伝説のあの年(1994年)

現在につながる世界のサッカー、日本のサッカーの伝説の年は、まず1986年、そして1992年1993年1994年1996年1997年1998年1999年2000年2002年2004年、さらに2010年2011年2012年2018年2022年
実に多くの伝説に満ちた年があったのです。
それらは「伝説のあの年」として長く長く語り継がれることでしょう。
さぁ、順次、ひもといてみましょう。

 

伝説のあの年 1994年

 

Jリーグが開幕して、日本全国が「Jリーグ」という新しいスポーツ文化に浸りながら夢見心地のうちに過ごした歴史的な年、1993年。
一方では「ドーハの悲劇」というサッカーがもたらす残酷な結末を、やはり日本全国が共有した1993年。
そして年明け1994年に持ち越された「Jリーグ初代年間王者決定戦」で、あの紳士的で「神様」とまで形容された鹿島・ジーコ選手が「つば吐き」行為により一発退場になるという予想外の出来事によって終焉を迎えた1993年。

1994年は、そのように1993年のページが重なったままスタートしたのです。

天皇杯決勝、横浜F初戴冠

元旦の第73回天皇杯サッカー決勝は、Jリーグ初代ステージ覇者の鹿島と、準々決勝で後期覇者のヴ川崎を撃破した横浜フリューゲルスの対戦となりました。
横浜Fは、日産時代に評価を高めていた加茂周監督のもと、リーグ戦では振るわなかったものの、やっと評判どおりの実力で勝ち上がってきました。
一方の鹿島も、すっかり強豪チームの風格で、このあとに控える93年チャンピオンシップの2試合を前に、ビッグタイトルを勝ち取り弾みをつけたいところでした。

試合は、快晴の国立競技場に53000人余の大観衆を集めました。後半、勝ち越した横浜Fが逃げ切るかに見えましたが試合終了間際、鹿島が同点に追いつき延長にもつれ込みました。

天皇杯決勝が延長戦にもつれ込んだのは6年連続とのことで、年の初めを飾るにふさわしい白熱の試合が6年続いたのもサッカー人気を高める要因の一つになったかも知れません。
延長には入ったものの、すでに退場者を出して一人少ない鹿島は、次第に疲労の色が濃くなり、延長前半7分に横浜Fに勝ち越されると、まるで緊張の糸がプツンと切れたかのように失点を重ね、終わってみれば6-2。横浜Fに初戴冠を許しました。

鹿島は、天皇杯2回戦から決勝まで20日間で4試合、さらにチャンピオンシップの2試合を加えると、本来ならオフシーズンのこの時期に6試合という過酷な戦いを強いられました。
また、この天皇杯決勝でも、基準のはっきりしないレフェリングが見られたこともあって鹿島は、疲労困憊の思いで報われぬ戦いを終えたに違いありません。

しかし、鹿島は、その思いをクラブ全体がバネにして、その後長きにわたる「王者への道」を歩み始めたことを、ここでも記録しておきたいと思います。

一方の横浜F、初めての栄冠に輝いた、この天皇杯決勝という舞台が、6年後の同じ日に、クラブ消滅の日となる「悲劇の決勝戦」の舞台になるとは、この時、誰も予想できなかったに違いありません。
日本サッカーの歴史を紐解くと、まさに「スポーツとは筋書きのないドラマ」の連続であり、一つのクラブの歴史にも容赦なく、それが当てはまることを、あらためて感じます。

全国高校サッカー、清水商が優勝

第72回全国高校選手権は、前年に続き連覇をめざす国見高と、清水商の決勝となり、清水商が勝利、3度目の優勝を飾りました。
この大会、人気と実力を兼ね備えた2人の選手が評判通りの力を発揮して活躍、この年、Jリーグの門を叩くことになりました。一人は優勝した清水商の守護神・川口能活選手、もう一人は準決勝で、その清水商の前に涙を飲んだ鹿児島実のエースストライカー・城彰二選手です。

2人は、のちにアトランタ五輪代表、そして日本が初めて出場したフランスW杯代表として日本サッカーを牽引していくことになりますが、この高校選手権で大きく飛躍したことで、後の活躍に弾みをつけたといえます。

この大会の主な選手
FW城彰二選手(鹿児島実)、安永聡太郎選手(清水商2年)、船越優蔵選手(国見1年)、MF佐藤由紀彦選手(清水商2年)、遠藤彰弘選手(鹿児島実)、奥大介選手(神戸弘陵)、中田英寿選手(韮崎2年)、田中誠選手(清水商)、鈴木悟選手(清水商)、川口能活選手(清水商)、本田征治選手(徳島市立)学年表示のない選手は3年

高校サッカー選手権が終わり、その大会優秀選手たちで構成される日本高校選抜チームや日本ユース代表が海外の強豪クラブのユース年代チームを招待して行われる「ニューイヤーユースサッカー」(この当時は1月15日が固定された成人の日(祝日)だったことから、その日に試合が組まれていた大会)も終わり、通常でしたらユース世代はオフシーズンになるところでしたが、この年1月下旬、いよいよ1996年アトランタ五輪をめざす新チームが始動しました。

1992年アジアユース選手権で3位になった日本ユース代表を率いた西野朗監督、山本昌邦コーチが、もちあがりの形で五輪代表を率いることになり、その時の選手たちを継続的に育成する意味でも、いい形で始動することになりました。
1月19日に発表されたU-20日本代表候補=日本五輪代表候補には28選手がリストアップされました。

年代的には1992年1月の第70回高校サッカー選手権で両校を果たした四日市中央工の小倉隆史(このリストアップ時にはまだオランダ留学中のため28選手には入っていない)、中田一三、中西永輔のトリオ、同じ学年で鹿児島実から横浜Fに加入した前園真聖選手、1993年1月の第71回高校サッカー選手権決勝に出場した山城高校の石塚啓次選手、同学年の松波正信選手、伊東輝悦選手、平野孝選手、そして、つい2週間前に決勝が終わった第72回高校サッカー選手権組の川口能活選手まで3つの学年の混成チームでした。

またクラブユース育ちから唯一人、山口貴之選手(読売ユース)も28選手には入っていないものの候補に入っていましたし、前回のバルセロナ五輪アジア予選日本代表に高校生として飛び級で選出され、今回もリストアップされた高田昌明選手(市立船橋から横浜F)は、キャプテンとして期待されたのですが、規定により前回予選出場者の参加を認められなくなったため、この年を最後に代表からは外れたという選手もいました。

