後11時キックオフという遅い時間帯にも関わらず日本の初勝利への期待もあったためか高視聴率となりました。これで日本における歴代サッカー中継のベスト3が、すべて今大会の試合となり新たな歴史が刻まれました。
6月27日現地時間午前8時30分、エクスレバン出発前総括記者会見
日本サッカー協会・大仁強化委員長と岡田監督が別々に会見を行ないました。
日本サッカー協会・大仁強化委員長会見
「強化委員会の総評としては、3戦全敗、グループリーグ敗退は残念でしたが、チームはよく戦ってくれた。日本の持っている力を出し切ってくれた。」
「岡田監督の本格的な強化は5月のキリンカップからだったが、限られた時間の中で日本チームのベストを尽くし、相手チームの分析、その対策などをよくやったと思う。」
「戦い方のうちディフェンス面では1対1の強さが課題となる。1対1の強さが足りないため攻撃の人数も守りの組織に回り、攻撃が手薄になった。」
「フィニッシュについては大いに改善しなければならない。といっても釜本はいないしスーケルもいない。しかしクロスの正確性や、そのボールへの入り方は世界と差がある。またセットプレーからの得点をもっと増やさないと苦しい。」
「昨夜宿舎で岡田監督に続投を依頼した。しかし監督は3戦で結果が出なかったことは自分の責任であり辞めたいということだった。その意向は預かって、帰国してから再検討し協会理事会に委ねたい。協会として(本大会監督に)岡田監督を選んだのは間違っていなかったと今でも考えている。我々(強化委員会)に対する評価も理事会に委ねたい。」
岡田監督会見
「W杯出場が決まって、相手が決まって力を分析して、4バックでは無理と考え3バックにトライして大会に臨んだ。」
「選手たちは呑み込みも早く、非常にいいパフォーマンスを見せてくれた。ただ残念ながらアルゼンチン戦では緊張、クロアチア戦では詰めの甘さ、ジャマイカ戦ではゴールへ向かう意識が低くて、1勝もできなかった。しかし選手は100%力を出し切ることに最大限の努力をして、やってくれた。彼らとスタッフに感謝したい。胸を張って堂々と帰ってほしい」
Q. ジャマイカ戦は攻めているのに1点しか取れなかったが?
A. ゴールに向かうのが遅かった。チーム作りの段階で中盤のスペースにパスをつなぐ練習をしてきた。そのため自然と中盤でのパスの回数が多くなり攻撃が遅くなった。パスに固執しすぎたかもしれない。
Q. FWの柱の城が得点できなかったが?
A. 城はしっかりボールが止められる。シュートも打てる。総合力で城を柱にして、運動量のある中山やスピードのある岡野を組み合わせてきました。確かにシュートは外しましたけど、自分が信じてやったことです。後悔はしていない。
Q. 選手交代の時間がいつも同じだが?
A. 後半に入ってもまだ攻めを速くすればいけると思っていた。最後に小野を入れたのは、ゴールするのは中山か呂比須しかいないと思っていた。そのため中盤にタメを作れる選手が欲しかったから。
Q. 監督の経験不足は影響したか?
A. キャリアがあれば「ついてこい」と言える。自分にあるのは理論だけ。選手を納得させる分だけ仕事が増えた。苦しいと考えたことはなかったが。
Q. 今後については?
A. 辞めます。私はプロの監督として思い通りにやってきた。自分は職を賭けてリスクをかけてやっているという誇りが自分を支えてきた。ここで結果を出せないのに(留任という)安易な道を選んでは、今後、指導者として自分を信じられなくなってしまうし、選手にも信頼されなくなるだろう。だから、どんなことがあっても続けられないと大仁さん(強化委員長)に話した。代表監督は続けるつもりはない。
(クラブから)オファーがあれば考えたい。サッカーの仕事がなくなっても、身体は動くから家族は食わせていける。
岡田監督はそれまでの思いつめたような表情から打ってかわった、穏やかな表情での会見となりました。日本代表監督という任務から解放された安堵感がそうさせたのでしょう。
岡田監督と小野コーチは、強化委員会へのレポートを仕上げるため大会に残ることになり、選手と他のスタッフたちだけがエクスレバンを離れることになりました。
正午過ぎ、選手たちを乗せたバスがリヨンの空港に向けて出発しました。日本代表の戦いが本当に終わったことを感じさせる瞬間でした。
数か月間、日本代表を持ち上げ続け日本中に夢を抱かせたマスコミ、「宴のあと」今度は日本代表批判
グループリーグの最終戦・ジャマイカ戦を終えて日本代表の3戦全敗が決まると、マスコミの論調に変化が出始めました。これまで数か月間、日本代表を持ち上げ続けたマスコミが、3戦全敗、グループリーグ敗退に終わった日本代表の批判を始めました。
特に指揮官である岡田監督と、選手の中で城選手が標的となりました。
最初に火をつけたのはテレビでのヴ川崎・ラモス瑠偉選手の発言でした。ラモス瑠偉選手は、W杯全試合を放送したNHKの日本戦放送の際、試合前後に組まれた特番に3試合とも東京のスタジオで出演して、有働由美子アナウンサーとトークしながら番組を進行したのです。
第1戦のアルゼンチン戦後は日本代表の健闘を称えながらも「選手の中にはワールドカップを甘く考えている選手もいるように感じた。日本代表としての気持ちが感じられない選手がいたように感じた。まぁ気持ちを切り替えて次の試合に頑張って欲しい」と、控え目のトークでしたが、第3戦ジャマイカ戦に敗れ、日本3連敗が決まった後のトークは熱くなりました。
ラモス瑠偉選手はジャマイカ戦のハーフタイム時のトークでも「勝ちたい気持ちが伝わってこない、だらだら歩いてボールを奪う気持ちがない」と苛立たしそうに話していました。
ジャマイカとの試合が終わり、スタジオに切り替わった画面で、有働アナウンサーが打ち沈んだ様子で「はい、という結果なんですけど・・・、なんて言っていいかわかんないんですれど・・・・。」とラモス瑠偉選手の言葉を待ちました。
ラモス瑠偉選手もしばらく無言でしたが「ま、こんなもんです。」と絞り出しました。有働アナがすかさず「こんなもん、というのは?」と突っ込みました。
「ま、あまり言いたくないんですけど・・。ま、こういう結果になるのはある程度、予想してたんじゃないかな、何人かは。」
「どうして?」
「最初からね、結構、サッカー何人かなめてるんじゃないか、前から言ってるんですけど、ほかの国に戦争に行ってるのに、タレントっぽい、Jリーグでやってるような気持ちでやってるのが、こういう結果になったんじゃないかと・・・。」
「ジャマイカに負けたのは、結局(ジャマイカの選手たちが)すべての面で真剣に勝負に出てきてる、負けたくないという気持ちも、技術の問題じゃなくて、(日本は)気持ちの問題で負けたというのが悔しくてしょうがないですよね。」
有働アナは現地にいる松木安太郎氏を呼び出し「日本には何が足りなかったんでしょうかね」と意見を求めると、松木氏は「ラモスさんもさっきから何回もおっしゃってますが、戦う前の段階、なんとしてもこの勝負に勝つんだという気迫というか、そこからまず何か生まれてくるんじゃないかと・・。ちょっと気になったのは、ジャマイカの選手たちは普段すごく陽気なんですけどグラウンド上で歯を見せてる選手はいなかったんです。それに対して日本の選手は、戦場では白い歯はいらないんじゃないかと、僕自身はそう思いました。」
このあと全国各地のサポーターの声や呂比須選手のインタビューを挟んで、ふたたび有働アナがラモス瑠偉選手に話を振りました。
「ラモスさんは、日本の課題については、どう思いますか?」
「今回の日本代表は、やはりベテランの力が足りなかったんじゃないかと、どこの国でも見ていると、だいたい活躍している選手は32とか33とか経験ある選手ばかり、日本の場合はそういう面で足りなかったんじゃないかと思います。」
そして番組も終盤に差しかかる頃、有働アナが「ラモスさんは、ほんとうに日本代表にあったかく見つめながら、だからこそ厳しいんですが、今日も含めて3戦・・・」と問いかけると、ラモス瑠偉選手は「僕が言いたいのはね、日本のサッカーって、こんなもんじゃないです。もっとできるはずです。それは戦術とか技術ではなく「魂」をもってできるはずだったから僕は悔しいだけです。」
「私たちJリーグで引っ張ってきたベテランがいきなり無視された、それもすごく悔しいです。結局、誰が責任をとるのか、それも見てみたいです。日本のサッカーがよくなるためには、誰かがここで責任をとらなきゃならないと思います。そうでなければ本当のレベルアップにならないと思います。日本のサッカーは本当にこんなもんじゃない、それだけに悔しいです。それだけです。」
ラモス瑠偉選手のコメントは文字にすると少し強い口調に感じますが、3戦ともラモス瑠偉選手は努めて抑制的にコメントしています。もの静かに聞こえるぐらいの話しぶりが一層、ラモス瑠偉選手の胸のうちを表しているようで視聴者にはインパクトのある話しぶりだったかも知れません。
NHKの日本戦中継の視聴率は、アルゼンチン戦が60.5%、クロアチア戦が60.9%、ジャマイカ戦でも52.5%と、歴代の日本におけるサッカー中継のランキング1位から3位を占める高さで、この数字は、日本全体がこれらの試合に注目して放送を見ていたという数字です。
ですから、有働由美子アナウンサーとラモス瑠偉選手のトークは、大変な社会的影響力を持って視聴者に届いたのです。
放送終了後、NHKにはラモス瑠偉選手の発言に対する賛否も含めて合計15万5000件もの意見などが寄せられたそうで、これだけの量の意見・問い合わせは1995年の阪神淡路大震災の時の14万件を凌ぐ過去最高の反響になったそうです。
さすがに日本サッカー協会も座して看過するわけにもいかず「武器なき戦争とかいう発言は、お茶の間の素人ファンには聞こえがいいが、協会も現場も準備にベストを尽くした。その結果は素直に受け入れてもらいたい」と反論しましたが、世論は味方をしてくれませんでした。
このラモス瑠偉選手のコメントが口火となり、新聞、テレビ、雑誌などが次々と岡田監督そして、ラモス瑠偉選手が「サッカーをなめてるんじゃないか」と暗に批判した城彰二選手に批判の矛先を向け始めたのです。
ジャマイカ戦がおわった後の、それらの報道をピックアップしておきます。
【スポーツ紙・夕刊紙】
・6月27日 日刊スポーツ「我がニッポンこんなに弱いとは・・3連敗終戦」
セルジオ越後氏「日本は0-1とリードされたのに、中田も城も笑いながら出てくるんだから、何を考えてるんだろうか? 井原や秋田は厳しい顔つきで出てきてるのに・・。」
・6月27日 夕刊フジ「岡田ワンパターン采配」「長沼、川淵ら協会幹部も同罪」
奥寺康彦氏「怒り、イライラ・・・。わたしはいったいフランスまで何を求めてきたのだろうか。日本代表に言いたいことは山ほどある。しかし、これほどまでの無気力の試合を見せつけられると、試合終了と同時に放心状態になってしまった。」
リトバルスキー氏「日本vsジャマイカ戦を観戦して、わたしがすぐにしたことは、思い切り走ることだった。そうでもしなければ体中に蓄積したストレスが爆発しそうになったからだ。おそらく日本のサポーターも私と同じ気持ちだったろう。」
・6月28日 スポーツニッポン「あゝ 城に流された 不振でも「柱」指揮官判断鈍った」
【テレビ】
・98.6.27 TBS「ブロードキャスター・日本はなぜ予選リーグで敗退したのか」福留功ほか
(20’03)ゲスト・セルジオ越後氏
・98.6.27 フジ「土曜一番花やしき・日本代表はなぜ勝てなかったのか・徹底討論」
福井謙二ほか(1H05’30)出演者 二宮清純氏、金田喜稔氏、森保一選手、
岩本輝雄選手、大阪体育大・原田宗彦教授
・98.6.28 テレ朝「サンデージャングル・日本はなぜ予選リーグで勝てなかったのか」
中居正広ほか(7’42)コメント・セルジオ越後氏
・98.6.28 TBS「炸裂スポーツパワー・岡田ジャパンに足りなかったもの」吉田照美ほか
(52’50)出演者 清雲栄純氏、清水秀彦氏、草野満代氏、長谷川健太選手
・98.6.29 TBS「おはようクジラ・今週の気になる話題1位『全敗』」青島健太(19’00)
・98.6.29 日テレ「ザ・ワイド、日本代表帰国、再燃する責任の所在」草野仁ほか(16’57)
【週刊誌】
・98.7.20号 AERA「戦犯は城、カズが出ていれば結果は違った。ラモス発言が呼ぶ論争」2p
ともあれ、マスコミは、大会前、あれだけ岡田監督を持ち上げていたにも関わらず、3連敗に終わった途端、戦犯扱いです。それも節操のないマスコミの姿ではありますが、カズ・三浦知良選手外しと3連敗は、中山選手、城選手のメンタルにまで影響を与えたという意味で無関係ではありませんでしたから、岡田監督も批判を甘んじて受けるしかないと考えていることでしょう。
日本代表帰国、成田空港での「水(清涼飲料水)かけ」事件
6月29日15時06分、大会を終えて帰国の途につき成田空港に到着した日本代表選手たちを待ち受けていたのは、大勢の出迎えのサポーターの中に潜んでいた狼藉者からの城彰二選手に対する「水かけ(清涼飲料水)」という出迎えでした。
人垣の中から狼藉者の手がすっと伸びてきて、城選手が目の前を通り過ぎるのを見計らってペットボトルから水が放たれました。スーツを着た城選手の左ほほから肩口付近に水がかかりました。
決定的瞬間は東京スポーツ紙・紙谷光人カメラマンによって捉えられ同紙のトップを大きく飾りました。狼藉者の姿も永遠に画像に刻まれました。
それでも城選手は、少し顔をゆがめ手で拭き取ったものの、取り乱すことなく他の選手たちと歩調を合わせて進みました。
しかし、それは「FWの軸は城⇒カズ外し⇒頼みの城の不出来」という結果を招いた岡田監督の責任を背負い込んだ洗礼だったのです。
この事件が起きた日本代表の帰国について、サッカーダイジェスト誌に連載コラム「セルジオの天国と地獄」の1998.7.22号の中で、日本サッカー協会や岡田監督を次のように痛烈に批判しています。
「帰国のときに、どれだけ組織が空虚だったかを思い知らされたね。キリンカップのチェコ戦(5月24日)では、試合前の壮行会に長沼会長が顔を出した。でも選手が帰国のときはバラバラだった。長沼会長はひとりでとっとと帰ってきてた。いいときだけ顔を出して、ヤバイときには逃げ隠れするんだ。おまけに岡田監督は視察と称してフランスに留まってる。行きはあいさつしたのに、帰りはどうしたのって感じだね。一緒に帰るべきだし、大会を視察したいなら日本に一度帰って、そのうえでまたフランスに出発するべきでしょ。しかも、そんなワガママを協会は容認してる。」
「すべてを岡田監督に押しつけたから、最後に監督のブランドになにも言えなくなってたんだ。そんなことばかりしてるから、成田空港に帰ってきた選手たちはノーガートにされてしまったんだ。」
「顔を出すのはいいときだけ。(こういう)協会の姿を見て、選挙に落選した候補者の事務所を思い出したよ。(投票日までは)盛り上げるだけ盛り上げて、落選が決まると、あっという間に誰もいなくなる。(サッカー協会は)そんなことが許されてはいけない。(以下略)」
日本代表の初めての勝ち点、初めての勝利は、あとは4年後、アジア予選を免除されて行われる2002年日韓大会に持ち越されることになりました。今大会で奪った1ゴールをスタートラインとして未来に向かっていくことになります。
その2002年日韓大会に向けて、今回の大会を戦った監督・選手・スタッフたちには何が残り、何を受け継ぎたいと考えたのか、幾つかの視点からつぶさに記録に留めたいと思います。
日本はどう戦おうとして、なぜ勝てなかったのか、岡田監督のサッカーを検証
前年秋、W杯アジア最終予選で土壇場に追い込まれた日本代表を、本大会出場権獲得に導いた岡田監督、その岡田監督が本大会では日本より力が上の国と戦わなければならないという課題を前にした時、どういう戦い方をしなければならないのか、どういう戦い方ならば勝つ可能性を高められるのか、年明けから取り組んできたチーム作りは、その試行錯誤に費やされてきたと言います。
その岡田監督のめざすサッカーを論理的に組み立て、選手たちに納得する形で説明できるよう準備したのが小野剛コーチでした。小野コーチは、サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」のインタビューに答えて、そのあたりをつぶさに語ってくれています。
「3バックの導入を私たちコーチングスタッフが決断したのは3月頃です。ゴールデンウィーク中が最初の山場でした。あの数日間に岡田監督とともに延べ数百本のビデオを観たでしょうね。まずは徹底的に過去の試合を観て3バックのどこが悪く、どこがうまく行っていたのか、それを考えたんです。ある程度の傾向ははっきりしました。それと日本には3バックが向いていないという空気が作られていて、3バックに対してネガティブなイメージを持っていた。」
「次にそれらの原因を分析し、最後に新3バックのコンセプトの確立ですね。本当に寝ずに議論したんです。」
「ですから、私たちにとってW杯の勝負の日というのは5月11日、御殿場で合宿をスタートさせた日でした。何としても選手に納得してもらわねばならない。選手との真っ向勝負の日でした。それじゃあわからない、とか、何をやりたいんだかさっぱりとかでは、こちらの負けです。もう、ただでさえ時間がないのですから。」
「実は、その勝負に備えて監督と四方田たち(日本代表テクニカルスタッフ)とは、御殿場の一発目のミーティングの『予行演習』まで事前にしていたんです。想定される質問への答え、さらには、ハイここでその例のビデオを見てみよう、とかね。コンピュータ・グラフィックスを見せるタイミングまで図りました。」
「ミーティングは30~40分の短いものでしたが、うまく伝わったと確信しました。選手の理解力には本当に敬意を抱いたし、あれほど緊張したミーティングはその後もありませんでした。監督とは、練習はアルゼンチン戦まで35回、そのうち22回は戦術練習をすると決めて、プログラムを作りました。とにかく時間との戦いでした。」
「大事なことのひとつは、この3バックがアジアでこれまでやってきたものとは違う点です。簡単に説明すると、これまでのアジアバージョンは、一度食い付いたら話すな、噛み続けろというものです。これが今度は、食い付くチャンスは見逃さないが、しかし、相手がミスもなく再びセットアップしてきたらいったんは歯を離して、2度目、3度目を狙うという考えです。」
「W杯のレベルになると、噛んだままだと逆に振り切られてしまうんですね。逆サイドに展開され、押し上げた裏のスペースを一気につかれてしまう。だから、選手には一度間でまた離す、つまりチームが守備陣から攻撃まで同じタイミングでそれを実行する、そういう3バックのイメージをつかんでもらうためのビデオを、御殿場で見せたんです。」
「ただ通常のビデオはどうしてもボールを追ってますから、前線でボールに食いついた時の最終ラインの動きなどが画面にないことも多い。そこでそこのイメージを作るためにデータ入力をして、自作のコンピュータ・グラフィックスを作りました。」
「日本は守備的だったという人がいますが、これはまったく間違っています。あれほどの国際舞台で守備的な布陣を敷くには資格がいります。つまり『守備的な布陣を敷いたとしても点が取れる』という資格です。たとえばアルゼンチン、クロアチアですね。彼らにはそれが許されているんです。」
「重要なことですが、彼らは昨年の予選から段階を踏んで攻撃にかける人数を減少させているんです。人数が減少しているというのは、それだけの人数でも得点できるシステム、それを支える個々の技術の精度、これらを確立しているんです。」
「対して日本は、ボールを前線に運ぶにも全員でやらねばなりません。これが現実です。3人で点が取れる国ならいくら守備的でもいいでしょう。しかし、我々にはそれは許されない。リスクを冒してでも攻撃的に行くよりほかないんです。それが今回の3バックの基礎にある考え方です。だから、日本は3バックで守備的に戦ったというのはまるで違っています。(以下略)」
こうした岡田監督がめざしたサッカーについて、サッカーマガジン誌1998.7.15号で、日本代表に密着取材を続けてきた伊東武彦記者が「岡田サッカーの失敗」という見出しで、そのチーム作りを振り返っています。岡田監督がどのようにして戦おうとして、その結果どうなったのか、わかりやすくまとめているレポートですのでご紹介します。
「日本が互角以上のレベルと戦うためには、コンパクトな陣形でパスをつなぎ、スペースを作り、またパスをつなぐという丹念な作業を積み重ねていかなければならない。」
「ディフェンスラインが長いボールを前に蹴るばかりでは、日本の場合は攻めにならない。前線のストライカーに少ない人数でゴールまでつなげる力がないからである。」
「さらに長いボールを蹴るうちに、前後の距離が間延びして、相手にスペースを与えて守りの面でもリスクを負う。日本の命綱が攻守のバランスにあるのは、そうした理由からである。」
「(中略)ジャマイカ戦後に、岡田監督は言った。『これまでビルドアップを強調しすぎたせいで、1本のパスで相手を崩すような攻めに対する意識が低かった。ワールドカップでは、これまでやってきた遅攻も必要だとは思っていたが、それだけではやはり破れない。しかし速い攻めの意識付けをする時間がなかった。』」
「パスは回る、しかしゴールには近づけない。ましてや相手の急所をえぐるような崩しのパスは出せない。この日(注・ジャマイカ戦)の日本がのぞかせたのは、それまでのパスサッカーの限界だった。」
「(中略)振り返ると、ボールのキープ率に比べて、決定的なチャンスそのものが少なかったことがわかる。」
「3試合を通じて、決めなくてはいけないチャンスは、まずクロアチア戦前半33分の中山のシュート、ジャマイカ戦の前半37分に城が相馬の折り返しをゴール前で受けたシーン、同じジャマイカ戦後半17分に中山の折り返しを平野がヘッドで合わせたシーン、そして最後はジャマイカ戦後半29分に中山選手がゴールを決めたシーン、この4回だけしかなかった。」
「『惜しい』と思わせるシーンはそのほかにもあったが、いずれも(決めなくてはいけないというレベルではなく)、決まってもおかしくはないというレベルのチャンスだった。」
「もちろん少ないチャンスをものにできるかどうかで勝負の行方は決まる。しかし『2トップの決定力不足は、チャンスを多く作り出すことで補うしかない』と話してきた岡田監督にとっては、チャンスが少ないことが、失敗ということになる。」
「(中略)何の変哲もないパスゲームで日本代表をよみがえらせた岡田サッカーは、結局その『特効薬』の後遺症に敗れることになった。」
「3バックへの切り換えへの迷いがチーム作りを遅らせたとも言える。『日本の(中盤のパスワークでビルドアップできるという)特徴をなるべく殺したくないという考えでぎりぎりまで決断を延ばした』と岡田監督は言う。そうした迷いも含めて『後悔はしていないし、正しかったかどうかはみなさんが判断すること』という言葉を残して岡田監督は日本代表から去った。」(注・岡田監督が最終的に3バックで行くことを選手たちに伝えたのは、小野コーチの話にもあるように5月になってから)
「大仁強化委員長は、『限られた時間の中で、よくやってくれた。チームの抱える課題への対策、相手の分析力を高く評価している』とそのチーム作りについて話した。その上で、ディフェンス面の『1対1の強さ』、攻撃面では『距離のあるボールと前線へのパスの精度、フィニッシュ、クロスのタイミングと精度』を今後に向けた全体の課題として挙げている。」
「課題を言えば山ほどある。しかしそれらはワールドカップでの課題ではなく、普段からJリリーグで指摘されている日本人の課題である。それは日本サッカー全体が取り組んでいくレベルのねので、代表監督のチーム作りとはまた別だ。」
「岡田監督は失敗を認めた。次は強化委員会を含めた日本(サッカー)協会が、そのチーム作りの方向を検討する番である。(中略)岡田監督が最後に送ったパス。それを日本(サッカー)協会は、慎重に受けなくてはならない。」
日本をワールドカップ初出場に導いた「英雄・岡田監督」が、本大会で失敗した2つの根本的な理由。
前年秋、突然、日本代表監督を引き継ぐ羽目になった岡田監督。論理的に考え最適解を見出す思考能力の高さで、過酷な状況でも冷静さを失わず、針の穴を通すような難しいミッションを成し遂げ、日本をワールドカップ初出場に導き、一躍英雄となった岡田監督が、本大会では明らかに失敗してしまいました。
採用した戦術、選手起用、試合中の采配等、いろいろと指摘されていることは、根本的な失敗の理由から派生したものです。
ここまで、つぶさに岡田監督と日本代表各選手の様子を追ってみて、2つの根本的な理由が浮き彫りになりました。
それを、今回のワールドカップグループリーグ敗退の原因検証の総括として記録し、長く後世に語り継ぎたいと思います。
理由その(1) カズ・三浦知良選手を22人の中に残さなかったため、チーム全体のメンタルが大会直前になってガタガタになってしまったこと
カズ・三浦知良選手の離脱については「外された」「日本に帰国することになった」という捉え方で報じられ、岡田監督がカズ・三浦知良選手に対して「夢を直前になって取り上げた」とか「功労者をないがしろにした」とか「尊厳を傷つけるやり方をした」といった、感情的、情緒的な側面からの批判が表に出てしまいました。
つまり岡田監督とカズ・三浦知良選手の間の問題としてだけ捉えられてしまい、より重要で影響が大きかった「カズ・三浦知良選手が離脱したことによるチーム全体へのダメージ」については、ともすれば見過ごされていました。
そもそも岡田監督自身も、最後まで、外れる選手に対する考え方、すなわち「サブは嫌だ、試合に出られないから文句がある、そういうことを考え、それに耐えられないというなら、日本に帰っていいぞ、そんなケアが必要な選手なんて要らなかった」ということについては徹底していました。
しかし、誰かを外した時、具体的にはカズ・三浦知良選手に尽きるのですが、彼を外した時、残った選手たちにどういう影響があるのかという点については「プロなんだから割り切ってやってくれるばす」といった程度の認識で、残った選手たちのメンタルに影響を与えるかもしれないとまでは考えなかったのです。ましてや、残った選手の中で、特に絆が深かった何人かの選手たちのメンタルに深刻なダメージがあるかも知れない、などというところまでは、まったく思いが及ばなかったのです。
しかし、あらためて、この3ケ月ぐらいの経過を克明に追っていくと、日本代表が一つも勝てずに終わった背景には、カズ・三浦知良選手を22人の中に残さなかったため、チーム全体のメンタルがガタガタになってしまったという事実が浮かび上がってきます。
チーム全体のメンタルと言いましたが、特に井原選手、中山雅史選手、城彰二選手のメンタルがガタガタになってしまったことが大きいのです。
3人とも表向きは平静を装っていましたから、それほど話題になりませんでしたが「カズさんがいなくなってしまった」ことでメンタルに空いた穴を埋められないまま大会に臨まざるを得なかったのです。3人にとってはカズ・三浦知良選手との絆は、単なる先輩、単なるチームメイトではなく、心の拠り所だったからです。
象徴的だったのは井原正巳選手と中山雅史選手のケガです。井原選手は、カズ・三浦知良選手の落選発表の直後の練習でケガをしてしまいます。井原選手のメンタルがガタガタになった結果、心ここにあらずのプレーがケガをもたらしてしまいました。
井原選手は初戦のアルゼンチンに何とか間に合い、最悪の事態は免れましたが、チームキャプテンの、直前10日のブランクは3戦を戦う井原選手のコンディションにも影響が出ましたし、チームでのキャプテンシーやDFの統率といった面でも影響が出ました。
サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」の中で井原選手が「人生最悪の日」と6月2日のことを次のように語っています。
「もし人生最悪の日があるというなら、自分にとっては間違いなく6月2日だったでしょうね。昼飯の後、食堂で、監督から、『ここにいる22人で戦うことになった。市川は残る』そういう短い伝達があった。それだけのミーティングを終え、最初にカズさんの部屋に行きました。もう荷造りをしていて『とにかくオレは帰るから』と。何か夢でも見ているような感じでしたね。ここまでぼくらを引っ張ってきたこの人が帰る? そんな馬鹿な、って。帰る、それだけが聞こえていました。どういう顔をしてどういう声をかければいいのか全然わからなかった。それで中山の部屋になぜか足が向いて、あいつと二人で『どうしようか、これから・・・』って。何を話すわけでもなくただボーッと考えていましたね。(中略)」
「(注・誰がチームから離脱しても)間違ってもそのことで『残った』選手が動揺したりするようなことがあってはならない。それは十分理解していました。(注・外れた選手が帯同、離脱)どちらであっても、これまでと同じようにやるのだということは心に決めていました。でも今思っても、一番動揺しているのは自分だったのかもしれません。カズさん、キーちゃんにはずっと自分の前を歩いてもらって来た。引っ張ってもらっていた二人が目の前から消えるなんて、信じられなかったんです。帰るんだ、そう思ったら何かものすごく不安になったのを覚えています。」
「中山と『とにかくいつも通り平静を装ってやろう、声出して』と、まあ他愛もないことを確認してグラウンドに向かったんです。バスの中では景色を見ながら憂鬱でした。聞かれるんだろうな、みなさん(報道陣)に、カズさんのこと、キーちゃんのこと、チームのこと・・・・。それでミニゲームが始まって。」
「城との接触ですか? 『あれ? 変な着地したな」と一瞬感じました。でも次の瞬間、ひざに激痛が走りました。痛くて痛くて、すぐにヤバイ、これはかなりひどいだろうとは思いましたね。95年にやった個所と同じだったんで。でもなんでこんな時に・・・・と。ああいう着地をなんでしてしまったのかなんてわからないですが、でも、気持ちに動揺があったからだと指摘されても仕方がない、そういうシチュエーションですね。自分ではそんなつもりはまったくなかったのに、心のどこかで動揺していたのかもしれません。それが出てしまったのかもしれません(中略)」
「帰りのバスに向かう途中も最悪でしたね。もうカズさん、キーちゃんのことは聞かれるわ、監督やチームのことも聞かれて。当たり前ですけどね、キャプテンなんですから。でも『平静』を装って答えている自分のひざは、もうずきずき痛んでくるし、何だこの状況は? って、本当にめちゃくちゃでした。」
「さらに宿舎に戻ってから、ひざのこともあって岡田監督の部屋に一人呼ばれました。そこで『井原、お前がオレのやり方を信じられなくなったら、このチームは終わりだから』って言われました。監督も相当きつかったんだと思います。あの選択に関しては。そりゃそうですよね。岡田さんが全責任を一人で負うわけですから。(中略)」
「22人が発表され、自分より歳上だったカズさん、一緒にキーちゃんが帰り、一番若い市川が一人残ることになった。それから自分もケガをしてお先真っ暗、マスコミのみなさんにはたくさん質問をされ、監督にはお前がオレを信じられなくなったら終わり、と言われ、いやもう、本当にしっちゃかめっちゃか、とはあの日のことを指すんでしょうね。本当に何がなんだか分らない一日になってしまった。」
「あれからはもう、ひざの痛みとの戦いの日々でした。(中略)ひざの痛みがひく時と痛む時が交互にきて毎日が完全に躁鬱状態でした。あまりああいう精神状態を経験したことはありませんでした。ボクは信仰心は持っていないんですが、夜など、部屋の天井を見ながら、神様、一体オレが何をしたって言うんですか? それとも、もうドーハ経験者にはW杯には行くな、お前には結局そんな運なんてないんだ、ってことなんですか? って、聞いてしまいましたね。本当にしんどかった。それに長かったですね。」
3試合をすべて終えたあと、井原選手の涙はぬぐってもぬぐっても止まりませんでした。その理由を「今目の前にある1勝を逃したから、ただただ悔しかったから」と述べました。心の奥深くにある思いをあからさまに言うことは生涯決してないことでしょうけれど、井原選手の心を去来したのは、チームのメンタルがバラバラに壊れてしまった悔しさ、それを盛り返すことができなかった悔しさだったことは想像に難くありません。
それは中山雅史選手も同様です。4月にあれほど面白いように得点を重ねた中山選手ですから日本中の誰もが、もっと得点をあげてくれるに違いないと期待した選手です。
では、中山選手はなぜ1得点だけで終わってしまったのでしょうか? FWの選手というのは好調な時、そのポジティブな気分と研ぎ澄まされた得点感覚が持続されてこそ得点を重ねられる、ある意味非常にデリケートな「生き物」です。
磐田で4試合連続ハットトリックを達成できたのは、チームメイトの盛り上げ、サポーターの後押しといったポジティブな気分を持続できる要素と、チームメイトのどこからでもラストパスが出て来るといった恵まれた試合の中で得点感覚が鈍ることなく持続できたためです。
しかし、今回は盟友・カズ・三浦知良選手の離脱という中山選手にとって痛恨の出来事が起きてしまいましたから、FWとして、ゴールハンターとして、勇猛果敢な、獰猛な気持ちを奮い立たせるのは容易なことではなくなったのです。
中山選手は、前年秋のアジア最終予選の第8戦に、出場停止処分のカズ・三浦知良選手、呂比須ワグナー選手に代わって高木琢也選手とともに招集されました。
その時、カズ・三浦知良選手から「自分とともに戦って欲しい」と背番号11のユニフォームを託され、重ね着でプレー、見事ゴールした時には、わざわざスタンド方向に駆け出し、自分のユニフォームをめくって背番号11を観客に見せたほどの間柄、勝利を誓い合ったサッカー少年同士のような盟友なのです。
カズ・三浦知良選手の離脱という現実は、中山選手選手にとって、とても平静でいられるはずのない出来事だったのです。
ここでもまた、サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」で語っている中山雅史選手の6月2日の様子をご紹介します。
「6月2日の、あれは確か昼飯の時でした。22人が伝えられたのは昼飯の後でしたから、まだ選手には発表されていなかったんですが、キーちゃん(北澤)が、食堂で同じテーブルについて、その時、『ゴンちゃん、オレ、ビンゴだよ』と。驚いて顔を上げたら、『カズさんも・・』と。『ウソだろ?』そう言ったきりだったと思います。キーちゃんとは何も話せなかった。自分は残る。彼らは帰る。(中略)」
「(注・そのまま部屋に戻って)部屋からは出ませんでした。そうしたらノックの音がして、カズさんが部屋に来てくれたんです。握手して、『お前は残ったんだからがんばれ、いいな、絶対がんばってくれ、しっかりやるんだ』ってね。何も言いませんでした、オレは。」
「手を離したら、何となく・・・・抱き合ってお互い背中を・・・・その時、カズさんが、こう右手でゲンコツを作って、オレの背中、腰のあたりを物凄く強く叩くんですよ、『がんばれ、がんばれよゴン。お前なら絶対やれるんだから・・・・』って。あの時のドンドンって叩かれた感触、カズさんがああいう仕草で励ましてくれたこと、すべて、カズさんの気持ちを表していたんだろうな、と思います。ぶつけようのない悔しさ、残る者への期待すべてがこもったゲンコツだったんだと。本当にあの感触が忘れられない。」
「おかしなもんですよ、こっちが励まされたんですから。(中略)」
「カズさんとキーちゃんが控えでいたあの1ケ月でさえ、何をするべきか、どう振舞うべきか、二人がそれを先頭にたってやってくれたことは間違いない。あの人たちの精神的な強さに自分は何度も助けられたし、あのチーム(注・日本代表チーム)への影響力は計り知れないものがあったと思ってます。自分が言えるのはそれだけです。」
それでも中山選手は、その類い稀れなプロフェッショナルスピリットで3試合を戦い抜き、とうとう日本サッカー史にその名を刻む歴史的ゴールをモノにしました。中山選手にとっては「カズさんから受けたあの激励の感触、それを思えば身体がどうなっても何かを残さなくては」という気持ちだけで戦い抜いた3試合だったと思います。でも、それが精一杯、それ以上は無理といった状況だったと思います。それが証拠に、得点の直後、中山選手の足は悲鳴をあげてしまいました。あとでそれが骨折だったと知った誰もが、その精神力に驚嘆しました。
盟友・カズ・三浦知良選手の離脱の中でメンタルがガタガタになりながら、とにかく結果を出さなければならないという気持ちだけでプレーした結果、そのツケが体の損傷となって現われたのです。
中山選手が、そう何点も取れたなどとは思いません。Jリーグの試合だからこそあげられたゴールも、世界の舞台で対峙する選手たちはそう簡単にあげさせてくれないからです。それでも、カズ・三浦知良選手の離脱という、メンタルをかきむしってしまう出来事が起きず、むしろベンチから盟友のカズ・三浦知良選手が自分を鼓舞してくれるという環境があったなら、中山選手のプレーは、もっと違ったものになったのではないかと思うのです。