前回のバルセロナ五輪アジア予選日本代表のメンバーから大きく変化したのは、多くがJリーガーになっていることでした。その多くは、まだチームでレギュラーを掴んでいるとはいえないにしても、プロ選手という意識を背負っていることが、このチームにじわじわと新たなエルルギーを生み出していったのです。

こうして、Jリーグ時代に入って編成されたアトランタ五輪候補選手たちは、自らの生き残りと大きな目標達成に向けて、静岡県掛川市・つま恋で4日間の合宿に臨んだあとマレーシアでの国際大会に参加しました。

さらに5月17~28日にはドイツ遠征を敢行、デュッセルドルフ国際トーナメントにU-21代表として参加、ベルダー・ブレーメン、ハンブルガーSVなど名門クラブのリザーブチームを相手に2日間で5試合を戦うハードスケジュールの中、試合ごとに選手を入れ替えながらも見事優勝を果たし着々と自信をつけていったのです。

この時の遠征には、フル代表に招集された前園真聖選手に替わって、前園選手と同学年の上野良治選手(早稲田⇒横浜M)、川口能活選手と同学年の山田暢久選手(浦和)、田中誠選手(磐田)、広長優志選手(ヴ川崎)などが新たに加わり、生き残り競争は3つの学年をまたいで激しさを増していきました。

ここで話題がそれますが「こぼれ話」を一つ、1994.1.19号サッカーマガジン誌が、新年企画・初夢企画として「これがフランス98日本代表イレブンだ」というスタメンを発表しています。この年がアメリカW杯の年であり日本が残念にも出場権を得られなかったということで、その先のフランスW杯には、必ず日本が出場するものと決めて打ち出した企画のようです。

これは「スタメン予想」という意味合いのものではなく、1994年1月の時点で「この選手に期待する」といった感覚で並べた布陣という感じです。この先4年間の間に成長を遂げるであろう選手のことも、その時点で予想される監督のこともまったく考慮に入れていない感じがよく出ています。

それによると、FWは2トップ、小倉隆史選手と松波正信選手、中盤に磯貝洋光選手、藤田俊哉選手、両サイドに永井秀樹選手に、石塚啓次選手、DFに中村忠選手(ヴ川崎)、広長優志選手(桐蔭学園からヴ川崎)、中西永輔選手(市原)、岩本輝雄選手(平塚)、GKは下川健一選手(市原)、そしてリザーブになぜか一人だけ相馬直樹選手(早稲田から鹿島)、以上12人があげられています。

このうち中西永輔選手と相馬直樹選手はフランスW杯のピッチにたっていますから、これはこれで面白い企画でしたが、1994年1月の時点で17歳直前の中田英寿選手が、よもや日本代表の司令塔になっているとは、思いもよらないわけですし、ドーハ組の井原正巳選手、中山雅史選手が攻守の要として頑張っていることも予想できなかったということでしょう。

明日のことさえも予測が難しいのですから、ましてや4年先と言えば「未来」そのもの、逆に「あの時こう予想していたのに、こんなに違っていた」と、あとになって紐解くことほど楽(らく)で楽(たの)しいことはありません。

ルーキー・城彰二選手、J開幕4試合連続、衝撃のデビュー

2月に入ると2年目のJリーグに向けて各クラブとも始動しました。特に目を引いたのがプレシーズンマッチの豪華さでした。
いきなり2月10日から行われた「東京ドームカップ」にブラジルのクルゼイロが来日、ヴ川崎と磐田が対戦しました。この時のクルゼイロには、まだ17歳、のちにPSVアイントフォーフェン、バルセロナ、インテル、レアル・マドリーとビッグクラブに在籍、2002年日韓W杯ではブラジル優勝の原動力となった「フェノーメノ・ロナウド」(フェノーメノはポルトガル語で『怪物』の意、のちのクリスティアーノ・ロナウドと区別するため、あえてフェノーメノ・ロナウドと呼ぶ)が在籍しています。

ブラジルからは、このあともインテルナショナル、サントス、コリンチャンス、グレミオと、あとにも先にも、これ以上ない名門クラブが来日しています。
コリンチャンスには、これも2002年日韓W杯ブラジル代表の10番リバウドが、ブラジル代表に初選出されて在籍しています。
ほかにオランダの名門フェイエノールトも来日しています。

インテルナショナルの監督は、ロベルト・ファルカン氏、つまり1ケ月後には日本代表監督になる人です。あとでご紹介しますが、この時の来日は、表向きはプレシーズンマッチのためですが、日本代表監督に向けた視察と交渉が目的だったようです。

ところで、クルゼイロ来日のところで「東京ドームカップ」と紹介しましたが、野球スタジアムの東京ドームと横浜スタジアムでサッカーのプレシーズンマッチを行なったのです。野球用の人工芝の上に、さらにサッカー用のブロック状になった人工芝を敷きつめて即席のサッカーコートを作りました。ピッチャーマウンドのあたりは少し高くなっていますから、そこを避けて作っているので何とも不思議なグラウンドの使い方をしています。
プレシーズンマッチが終われば、サッカー用の人工芝は撤去して「お返しします」といった感じで、この当時ならではの苦肉の策でした。

3月5日には新シーズンの到来を告げる最初のタイトル戦、ゼロックススーパーカップが国立競技場で開催されました。
いずれも、年が明けてからタイトルを獲得した天皇杯サッカーの覇者・横浜Fと、リーグ年間覇者・ヴ川崎との対戦です。
試合は2-1でヴ川崎が勝利しましたが、またレフェリングで後味の悪い試合となりました。試合終了間際の後半44分、追う横浜Fがヴ川崎ゴール前でFKを得ました。蹴るのはスペシャリスト・エドゥー選手、直接ゴールインを狙って蹴ったボールが、壁に立ったヴ川崎の加藤善之選手の手に当たったかに見えました。

この日のレフェリーは昨年、記念すべきJリーグ開幕戦の笛を吹いた小幡真一郎さん。このプレーに対して小幡さんの笛はならずスローインでリスタートとなりました。これに対して当のエドゥー選手をはじめ横浜Fイレブンは「PKだ」と猛抗議しましたが判定は覆りませんでした。

試合後、加藤善之選手は記者からの問いかけに「自然と手がでちゃった。(PKを)とられても仕方ないかなと思った・・」と語りました。
一方で小幡主審は「先日、FIFAの審判研修会があり、100%PKでない場合は笛を吹くなという指導を受けた。故意のハンドではないと判断した」とサッカー協会審判部に報告しています。

それにしてもヴ川崎がらみの試合になると、なぜか物議を醸す判定が起きてしまいます。その結果「ヴ川崎寄りの判定」といった偏った風潮が増幅しています。レフェリングは瞬時の判断が求められる作業ですし、国際主審資格を有している方のレフェリングはかなり信頼性が高いはずですから、こうした風潮は不幸といえば不幸なことです。