それは城選手についても言えることです。城彰二選手はまだカズ・三浦知良選手の離脱が発表される以前に「自分をFWの柱に考えている」という岡田監督の考えを知り期待を抱いていました。ただ、その時は「カズさんがいなくなってしまった中でのFWの柱」とまでは考えていなかったのです。あくまで5人のFWがいた中で、自分をスタメンに使ってくれるんだ、という気持ちなのです。そう考えていたところにカズ・三浦知良選手の離脱という現実を突きつけられ、城選手は怖くなってしまったのです。
ここもまた、サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」の中で、城選手が6月2日の発表の時に受けた衝撃と気持ちの混乱について、次のように語っていますのでご紹介します。
「あの日は、多分一生忘れないと思う。岡田さんが、食堂で、『ここにいる22人を選んだ。市川は残る』と言ったと思う。あっけないほど、ひどく短いミーティングだった。部屋に帰って練習までの時間、本当に長かった。自分の部屋は2階で近かったせいもあるんだけど、廊下では、カズさんたちが荷物を出す音や、話し声が聞こえていた。けれど、とても出る気にはならなかった。どういう顔をして会えばいいんだ、って。オレにはできなかった。結局、ドアに背中をつけて、黙って声や音を聞いているだけだった。(中略)」
「FWの柱って言われて、それはうれしいけど、一方ではこれはエライことになってしまった、カズさんの仕事なんて引き継ぐことできるわけないじゃないかって・・・どうしていいのかもわからないし、もう頭の中がこんがらかっちゃって。グラウンドでは、マスコミにそのことを聞かれるだろうなって予想はできていたけれど、『エースになったわけだけれど』と聞かれて、『いえ、違います』とも言えないし・・・本当に戸惑いましたね。頭の中が一日中ぐしゃぐしゃでした。(中略)」
「2日の晩は満足に眠ることができなかった。色々と考えてボーッとベッドに座っている。そうしているうちに何か薄明るくなってきたんだよね。(中略)」
「自分はカズさんについて行けばよかった。それが、呼び方はエースでも柱でも何でも、試合にすべて責任を負う立場になったんだって、今度は前とは全然違うことになったんだって、叩き込んだよ、頭を切り替えろって。グラウンドから戻ると部屋でそのことを考える。同時にカズさんが今まで何年も、こうした孤独に耐えて、寝てなかったのかぁ、それはもう凄い人だな、とあらためて考えることになったね。」
「カズさんが(注・離脱してから)一度、あれはミラノからだったのかな、フラビオ(フィジカルコーチ)の携帯に電話を入れてくれたんだ。オレ(注・城選手)と話せるか、って。ちょうど(注・オレが)席にいない時だったんだけど、いればきっと何かアドバイスをしてくれたんだと思う。でも、こっちからの折り返しの電話、ついにしなかったね。あそこで電話したら、愚痴をいいそうだったし、一晩かけて立場が変わったと気持ちを切り替えたのに、また戻っちゃいそうで、それが怖くて、カズさんには最後まで電話できなかった。あの日から、二度と考えまい、としたんだ。」
スイス・ニヨンに入るまでの城選手のメンタルは、あくまでカズ・三浦知良選手の離脱などという衝撃的なことを想定していないメンタルでしたから、予想外の出来事に、城選手もメンタルのバランスを崩してしまったのです。自分では切り替えたと思っても、頭ではそうできたつもりでも、心の中は、平常心とは程遠いメンタルになってしまったのです。
その結果、責任感が気負いとなり、微妙な得点感覚を狂わせ、次第に点がとれる気がしないプレーに陥り、最後は途中交代で大会を終えた城選手。その代償として「戦犯」の汚名を着せられながら成田空港では狼藉者から清涼飲料水をかけられる屈辱を味わいました。
岡田監督は「ワールドカップで勝つための」という命題を抱えて、自分が組み立てた戦い方をするために22人を選んだと言い、そのことに「後悔はない」と言っています。
選手というのは結局生身の人間ですし、メンタルの変調が身体を傷つけてしまうことさえあるのです。カズ・三浦知良選手を残さなかったことが、頼みとしたチームの要の井原正巳選手そしてFW陣の中山選手、城選手のメンタルを狂わせ、うち2人はケガ、残る城選手も空港で侮辱を受けるという代償も払うことになってしまったのです。
それもこれも、岡田監督が「カズ外し・帰国容認」という判断を下してしまったが故の結果です。
繰り返しますが、岡田監督が「プロなんだから、そんなことに左右されずにやってくれるはず」と思い描いたプランは、厳しい言い方をすれば「残された側の選手たち、生身の人間である選手たちのメンタル」特にカズ・三浦知良選手との絆が深かった選手たちのメンタルに対する影響を何ら斟酌することなく描いた、いわば空論と言われても仕方のない判断だったということに帰結します。
では、またぞろ歴史を知ってしまった者の後付けという誹りを受けることを承知で「カズ・三浦知良選手を残す選択」をどのようにすべきだったのかを、今後のためにも記述したいと思います。
まず、岡田監督の「守りを固めて、攻める時は全員で攻めに出てチャンスを多く作り、そのチャンスに賭ける」という基本戦略は間違っていなかったと思います。
その上で攻めをどう考えるかですが、やるべきだった事は、FW陣の間で「誰が出ても献身的に尽くす」という関係性を築くメンタル面のテコ入れだったと思います。
そのためにカズ・三浦知良選手を外さないで、役割をはっきりと与えるべきだったのです。カズ・三浦知良選手という選手は、基本的に監督の方針に非常に忠実な選手です。自分の思いは持っていてもチームとして決めたことを乱すことはしない選手です。
そういう選手に岡田監督はキチンとチーム内での位置づけを伝えた上で、役割を与えるべきでした。それは次のような内容になると思います。
スタメンは基本的には中山選手と呂比須選手、サブに城選手と岡野選手、カズ・三浦知良選手は彼らの気持ちを奮い立たせる役割と、本当の勝負どころだという時の切り札役です。
カズ・三浦知良選手をチーム内に置いてこそ発揮される彼の献身性であって、それを「メンバーからは外すけど献身的にやってくれ」というのは、あり得ない話なのです。
それから、スペースに走らず足元でボールをもらいたがる呂比須選手に、中田選手がボールを出しにくいということが言われました。それはカズ・三浦知良選手に対する中田選手のプレーでも言われました。中田選手はスペースに走り込んでくれる岡野選手や城選手と組みたがっているという話です。
しかし、中山選手と呂比須選手のスタメンで行くのですから、中田選手は相手の欲しがるところにバスを出してくれるでしょう。中田選手はそういう選手です。岡田監督も、そこは中田選手とコミュニケーションをとって「FWが誰であろうと点をとれるようにしてやってくれ」と言うべきでしょう。
「カズ・三浦知良選手をチームに残す」という判断を岡田監督がしていれば、もっと違った結果を得られた可能性があるという結論を導き出しましたが、では「落選者」は誰にすべきだったか、いつ通告すべきだったのかについても記述しておきたいと思います。
まず、5月7日の御殿場合宿参加メンバー発表は、どう考えても22名にすべきでした。キリンカップ以降は22名で戦う、そう割り切る必要がありました。岡田監督は「3バックシステムをチームとして熟成させ、誰が出ても破綻させないようにするためには、どうしても25名必要だ」と言い続けていましたが、現実に岡田監督がもっとも腐心したのは、3バックをどの選手に組ませるか、ということであり、最後に中西永輔選手というピースを見つけて、岡田監督の考える3バックシステムは一段落したのです。
もちろんレギュラー組の3バックにケガや退場処分などの離脱が生じた場合、ほぼ同じレベルで交代出場できるメンバーを一人でも多くしておきたい、しかも、それはDFの選手だけでなく、FWからMFまで11人全員のレベルを、3バックシステムで破綻しないレベルまで高めたいという気持ちは、心情としては理解できますが、登録メンバー22人の枠は動かせない数なのですから、どこかで踏ん切りが必要だったのです。
選手登録締切日である6月2日までの間に、もし誰かにアクシデントがあれば、入れ替えで対応しようという踏ん切りが必要でした。
なまじ「25人をニヨンで6月2日に22人にするけれど、そのまま残ってもらって、あくまで25人で戦うんだ」などという絵に描いた餅のようなことをしたために、チーム全体のメンタルまでおかしくしてしまったことは、後世への教訓にしなければならないと思います。
22人を決めたあと、練習で紅白戦を行なうには人数が足りませんから、数人をトレーニングメンバーとして帯同をお願いする必要があり、所属チームに同意を得る必要があります。後年、そうしたメンバーを「バックアップメンバー」と呼んで選ぶことが定着しましたが、この時も2002年大会を見据えて何人かに大会を見せながらトレーニングメンバーとして帯同させる方法をとるべきでした。
理由その(2) 「チームの中心・中田英寿選手」におもねり過ぎた岡田監督
岡田監督がワールドカップ本大会に臨むチーム作りの過程で、誰よりも頼りにしたのが「チーム全体の柱」としての中田選手でした。
岡田監督は公の場では「チーム全体の柱」といった表現で中田選手のことを話題にすることがほとんどありませんでしたが、実は、中田選手に全幅の信頼をおいていたのです。「守」から「攻」への切り換えのスイッチ、中盤の中田、名波、山口の3選手のコンビネーション、そしてFWへのラストパス、いずれも中田選手がいれば可能な攻撃パターンです。
しかし、岡田監督の中田選手に対する信頼は「絶大な信頼」にまで強固になったが故に、チーム全体の中で中田選手におもねった選手起用や采配にまで影響が出てしまったのです。
「おもねる」というのは「その人の気に入るようにする」という意味があります。
チームがエクスレバンに入って、アルゼンチン戦まで1週間ほどに迫った時にも、岡田監督は中田選手をホテル内にカフェに誘い、二人だけで意見交換しています。
それは、中田選手が練習でも試合でもミスした選手や、自分の意図通りに動いてくれない選手に容赦なく激しい言葉を浴びせたり、大げさな態度で不満を示すことが気になっていたためでした。
「不満を表すより、盛り上げてやったほうがチームのためになるのではないか」、筋道を立ててやんわりと諭したことに中田選手は理解を示し、それ以降、中田選手は変わったといいます。
格上のチームに勝つために中田選手の戦術眼とキラーパスは、唯一といっていいほどの武器であり、前年のジョホールバルでの、城選手に送った同点ゴールにつながるパスのイメージを強く記憶しており、あれが出れば勝てると考えていたことは想像に難くありません。
中田選手は、スペースに走らず足元でボールをもらいたがる呂比須選手やカズ・三浦知良選手にボールを出しにくいと考えるタイプで、スペースに走り込んでくれる岡野選手や城選手と組みたがっているということは知られていました。
岡田監督もそれを承知していて、FWのチョイスも含めて、結局「中田選手の気に入るようなチーム作り」をしてしまったのです。
「中田英寿選手におもねり過ぎた」という表現については、当の岡田監督が真っ向から否定されると思います。「中田選手の気に入るようなチーム作りなど、断じてしていないし、そんなことをしなければならない理由もない」と。
けれども、カズ・三浦知良選手を外したことが何にも増して「中田選手におもねり過ぎた」のです。前の項でも述べたように、カズ・三浦知良選手を外したことが、残った選手のメンタルまでガタガタにしてしまったのに、そのことを全く予測せずに外してしまったのは、中田選手中心のチーム作りだとカズ・三浦知良選手の居場所がなくなるという帰結に従ってしまったからです。
しかし、今大会、中田選手からのパスは、3試合で1本も得点に結びつきませんでした。皮肉にも心密かにスタメンでの起用を熱望していた呂比須選手が、途中交代で中山選手に送ったパスで唯一の得点が生まれたのですから、岡田監督が「FWの柱は城」と宣言して、それにパスを供給してくれる中田選手の存在を最重要視した戦略は実を結びませんでした。
日本代表の攻撃力を考えれば、考え得るベストの策だったのかも知れませんが、「中田選手の気に入るようなチーム作り」にまで踏み込んだ選択は、結果には結びつかなかったのです。
中田選手の3試合は、さすがに日本代表の柱と言われるにふさわしいものだったかも知れませんが、一つだけ記憶に留めておきたいことは、この大会での中田選手の一番の目的は「海外移籍を確実なものにするためにスカウトに高評価を得られるプレーをすること」だったという点です。
岡田監督は、そのことを、エクスレバンのホテルのカフェに中田選手を誘った時に知りました。岡田監督がさり気なく「ワールドカップが終わったらどうするんだ」と聞くと、中田選手は間髪を入れず「できれば、ヨーロッパのチームでやるつもりです」と答えています。
中田選手にとって「海外移籍を確実なものにするためにスカウトに高評価を得られるプレーをする」ということと「日本代表を勝たせるプレーをする」ことは同義語でしたが、日本代表を勝たせる結果には繋がらなかったものの、自分自身の海外移籍実現に向けた高評価に繋げることはできました。
「中田選手の気に入るようなチーム作り」をして、それが「日本代表を勝たせるプレー」に繋がり、なおかつ「海外移籍を確実なものにするためにスカウトに高評価を得られ」れば、これ以上のハッピーエンドはなかったのですが、大会後、岡田監督と中田英寿選手は、見事なまで明暗を分けてしまいました。
以上、岡田監督本大会で失敗した2つの根本的な理由を明らかにしましたが、この時点での岡田監督に、それを求めても詮ないことです。
1998年4月から6月にかけての岡田監督の3ケ月間は、自分を信じ、自分の信念を貫かなければ、代表監督として立ち行かなくなるという強い思いだけを支えにしてチームを率いていましたから、考えに考え抜いて固めたプランは、まさにファイナルアンサーであり、寸分たりとも変更の余地のないプランになってしまっていたからです。
6月2日に、カズ・三浦知良選手を外したことによって生じた大きな社会的反響のところでも書きましたが、岡田監督は、論理的に考え最適解を見出す思考能力の高い人です。そして、それに基づいて導き出した考えを貫く信念の強さも持ち合わせた人です。
だからこそ、前年秋のアジア最終予選の過酷な状況でも冷静さを失わず、針の穴を通すような難しいミッションを成し遂げられたのだと思いますし、その功績はいささかも貶められることはありません。
一方で、岡田監督のその「信念の強さ」ゆえ、時として自分が組み立てたロジックの陥穽に陥ることがあります。ですから、そのロジックに破綻が生じ、裏目に出た時には、惨憺たる結果を招くことを、図らずも露呈してしまったのです。
かねて岡田監督が持論にしていたのは、とかく日本人は「感情面に流れる傾向が強く論理性が欠如している」ということでした。
朝日新聞社運動部の潮智史記者は1998年11~12月にかけて同紙に連載した「岡田武史の301日」(2001年には同新聞社から単行本化)の中で、岡田監督の持論を次のように紹介しています。
「日本人は苦境に追い込まれると、『みんなで手をつないでがんばろう、大丈夫、俺たちは強いんだ』と言って非論理的な空気を作り出して、やみくもに突き進むようなところがある。サッカーは論理的な思考と感情的な部分の両方があって、どちらかだけではだめ。そのバランスが重要だと考えている。それが日本人の場合、感情面に偏ってしまう傾向が強い」
この「情に流されず理をもって御する」持論は、皮肉なことに論理思考を重視するあまり、苦境の時に頼みとする「絆」とか「連帯感」といった感情面、言い換えればメンタル面の要素がすっぽり抜けてしまい、岡田監督の言う「どちらかだけではだめ。バランスが重要」の逆アンバランスに陥ってしまったのです。
22人として残った選手たちのメンタルへの影響を「情に流されることがあってはならない」と岡田監督自身が自分の心にフタをしてしまったかもしれません。
ただ、ただ残念としか言いようがありません。どこかで何かの力が働き、それが助言からなのか、さりげない会話の中からなのか、何か岡田監督の心の中に「まてよ! 論理的な部分と感情面のバランスはとれているだろうか」と思わせることがあったなら、ワールドカップ本大会の3試合がまったく違ったものになり、日本サッカーの歴史も違うものになっていたのではないかと、ついつい思ってしまいます。
ワールドカップ本大会に向けた日本サッカー協会のあり方はどうだったのか、協会上層部と強化委員会、それぞれについて
フランスワールドカップでの結果を受けて、日本サッカー協会に対しては、二つのことが指摘されています・
一つは責任の所在、もう一つは次に向けて何をすべきかという点です。
そして、それは日本サッカー協会上層部に向けられているものと、より現場に近い強化委員会に向けられているものがあります。
もはや日本サッカー界だけのものという枠をはみ出して国民的関心事にまで高まったワールドカップとそれに臨む日本代表、協会上層部と強化委員会は、そういた意味合いの変化に十分対応したやり方をしてきたのか、それとも国民的関心事にまで高まった環境変化に堪えるだけの意識もノウハウも持たずに、単純に従来の意識や、やり方だけだったのか、後世に伝える教訓の有無も含めて検証します。
【日本サッカー協会のあり方検証 その1】本大会に向けた日本代表強化のマッチメイクサポート不足の指摘、Jリーグとの調整の不作為
ジャマイカ戦を終えて日本代表が3連敗となった直後、サッカーダイジェスト誌がいち早く、サッカー協会の日本代表強化マッチメイクサポート不足を指摘しました。
98.7.15号でワールドカップ取材特派の戸塚啓記者は「協会サイドの熱意の欠如を浮き彫りにしたジャマイカ戦の敗北」という見出しで次のように指摘しました。
「強化委員会、理事会(注・協会上層部)、代表チーム、この関係を明確にするのも、世界レベルのチーム作りには避けて通れない道だろう。そもそも強化委員会はどんな権限を持ち、フランスに向けてどのように岡田監督と選手たちをバックアップしてきたのか。ジャマイカ戦での黒星は、現状での日本の限界を示したとともに、強化委員会や理事会といった協会サイドの熱意のなさを浮き彫りにした。」