後年、ヴ川崎が急速に凋落の途を辿った要因の一つに、こうしたイメージ悪化がボディブローのようにクラブの価値を毀損していったのではないかと思わずにはいられません。とはいえ、ヴ川崎はシーズン最初のタイトルを取って気分よくリーグ開幕を迎えることになりました。

そして、3月12日開幕のJリーグ前期シリーズ、一人のルーキーが衝撃的なデビューを飾りました。つい2ケ月前の高校選手権で全国にその名を知らしめた2人のヒーローのうちの一人、城彰二選手が加入したジェフ市原のFWとして開幕スタメンを飾ったばかりか、前半24分にいきなり鮮やかなヘディングゴールを決めたのです。

このゴールは1994年Jリーグのシーズン第1号というメモリアルゴールとなり、ジェフ市原はG大阪に5ゴールを浴びせて大勝する口火のゴールとなりました。
城選手の衝撃、この初ゴールは名刺代わりの一発にすぎず、なんと、このあと4試合連続ゴールという離れ業をやってのけたのです。
翌朝の毎日新聞は「「ジョーリーグ」だ」とダジャレを見出しにしました。

この城選手の、ルーキー開幕スタメンから4試合連続ゴールという離れ業には、2つの歴史的な意味が含まれているように思います。

一つは、5試合連続ゴールへの挑戦を一旦保留にしたまま「高校選抜欧州遠征」に旅立ったという、Jリーグ黎明期なるが故の選択の意味です。

当時、高校年代で海外のユース年代競合チームと直接対戦できる機会は1月の高校選手権直後に海外チームを招待して開催される「ニューイヤーユースサッカー」そして夏に静岡で開催される「SBS国際ユースサッカー」など数えるほどでしたから、海外に遠征して闘える「高校選抜欧州遠征」は高校年代の選手たちにとって、優先順位1番といえるチャンスでした。

したがって城選手が、いかにJリーグ開幕から4試合連続ゴールを継続中だからといって「高校選抜欧州遠征」を辞退する選択肢は、まずなかったのでしょう。
帰国後の試合から、また連続ゴールというチャンスがあるのですから。

けれども、それこそが「Jリーグ黎明期だったからこその選択」だと思うのです。
開幕から4試合連続ゴールを続けた選手が、その勢いのままに5試合目の試合にゴールを決める可能性と、一旦3試合のブランクを作ってしまい、その後に連続ゴールを継続できる可能性を考えた場合、そこには天と地ほどの差があると思います。

どんな歴史にも「もし」はあり得ないことを承知なのですが「もし城選手が、そのまま5試合連続で試合に臨むチャンスがあり得たら、ぜひ挑戦させてあげたかった。」
そう思わずにはいられない開幕からの快挙と一旦保留という出来事でした。

もう一つの歴史的意味は、この4試合連続ゴールが、市原のコーチとして目撃した岡田武史氏の脳裏に、かなり色濃く刷り込まれたのではないかという点です。
のちに、1998年のフランスW杯開幕直前、いわゆる「衝撃のカズ選外」選択をした時「FWの軸は城」というインスピレーションとなっていく原点としての意味です。

1998年7月のあの日、岡田監督は信念とも思える口調で、カズ選外の理由として「FWの軸は城と考えている」と発表しました。
世の中は「カズ落選」の結果のほうに騒然となりましたが、一方で「FWの軸は城」と決めた、その根拠については、あまり論じられませんでした。

さかのぼること4年のこの春、城選手が単に衝撃のデビューを果たしたという意味以上に、市原・岡田コーチの脳裏には「すべての面で高い資質を持っている万能型のFW」というイメージが刷り込まれ、それが4年の時を経て、最後の最後、選手のふるい分けをしなければならなくなった時、鮮やかなインスピレーションとなって表出したのではないかと思わざるを得ないのです。

仮に、1998年7月のあの日の岡田監督の選択に、それほど大きな意味を持つことはなかったのだとしても、城選手の開幕から4試合連続ゴールは、そう繋げて考えてみたくなる歴史的な快挙だったと思います。

わずか8ケ月間の短期契約・日本代表監督にファルカン氏

日本代表監督は、前年11月のアメリカW杯アジア最終予選、いわゆる「ドーハの悲劇」により悲願達成を逃したオフト監督が辞任したあと、後任が決まるまで少し時間がかかりました。

後任監督選びを主導したのは日本サッカー協会・強化委員会で、当時Jリーグチェアマンでもあった川淵三郎氏が委員長でした。

強化委員会は、次期監督の資格として次の条件を設定しました。
・外国人であること、理由は「まだ日本人監督の中にプロ監督としてふさわしい人材が育っていないため」
・世界の修羅場をくぐった経験がある監督、W杯などの国際舞台で指揮をとった経験があることが一つの目安。
・次のW杯1998年の出場権獲得に向けて、1年程度の短期間契約で数人の監督を起用し、1998年アジア予選に向けて本格的に代表活動が動き出す時期に、任せる監督を決める。

この方針に沿って、当初、何人かの候補者がリストアップされた中から、トヨタカップを制して日本のファンにもおなじみのブラジル・サンパウロFC監督のテレ・サンターナ氏と交渉したのですが、報酬面、契約期間などの条件がまったく折り合わず断念したという経緯があります。

1994年1.19号のサッカーマガジン誌上で川淵強化委員長は「テレ・サンターナ氏に来て欲しかったんだけど、我々が考えていた金額とケタが違う。フィジコやコーチを含めて10億円ですから。それを半分に落としてもやろう、という気持ちはなかったようなので、断念する形になりました。」と語っています。

川淵強化委員長は、年明けにあらためて数人の候補を絞り「94年Jリーグ前期が開幕する3月中旬を目安に新監督招へいを進める」という考えを示しました。

協会は交渉の経緯を明らかにはしていませんが、最初に、元フランス代表監督のミシェル・イダルゴ氏と交渉、同氏とも条件面で折り合わず断念したようです。

次にイングランド代表監督のボビー・ロブソン氏、アルゼンチン代表選手からトットナム・ホットスパーで指揮を執っていたオズワルド。アルディレス氏との交渉準備に入ろうとしていましたが、同じく候補の一人だったロベルト・ファルカン氏との交渉成立可能性が高いという情報を協会が入手、急遽、ファルカン氏に絞って交渉したようです。