「レネ・シモンエス監督のジャマイカは、猛烈なペースでテストマッチを強化することで、フランスに向けた強化を図った。彼らが日本から奪った勝ち点3は、テストマッチの数の違い、チーム強化にかける両国の温度差がもたらしたものでもあった。『強いと分かっていた相手』(岡田監督)に勝つためのサポートを、なぜ怠ったのか。」
「実力で負けてしまったのならあきらめもつく。実際、日本は世界に劣っていた。だが準備段階で勝負がついていたとすれば、これほど悔しく腹立たしいことはない。サポーターたちにばかりサポートを任せてきた理事会や強化委員会は、今回の結果をどう受け止めているのか。甘い立場にないのは監督と選手たちだけではない。」
サッカーダイジェスト誌・ワールドカップ取材特派の戸塚啓記者の指摘と相前後して、98.7.16Number448号でも「日本vsジャマイカ戦緊急速報『冷たい怒り』」という見出しで、サッカージャーナリストの金子達仁氏がこう指摘しています。
「率直なところ、いま、私は岡田監督に対しての怒りをまったくといっていいほど失ってしまっている。(中略)選手たちに対する怒りもない。(中略)もはや、全身の血が凍りつくような怒りの矛先は、違う方向に対して向けられている。」
「日本サッカー協会に対して、である。」
「2002年のために・・・。今回のワールドカップについて語られる時、ふた言目には出てきたのがこの言葉だった。経験のない岡田監督に指揮を任せるのは2002年のためであり、フランスでは勝ち負け云々よりも2002年のために何らかの収穫を得る方が重要だとされた。いつの間にか、フランス・ワールドカップは2002年のためのプレ大会のような位置づけに追いやられ、最後にはすべての批判に対する免罪符のようにして使われるようになった。」
「アウェーでの経験を積ませようとしなかったのも、攻撃に関するアイディアを持っている外国人コーチを招聘しなかったのも、ことごとく『2002年のために』とのスローガンとともに片づけられた。」
「フランスでの日本代表は、2002年につながる何かを手にしただろうか。日本サッカー協会は、ワールドカップに参加するだけで、何らかの収穫を得ることができると考えていたフシがある。勝てなくても3試合指揮を執れば岡田監督は名監督に成長し、選手たちは世界と戦えるようになるとタカをくくっていたフシがある。」
「岡田監督は名監督になっただろうか。日本人の世界に対するコンプレックスは払拭されただろうか。」
「『なった、払拭された』と答える方が大多数だというのであれば、私は何も言わない。日本サッカー協会は正しかった、フランス・ワールドカップを半ば犠牲にしてまで、2002年に備えたのは正しかったということになる。」
「だが、どれほど楽観主義に徹しようとしても、私にはどうしても、フランスでの日本代表が何かをつかんだとは思えないのだ。(中略)なぜ、こんなことになってしまったのだろう。」
「岡田監督は『すべての責任は私にある』と言った。(中略)これは真実ではない。そして岡田監督が辞意を固めつつある以上、同じように責任を持つ人々がそのまま居座るのは、どう考えても間違っている。(中略)」
「私は、協会の長たる人物の解任を要求する。『強化委員会』を名乗りながら、効果的な強化を図ろうとしなかったグループの抜本的な見直しを要求する。(中略)」
「皮肉なことだが、もし私の願いがかなったとしたら、それはフランス・ワールドカップに於ける日本の唯一の収穫ということになるかも知れない。」
サッカーダイジェスト誌で戸塚啓記者が指摘した「協会サイドの熱意の欠如」とNumber誌で金子達仁氏が指摘した「協会は、ふた言目には『2002年のために』という言葉で片づけてきた」という表現が、今回の日本サッカー協会の態度を端的に示しています。
日本サッカー協会の大仁邦彌強化委員長は「2002年のために」の意味合いを、今大会の結果にかかわらず岡田監督に続投を要請、この大会で得た手ごたえも課題も2002年に活かしてもらうことと考えていたようです。
サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」の中で大仁邦彌強化委員長は次のように語っています。
「ジャマイカ戦が終了して、岡田監督に『強化委員会の評価としては、今後も続投して欲しい。2002年を目指してくれないか』と言いました。(中略)」
「あの時点では、獲得の退任の意思は確かに固かった。でも我々としては本当に続投してもらいたかったし、将来のために何としても残ってもらいたかった。だから、この件に関しては帰国して落ち着いてからまた話そうと思ってました。しかし一気に新監督就任という流れが作られてしまって、これにはちょっと戸惑いましたね。」
この大仁強化委員長の認識にも、岡田監督の「22人になっても25人のままフランスで戦うんだ」という認識と同じ、何か常識とはかけ離れたものを感じます。つまり、岡田監督の、外された選手をそのまま一緒に残すことが、いかに非現実的かということと同様、大仁強化委員長が「続投を要請すれば受けてくれる」と考えていることが非現実的なのです。結果責任を監督が負うのは当然であり、通常の感覚を持つ人であれば、続投を要請されて「それはありがたいですね、では受けます」などということはあり得ないのに、そう思わずに要請しているわけです。
それもこれも、前年秋以降の加茂監督更迭、岡田監督緊急登板、アジア第3代表決定戦でのギリギリの出場権獲得、岡田監督続投以外に選択肢のなかった本大会監督選任といった経過の中で、日本サッカー協会には「こうなったからには、2002年は、フランス大会を経験した岡田を続投させて指揮を任せるのが最も合理的」と考えるようになったとしても不思議ではないかも知れません。
おそらく3連敗、勝ち点ゼロはサッカー協会にとっても岡田監督にとっても誤算だったのでしょう。1勝でもすれば立派なもので、そこまでいかなくても勝ち点1でも取れれば岡田で十分いけると考えたのでしょうけれど、それすらも結果を出せなかったとすれば岡田監督が続投を考えるわけにはいかなかったのに、協会のほうはそう考えずに続投を要請した、そんな図式でしょうか。
問題は、協会が「2002年も岡田に任せる」と考えていたのでしたら、なぜ、それが水泡に帰すような貧弱なサポートしかしなかったのかという点です。
グループリーグ突破という勇ましい目標を掲げて全力でチーム作りに取り組んでいる岡田監督が、せめて本大会で1勝、悪くても勝ち点の1や2をとらせてやるサポートを、なぜもっとできなかったのか、という点です。
サッカーダイジェスト誌の戸塚記者も、Number誌の金子氏も口を揃えて、テストマッチの少なさ、アウェーでのゲーム経験の少なさを指摘しています。ジャマイカと同じぐらいという贅沢は無理としても、協会は、本大会で1勝、悪くても勝ち点の1や2はとれるよう実戦経験を積ませる場をどうして作ってやれなかったのか、です。
これについて協会からは不作為の「言い訳」が聞こえてきそうです。「Jリーグとの調整もあり、なかなか協会だけの判断でマッチメイクを決められないので」とか「岡田監督のチーム作りの意向で合宿重視の強化にしたので」とか・・・。
その結果、ダイナスティカップとかキリンカップ、日韓戦など決まった大会だけ、しかもアウェー戦はごく僅かという貧弱な強化にしかならなかったのです。
金子氏が「フランス・ワールドカップは2002年のためのプレ大会のような位置づけに追いやられ、最後にはすべての批判に対する免罪符のようにして使われるようになった。」と指摘しているのは、ある意味、協会の本音をズバッと突いていると言えます。
フランス・ワールドカップを本気で勝ちに行くと考えれば、アウェー戦を多くした強化計画も、Jリーグとの調整も長沼会長が音頭をとればできる話ですが、長沼会長には、もうそこまでの熱意はなかったのです。年の初めには、そろそろ岡野俊一郎副会長に譲って2002年日韓大会成功に全力を尽くしてもらいたい、心の中ではそう決めていたのでしょう。
金子達仁氏が「協会の長たる人物の解任を要求する。」と怒りMAXでぶち上げた記事を長沼会長が目にしたなら「まぁ、そんなに怒りなさんな、それぐらいのことは考えているから」と呟いたに違いありません。
長沼会長が「フランス・ワールドカップを本気で勝ちに行くための強化やJリーグとの調整まで踏み込んで汗をかく気はなさそうだ」となると、強化委員会は無理なことをしてまで調整を図る必然性はありませんから「やれるだけのことをやるだけ」というスタンスになります。対外的には「すべては2002年のために」と言っておけば済む話です。
初めての世界大会に熱をあげて期待をMAXまで膨らませた日本全国のサッカーファンや、本気の世界大会に出るからには「善戦で終わってはならないのだ」と高揚したサッカー専門家たちほど、協会の人たちは熱くなっていたわけではなく、淡々と自分たちの立場でフランス大会を迎えていただけなのです。
こういう、協会と現場、そして取り巻くファンや専門家たち、それぞれの間に大きな温度差があったのが、今回のフランスワールドカップ日本代表だったのです。
ちょっと空しくなるような結末ですが、この当時は、協会幹部にはまだ「ワールドカップ日本代表が、すでに自分たちの恣意的な考えだけで環境を整えてやれば済むレベルを超えて、日本社会全体の共有物にまで、その価値が高まっているのだ」という認識が希薄で、その結果の不作為が、日本社会全体にどれほどの落胆と失望をもたらしたのかについても当事者意識が低かった結果です。
これまで、ネルシーニョ問題や、アジア選出FIFA副会長選の問題、そして2002年W杯開催地決定問題、昨年のW杯アジア最終予選での加茂監督更迭問題と、ことごとく指弾を浴びるような対応に終始してきた日本サッカー協会の体質を考えれば、今回もその延長線上にあるだけであり、それまでのことですが、これが、この先いつまで続くのかを考えた時、金子達仁氏のようにまだまだ「全身の血が凍りつくような怒りの矛先」を向け続けなければならないのかも知れません。
【日本サッカー協会のあり方検証 その2】日本代表を襲った洪水のようなマスコミの取材攻勢を制御できなかったサッカー協会
さる5月7日、岡田監督が25名の日本代表を正式発表した記者会見には、史上最高250名の報道陣が集まりました。
それ以来、6月27日のジャマイカ戦そして6月29日に成田空港に代表選手たちが帰国するまで間、日本代表は洪水のようなマスコミ取材攻勢にさらされ続けました。
今回、主として岡田監督が矢面にたって、マスコミの取材をさばきましたが、その負担たるや想像を絶するものがありましたし、岡田監督自身が、まるで「弁慶の仁王立ち」のような気迫を持って受け止めようとしていたことから出来たことでしたが、では選手たちがそれで守られたのかと言えば、そうではなかったのです。
岡田監督は、サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」の中でマスコミ対応について「メディア」という言葉を使って次のように振り返っています。
「メディアについて、フランスに残って試合の視察をした時に、コーチカンファレンス(監督会議)に出ました。その時に彼らは、W杯には魔物が住んでいるというけど、魔物の正体は何かといえば、これはメディアだと。もちろん、行く前にもジーコやアルディレスにも、ほかの大会と違うのはメディアがよりクレージーになるだけだ、といわれましたが。でも自分の解釈が間違っていました。」
「当初はメディアのプレッシャー(が魔物)だと思っていたんです。つまり自分だけへのプレッシャーなら耐えられると思っていました。でも少し意味が違っていたようです。」
「御殿場合宿からのあの2か月くらい、キャンプして環境もどちらかと言えば動けない中にいるわけで、そうした中で、メディアに選手がこう言った、監督がこう言ったと報じられる。あれ、オレこんなこと言ってない、こういう意味じゃない、あるいは質問もされてない、なんで分かるんだよ、とかね。常にメディアのものすごい一方通行なわけです。自分たちが反論する場がない。それによって選手が受けなくてはならないストレス、これがものすごく溜まっていると思いました。」
「ぼくらはもう年齢も言っているしある程度耐えられる。でもまだ若い選手たちが、そういうプレッシャー、つまり自分が発言したことの反響とか、行動への批判とか、こういうものに2か月くらい耐えなければならないとは、予想もしていませんでした。」
「だから、選手をそういうストレスから守り、指導するほう(監督コーチ等)に対しても、メディアが何を言おうが関係ない(から自信をもってやれと安心できるような)、そんな体制を整えるべきだと思いました。公式な、ぼくらを代理できるような立場と経験のある人にスポークスマンをやってもらい、ぼくが言った、選手がこう言った、というような部分を減らしてもらえれば、もっと集中できるのではないかと。」
「フランスは優勝したのに、メディアはジャケ(代表)監督ではダメ、と言っていた。でもそれをフランス協会の副会長は『ジャケは間違っていない』とメディアに対して言い続けた。アルゼンチンのパサレラ監督も、マラドーナを外すとか、選手を外し続けてあそこまで行ったわけですけれど、国民の猛批判に対して協会が4年間、彼をちゃんと守った。そういうものを日本も持ってもらう方向に行ってくれたら、と願ってます。」
代表チームにおいて監督と選手たちが苦労する、最も核心の部分を岡田監督がわかりやすく語ってくれていて貴重なインタビューです。
これについては協会側も同じ反省をもっていました。サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」の中では、サッカー協会・大仁邦彌強化委員長が、次のように述べています。
「(サッカー協会が)岡田監督に対してサポートできなかったのは、メディアとの関係についてでしょうか。22人枠の発表についても、実際に発表するところまで監督の仕事になってしまった。ほかにも、あまりにも全決定について監督が前面に出るような形をとり過ぎたために、監督の負担は多かったと思う。メディアとのことは今後も広報との連携の中でいい方法を考えていかないといけない。」
また、サッカー協会・小野沢広報部長にもインタビューしています。小野沢部長は、
「今回は、これまででは考えられないような注目度、関心を集め、それはそれで非常にうれしいことではあるんですが、同時に様々な点においての『温度差』も感じるようになりました。報道はその中でももっとも顕著な違いがあるものでした。」
「あちら(現地)では、毎日、日本から新聞をファックスしてもらい読むことはできました。しかし国内の雰囲気は分からないし、現地は非常に静かなわけですから、情報の発信地にいながら国内のリアクションが判らない。広報関係者にとっては非常に難しい状況だったと思います。」
「例えば6月2日、22人の発表の日にも、先に日本の朝刊に名前が掲載されていた。(中略)6月20日のクロアチア戦後、岡田監督が辞意を表明したのだから、関係者を会見に出してくれ、とリクエストが来る。この時は長沼会長に会見に出ていただいたんですが、記者からの質問も感情的で、押し問答のような質疑応答になってしまった。現場の岡田監督とこちら(協会サイド)の考え、みなさん(メディィア側)と広報、さらに現地と日本と、様々な温度差が一気に出てしまったような象徴的な会見になってしまって・・・。あのことなどを見ても、広報としてもっと公式コメントを利用して、早く対応してしまってもよかったのかもしれない、と反省しています。」
「あれだけの報道量と、現場での記者のみなさんの多さ、(中略)量ではほぼ世界に匹敵するものになった。次はクオリティ、質を追求して行かなくてはならないのではないでしょうか。色々な点で、代表をとりまく周辺も成熟していかなければならないと、強く思っています。」
岡田監督があげた「公式な、ぼくらを代理できるような立場と経験のある人にスポークスマンをやってもらう」という点や、小野沢部長があげた「広報としてもっと公式コメントを利用して」という点などは、次に活かせる話です。
前年のアジア最終予選の際にもすでに表れていた問題ではありましたが、やはり、日本サッカー界が経験する初めての世界の舞台、小野沢部長が実感したように「量ではほぼ世界に匹敵する」ほどの、いわばケタ違いの状況だったというこどでしょうか。
【日本サッカー協会のあり方検証 その3】選手に対するフィジカル・メディカルサポートの手厚さが、過保護にしてしまったかも知れないという反省。一方、心のリフレッシュ、メンタルケアなどについては、手つかずのまま、今後の課題として浮き彫りに
日本サッカー協会は、1993年のW杯アジア予選のあとから、日本代表に対するサポート体制を強化してきました。そうした対策を担当してきた関係者の言葉を借りれば「この4年間、日本代表については『すべて』で最高の対応をし、もうこれ以上はできない、誰にも文句は言われない、というホスピタリティもできた。これはおそらく、32ケ国中でもトップクラス」というほどのサポート体制を敷きました。
確かに、フィジカル面のサポートスタッフや専属調理師・栄養士の帯同、利用宿泊施設のグレードなど、まさに誰にも文句は言われないホスピタリティだったと言えます。
あまりの至れり尽くせりのせいか、選手の中には、まるでプライベートスタッフを得たかのような勘違いも見られたそうです。
サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」の中には、そのエピソードも紹介されていますので引用します。
・田中博明アスレチックトレーナー
「ジャマイカ戦の前夜、ぼくとナズー(並木トレーナー)は、練習も早く終わっていたから、20時でマッサージを終えるようにしよう、と決めていたんです。で、早めに片付けようとしていたときに、何気なく徳さん(徳弘トレーナー)に「徳さんも、もう終わりかい?」って聞いたんだよね。そしたら、人がいいんだろうね、徳さんは、「いえ、23時にあと1人来ます」って言うんだ。」
「自分自身があそこまでかなりイライラしてたこともあったし、これから3時間後に選手がマッサージに来るって聞いて、怒りが爆発してしまって。徳さんには悪いことをしてしまったと後で反省したんだけど、怒鳴ってしまったんだ。『それはどういうことだ。そんなの間違ってるぞ。こっちが決めた時間に来られないっていうんなら、もうやることはない! あと20分で来なさい! 』ってね。徳さんはキョトンとして、『はい、そうですね。電話して確認します』って、選手に早くするように確認を入れてくれたのね。それでその選手に言いました、ハッキリ