ロベルト・ファルカン氏は、2月のJリーグプレシーズンマッチの時期に、ブラジル・インテルナショナルの監督として来日しています。当時、強化委員メンバーであったセルジオ越後氏を通じて接点があったとされていますから、この時期であると見ていいでしょう。当時の記録を見るとインテルナショナルのプレシーズンマッチは2月20日に横浜Mと行なわれるのをはじめ3月6日まで組まれていますからプレシーズンマッチだけで来日したにしては、異例の長さです。

サッカーダイジェスト誌は2月中旬発売(1994.3.2号)の誌上で「緊急特報」と見出しを打ち「2月10日日本代表監督にファルカン氏決定」と報じています。
つまりはプレシーズンマッチでの来日は、ファルカン氏の実質的な最終視察と契約交渉のためだったようです。

ちなみに、この一連の交渉の窓口になったのは、強化委員会副委員長の鈴木徳昭氏です。協会内の数少ない語学通で対外折衝には欠かせない人材でしたが、正式発表までは頑として具体名は明かしませんでした。

11月までの8ケ月間という短期間契約ながら、ファルカン氏との交渉が成立したことで、協会は目標どおり3月10日の理事会で正式承認しました。

ファルカン新監督は3月10日に初来日、さっそく新しい代表チーム作りのためJリーグ各試合会場の精力的な視察を開始しましたが、3月15日「サッカーマガジン」誌のインタビューに応じて、代表監督受諾の理由と展望について、こう語っています。

「日本のサッカーは新しい時代を迎えようとしている。それが私を惹きつけた最大の要素です。昨年プロリーグが生まれて、各クラブがサッカーを盛り上げようとしている。そういった国で代表チームを作るという作業に大変な魅力を感じたことが引き受けた理由です。」

「契約期間は8ケ月、そのうち代表活動は数十日しかない。その中で自分のカラーを打ち出していくことは難しい。自分のスタイルを定着させるには『繰り返し』『繰り返し』が重要ですが、それにはあまりにも時間が少ない。そういう意味での難しさは感じています。」

「結局、契約期間の最大目標である広島アジア大会に臨むチーム作りは、例えば、私が良いと思ったAとBの選手を組み合わせて私のスタイルを植え付けていくという時間がないので、AとBの選手が普段やっているチームでの組み合わせを重視して、代表チームでも組み合わせとしてベストだと思う選手を選んでチームを作るしかないでしょう。」

ということで、ファルカン新監督は、さっそく開幕したJリーグ前期の各会場に足を運び選手たちのプレーを精力的に視察、チーム作りに着手しました。

オランダ帰りの小倉隆史選手、日本代表キリンカップデビューで名刺代わりの一発

Jリーグ前期シリーズも終盤に差し掛かった5月下旬、リーグ戦は一旦中断となりキリンカップサッカーが開催されました。

この年の招待国は、当初アルゼンチンとフランスという強豪国でしたが、アルゼンチンの参加にあたってひと悶着発生しました。日本政府がマラドーナ選手の入国拒否という判断を下したのです。

理由は以前マラドーナが犯した麻薬所持の犯歴によるものでした。すでにマラドーナは国際サッカー連盟の処分も解けていましたが、日本政府は拒否の方針を変えなかったためアルゼンチン代表は、参加を取りやめました。

マラドーナはアルゼンチン代表でも特別な存在として敬意を集めている選手ということで、報道では選手間投票により参加取りやめを決めたそうです。この問題ではアルゼンチンにある日本大使館非常口に催涙弾が仕掛けられるという事件もあり、一筋縄ではいかない出来事だったのです。

しかし、マラドーナが、この1ケ月後に始まったアメリカW杯でドーピング検査に引っ掛かり出場停止処分になったことと合わせて考えると、結果として日本政府の処分は間違いではなかったということも付け加えておきたいと思います。

アルゼンチンに代わって参加してくれたのはオーストラリアでした。
5月22日、広島で開催された1戦目のオーストラリア戦を1-1で引き分けた日本は、5月29日、国立競技場にフランスを迎えます。

フランス代表は、前年のW杯欧州予選で、日本が「ドーハの悲劇」を味わったように「パリの悲劇」と呼ばれる屈辱を味わいアメリカW杯出場権を逃しています。
このため1998年自国開催のW杯に向けて、国を挙げて再建に取り組んでいて、今回のキリンカップにも、当初予定されていたアルゼンチンとの試合のことも考えたのでしょう、ベストメンバーを組んで乗り込んできました。

ファルカン体制で臨む真剣勝負の2戦目としては、この上ない相手でしたが、結果は1-4の惨敗、日本代表の準備不足、力量不足による自滅とも言える敗戦でした。

唯一の収穫が、0-4と勝負が決した後半33分、途中出場の小倉隆史選手があげたゴールでした。小倉選手はJリーグが開幕した1993年シーズン、その華やかな舞台に背を向けるようにしてオランダ二部リーグ・エクセルシオールに加入、つい半月前にオランダでのシーズンを終えて戻ってきたばかりでした。

まだ20歳の小倉選手を、ファルカン監督はいきなりフル代表に招集し、オーストラリア戦でも途中から起用、そしてフランス戦では、その起用に見事に応えてみせたのです。
Jリーグを経験しないままの、いきなりの代表抜擢も異例でしたが、それに応えた小倉選手のゴールに、意気消沈していた国立競技場のサポーターも驚きました。
まさに「オランダ帰りの若武者の名刺代わりの一発」でした。

Jリーグ開幕時の城彰二選手のセンセーショナルなデビューといい、今回の小倉選手の鮮やかなデビューといい、次世代の日本を代表するストライカーに育って欲しいとの期待を、いやが上にも抱かせる選手たちの登場でした。

Jリーグ前期は広島が制覇

キリンカップのため一時中断したJリーグ前期は、3ケ月間で21試合を消化する過酷な日程で進められました。前期の流れをおさらいする形で列挙しておきます。
・1~4節、高卒ルーキー・城彰二選手、衝撃の開幕から4試合連続ゴール
・6節、浦和開幕5連敗から初勝利
・7節、広島に代わって清水首位に立つ
・13節、磐田加入スキラッチいきなり1ゴール1アシスト、試合後は奥さんと「キスラッチ(スポーツニッポンのダジャレ)」
・15節、カズ・三浦知良選手、Jリーグ通算800号、通算700号に続いて「節目の男」襲名?
・16節、広島6節以来の首位に立つ
・19節、広島vs清水、天王山を広島2-1で制して初Vに大きく前進
・6月4日、カズ・三浦知良選手にセリエA・ジェノアからのオファーが判明
・20節、広島16勝4敗で王手、清水、鹿島はともに14勝6敗

そして6月11日の21節、アウェーの磐田戦、これまで一度も連敗することなく乗り切った広島が2-1で勝利、残り1試合を残して前期制覇を果たしました。ヴ川崎のような人気選手、スター選手がいるわけでもなく、ジーコのようなカリスマがいるわけでもない広島が優勝したことは、Jリーグに新たな価値をもたらしたと言われています。

それは今西総監督という、後に常識になった「ゼネラルマネージャー」的存在が、チーム作りに一貫性を持たせ、名前の通った選手を獲得するのではなくチームに必要な選手を獲得するというスタイルを貫いたことが、他のクラブに与えた一つの道しるべにもなったからです。

すでに5年前にドイツ・ブンデスリーガ2部での経験を携えて加入していた風間八宏選手、高い身体能力を活かす技術と精神力を磨いた高木琢也選手、韓国Kリーグの中心選手として期待されながらJリーグ広島入りしたことで、強い批判を浴びた中、信念をもって広島でのプレーを続けた盧廷潤選手、今シーズンからの加入が出遅れたものの、前期後半には大車輪の活躍を見せたチェコ人・ハシェク選手、日本の生活では先輩にあたるチェコ人・チェルニー選手、そして黙々と中盤で相手の攻撃の芽を積み続けた森保一選手、彼らの力を存分に引き出したイギリス人のスチュアート・バクスター監督、戦力と指導者の戦術ががっちりと噛み合った、必然の優勝でした。

地味な西日本の地方クラブとはいえ、イエローカード、レッドカードがリーグ最小のクリーンなクラブが優勝を果たしたことは、フェアプレーを標榜するJリーグ、全国で認知度を高めたいJリーグが最も望む結果でもありました。

目立たないクラブが目立ったことと言えば、前期制覇の証しとして授与されたクリスタルグラス製のチェアマン杯を、うっかり落して壊してしまったことぐらいで、それも、絵になるような目立ち方が不得手なクラブらしいご愛嬌でした。

広島イレブンの中で盧廷潤(ノ ジュンユン)選手は、次にご紹介するアメリカW杯に韓国代表として出場するたため前期17節までプレーした後「もうサンフレッチェは大丈夫、優勝できます」と言ってチームを離れました。

前年のアメリカW杯アジア最終予選では、日本が最後の最後にイラクに同点ゴールを許したため本大会出場の夢を絶たれましたが、代わって韓国が出場権を獲得したことを「伝説の年 1993年」で紹介しました。

そのアジア最終予選、イラク戦の前の日本の相手が韓国でした。ご存じのとおり日本はカズ・三浦知良選手のゴールで1-0と勝利、あとはイラク戦に勝ちさえすれば自力でアメリカW杯の切符を手にできる状況となった試合です。

試合後、盧廷潤選手は、チームメイトが悔しさのあまり取材を拒否して競技場をあとにする中、盧選手は日本のテレビカメラに向かい笑顔で「おめでとう」とコメントしました。
のちに盧廷潤選手は、この時のことを「あの試合、技術、戦術、闘志すべての面で日本が勝っていました。ですから私はスポーツマンとして心から日本を祝福したいと、あぁ言ったんです」と語っています。

一方、韓国代表監督は自国のテレビカメラの前で「廷潤が日本代表のスパイであったせいで韓国は負けた」と公然と言い放ったそうです。そのため盧廷潤選手は長らく韓国内では「スパイ」の汚名を着せられていたというのです。

日本と韓国の複雑な国民感情のはざまで、Kリーグでプレーをせずに広島に加入したことが韓国国民の感情を害し、そして日韓戦でスパイ呼ばわりされてしまった盧廷潤選手は、さぞ辛い日々を過ごしたことと思います。

広島の一員として、そのような苦悩をおくびにも出さずに活躍を続けた盧廷潤選手。また韓国代表として1994年アメリカW杯、1998年フランスW杯と2大会に出場した盧廷潤選手。彼がJリーグでプレーする韓国選手の先駆けとなったという点で、彼もまた「ファーストペンギン=勇敢な先駆者」です。「伝説の年 1986年」のところで、初めて「スペシャル・ライセンス・プレーヤー=プロ契約選手」の道を選んだ木村和司選手(同じ時期にドイツから帰国した奥寺康彦選手と二人、未知の領域を選択したという意味で木村和司選手が初)を「ファーストペンギン=勇敢な先駆者」と表現しましたが、盧廷潤選手もまた、あえて困難な道を選んだ勇敢な先駆者となり、その後に続く韓国人選手たちに道を拓いた選手です。

自らの存在証明を、広島初Vに貢献する形で、そしてW杯2大会連続出場という形で示した盧廷潤選手のことを長く記憶に留めてもらうため、ここに、はっきりと記録しておきたいと思います。

アメリカW杯華々しく開幕、ショービジネスの国の運営が商業主義に傾き、選手に負担

1994年の世界サッカー界最大のイベント、アメリカW杯は、6月17日、ロサンゼルスで華やかに開幕しました。

日本が惜しくも出場権を逃した大会であり、あらゆる面でなじみのあるアメリカでの開催、日本も2002年開催を目指して、いろいろと関心のある大会ということで、日本国内での注目度も高まり、テレビ放映も観戦しやすい時間帯ということも含めて、日本にとっては、過去のW杯とは全く違った目線で迎えた大会でした。

一方で、アメリカらしいショー的、商業主義的な運営方法が、選手を過酷な日程や環境に追い詰めているという批判も高まった大会でした。

そのアメリカらしいやり方は、さっそく開会式とその直後に行なわれた開幕戦で披露されたのですが、言い換えれば選手軽視を露呈するセレモニーでした。
開会式は南北アメリカ大陸全土とヨーロッパのサッカーファンがテレビ中継を楽しめるよう、シカゴ・ソルジャーフィールドでの開幕戦キックオフが午後2時に設定され、それに先立って開幕セレモニーが行なわれたのです。

6月中旬のシカゴの午後2時は灼熱の太陽が照りつける、とても真剣勝負のゲームをスタートさせるにはふさわしくない時間なのですが、大会組織委員会は、それよりテレビ放映権で稼ぐことを優先しました。
こうした時間設定は結局、ロサンゼルス・ローズボウルスタジアムでの決勝戦まで続き、連戦を続けて疲労困憊となった選手たちをさらに苦しめる大会となったのです。

アメリカでの開催にはもう一つ選手たちを苦しめる要素がありました。東西南北満遍なく試合会場を設定したため、飛行機を使っての長距離移動や最大3時間の時差を伴う移動、あるいは気候的な変化が生じました。