と。『自分たちの時間にすべてこちらが合わせるのが当然、という考えはおかしいことだよ』と言うと、わかった、と言ってくれたんで、それで済みましたけれど。」
「メディカルの反省としては、とにかく選手のためにやり過ぎた、ということだろうね。初めてだから、日本代表だからって、何から何まで彼らの要求をすべて聞き入れてしまったんじゃなかろうか。そこには強い選手を育てる、という一番大事なポリシーが抜けてたと思う。飲み物だって一人ずつのスペシャルを作るとか、最高級品の扱いをしてね。ここまでやるか、っていうくらい。もうあれ以上はないですよ。あれ以上だとあとはもう国賓とか、そういうレベルになってしまう。」
「代表の扱いがベターであるべきだとは思うが、あそこまでやることが果たして本当に選手のためになっただろうか。黙って『やってやる』ことがよかったのか。今、それをものすごく反省していますね。自分を含めて、ひとつの大きな勘違いの中で過ごした半年じゃあなかったかと。その意味では悔いが残ります。」
・徳弘豊アスレチックトレーナー
「自分は95年、加茂監督になった時から代表チームにかかわって来て、『代表ではすべてを一番良い扱いにしよう』という一つの目標の中でやってきました。しかし一方では、ともすれば選手は何ひとつしなくていい、というような拡大解釈を生んでしまったところもありました。ああ、このままではいけないと思いながらも、もう大きな流れができてしまっていて、トレーナーの責任者としてこれは最も大きな反省です。他国に比べても日本は過保護だったのではないだろうか、と自問自答の日々です。」
・並木麿去光アスレチックトレーナー
「今回の代表に与えられた環境は、というと、衛星、水分、栄養、睡眠をコンディショニングの4本の柱にして考えるんですが、これはもう完璧でした。たとえるなら、美空ひばり、石原裕次郎クラス(のVIPのサポート体制)っていうんですか。初めてでたのに、ですよ。」
「選手のアピールに対して応え過ぎたんではないか、という反省があります。自己管理の意味を勘違いさせてしまったかな、と。ああいう厳しい大会だからこそ、自分で自分を本当の意味で管理できるよう持っていかなくてはならなかった。」
「そういう点では、勝てると確信できるような『強さ』を持っていたチームではなかったかもしれません。メディカルスタッフとしての反省です。」
フィジカルコンディション作りに関しては、まさに「もうこれ以上はできない」ほどのサポート体制だったことがよくわかるエピソードですが、それが逆に選手たちを過保護にしてしまったのではないかと自問自答してしまうほどの手厚さだったのは、この時まだ、積み重ねた経験値から得た「程よいサポート」感をまだつかめていない結果なのかもしれません。
一方では長い隔離生活から来るメンタル面のリフレッシュ、ケアについては、なかなか表に出にくい面もあって、改善すべき点がありました。
ここまで、次から次へと引用させていただいている、サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」の中には、川口能活選手が、このメンタルリフレッシュ、ケアのことについてインタビューで語っています。
「メンタルコンディションについては、もう少しだけ自由な時間というのもぼくは欲しかったですね。今回、エクスレバンに滞在中何に驚いたって、ブラジルがディズニーランド(ユーロディズニー)で遊んでいるのをみたことですね。ええ、本当にたまげた、そんな感じでしたよ。彼ら優勝候補じゃないですか。でも家族連れでジェットコースターとか乗っちゃってる。あれはある意味でショックというか・・・・いいなぁ、あれぐらいリラックスできればなあ、と思いました。」
「初出場だし、もちろん遊びにいっているわけじゃあない。だけど、試合前になってくるとみんななんかイライラして、顔も引きつってくるんですよ。それがすごく分かりました。何よりいやだったのは、笑顔が消えてしまったことでした。笑うような精神状態じゃないんですね。ちょっとしたことでピリピリしてしまう。」
「自分は今回、彼女に励まされました。何気ない一言でずいぶん励まされたし随分楽にもなりました。ああいう存在がもっと身近にいればなあと、少し思ったんですね。」
「自分は勝負に集中していたつもりですし、みんなもそうでしょう。でもね、男だけの40日間って結構きついんです。ぼくは休みを増やしてもらいたい、というよりは家族とか、ガールフレンドとか、友人とか、そういう人と過ごす時間をもっと欲しかったですね。家族が来られるようになったのはアルゼンチン戦の後ですかね。みなさん宿舎にいらっしゃいました。(中略)」
「ブラジルみたいに、彼女も含めてファミリーで応援してもらう、みたいなやり方は、日本のマスコミのあり方だと無理なんでしょうか。籠の鳥とまではいかなくても、できるのは散歩くらい。その散歩でさえ、少し歩けばマスコミに会ってしまう。そういう環境をもうちょっと変えられたらと思いました。」
「でもホテルの中での環境は、これはもう恵まれ過ぎっていうぐらいでした。(中略)もうこれ以上は何も望めないっていう感じでした。でもブラジルもアルゼンチンも、2人部屋だったらしいですね。今回(日本は1人部屋なので)基本的にみんな部屋にこもる形になってしまう。これも良し悪しという面があったと思います。ブラジルのように振舞えなかったのは、自分たちの恵まれた生活にも原因があるのかもしれません。」
川口選手の話は、サッカー協会が「日本代表については『すべて』で最高の対応をし、もうこれ以上はできない、誰にも文句は言われない、というホスピタリティもできた。」と自信を持って語った内容を裏付けていて、むしろ「恵まれ過ぎた生活」がマイナスに働いたかも知れないと感ずるぐらいだったわけですが、ことメンタルのリフレッシュ面に関しては、反省点がありそうです。
おそらくサッカー協会にも岡田監督にも「遊びに行くんじゃないから」という考えが根っこにあったと思います。それは体育会系のスポーツ根性論の伝統から来る日本独特の潜在的心理がまだ色濃く残っていた時代でしたし、オフの与え方にそれが表れていました。またメンタルのリフレッシュについての知見の蓄積もなかったことでしょう。
川口選手が「ファミリーで応援してもらう、みたいなやり方は、日本のマスコミのあり方だと無理なんでしょうか。」と気の毒な心配をしていましたが、サッカー協会がメンタルヘルスの専門家と監督を交えて相談してリフレッシュプログラムを作り「日本代表のメンタルサポートをこのようにしてやります」とマスコミにも告知すれば済む話です。
また川口選手が「何よりいやだったのは、笑顔が消えてしまったことでした。笑うような精神状態じゃないんですね。」と振り返った部分も、うかつに笑顔を見せれば「にやけてる」とか「戦争のような大会に行ってるのに笑ってる場合じゃないだろ」という批判につながる日本独特の考え方が残っていて悩ましい限りです。
こうした心のリフレッシュ、メンタルの持ち方がフィジカルにも影響を与えたと、増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」の中で、並木トレーナーが次のように述べています。
・並木麿去光アスレチックトレーナー
「トレーナーの立場で今回の反省といえば、古い言葉で悪いんですが、やはり『心技体』の『心』が足りなかったのではないかという点でしょうか。アルゼンチン戦を前にした頃から、選手たちの要求がだんだん子供じみてくるんですね。冗談を言っても、マジになる。目の前にある物を、それ取って、とか。岡田監督からの指令で、夜12時にはマッサージを終えるように、と一応決められていたんですが、それ以降にもこちらに向かって、マッサージが(並木さんの)仕事でしょ、とか。」
「精神的な疲労が肉体の疲労を招くという、典型的な例もありましたね。ゲーム中とてつもないストレスと戦っているうちに、それが疲労を呼んで思わぬ状態を引き起こす。アルゼンチン戦でも、そう熱くも湿度もないのに、秋田や中西がケイレンを起こしそうになった。」
「スポーツ界全体に言えることかもしれませんが、本当のリラックスをどういう形で得るのか、そういう大事な部分のケアがまだまだ十分ではないんですね。普段は何でもお金で片がつくわけです。ところが精神の安定というと非常に根本的な問題になる。だから対処できないんではないかと思う。サッカー強豪国でも必ず、メンタル面のケアをする立場の人はいますから。」
こうした心のリフレッシュ、メンタルの持ち方、ストレスがフィジカルに及ぼす影響などについて専門スタッフのもとでケアする体制は、この時はまだ、手つかずの領域だったようです。後年、この分野のサポートが当たり前になっいる歴史を、私たちは知っていますから。
ここまで「日本代表は、どう戦おうとしたのか、岡田監督のサッカーを検証」して、では「岡田監督が今大会で失敗した根本的な理由は何か」をえぐり出し、最後に「日本サッカー協会はどういうサポートをしてきたのか、してこなかったのか」を指摘してきました。
「フランスワールドカップ日本代表」の総括はひとまずこれぐらいにして、ここからは代表選手や帯同スタッフたちにとって、今回の「フランスワールドカップ」は何だったのか、選手・スタッフたちの「フランスワールドカップ」を記憶に留めて後世に伝えたいと思います。
日本サッカー史上、最初のワールドカップスコアラーとして歴史に名を刻んだ中山雅史選手、彼の心の中に刻まれた「フランスワールドカップ」とは
日本代表FW・中山雅史選手の「フランスワールドカップ」が、盟友「カズ・三浦知良選手」の離脱が起きたことによって、大きくメンタルを揺さぶられてしまったことは、すでに述べましたが、そうした不幸な出来事にも屈することなく、日本サッカー史上、最初のワールドカップスコアラーとして歴史に名を刻んだ栄光は、目に見える収穫がほとんどなかった今大会の日本代表にとって唯一といっていいほどの成果でした。
では中山雅史選手の心の中に刻まれた「フランスワールドカップ」とは、この歴史的なゴールだったのでしょうか。
すでに語り尽くされていることではありますが、中山選手は、5年前、1993年のアメリカワールドカップアジア最終予選で、井原正巳選手とともに「ドーハの悲劇」を経験した貴重な生き証人です。
その後、Jリーグで1994年に磐田が昇格後、その活躍を日本中の多くのファンが期待しましたが、しばらく怪我続きで鳴りを潜めていた時期が続きました。
1997年秋の「W杯アジア最終予選」も、初戦はテレビ中継のレポーターとして見ている側だったほどで、日本代表にはすっかりご無沙汰していましたが、岡田監督が指揮をとるようになった第8戦カザフスタン戦に招集されると、きっちり出場権獲得に貢献して、いわば日本代表の顔に戻ってきたのです。
中山選手は日本代表として戻ってくるまでの間、年齢を重ねても技の向上に対する飽くなき意欲を持ち続け、1997年夏から就任した磐田・山本昌邦コーチの指導に熱心に耳を傾け、貪欲に技を吸収しようとした努力がありました。
そして年が明けた今年、W杯による中断前まで12試合19ゴール、うち4試合連続ハットトリックという驚異的な数字を叩き出し、絶好調を維持したままフランスW杯に臨んだのです。
しかし、フランスW杯に向けた国内合宿のあたりから少しづつ調子が下降線に向きつつあった中で、盟友「カズ・三浦知良選手」を失った衝撃は大きく、そのメンタルはかなり傷ついたはずです。にもかかわらず、それを心にしまい込んで記録した「日本のワールドカップ得点第1号」は、中山選手の精神力の凄さの証明でしたが、それ以上にチームメイトも日本中のファンも驚嘆したのは、初ゴールの直後に骨折してしまっているにもかかわらずプレーを止めることなく試合終了ホイッスルが鳴るまでピッチに立ち続けていたことです。
このことも初ゴールと同様に永遠に日本サッカー史の中で語り継がれるに違いありませんし、ふだん、おちゃらけた振る舞いで周囲を明るくしてきた中山選手が、心の中に秘めていた闘魂とは、それほどまでに壮絶なものだったのかと、驚嘆させられます。
6月29日、戦いを終えて成田空港に着いた時は足の骨折によるギブスと松葉づえ姿でした。その代償と引き換えに、あの1点を得たのですが、中山選手の心に刻まれた「フランスワールドカップ」とは、その得点シーンではなく別のところにありました。
それは、前年夏から取り組んできた技の向上が実を結ぶまで、あとほんの少しだったプレーの感触だったのです。
またしてもサッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」から引用させていただき、中山選手の心に刻まれた「フランスワールドカップ」を振り返ってみたいと思います。
クロアチア戦の前半33分「ヒデがボールを持った瞬間考えたのは、とにかくヒデから離れようということでした。」この時、中山選手はセンターラインのちょっち自陣側、斜め後ろの中田選手との距離は10mほどでした。
「そうしないと自分のマーク(相手DF)が動かないんでスペースができない。だから、彼(中田選手)から逃げる動きをしてDFを話そうと、そのことだけを考えて走り出したんですよ。それでハーフラインを越えた時に、右手からDFが自分に向かって走り込んできたこと、GKのポジション、全部がはっきりと見えたんです。それからパスが来るまで時間がすごくあって、何でだろう、多分本当の時間なんて1秒ぐらいのことなんだけどものすごく長く感じられた。」
「色々な手段を考えることができたんですよ、ああして、こうして、あれではダメだってね。不思議な時間でした。」
この時の時間を画像で実際確認してみると、中田選手がドリブルを始めてから中山選手にパスが届くまで約4秒ほどの時間がありました。瞬時の判断を繰り返している試合の中では、比較的いろいろなことを頭の中で判断できる時間だったのかもしれません。
「ヒデのパスはほとんど真後ろから追っかけてくるようなパスになるんで、これはまずどこで止めよう(トラップ)かと。最初はこの位置なら左足で止めて、と思ったんだけど、そうすると失敗した時ボールが左サイドに流れる可能性がある。じゃあ右足で止めて、すぐ打てる位置に落とすためには、って考えて、そうだ、右足のモモ、それもモモの外側だって決断して・・・本当にそのとおりに落とせたんですね。シュートも狙ったとおり、GKの左サイドを抜こうとした。本当にわずかな時間ですが、これ全部考えたんですよ。」
この話を聞いて思い出すのは、前年のアジア第3代表決定戦、いわゆるジョホールバルでの岡野雅行選手のプレーの話です。岡野選手は、延長前半12分と試合を決めた延長後半13分の二度、自分のプレーがまるでスローモーションのように鮮明に記憶に残る経験をしています。わずか数秒間のことであるはずなのに「こうしよう、こうすれば行ける」といった考えがはっきりと浮かんだ経験です。岡野選手はそれを「まるでスローモーションのように」と表現しましたが、中山選手は「すごく長く感じられた不思議な時間」と表現しました。話は続きます。
「すべて思いどおり、おそらく生涯もうできないかもしれないプレーでしたが、決められませんでしたね。後でビデオを見たら、GKの上にポンと浮かせて蹴っても良かったかもしれないし、逆にもっと右を狙っても良かったとは思いました。」
「でも、自分の判断と視野、技量からあれはあの時点の自分にとってベストのものだったと思うんで、むしろ後悔するとしたらコースのもんだいじゃあなくて、もっと思い切り打てば良かったかな、ということですね。GKの左手なんだから、弾いたボールに自分も含めて誰が詰められたかもしれない。それが悔しいです。」
「でも何がW杯だったかというなら、あのプレーしかない。自分では悔しくて・・・・。そうしたら名波が試合後、あんな難しいトラップをこの舞台でやるなんて、って言ってくれたんです。」
中山選手が「すべて思いどおり、おそらく生涯もうできないかもしれないプレーでしたが・・・」と心に刻み、それを同僚・名波選手が「あんな難しいトラップをこの舞台でやるなんて」と称賛したプレー、私たちも映像を通してではありますが、わずか4秒ぐらいの間に中山選手が、全力でゴール前に向かいながら、あれだけのことを瞬時に判断してシュートに結び付け、ゴールならず両手の拳でピッチを叩き悔しがったあのシーンを、ジャマイカ戦のワールドカップ初ゴールとともに永遠に記憶に留め語り継ぎたいと思います。
カズ落選のあと自分がFWの軸ということになったものの、本番のピッチで思うようにいかない中、見せた白い歯が心ないサポーターの逆鱗にふれ成田空港で「水かけ」の出迎えを受けた城彰二選手の「フランスワールドカップ」
城彰二選手は悲惨な体験をしました。自ら望んだわけでもないのにカズ・三浦知良選手の落選とともに「FWの軸は城」という立場を背負うことになって迎えた「フランスワールドカップ」
カズ・三浦知良選手の落選が、城彰二選手のメンタルにどう影響したかについては、すでに述べましたが、それでも何とか期待に応えなければと、もがきながら大会を迎えました。
突然訪れた立場に、以前望んでいた高揚感は失せてしまい、むしろ気負いがちにピッチに立ったものの、なかなか思うようにいかないプレー、時間だけがどんどん過ぎる中、焦りを鎮めようと考えたのが、できるだけ深刻そうな顔をせず、気持ちを楽にして、できれば笑顔さえ浮かべるようにすることと、リラックス効果のあるガムを意識的に噛むことでした。
しかし、一向にプレーが冴えない中でのその笑顔とガム噛みは「何やってんだよ、ガムなんか噛んで、にやけて」と心ないサポーターの逆鱗に触れることになってしまったのです。
その結果、大会を終えて帰国の途につき成田空港に到着した城彰二選手を待ち受けていたのは、大勢の出迎えのサポーターの中に潜んでいた狼藉者からの「水(清涼飲料水)かけ」という出迎えでした。
人垣の中から狼藉者の手がすっと伸びてきて、城選手が目の前を通り過ぎるのを見計らってペットボトルから水が放たれました。スーツを着た城選手の左ほほから肩口付近に水がかかりました。
それでも城選手は、少し顔をゆがめ手で拭き取ったものの、取り乱すことなく他の選手たちと歩調を合わせて進みました。しかし、それは「FWの軸は城⇒カズ外し⇒頼みの城の不出来」という結果を招いた岡田監督の責任を背負い込んだ洗礼だったのです。