南部テキサス州ダラスは、乾燥地域とはいえ日中の気温が40℃にも達するところです。全米多くの会場がアメリカンフットボール用のスタジアムを代用したため屋根付きのところが数えるほどしかなく、選手たちは試合を通じて灼熱の太陽にさらされ続けながらのプレーを余儀なくされたのです。

開会式では1500人もの高校生がフィールドに散り、そのあとの開幕戦を戦う選手たちの願いも空しく、ピッチは著しく踏みしだかれてしまいました。一事が万事ショービジネスの国アメリカでのW杯だったということかも知れません。

とはいえ開幕セレモニーそのものは、特に大会テーマ曲が長く記憶に残るアメリカ的なものでした。「Gloryland」(グローリーランド)という曲でしたが、「リパブリック讃歌」という知られた曲をベースにしていて、テナーサックスが朗々と奏でるそのメロディーが流れると、一瞬でアメリカワールドカップの世界に戻れるのです。

24ケ国参加のこの大会、実は欧州予選でイングランド、フランスそして2年前の欧州選手権を制したデンマークが姿を消していました。またユーゴスラビアは内戦に対する制裁のため参加が認められず、代わってノルウェー、アイルランド、ギリシャといったあまり強豪とはいえない国が本大会に出てきました。

一方、南米予選ではアルゼンチンが最後まで苦しみ、大陸間プレーオフに回るはめになり、マラドーナを急遽代表に呼び戻し、やっとオーストラリアを退けて本大会出場を果たしたのです。

本大会のグループリーグで苦しんだのはイタリアでした。1勝1敗1分でグループ3位に甘んじ、辛うじて各組3位間の成績比較で決勝トーナメント進出を果たしました。

「マラドーナ」と「エスコバル」2つの事件

グループリーグでは2つの大きな事件がありました。一つはアルゼンチンのマラドーナ。第1戦のギリシャ戦で左足を炸裂、見事な復活ゴールを決め、テレビカメラの前で「どうだ、見たか」と吠えたまではよかったのですが、第2戦のナイジェリア戦後のドーピング検査に呼ばれ、禁止薬物が検出されてしまい即出場停止、そのまま大会追放処分を受けてしまいました。

ナイジェリア戦の終了ホイッスル後、ピッチ内に迎えにきた女性スタッフとともに検査室に向かうマラドーナ選手の様子をテレビカメラがとらえていましたが、よもや、それがW杯でのマラドーナの見納めになろうとは神のみぞ知る出来事でした。

実は大会前、マラドーナは相当ウェートオーバー状態でしたが、大会に現れたマラドーナは見事に絞られた身体になっており、それがドーピング関係者から疑念の目で見られていたようです。
そして、あのテレビカメラの前に走ってきたマラドーナの興奮ぶり、それは関係者の気持ちを「漠然とした疑念」から「まさか」に変えたとも言われています。本来であれば無作為で選ばれるドーピング対象者でしたが、マラドーナに限っては、もはや「狙いうち」の検査だったと言われています。

1986年W杯で世界中のサッカーファンを熱狂させ、母国アルゼンチンでは「偉大なる英雄」として人々の敬意を集めてきたマラドーナでしたが、1991年にすでに麻薬使用逮捕歴(「次の伝説の年までに何が 1987~1991年」の1991年の項で紹介)があることから、世界中からの彼への視線はこれまでとは全く異なるものになりました。ヒーロー・マラドーナ時代の完全な終焉でした。

もう一つの事件は、まさに悲惨な出来事でした。南米予選から前評判が高かったコロンビアがグループリーグ初戦にルーマニアに敗れると続く第2戦も開催国アメリカに屈し、早々とグループリーグ敗退となってしまいました。

ここからが、ギャングと麻薬の巣窟と言われる南米コロンビアならではの出来事かも知れません。グループリーグを終えて帰国したコロンビア代表イレブンの中で、アメリカ戦でオウンゴールを献上してしまったDFエスコバル選手がギャングの標的となってしまったのです。

エスコバル選手は故郷のコロンビア・メデジン市でオフを過ごしていたところ、数人の男たちと自殺点を巡って口論となり、なんと12発もの銃弾を浴びて射殺されてしまったのです。

犯人はエスコバル選手に向かって「自殺点をありがとう」という一発撃つごとに「ゴール」と叫んだといいます。ギャングのサッカー賭博による自分の損失への逆恨みという報道もありました。
マラドーナ・ドーピング事件から、わずか2日後に起きたこの事件は、世界中を震撼させアメリカW杯の汚点の一つとなってしまいました。

サッカーというスポーツが世界中の人々を熱狂させ、時には人々の心を一つにするスポーツだと言われる一方で、長い歴史の中で、戦争の引き金にもなるほど狂気を孕んだスポーツだと、喧伝されてはいましたが、まさに、それが現実のものとなってしまったのです。
ワールドカップサッカーには、まばゆいばかりの光の部分がある一方で、どす黒いまでの陰の部分があることを、私たちはあらためて知らされました。

コロンビアという陰の部分を色濃くもった国に生まれた不幸が、エスコバル選手の命を奪ってしまいましたが、ワールドカップ出場国のイレブンであったエスコバル選手の名は、世界のサッカー史の中で永遠に語り継がれることでしょう。

大会は決勝トーナメントに入ると、いよいよ白熱の度を増してきました。マラドーナをドーピングで欠いたアルゼンチンは、辛くも決勝トーナメントに進出したものの、グループ3位通過の代償として中2日で南部ダラスから西海岸ロサンゼルスへの移動を強いられ、あえなくルーマニアに敗れてしまいました。

救世主ロベルト・バッジョ、イタリアを決勝まで導く

前回イタリア大会を制したドイツは、東西ドイツ統一後、初めてのW杯を戦っていました。
グループリーグを危なげなく突破して決勝トーナメント1回戦もベルギーを退けたドイツでしたが、準々決勝に落とし穴が待っていました。
相手は過去の戦績16勝1敗のブルガリア、後半まもなく先制すると「これで勝てる」という気持ちが緩みに変わり、ストイチコフとレチコフに許したゴールを挽回できず、ブルガリアに歴史的勝利を許してしまったのです。

決勝トーナメントの主役はイタリアのロベルト・バッジョでした。大会前、前年のバロンドール受賞者として、セリエAユベントスのキャプテンとして、大会の主役候補の一人にあげられていたバッジョは、グループリーグで精彩を欠きイタリアのグループリーグ突破を難しくしていました。

グループ3位で辛うじて決勝トーナメント進出を果たしたイタリアは、そこからのバッジョの活躍が圧巻でした。決勝トーナメント1回戦、相手のナイジェリアに先制され後半も残りあと1分ほどとなりました。
ジャンフランコ・ゾラが気の毒な判定で退場となり10人となったイタリア、暑さと疲労のため足をつるバッジョ、もはやイタリアの命運は尽きたかに見え、実況していたNHKアナウンサーも「バッジョのワールドカップはこれで終わってしまうのでしょうか」とコメントした、その直後、ゴールほぼ正面でボールを受けたバッジョが、サイドネットに流し込むようなシュートを放ち、まさに起死回生の同点ゴールを決めたのです。

それこそ、当代随一の人気選手を神は見放さなかったと評されるゴールでした。そして延長の末、バッジョのPKで勝ち越したイタリアが難敵ナイジェリアを退けたのです。

準々決勝の相手はスペインでした。ここまで攻撃陣が好調で勝ち上がってきたスペインに対し、イタリアはディノ・バッジョのゴールで先制したものの追いつかれ後半も苦しい展開が続いていた中、残り2分ほどとなったところでニコラ・ベルティ、シニョーリを経て受けたボールをバッジョがGKをかわしてゴール、またしてもギリギリのところで勝利をモノにしてベスト4進出を果たしました。

準決勝の相手は、ドイツを退けて意気上がるブルガリアでした。ブルガリアは前の試合からの移動はなく、イタリアはボストンからニューヨークへ移動、しかも気温40℃で湿度も高い殺人的なコンディションにもかかわらず、この試合でも前半21分と前半26分、立て続けにバッジョがゴールを陥れたのです。
ストイチコフという強烈なアタッカーをイタリア・マルディーニ、コスタクルタらのDF陣がPKによる1点だけに抑えての勝利でした。

こうしてイタリアは、救世主バッジョとともに決勝まで辿り着いたのですが、準決勝で前半に追加点を奪い試合を決めてしまうチャンスを逃したことで、後半1点差となりバッジョをはじめ疲れた選手を休ませる交代ができないまま試合を終え、大きな疲労を蓄積したまま、ワシントンからブラジルの待つロサンゼルスへの移動を余儀なくされたのです。

決勝の相手ブラジルは、イタリアほどのドラマ性はなかったものの、ロマーリオ、ベベトのツートップが手堅く得点を重ね、しぶとく勝ち上がってきました。

ブラジルにとって最大の関門は準々決勝のオランダ戦でした。オランダといえばルート・フリットがなぜか代表を辞退して、この大会には来ていませんが、前線のベルカンプ、中盤のライカールト、そしてDFのクーマンと一級品を揃えたチームです。

前半からがっぷりと互角の戦いが続きスコアレスのまま後半に入りましたが、後半は一転、激しい点の取り合いとなりました。先にブラジルが自慢のツートップのゴールでリードを奪ったのですが、すぐさまオランダがベルカンプ、ヴィンテルのゴールで追いつきました。

試合がどちらに転ぶかわからない展開の中、前の試合アメリカ戦でレッドカードを受け、この試合出場停止となった左サイドのレオナルドに代わって、この日先発出場の機会が巡ってきたベテラン・ブランコが、後半36分、自ら得たミドルレンジからのFKで、左足から地を這うようなシュートを繰り出し、オランダのゴールを陥れたのでした。

準決勝スウェーデンとの試合は、超守備的な布陣のスウェーデンに手を焼いたものの後半35分にブラジルが決勝点を奪い勝利しました。
この場面、上背で圧倒的に上回るスウェーデン守備陣の間にスルスルと入り込んだ小柄なロマーリオに、右サイドをえぐったジョルジーニョからピンポイントクロスが送られ、ノーマークでジャンプしたロマーリオのヘッドにピタリと合ったゴールでした。決して楽ではなかった試合を制したブラジルの底力がそこにはありました。

最後はバッジョが敗者となりながら大会の主役に

そして決勝のカードは、ブラジル対イタリア、ともにそれまで3度の優勝を誇り、最多の4度目を賭けた、世界のサッカーファンの多くが望んだカードに熱戦の期待が寄せられましたが、その期待は、この項目の冒頭でご紹介したように、商業主義に走る大会組織委員会の思惑によって、見事に裏切られました。

決勝の舞台はロサンゼルス(パサディナ市)・ローズボウルスタジアム。90000人以上を収容するスタジアムとはいえ、気温38℃の炎天下、日陰の部分ができない屋根のないスタジアムで、しかも午後0時30分キックオフという過酷な条件での試合となりました。

それもこれも、ヨーロッパのゴールデンタイムにテレビ放映があるよう設定した結果の環境でした。結果、世界中で20億人がこの決勝を見たと言われていますから、ゴールデンタイムのテレビ放映時間設定、恐るべしです。

ブラジルは準決勝もここで戦い移動のない条件でしたが、イタリアはまたしても移動、しかも東海岸のニューヨークから西海岸のロスアンゼルス(パサディナ市)に、3時間の時差を伴う移動を強いられました。
イタリアが、試合会場や日程の条件でかなりのハンディを負っていたことは疑いようもありません。

イタリアは、累積警告でこの試合に出られないDFコスタクルタに代わり、ケガで戦列を離れていたバレージが先発しました。
イタリアのアリゴ・サッキ監督が、全体的に劣勢になると見てか守備的に試合を進めることにしたことも、ゴールデンカードの期待を削いでしまったようです。

前後半90分そして延長と進む中で、両チームとも何度とか決定機を得ました。特に後半30分、ブラジルのマウロ・シルバが放ったミドルシュートをイタリアGK、パリュウカが弾いたのですが、そのボールがゆっくりとイタリアゴールに吸い込まれそうになりました。しかしボールはポストに当たり、またパリュウカのもとに戻ってきたのです。

イタリアは、攻撃にかける人数が少ない中、延長後半8分、ロベルト・バッジョがゴール前でフリーとなりシュートを放ちましたが、疲れ切ったバッジョの足に正確にコントロールする力は残っておらず、ブラジルGK、タファレルの正面をついてしまいました。

結局、灼熱の炎天下の中を延長を含めて120分戦った両チームは、スコアレスのままPK戦で決着をつけるこになりました。

ある意味、アメリカ大会を象徴するドラマが、このPK戦で待っていました。
先攻イタリアの一人目はケガから復帰して、この日フル出場を果たしたキャプテン・バレージでした。監督アリゴ・サッキがACミラン監督時代から最も信頼を寄せてきたキャプテンで、この時も監督は全幅の信頼をおいて一番手に送り出したことでしょう。