かつて1993年秋のドーハの悲劇があった翌日、カズ・三浦知良選手が「日本に戻ったらトマトの洗礼が待っているかな」とサポーターからのキツイ出迎えを覚悟した時、国内から送られたスポーツ紙のFAXに「よくやった日本代表、感動をありがとう」という見出しが躍っているのを見て「これじゃダメなんだよぉ」つまり、サポーターがもっと日本代表を厳しく育てるぐらいじゃなければ強くはなれないんだと嘆慨してから4年、とうとう日本のサポーターもキツイ出迎えをする国になったのです。
しかも、その対象が4年前嘆慨したカズ・三浦知良選手に代わってFWの軸と期待された城彰二選手だったのですから、これも何かの巡り合わせと思わざるを得ませんし、城選手は自分のワールドカップでのパフォーマンスが批判を受けることを覚悟していたようで「仕方ないです」とコメントしました。必然的な通過儀礼だったのかも知れません。
城選手は帰国前、親しいジャーナリストに「俺、帰国したらすぐに言いたいセリフがあるんだ。『W杯で最高の体験をしてきました』」と語っていました。しかし成田空港での通過儀礼を受けた城選手は、その言葉を封印してしまいました。
栄光の3試合スタメンの先に待っていた屈辱の出迎え。城選手のW杯への挑戦はまたスタートラインに逆戻りしてしまいましたが、今度は海外で揉まれる経験を積んで「W杯で最高の体験をしてきました」と胸を張って言える日を目指すに違いありません。
前年のアジア最終予選の経験を経て一回りも二回りも成長したGK川口能活選手、3連敗の悔しさとともに「フランスワールドカップ」で得たもの
1996年のアトランタ五輪後に日本代表に招集され、それ以降、不動の守護神として日本のゴールマウスを守り続けてきた川口能活選手、GK枠3人、チーム最年長の小島伸幸選手、一つ年下の楢崎正剛選手とともにマリオGKコーチのもとワンチームを大切にしながらもレギュラーGKとしてチーム全体を鼓舞する役割も果たしてきました。
そんな川口選手にとって、3連敗に終わった今回の結果は悔しくもありつつ、信念をもってチーム全体を鼓舞し続けた自分の振る舞いに後悔はなかったようです。
NumberPLUS August1998で、金子達仁氏が、川口選手の「フランスワールドカップ」を次のように総括してもらっています。
「(クロアチア戦で)スーケルに点を取られた後、ディフェンダーがバタバタって倒れちゃったじゃないですか。(中略)やばい、チームが壊れるって。」
「(決勝トーナメントの夢が断たれて悔しい、倒れたくなる気持ちはわかるんですけど)俺たちにはまだあと1試合残ってた。3試合目でいい結果出して、3試合をトータルで評価してもらうしかない。1、2試合でできたことプラス、勝ちっていう結果を上乗せして、その上でフランスでの日本代表を評価してもらいたかった。」
「だから、チームが壊れちゃうような事態はなんとしても避けなきゃいけなかった。壊れてジャマイカにやられるようなことがあったら、3試合すべてが否定されてしまうような気がしたから。」
「(ジャマイカ戦のあと『他の国は死に物狂いで戦ってるけど、日本にはそういうものがない』と発言したことがマスコミから『みんな一生懸命やってるのに、一人だけそういうことを言うのは勘違いも甚だしい』って叩かれたけど)もちろん、みんな一生懸命やってくれてたのは間違いないですよ。だけど、必死さというか、死に物狂いさが感じられない時もあった。」
「それじゃダメだと思うんです。そうは見えないだろうけれど俺は必死にやってる、じゃなくて、誰が見ても必死さがわかるのがプロの必死だと思うから。」
「『フランスワールドカップ』で一番印象に残ったのは、何といっても日本のサポーターがいっぱい足を運んでくれたこと。ロッカールームから通路を出て、パッとスタジアムの様子が目に飛び込んできた時の感激は、たぶん、一生忘れないんじゃないかな」
この川口能活選手の総括を読むとグループリーグ敗退が決まっても、揺るぎないモチベーションを保ってジャマイカ戦に臨んでいた選手がいたんだということがわかります。川口選手はこうも言っています。
「ゴールキーパーっていうのは、ある意味観客と同じで、点を取ることに関しては、祈るしかない立場なんです。フランスでの3試合、俺はずっと祈ってた。」
もどかしかった気持ちが、ジャマイカ戦後のマスコミへのコメントになり「一人だけそういうことを言うのは勘違いも甚だしい」と叩かれてしまいました。
川口選手が「グループリーグ敗退が決まっても、3試合目でいい結果出して、日本代表を評価してもらいたかった。」こうモチベーションを保てたのはなぜか、を考えると、やはり、アトランタ五輪アジア最終予選、アトランタ五輪本大会、そして前年のW杯アジア最終予選と、不動の守護神として修羅場をくぐってきた経験値が思い当たります。
年齢こそ23歳と若いですが、その経験値は「決してあきらめない」という気持ちと「次のモチベーションを何におくか」という頭の切り換えを可能にする精神力を涵養したのだと思います。
惜しむらくは他のチームメイトとの関係性です。一つはGKというポジションの特殊性からくるチームメイトとの距離感、どうしてもDF同士、MF同士ほどの距離の近さは作れない関係性です。二つ目は「かなり暑苦しい男(ヤツ)、浮いてる男(ヤツ)」とみられがちなストイックな川口選手のキャラクターからくる関係性、三つ目は年代的な違いからくる距離感、これらの距離感によって、川口選手の思いがチームメイトに共感を得て共有されるまでに至らなかったのだと思います。ジャマイカ戦のあと川口選手は、ことのほか悔しさが募ったのでしょう。涙が止まらない様子でしたが、モチベーションがすっかり下がってしまった他のチームメイトとの差がそんなところにも表れたのかもしれません。なかなか世の中、うまく噛み合わないものです。
呂比須ワグナー選手の「フランスワールドカップ」
前年9月、呂比須ワグナー選手は、自身でも熱望していたブラジル国籍から日本国籍への帰化申請が認められ「日本人・呂比須ワグナー」となりました。
すると、さっそく当時の加茂監督が日本代表に招集、第3戦の韓国戦からスタメン出場を果たし、第4戦のカザフスタン戦、第5戦のウズベキスタン戦では0-1とリードされてW杯出場権がもはや絶望的になろうかという後半ロスタイム、井原選手からのロングフィードをヘッドで合わせて奇跡的な同点ゴール、そして第7戦の韓国戦でも2-0と突き放すゴールを決め、その決定力の高さを見せてくれました。
しかし、その後、呂比須ワグナー選手はブラジルのお母さんの病気容体が悪化するという報せを受けながら、あえて帰国せずに代表でプレーを続け、イランとの第3代表決定戦の前に訃報を受け取る悲しみをこらえて日本の初のワールドカップ出場という歴史的勝利に貢献しました。
日本人・呂比須ワグナー選手とブラジル人の血が流れるルーツとの狭間で心揺れ動く経験をしたわけですが、このフランスワールドカップでも、またしても日本人・呂比須ワグナー選手とブラジル人の血が流れるルーツとの狭間で心揺れ動く経験を強いられることになったのです。
それは初戦の相手がアルゼンチンだったためです。南米のサッカー大国同士の両国には、日本と韓国の複雑な両国関係から来るライバル意識以上の、強烈な意識があり、お互いのサポーターからの相手選手へのヤジ、罵りはもはや聞くに堪えない言葉が飛び交い、ピッチでの選手たちもレフェリーの見えないところで、格闘まがいの小競り合いが何度も繰り返される、まさにスタジアム全体が険悪になる間柄です。
呂比須ワグナー選手は、アルゼンチンとファイトできるブラジル人の血が流れていることを誇りに思いつつ、フェアな日本人・呂比須ワグナーとして試合できることを心待ちにしていました。ですからアルゼンチン戦のスタメンの構想から外されていると知った時の落胆は大きく「なぜ? どうして?」と答えの出ない自問自答を繰り返し一晩一睡もできなかったそうです。
そして、それは「呂比須ワグナーがスタメンではない」と知ったアルゼンチンにとっても驚きであり、意外だったようです。
サッカージャーナリスト・佐藤俊氏の著書「勇者の残像」(1998年11月リヨン社刊)には、そんなアルゼンチン側の呂比須ワグナー選手への警戒ぶりが次のように紹介されています。
「初戦(アルゼンチン戦)前日だった。日本の公開練習が終了し、ミックスゾーンの選手が一番最初に出てくる通路の前は、アルゼンチンのプレスを含めて多数の外国人プレスで賑わっていた。(中略)10人ほどの外国人プレスは、ブラジル生まれの日本人、呂比須ワグナーに大きな関心を示していた。(中略)」
「僕は、ブラジルでもイタリアでもない日本のひとりのストライカーに、なぜ彼らがこれほどまで興味を示し、なぜこれほどまで熱く語るのか正直言って理解できなかった。日本の2トップは城と中山である。彼らについて興味を示すならわかる。しかし、呂比須は、メンバーの中ではサブである。にもかかわらず彼らにとっては城や中山ではなく、呂比須なのだ。」
「ところがである。その謎は、オルフィーオ(エルモンド紙の記者)の一言で、簡単にクリアになった。」
「パサレラ(アルゼンチン代表監督)がロペスを警戒しているようなんだ。」
「パサレラは、(アルゼンチン代表の)キャンプ地ルトラで『日本で一番注意すべき選手は』という親しい記者の問いに『あのブラジル人』と、漏らしたというのだ。」
「W杯優勝国であり、日本は間違いなく勝ち点3を計算できる国である。選手個々の能力、経験、すべてに上回っているアルゼンチンにとって、基本的に負ける要素は見当たらない。あるとすれば満身からの油断だけだろう。」
「ただ、記者たちの話によると、アルゼンチンはコンディションが上がらず、パサレラは相当危機感を抱いていたという。(中略)そういう状況下で、パサレラは意図的に不安を搔き立てるように『呂比須』の名を口にしたのである。」
「パサレラの発言は、チームを刺激するためにブラジルの血が流れている呂比須の名前を使っただけなのか、それとも指揮官の第六感が呂比須のストライカーとしての危険な匂いを察知ししてそう言わしめたのか、その真意はわからない。」
「ただ、ブラジル人のいる日本をなめてかると痛い目にあうという危機感を選手に与え、日本との敗戦は予選突破の危機につながることを選手に知らしめたかったということは推測できる。」
「いずれにせよ、日本にブラジルの血が流れたストライカーがいることは、パサレラにとって無視できないことだった。アルゼンチンに対しての敵意を燃やし、完全と戦いを挑んでくるブラジル人と呂比須は同じ熱い血が流れているのだ。」
「石橋をたたいても渡らないと言われるほど慎重な彼が、そのストライカーに細心の注意を払うことはごく当たり前のことなのである。」
「(エルモンド紙の)オルフィーオ記者が、切り出した。『明日、ロペスは先発するのか?』、『先発ではない、サブとして途中出場することになるだろう。』」
「彼ら(記者たち)は、相手国の指揮官からおそらく最高の評価を受けて最も警戒されている選手を使わないということが理解できないようだった。特にオルフィーオ記者は、呂比須の起用が心理的に相手にプレッシャーをかけ、日本が有利に展開するための第一条件であると考えているようだった。」
「『本当か? 彼は、他のFWと比較して監督の信頼を得ていないのか?』」
「信頼されていないなら、メンバーに選ばれていない。それに使うか使わないかは戦術的なことでもあり、力がないとかそういう問題じゃないんだ。」
「『それで勝てると思うか? 』」
「『簡単に勝てるとは思っていないし、簡単に負けるとも思っていない。日本はこの日のためにコンディションを整えてきているから、アルゼンチンも相当苦しむはず』」
(中略)
「日本は、初戦を飾ることができなかった。(中略)」
「イタリアのアレサンドロ記者が『得点の予感を感じさせたのはロペスが出てきた数分だけだったとは、皮肉なもんだよ。しかし、なぜ日本はロペスを90分使わないんだ。』」
「おそらく、彼は見抜いたのだろう。呂比須はFWの中で飛びぬけて高い技術を持ち、ゴールへの姿勢も泥臭いとはいえ、一番感じることを・・・・。」
「僕は、岡田監督が城を『FWの柱』として考えていたこと、そして中山と城とは違うタイプのFWで、2人のタイプの異なるFWを起用することで相乗効果を狙っていたことなどを話した。」
「『でも、それはあいにくだな』」
「アレサンドロは、皮肉っぽくそう言った。彼は、そういった『形』と捉われて組み合わせばかりをあれこれ思案することよりも、能力のあるFWを前線に置くことのほうが重要だと言った。」
「日本のストライカーが1人で点を取れるようなズバ抜けた能力を持っているならば彼の言うことは正論である。しかし、日本は個人能力では対抗できないので相性のよさと組み合わせで対抗するしかなかった。」
「僕の言葉に、彼は腕を組みながら黙って耳を傾けた。そして長い沈黙が流れたのち」
「『ロペスだ』」
(中略)
「すべてのインタビューが終わり、ミックスゾーンの中央で日本の記者と話をしていると、昨日のように彼らが集まってきた。」
「クロアチアのレイッチ記者は、白髪混じりの頭を搔きながら、そうだなぁと余裕の表情を見せて日本を分析し始めた。(中略)」
「僕は、少し意地悪く聞いてみた。」
「『クロアチアは、当然(日本に)勝つ自信があるんだろう?』」
「彼は自信たっぷりに言った。『フフ、シュケルは止められないだろうね。彼は、日本にはいないイヤなタイプ、つまり点を取る優秀なストライカーだからね。ただ、ロペスが先発で出てきたらおもしろくなるんじゃないか』」
「(エルモンド紙の)オルフィーオ記者が『その通り』と相づちを打った。」
「『先ほど、ロペスと話をしたが彼はやはり普通の日本人のメンタリティとは違う。自分を使ってくれればゴールを奪う自信はあるし、勝つために活躍する自信はあるとはっきり口に出して言うブラジル人気質の人間だ。今日も後半が始まる前から出たくて出たくて仕方がなかった。自分をアピールすることをあまり美徳とせず、謙虚に支持に従うのが日本的風習というのならば、彼こそその静寂な輪の中に入れて、彼の闘志を日本の選手は肌で感じるべきだろう。その時に日本の選手が発奮すれば、(決勝)トーナメント進出の目は、まだある。しかし、所詮、俺たちと彼(ロペス)は違うというふうに冷めたり投げたりしたら、救いはないだろうね。でも、そういうのを必要としてオカダはロペスを起用しているんだろう? ならばもっと早く(ロペス)を入れるべきだと、私は思う。しかし、今日の(アルゼンチン戦の)結果には少々ガッカリしたよ。日本はもっとやれるはずだと思っていたから』」(中略)
「イタリアのベネラット記者は、僕が黙って聞いていると低い声で、ロペスはおもしろいと切り出した。」
「『私もロペスを評価している。彼はワガママで自己陶酔的だが、FWは、そのぐらいでないと務まらない。ロペスひとりのために10人が自己犠牲を払ってもいいと思うぐらいだ。残りの10人は彼だけのためにお膳立てをしても問題はない。彼が点を取れば勝てるのだ。日本はゴールへの攻撃パターンが少ないから、そのぐらい徹してたほうがうまくいくんじゃないか。ユーは、日本は全員で攻めないとゴールは奪えないと言ったが、彼ならロナウドにもバティにもなれる感じがしたよ』」
「中田や川口はともかく、思った以上に呂比須の評価が高かったことは、大きな驚きだった。出場した時間はわずかに25分だが、彼らはすでに呂比須の特徴とその能力を見抜いていたのである。」
「しかし、呂比須をまるで海外クラブチームの助っ人のように思っているのには、多少違和感を覚えた。彼らは、呂比須を含め日本というチームをまだ完全に理解していないようだった。」
(私は言った)「『ロペスは、確かに能力の高い選手だが、ベネラット記者が言うようなプレーは難しいだろうね。(中略)ただゴールだけを狙うというプレーは許されないんだよ。彼は、チームの中では他の選手と同じように好守に動き続けなければならないし、常に与えられた役割を果たさなければならない。それは決して個人を殺すというのではなく、そうしないと個人能力に劣る日本は世界を相手に戦えないからなんだ。日本というチームは、選手11人全員が自己犠牲をもって共通の目的を完遂しようとした時に、組織的にまとまってプレーできた時に力を発揮する、そういうチームなんだ。』」
「『そういうのが問題なんだよ』 (エルモンド紙の)オルフィーオ記者は、冷たく言い放った。そして続けた。」
「『日本は、よく戦った。それに、よく訓練されている。しかし、選手はそれ(戦術)にこだわり続けている。それじゃ勝てない。サッカーは、そうした形の上に創造性というプラスアルファがないと勝てない。いいゲームをすることと勝つことは別だからな。真面目すぎるような気がするよ、日本人は。日本のサッカーが画一的で単調な理由は、そういう国民性の問題なのか? ただ、ロペスだけは、いい意味でそれを打ち破ろうとしていた。オカダが言うには、日本は全員守備で全員攻撃だが、彼だけは攻撃に専念していた。ユーはどう思う?』」
「彼の言うことは理解できないことではなかった。むしろ、わかりきった当たり前のことである。しかし、日本は当たり前のことをしないのではない。できなかったのだ。守備に多くの時間を取られ、攻撃もカウンターだけに絞って練習してきた日本は「型」を失うと切れた凧のように右往左往してしまった。自分たちの型を失った時、自発的かつ能動的な攻撃を組み立てられるほどチームも個人も熟成していないのである。オルフィーオ(記者)が指摘したことは、常に日本が課題としてきたことだった。」
このあと佐藤俊氏は、日本が、真面目な国民性を生かしたサッカーでアルゼンチンに挑み、そこそこ戦えたのであり、結果負けたことを選手は本気で悔しがった。しかし、いまの日本の実力はそこまでであり、プロ化して6年、初めてのW杯、経験も歴史もないこれからの国なんだ、と日本サッカーの現実を話すと、記者たちは「イエス」口を揃え「なるほどそうかもしれない」と頷いたそうです。つまり、彼らは、日本がまるで何度もW杯に参加しているような錯覚で話をしていたところから目が覚めたという表情だったのです。
佐藤俊氏の、この外国人記者たちとの会話は、私たちをワールドカップの取材現場にいるかのような疑似体験をさせてくれました。
佐藤俊氏は、
・思った以上に呂比須の評価が高かったことは、大きな驚きだったこと。
・日本が、選手11人全員が自己犠牲をもって共通の目的を完遂しようとした時に力を発揮するチームだと話したことに対して、「そういうのが問題なんだよ」と冷たく言われたこと。
・しかし、問題であることは百も承知であり、まだまだ日本はこれからの国であることを理解してもらうしかなかったこと。
等々の会話を真正面から海外の複数の記者たちと交わしたのです。いわばサッカーの本場ともいえる海外の記者たちと、こうした濃密な会話ができるのはライター(記者)冥利に尽きるというものです。
話を「呂比須ワグナー選手の『フランスワールドカップ』」に戻せば、呂比須ワグナー選手もまた、カズ・三浦知良選手同様、岡田監督のもとでフランスワールドカップを戦うことになったことで、そのプロセスで起きることも含めてすべてを受け入れざるを得ない運命(さだめ)にあったとしか言いようがありません。
海外の記者たちが、いくら呂比須ワグナー選手を高く評価していたとしても、そう簡単に「やっぱりそうか」と同調する気にはなれませんが、ブラジル人の血が流れている呂比須ワグナー選手、そこから来る呂比須ワグナー選手のメンタリティに、僅かであっても希望を託してみたかったという気持ちはぬぐい切れません。
呂比須ワグナー選手自身も、そこに賭けて欲しかったという気持ちだった故に、不完全燃焼の「フランスワールドカップ」であったことは疑いようもありません。
出場機会を得られなかった選手たちにとっての「フランスワールドカップ」
今回のフランスワールドカップ、22人の登録メンバーの中でまったく出場機会がなかった選手が5人います。GKの小島伸幸選手、楢崎正剛選手、DFの斉藤俊秀選手、DF服部年宏選手、MFの伊東輝悦選手です。
ここまで、たびたび引用させていただいているサッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」で、増島氏はこれら5人の選手にもインタビューして、彼らにとっての「フランスワールドカップ」は何だったのか語ってもらっています。
貴重な記録です。永遠に語り継ぎたい記録です。以下全員ではありませんが、引用させていただきます。
GK・小島伸幸選手にとっての「フランスワールドカップ」
その経験は、6月21日、クロアチア戦の翌日、ベースキャンプ地のエクスレバンで、控え組による地元クラブとの練習試合
「今回のW杯で、オレにとってはあの試合がすべてだった。誰も覚えてもいないぐらいの練習試合にすぎないんだけど、自分としては、あの試合で最高にして最大の収穫を得たんでね。」「試合開始直後だったか、向こう(フランス3部リーグの混成チーム、ビル・ブランシェ)のキーパーがケガで倒れてしまって、交代がいなかったんですね。そうしたら、岡田監督がものすごく申し訳なさそうな顔してオレに言うわけですよ、『小島、悪いんだけど・・・・向こうへ入ってくれるか』と。『そんなの気にしないでください』そう言ってね。その時点でオレは、ヨシカツ(川口)、ナラ(楢崎)の次、つまり3番手なわけですから。それが現実で、岡田さんに気を使ってもらうことじゃあないないと思った。」
「向こうの選手と軽く打ち合わせをして、って言ったって、フランス語なんてわからんし、もう適当適当。上がれはアップ、右はライト、左はレフト、そのくらい。いい加減なもんですよ。でも試合に集中し始めると、あることに気がつきましたね。あれ、この人たちアマチュアなのにサッカーに意図があるんだってこと。3部ですからやり方なんて別に関係ないって思っていたら、ところがどっこい、ちゃんと意図を持っている。」
「ただし、その意図に対して、体がついて行っていないからうまく行かないに過ぎないんでね。確か、日本は点取られてますよ。大会期間中はテレビ中継を見てましたから、フランス(代表)のサッカーももちろん観察していました。3部のクラブチームに過ぎないんだけど、なぜかフランス代表にも通じるんですよね。ボールの出し方とかさばき方、サイドへの展開、最後方から見ていて、ほらそっちだろ、こっちだろって、全部つながるんです。あれは本当に
新鮮な驚きでした。3部アマなのに、代表とベーシックな戦術がほぼ等しい。というか、同じベクトルに向かっているんですよ、サッカーが。」
「最後方から声を出していて、それに対するDFのリアクションなんかも素晴らしいものがある。コーチングへの反応ですね。試合をしていて、フランスのサッカーの奥行き、というか、伝統というか、とにかく強いはずだわ、って思っていましたね。あれで、もっともっとフィジカルを作って、技のレベルが上がって、コンディショニングをいれると、それが代表のあるべき姿で、彼らはその姿のもっとも原初的な部分なんですね。でも、太い脈でつながっている。どこかの知らないチームがポッと出て来て日本とやってるわけじゃあなかった。」
「日本では、といえば、別にそれがいい悪いではなくて、Jリーグだって、獲得している外国人選手や監督によって、やることが全然違うわけですよ。もうベクトルからして。高校生、アマチュアなんでもう代表とは何の関係もない。そういう中でやっているわけじゃないですか。代表だって、ブラジル人がやった時、日本の監督の時、それぞれに選ぶメンバー以上にやり方が違う。華やかな戦術はあっても、張り子のトラ、みたいなところがあるんじゃなかろうか、と。これが『サッカーにおける伝統』ってことなのか、と。それには本当に新鮮な驚きを感じました。」
「あれほどのことが勉強できるとは思ってもみませんでしたし、もし自分が代表のサブじゃなかったら、相手方の助っ人にならなかった、ああいうふうに、彼らの後ろからそれらを感じ取ることは絶対にできなかったと思うんです。(中略)」
「ええ本当に、すばらしい収穫の・・・・一応、私にとっての『Aマッチ』ということにしておきましょう。」
おそらく聞き手の増島さんも、いい話が聞けたと充実感を覚えたのではないかと想像します。出場機会のなかった選手から、これほど含蓄のある、後世の日本サッカー界もずっと考えていかなければならない「日本サッカーをどうやって作り上げ伝統にしていくか」というテーマに触れる話が聞けたのですから。
小島選手自身が語っていたように、この経験は、例えば指導者として海外に短期留学して、仮に同じシチュエーションの体験をしたからといって味わえるものではないのかも知れません。小島選手が、たまたま助っ人として何の予備知識も持たずに、いわば無心の状態で飛び込んだ試合体験をしたからこそ得られた「新鮮な驚き」だったのかもしれません。そう思いながら記録に残し記憶に留めたいと思います。
GK・楢崎正剛選手にとっての「フランスワールドカップ」
小島伸幸選手が、6月21日、控え組による地元クラブとの練習試合で相手チームの助っ人GKに入ったことについて、
「あのとき、自分も『ああ、ノブさん、この人、すごい人なんだ。もし、あれが自分だったら』って、そりゃあ思いましたよ。最終戦前の最後の対外試合でしょう。そんな時に相手のGKとして入れ、なんて、普通だったらあんなこと気持ちよくできないんと違いますか。自分はそう思いましたね。最後のところに来て、小島さんのすごい人間性と言うか、GKとして尊敬できる人だと改めて確認したような日でした。本当の意味で強い人だ、、そう思いました。」
「試合に出るからとか、出られないからとかではなくて、GKとしてやらなくてはならないのは、たとえ誰がピッチに立つんであっても、何があってもすぐにベストで出られる、そういうコンディションを維持することなんだと思う。今回、マリオ(GKコーチ)は、そうやってぼくらがいつでも100%の力を出し切って準備できるように、フィジカルもメンタルも、維持してくれたんですね。」
「休みがなかったんですが、マリオには、疲れているなら疲れているとはっきり言え、と言われていました。でもねえ、ハイ疲れましたなんて、そうそう言えるもんじゃないし、GK三人はよく練習しましたよ。マリオの足(右足)、あれだけ蹴っているわけだから、当然おかしくなるわけで、ぼくら三人は気がついていましたよ。明らかに足の状態がおかしいと。かなり痛んでたんではないかと、とね。でも、そういうことをいちいち口にしたりしなくても済むような、お互いを信頼できる関係にはあったと思っています。マリオがそれを知られないように隠しているから、こちらも知らないフリをする・・・・・暗黙の了解というんでしょうか。」
楢崎正剛選手は、代表選手の中で若い方から数えて2~3番目の若さですが、成熟した大人の風格さえ感じる話です。GK三人の、他のポジションとは違った特殊なグループ、しかも二人は出場機会がまったくない特異なグループがギスギスしないで乗り切れたのは、小島選手、楢崎選手がメンバーであったからこそ、とあらためて実感します。
DF・斉藤俊秀選手にとっての「フランスワールドカップ」
5月下旬のキリンカップの段階では、日本のDF陣は3バックの井原正巳選手、秋田豊選手は固まっていたものの、残る一人は小村徳男選手、斉藤俊秀選手、中西永輔選手の3人から岡田監督が誰を選ぶか決めかねていました。そのままスイス・ニヨンに入り最初のテストマッチ・メキシコ戦で岡田監督は3人の中から中西永輔選手をスタメンに起用しました。
「今回の遠征での変わり目はやはり、5月31日のメキシコ戦でしょうか。キリンカップでは自分もやれていたし、3バックは清水でやっていることもあったから、非常に組みやすかった。みなさんからは、ぼくは井原さんのバックアッププレーヤーというふうに見られているけれど、自分では必ずしもそういう認識ではないんです。ですからメキシコ戦まで来て、先発が永輔だったとき、正直言ってショックでした。ああ自分ではなかった、という。それをマイナス面でひきずることは全然なかった。」
「翌日6月1日、サブ組だけの練習試合があって、翌日井原さんがケガをして3日のユーゴ戦に(3バックの真ん中を任されて)フル出場して、7日の(サブ組によるフランス3部チームとの)練習試合と、3試合ほぼフル出場でしたね。でも(7日間で3試合でしたが)フィジカルではあまりキツくはなかったんですよ。試合をやれているという充実感もあったし、本番には出られなくてもむしろ、自分のサッカーに挑戦する意味もありました。(中略)あの1週間の3試合の経験は、気持ちの整理をつける意味でもよかったんです。」
「(日本の3試合の中で)一番印象に残ったのは、クロアチア戦でしょうか。あの試合は外から見ていてつくづく『ああ、90分の中でメンタルゲームをやられているなあ』と感じました。」
「あの日の前半のスーケルのジェスチャーなどを見ていると、どう見ても日本の守備は勝っていた。彼が味方のパスにイライラして、手を広げて『やってらんないよ』みたいな仕草をしていたんですね。ですから、ああこっちの術中に見事にはまっているな、と見ていたわけです。」
「後半も、スーケルをマークしていた永輔(中西)もよく耐えていて、もう32分、これで凌いで・・・・と思いきや、なんですね。あそこでゴールまで持っていかれるとは、やはりあのクラスのしぶとさを感じました。何故やられてしまったのか、あえて考えると、頭の中で考える材料の多さといいますか、情報処理能力の違いを感じた気がします。ぼくらも一応はコンピューターなんですけど、アルゼンチンやクロアチア、ブラジルクラスになってくると、もうスーパーコンピューターですね。」
DF・服部年宏選手にとっての「フランスワールドカップ」
「(3人の落選発表を翌日に控えた)6月1日の夜は、よく眠りましたね。もう考えても仕方ないって思っていましたから。(中略)夜中のホテル全体は静かなんだけど、慌ただしい、そんなムードだなと感じてました。結果的に自分は残りました。残ったけれども、その後のこともまた、これまで経験したことの内容な厳しいことの連続だったんで、まあ勉強、勉強の遠征になったわけです。」
「キリンカップの時ですね、自分が使われる形というのは、1点取って先行した時に中盤を固める、そういう役割でしょう。サブで出番を待つということ、これは思っていました。だから今回ほど点を入れて欲しいって思ったことはありませんでしたよ。それしか出る道がないと思っていたから。(中略)」
「3試合見たといっても、全然(これがワールドカップなんだ、という)実感がない。ハーフタイムで練習していても全然ワールドカップじゃない。普段と同じなんです。何なんでしょうね。あの不思議な感覚って。」
MF・伊東輝悦選手にとっての「フランスワールドカップ」
「(自分の出番の可能性を考えた時)クロアチア戦のあと、(ジャマイカ戦に向けて)メンバーを少し替えて、システムも4バックで行くのな、とも考えたけれど、6月21日の練習試合でメンバーもシステムも変更ないことがわかった。(中略)だから、あの練習試合ではちょっと気持ちがね、切れてはいないけど、がっかりしたかな。あー、もうチャンスないってね。」
「モチベーションの差については、人それぞれだと思うけれど、でも今回、自分はいいレベルをキープできたとは思ってる。サブだからなんて言って、自分の持ち分を忘れるようなことになると、モチベーションが下がる。それはあくまで自分の問題だからね、そこはそこで勝負をしていないとだめだから。今回の遠征でもそこだけはちゃんと考えてはいた。」
「あそこできちんとやっていないと、リーグに戻ってから良くない状態になるだろうとも考えた。(中略)」
「大会が始まってからは、試合を観るのが結構楽しみになっていた。オランダなんかは初戦を見て、ああ久々にかなり上のほうまで行くんじゃないかって思ってた。(注・オランダは準決勝進出)」
「大会が始まる前にも、ビデオでスペインのリーグ戦だったかな、これも面白く観た。自分はどちらかというと、ワールドカップの舞台に立ちたいという気持ちよりも、むしろ、海外の、スペインとかのリーグでピッチに立ちたい、そう考えているんでね。」
ここまで出場機会がなかった5人の選手の「フランスワールドカップ」をサッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」から引用させていただく形でご紹介しました。5人とも、もっといろいろなことを語っており、増島氏がサブタイトルをつけたエピソードの部分とは異なる部分を紹介した選手もあります。
当方が引用させていただく際に注目したのは、代表選手クラスになれば、誰しもが持っている矜持、いわばプライドの部分と、まったく出番のない現実との折り合いをどうつけたのかという部分でした。
やはり、どの選手も自分なりにキチンと折り合いをつけて大会を終えたわけですが、5人5様、それぞれが違う形で折り合いをつけていることを知り感銘を受けました。一般的なフランスワールドカップの記録では、出場機会がなかった選手たちの胸を内を知ることができる記録は限られています。
今回、あえて5人全員の思いを記録して、長く後世に伝えることは、今回の取り組みの使命の一つだと考えています。
帯同スタッフたちが経験した「フランスワールドカップ」
すでにご紹介しているように、日本サッカー界初のワールドカップ挑戦にあたり日本サッカー協会は日本代表のサポート体制を、これまでにない量と質を備えて敷きました。すでにアトランタ五輪のころから、サポート体制の巧拙がチームの成果を大きく左右するとの経験値を得ていたこともあり、日本サッカー協会のサポート体制は選手たちも驚くほどの手厚さでした。
それは、2002年日韓W杯に向けてのシュミレーションにもなるとの思惑から、意識的になされた面もあって、やや過剰感を感じさせるほどの分野もあったようです。
サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」は、このサポート体制を担った帯同スタッフが経験した「フランスワールドカップ」にも焦点が当たっており、貴重な記録ですので、いくつかご紹介します。
福林 徹チームドクター
「中山(雅史選手)が(ジャマイカ戦の後半31分)ケガをした瞬間、彼はそう倒れたりする選手ではないですから、やはりひざだと思っていました。当初から『爆弾』とまではいかないまでも、ひざの件(半月板損傷)がメディカルスタッフの懸念事項にはなっていましたんでね。」
「ですから、徳さん(徳弘豊トレーナー)と慌てて走って行ったけれども、線審に制止されたままピッチの中には入れてもらえなかった。そうこうしているうちに、ゴンは立ち上がってしまったんですね。歩いていたし、これは大丈夫かな、と思ったんですけど・・・・。」
「でも、状況(1-2とリードされている状況)から言っても、メンバーから考えても、交代は難しかったんでしょう。結局代わらぬまま、骨折した人間話走らせてしまう事態になってしまった。(中略)個人として非常に悔いの残る場面になってしまった。」
「ゴンと二人で診察室でレントゲンを見て『骨にヒビが入ってるね』と言うと、ゴンは『折れていると聞いちゃ、もう歩けませんよ』って。そうですよ、骨折して走っていたなんて、いかに気持ちで持ちこたえていたか、それを思うと辛かったですね。」
(中略)
「今回、初出場でも、メデカルを含めサポートはかなり充実していました。次は、選手とコーチとの間で、メンタルを含めてどういうケアができるのか、一方通行から両面通行という形ですね。海外の強豪国では、代表専属ドクターを置くなど、体調管理は基本として確立されているようです。代表の医療システムについても理想に近づくために、この初出場を機に協会と検討していけたらと思います。」
田中博明アスレチックトレーナー
「(クロアチア戦が終わってからジャマイカ戦までの)あの1週間は、何かおかしな1週間でしたね。選手を見ていてどうにも勝てる気がしなかった。モチベーションということなんだけれども、クロアチア戦で落ちてしまって、全然上がって来ない。『おいおい、お前さんたちどうしちゃったんだい?』そんな感じだったね。」
「昨年のジョホールバルの時のチームは物凄かった。追い込まれて追い込まれて、土壇場で夢を実現させた彼らの目っていうのかな、形相が死に物狂いで、これで負けたらもうサッカーはできないっていうぐらいのもんだった。(中略)」
「W杯に行こう、というところまでは本当にすばらしかった。でも自分たちスタッフの役割も含めて、そこから後どうするのか、さあ一段階上がったけれどその次をどうするのか、そこには何もなかったんではないかと思う。ほかの国は、といえば、行ってからのことを知り尽くしていて準備していたわけで、そこには大きな違いがありましたね。」
「もっとじっくり、どういう大会でどうしなくてはならないか、腰を据えて考えなくてはならなかった。」
「そういう様々な経験不足が一気に出て来たのが、ジャマイカ戦の前だったんじゃないかね。自分も含めて、初の1勝をもぎとりに行く、そういう戦う集団ではなくなっていたとぼくと思いましたね。(中略)」
「2002年に向けて、単にピッチでの戦い方だけじゃなくて、こういったスタッフのことも継続して検討して欲しいですね。でないと無駄になってしまう。スタッフの多くは会社員や自営業で、2か月も本来の仕事を空けて代表に付いていたわけで、戻ってからは苦しいですよ、本当に。だからこそあの経験を生かしたいんでね。あらゆる意味において、代表スタッフのあり方、それはものすごく大切なことなんです。」
野呂幸一シェフ
「アルゼンチン戦の前は、見送りのとき(選手たちに)「行ってらっしゃい」と声をかけても無言で緊張していたようですが、試合後は(選手たちの様子は)随分と自信が出て来たというか、上り調子な感じでした。ですからそれを見て、ここからが勝負だぞ、と自分を叱咤して乗り切ったということでしょうか。代表の遠征では間違いなく体重も減りますが、今回の遠征では、肉体的にというより精神的に気を張り詰めていたんだと思います。」
「やはりもし一度でも食中毒を起こしてしまったら、ということですね。すべてが一瞬で終わってしまいますから。(中略)」
「食中毒もなく、無事にすべてが終わって東京魚国(野呂シェフの所属会社)の本社に挨拶に行った日、心臓が苦しくて動けなくなりました。役員室ですみませんと、横になって・・・・あの時、フランスでいかに張り詰めていたのかを実感しましたね。(中略)」
「(日本代表の結果は)3敗でしたが、私は日本代表は本当によくやったと、心から思っています。帰国してから自宅近くのすし屋で飲んでいると、周りのお客さん全員が評論家と化して『よくやった、じゃダメだ』なんてね。評論家になって何かを言うのは簡単だよ、って心の中でつぶやくこともありました。自分がわかっていりゃあいいんですから。でも彼らとともに過ごせたこと、少しでも手伝えたことは誇りです。」
「エクスレバンを出る日、選手を送り出してから残っていたスタッフのみなさんとTGV(フランス版新幹線)に乗り込んでパリに移動しました。しばらくしたら、ああ本当に無事に終わったと胸が一杯になり、ワインとビールで乾杯をしました。車窓に流れるフランスの景色を眺めながらみなさんと飲んだ、あの一杯が忘れられません。」
浦上千晶栄養士
「今回の遠征中はとにかく物理的に忙しい毎日でした。ニヨン、エクスレバンと2か所の移動でホテルが変わりましたし、そのほか、トゥールーズ、ナント、リヨンと合計5つのホテルで調理と食事を準備しなければいれない。その度に一から手順を作り直しますから、本当に忙しかった。96年からずっと代表で栄養の仕事をさせてもらってきましたが、さすがに今回ばかりは、私のカンピューターも途中から煙を吹き出してしまいましたね。」
「でも、あの日、フラビオコーチが私に向かって”You should go to stroll”(散歩に行きましょう)と、促してくれて・・・・。彼だってきっととても疲れていただろうし、もちろん忙しいのに、気を使ってくれたんだな、と思うと本当にありがたかったですね。出かけるといっても、ただホテルの周りを二人で雑談して歩くぐらいで終わりましたけれど、でも、あれは本当に気分転換になりました。」
「あの散歩のおかげで、怒涛のように流れていくW杯から一瞬離れ、どこかホッとすることができました。何か重要な事件が起きたという日ではないのですが、後から思うととても印象深い日でした。」
「加茂前監督の時から3年かかわって、途中、こういうポジションは不必要ではないか、悩んでそう話したこともあります。でも今回、サポートに加えてくださった。感謝してますし、将来こういったサポートが必要ならば喜んで経験を伝えたいです。」
「最後のメニュー?・・・・いいえ、パリに移動した6月27日の昼食ではありません。私は決勝トーナメントに行くつもりで、まだあと10日分のメニューを作っていました。」
寺本一博エキップメント(アシックス)
「日本からアムステルダム経由でリヨン・サトラス空港に到着する日本代表ユニフォーム類を受け取りに行くという作業がありました。緊張しましたね、ちゃんと着いてくれたか、問題なく(荷物検査を通過して)こっちに出てくるか。いろいろ考えました。」
「いざ到着して、荷物が出終わったら、はい持っていって下さいという感じで、実にあっけなく手元に届きました。ダンボールを数えたら250個ありました。エーッこんなに、という感じでした。」
「トラックに積んで、サトラス空港からエクスレバンに戻ろうとする頃は、もう夜中でした。高速なんかは電灯もなく真っ暗じゃありませんか。代表チーム専属のドライバーさんは運転はうまいんですが、帰りを急ぐため、えらく飛ばすわけです。真っ暗なのにスピードがどんどん出るし、あれは怖かったですね。一瞬考えましたよ、もしこの車で事故ったらユニフォームはどうなるんか、って。ドライバーさんに、もっとゆっくり、と引きつった顔して頼みましたよ。エクスレバンに着いて、遅くまで待っていてくれた麻生ちゃん(代表エキップメント)の顔を見た時は、本当にほっとしました。」
「選手にも衣類や道具に対して色々なこだわりもあって、それは代表では大切なことです。(中略)呂比須さんの海水パンツの件では、選手のこだわりっていうことについて勉強になりましたね。それはなくなったお母さんの形見だそうで、試合の時はそれをはかなくちゃダメなんですね。もちろんそのことはちゃんと分かっているから、会場に持っていくのは重要なチェック項目ですけど、横浜での壮行試合だったと思いますが、あの時は忘れてしまって・・・・。呂比須さんもぼくらも慌てました。麻生ちゃんと携帯で連絡を取りながらぼくがホテルに戻って部屋を探して、パンツ握りしめてまた競技場に戻って大慌てしました。海パンひとつで、と思われるかもしれませんけれど、選手にとってはそれは大事なことなんですね。」
ここまで、サッカージャーナリスト・増島みどり氏の著書「ワールドカップフランス98 6月の軌跡」に収録されている監督・選手・スタッフのインタビューから、多くを引用させていただき、今回の日本代表にとっての「フランスワールドカップ」の実相に迫ってきましたが、増島みどり氏自身が、この一冊にまとめたいと突き動かされた思いそのそものが、同書の「はじめに」の部分で語られています。
その志を多として、抜粋ではありますが記録し、後世に語り継ぎたいと思います。
「代表チームとともに帰国し、手元に残った5冊の取材ノートを見ながら、あの長く、一方で夢のように過ぎてしまった時間のほとんどについて、実は、結論や答えがそのまま手つかずに放り出されているのだと感じた。」
「『結局は、結果が出なかったことがすべてだ』と言い切ってしまう前に、自分自身が一体、日本代表の何を知り、何を知らずに、何を読み手に伝えていたのだろうかと思うと、まったく釈然としなかった。」
「3敗ということではなく270分を、欲を言うならスイスに出発してからの34日間を知りたかった。」
「ピッチに立った選手だけなく、この遠征に参加した選手全員の声を聞きたかった。」
「選手、監督、コーチだけではなく、エキップ、トレーナー、ドクター、栄養士・・・・できるだけ多くのスタッフの話を知りたかった。」
「かれらがどんなことを考えも何をやり遂げ、何ができずに終わったのか、何が足りていて何が足りなかったのか。それをただ外から見ているだけではなく、彼ら自身の言葉で表現してもらおうと考えた。」
「一見どうでもいいようなディテールと、過去にこだわることによって、何も起こらなかったように見えた日々が、立体的になってくるのではないか。」
「取材ノートと、ほぼ毎日つけていた日記のようなメモを見ながら、選手には帰国した後記憶を熟成してなお、胸を締め付けられるようなシーン、言葉、事件、風景、そういったのを話してもらい、インタビューはそのディテールを入口に、全体像に広げていくという手法で行なうことにした。」
「それによって何もないように見えていた日々が、選手にとって非常に大きな意味を持っていたことが鮮明になり、同時に、全体像も描けるようになるのではと考えた。」
「一人わずか2時間前後のインタビューで、彼らの考えが忠実に再現できたというなら、それは傲慢というものだろう。彼らが振り絞ってくれた一言一言すべてを文字にできたわけでもない。」
「しかし、多くの選手が沈黙を破ってくれた重みを何としても大切にしたかった。取材中、選手の誰一人として『結果はでなかったけれど、満足している』と答えたものはいない。」
「彼らは、言葉で何かを語ってはならないプロの『掟』を理解し、実践している。それが、彼らの多くが帰国して以来沈黙を守り続けた理由である。」
「しかし、結果はすべてて、であり、すべてではない。プロには、結果かプロセスか、などという逃げ道は存在しない。結果もプロセスもその両方を達成しなくてはならないからである。」
「彼らは、プロセスが結果を生み出すとの果てしない仮定を、英知と体力の限りを尽くして常に『科学的に』実証していく。偶然に、は依存しない。結果がなぜ出たのか、出なかったのか、それを明確に立証していく。これがスポーツ界でプロを名乗る人々の生き様である。」
「彼らが、W杯初出場という歴史的な事象の中で、いかに真摯な姿勢で現実を捉え、勇気を持って現実に取り組み、そうして今、重い結果と過程を背負って前進を試みようとしているか。39人ものインタビューで、それをみなさんに読みとっていただければと心から願って、書く。」
低迷する日本経済、閉そく感が増す社会のムードの中、ワールドカップ日本応援に光明を見出したものの、スカッとする場面がないまま初体験を終えた日本列島
この年1998年は、戦後最悪とも言える経済成長率のマイナスを記録し、景気は後退局面に入りました。企業ではリストラや倒産が相次ぎました。
この年の日本経済で最も注目を集めたのは、日本長期信用銀行の経営問題でした。最終的には金融再生法に基づく特別公的管理(一時国有化)適用で決着。そして日本債権信用銀行も特別公的管理に移行した年です。
完全失業率は過去最悪の水準に達し、有効求人倍率も過去最低を記録するなど、雇用情勢は非常に厳しくなりました。
一方、物価の下落が企業の収益を圧迫し、不況をさらに深刻化させるデフレスパイラルへの懸念が高まりました。また、1997年に発生したアジア通貨危機は、日本経済にも影響を与え、輸出の減少や景気の減速を招きました。
これらの要因が複合的に作用し、1998年の日本経済は非常に厳しい状況に置かれました。
そのため社会の閉そく感が増し、人々は何か明るい話題、国民を勇気づける話題をいつになく求めていた年といえます。
そのような経済社会情勢の中で迎えた日本サッカー界初のワールドカップ挑戦は、ふだんサッカーにさほど関心をもたない人々にも、明るい話題、国民を勇気づける話題として格好の出来事になったのです。
世界中の国々がサッカーを通じて、その国の人々の心を一つにする、ワールドカップサッカーが、そうした場であることを知った日本の人々は、日本代表がフランスで活躍してくれることを願って大会を心待ちにしました。
しかし大会直前になって、それまで日本サッカー界のカリスマ的存在であったカズ・三浦知良選手が日本代表から外れることを知り、日本中が一億総評論家と化するほどの大きな反響が起こりました。
一方、かねてから日本代表を応援したいと思っていたサポーターの人々は、ここぞとばかりフランスに向かおうとしたのですが、突然降って湧いたチケット不足問題に翻弄されました。
それでも多くのサポーターがチケットのあてもなくフランスに渡り、世界中の人たちを驚かせました。ただ、フランスで応援した日本代表サポーターは、スタジアムの中でも外でも整然とした応援と試合後のスタジアムのゴミ拾いのマナーで、現地の人たちから高い評価を得ました。
そして我らが日本代表のワールドカップ初舞台、日本国内では各家庭のテレビの前で、各地の屋外大型スクリーンの前で、スポーツバーのモニター画面の前で、グループリーグ3試合を見守りました。
初戦のアルゼンチン戦のあとは「よくやった、まだいける」という気持ちでした。しかし2戦目のクロアチア戦、祈るようにしながら見守る中、またも敗戦、これでグループリーグ突破は絶望的となりましたが、最後のジャマイカ戦、この相手なら勝ってくれるだろう、1勝はしてくれるだろうと思いつつ見守った試合にも勝てず、日本中の願いは叶いませんでした。
日本全体が閉そく感にある中、国民を勇気づける場になるのではないか、日本人の心が一つになるのではないかという思いで見守った3試合、スカッと心が晴れるような場面がないまま初体験を終えた日本列島でした。
スポーツという、勝ち負けがはっきりする場においては、心を一つにできるのは「勝利」をおいてないのですが、世界の舞台に初めて挑戦する日本が、そうやすやすと「勝利」を手にできるほど甘い場ではなかったということを、今回、日本中の人々が理解したのでした。
そして人々はまた、いま一つパッとしない日本の経済社会の日常に戻っていきました。
日本サッカー史上初のワールドカップ挑戦は、サッカー協会から監督・選手・スタッフそしてマスコミ、サポーターに至るまですべてが「未知」「未熟」「未経験」この3つの「未=いまだ」のもとでの挑戦でした
日本サッカー史上初のワールドカップ挑戦となった「フランスワールドカップ」その挑戦の記録を克明に辿っていくと、見えてくるのは日本サッカー界を覆っていた3つの「未」、すなわち「未知」「未熟」「未経験」のもとでの挑戦だったことが浮き彫りになってきました。
「未」は「いまだ」と読み替えたほうがわかりやすいかも知れません。
つまり「いまだ知らなかった世界」に飛び込み「いまだ成熟とはほど遠い体制」で「いまだ経験したことのない相手」と相まみえたということです。
「未知・いまだ知らなかった世界」
4年前にはアメリカで行われたワールドカップ、その前年1993年10月にあと一歩のところで出場権を逃し、アメリカ大会に出場した24ケ国の仲間入りを果たせなかった日本、2002年には日本でそれを開催することになっているとは言うものの、なにぶん、日本はワールドカップがどういうものか、世界最大のスポーツイベントだとか、時には戦争さえ誘発しかねない本気の戦の場だとか、言葉では聞いていても、実体験がない、いまだ知らない世界に乗り込む体験でした。
そのことから来る、いわば手探りの準備、戸惑いながらの対応などの連続だったと言えます。
例えば日本代表全体の運営、おそらくこれ以上は無理だろうというぐらいの手厚さで準備・対応した結果、過保護だったぐらいだとか、やり過ぎだと反省する部分が出た半面、メンタルケア、メディア対応など「そこまでは気が回らなかった」とか「それは知らなかった」ということで課題を残したところも出てきたのです。
知らない世界に乗り込むことが、いかに難しいことかを思い知らされました。しかし、一度、その世界を知ってしまえば、次からはその反省を生かしてやっていけばいいという財産を得た大会でもありました。
「未熟・いまだ成熟とはほど遠い体制」
これは主として日本サッカー協会の、日本代表を支える体制ということになります。遠くは加茂監督の続投問題に対する協会の恣意的と見える対応に始まり、前年のアジア最終予選の加茂監督更迭・岡田監督昇格、そして岡田監督の本大会指揮、代表選手22人の絞り込み、カズ・三浦知良選手落選問題、すべてが日本サッカー協会の、いまだ成熟とはほど遠い体制のもとでなされた準備です。
協会の意思決定システムが上層部の不透明な部分が見え隠れする時と、強化委員会に丸投げしているかのような時が、まだら模様に現れる不思議な、分かりやすく言えば未熟な体制のもとで準備された日本代表が、ワールドカップ本大会という場に放り込まれたということになります。
これらの指摘は、多くのマスコミからもサッカー専門家からもなされていることですので、日本サッカー協会自体も、多少なりとも認識があるはずですが、その指摘によって協会の役員構成、組織構成が左右されるわけではありません。
あとはどれだけ自浄作用を働かせるかに期待するしかありませんので、体制として成熟していくまでにどれほどの時間を要するのか、誰にもわからない種類の問題です。
「未経験・いまだ経験したことのない相手との戦い」
これは主として岡田監督のもとでの日本代表に言えることです。岡田監督自身がどのカテゴリーでも監督経験がなかった中で、ワールドカップ日本代表の指揮をとるために選んだ方法は、戦い方を徹底した理論武装で固め、情を徹底して排除し、理だけで臨む方法でした。
しかし、そこには、ちょっとした息抜きを与えてやることで得られる効果を経験していないが故に固められた、がんじがらめの合宿スケジュールや、選手の心理を掌握するという経験をしていないが故に進められてしまった間違った選手選び、理論だけを頼みにした戦い方の故に、3試合とも同じメンバー(スタメン)で戦うという硬直した采配など、未経験の懸念がモロに出てしまいました。
監督未経験の人が、いまだ経験したことのない相手と戦うために、相手を徹底的に研究して論理的に戦える方法を見出したまではよかったのですが、ある意味、それが限界だったというべきでしょう。ピッチで戦う選手たちのメンタルをしっかり見極めた上で、モチベーションを最大化したり、実際の試合の中で刻々と変わる展開に臨機応変に対応した采配を求めるのは難しかったというしかありません。
岡田監督自身は、大会の結果責任を一身に負い辞任しましたが、この大会の直後の段階では、「考えに考え抜いて決断してきたすべてのことに悔いはない」とすっきりした表情で語りましたが、後年、さまざまな経験を積み重ねていくに従い「歴史の針を戻せるなら、こうすべきだった」と感じることが出てくるように思いますし、それが自然なことではないかと思います。
こうして検証してきた結果明らかになった、今回の「フランスワールドカップ日本代表」の意味合いを、のちのちまで語り継ぎ、改善すべきこと、改革されるべきことがなされていけば、それこそが「フランスワールドカップ日本代表」の最大の功績・遺産だと言えますし、いつの日か必ず「日本サッカーの歴史」という法廷で、そのことが判断されるに違いありません。
サッカーが持つ不思議な魅力、世界の多くの国がそうであるように、「サッカーの世界最高峰の舞台、ワールドカップの舞台に立つことにより、その応援という行為が国を一つにする魅力」を知ったニッポン、しかし、それは勝つことによって初めて国中の一体感が本物になるんだということも知ったニッポン、世界の舞台に立ったという最初の目標には到達したものの、勝つという次の目標はお預けになった今大会、しかし、このあとも世界への挑戦が続く限り「国を一つにできる魅力」に酔いしれる日を追いかけ続けていくことになります。
以下「伝説のあの年 1998年-2」に続きます。