しかしケガあがりの120分は鉄人バレージをしても過酷でした。彼が放ったPKのボールは無情にもクロスバーの上を越えていきました。
その後、両チーム4人目まで蹴り終えてブラジル3人成功、イタリア2人成功で5人目に回ってきました。

キッカーはロベルト・バッジョです。バッジョが決めて、ブラジルの5人目をパリュウカが止めてくれれば、またイーブンに戻ります。
しかし、無情にもバッジョのボールもクロスバーのはるか上を通過してしまい万事休すです。

ブラジル4度目の優勝が決まった瞬間なのですが、この大会を振り返る映像として必ず使われるこの場面、ブラジル歓喜の優勝を伝えるというより、最後の最後に勝利の女神に見放された悲劇のスーパーヒーロー・バッジョを描き出していて、敗者でありながらロベルト・バッジョはこの大会を象徴するスーパースターの称号を手にしたのです。

それは、苦しんで勝ち上がった決勝トーナメントの各試合で、ことごとくチームを勝利に導くゴールを叩きだした小柄なファンタジスタが、この大会を象徴する選手であったことを世界の誰もが認めていたからです。

バッジョが自伝で語る「パサディナの重荷」

しかし、ロベルト・バッジョ自身は2002年に刊行された自伝の中で、ロサンゼルス(パサディナ市)での最後の場面が、その後も長く頭から離れずユベントスでのプレーにも影響を与えたキャリア最大の悪夢だったと振り返っています。それまでのバッジョはPKをほとんど外すことがなかったようですし、その場面でも何の不安もなくPK成功のイメージを持ったまま蹴ったといいます。

そして結局大きく外れてしまった理由として「物理的にボクは疲れ切っていた、という以外に説明のしようがない出来事だったよ」と語るとともに「それはボクが背負った『パサディナの重荷』という予言の結末によるものだ」とも語っています。

「『パサディナの重荷』という予言」、それは彼が持つ信仰から来ています。日本ではよく知られていることですが、カトリックの国に生まれ育ったバッジョは20歳の頃、友人の誘いで日本の日蓮正宗の信徒団体の一つ、創価学会に入信したそうです。
バッジョは、入信の5年前に負った、サッカー選手の道をあきらめざるを得ないほどの膝のケガの苦しみを癒し、再び輝きを取り戻せたのは信仰のおかげと信じて、その後の名声を得たと話しています。(ちなみに、この自伝も創価学会系の出版社から出されたものです)

しかし「『パサディナの重荷』という予言」もまた、信仰の結果だと言っています。信仰からバッジョは「ワールドカップを勝ち取るか失うかは、最後の瞬間に決まる」という予言を得たというのですが、予言の結果、バッジョは最後の瞬間、ワールドカップを失ったのです。

そして、その後長い年月『パサディナの重荷』を背負い悶々とする日々を送ることになったというのです。
バッジョが日本で特に人気の高い選手でしたが、日本にゆかりの仏教を信仰していたこともあってか、バッジョ自身がJOMO CUPサッカーに参加するなど折に触れて日本を訪れてくれた選手でした。一時はJリーグでプレーするのは間違いなしと言われた時期もありましたが、紹介した本が出版された頃には、その重荷もずいぶん軽くなったと言っています。

PKを外し優勝を逃してなお、大会の主役の座を得てスーパースターの称号を手にしたかに思えるロベルト・バッジョの心の内が、実はそのような哀しい様相にあったことを、ここに留めておきたいと思います。

ブラジル24年ぶり4度目の優勝

ブラジルは、世界で唯一、すべてのワールドカップに出場を続けている国で、どの大会も優勝候補にあげられる国ですが、1970年メキシコ大会以来5大会、24年間も優勝から遠ざかっていて、誇り高いブラジル国民は優勝を渇望していました。

そこでブラジル・パレイラ監督は守備最優先、手堅く勝っていく戦術をとり前線のロマーリオ、ベベトのコンビに両サイドのレオナルド、ジョルジーニョのクロスが絡むスタイルがはまり念願の優勝、史上最多となる4度目の優勝を果たしました。

折しも大会の1ケ月前、ブラジルの誇る国民的英雄であるF1レーサー、アイルトン・セナがレース中の事故で悲劇の死を遂げ、国民が悲嘆にくれた中で迎えた大会であったことから、イレブンは「団結して国民を勇気づける」という意思を、試合入場時にイレブンが手をつないでピッチに入るという行動で示し、また優勝という結果で国民との約束を果たしたのです。

にもかかわらずブラジル国民は、しばらくすると「パレイラのスタイルが華麗ではない、かつて黄金のカルテットが醸し出したような芸術的なサッカーではない」と批判し始めました。ブラジルという国は、ことサッカーに関しては、たとえ優勝しても、その仕方が問題にされ、優勝できなければ監督・イレブンはケチョンケチョンにこき下ろされる、なんとも難しい国です。

それでも、ブラジル代表は「セレソン」であり、国民の誇りでもある存在ですから「セレソン」の一員となった選手たちは、その栄光と名誉に満ちた地位と引き換えに、国民からの厳しい評価を覚悟しながらプレーする存在なのです。そして「セレソン」は史上最多の4度目の優勝を成し遂げたのです。

今大会、ロシア・サレンコとともに得点王となったストイチコフ率いるブルガリアがベスト4、ゲオルゲ・ハジ率いるルーマニアがベスト8と、東欧勢の活躍が目立ちました。これらの国からはイタリア・セリエAやスペインリーグなどで活躍する選手が多く出ており、そうした経験値が今大会に現れたと言えそうです。

こうしてアメリカW杯は閉幕、既存のアメリカンフットボールスタジアムなど収容能力の大きい会場を使用したこともあって1試合平均69000人近く、52試合の総入場者数が前回イタリア大会を100万人以上も上回る約358万人という記録的な数字に上りました。
この数字は、試合数が64試合に増えた1998年フランスW杯以降、少なくとも2022年カタールW杯まで破られていない、とんでもない記録でした。
そのこともあって大会運営の収支も大幅黒字となり組織委員会が大成功を宣言しましたが、すでにたびたび書きましたように、テレビ放映優先などのため選手たちを犠牲にした大会としても長く記憶される大会でした。

アメリカは翌年1995年から再びプロリーグ(メジャーリーグサッカー・MSL、以前あったのは1967年から1984年の「北米サッカーリーグ」)を発足させることを決めていましたから、このワールドカップの大成功は、翌年の発足に向けて大きな弾みとなったことも確かでした。

大物外国人選手、次々とJリーグに参戦、まずスキラッチが磐田に

ワールドカップが終わると、選手たちは短いバカンスを楽しんで、新しいシーズンに備えますが、新天地に活躍の場を求める選手たちの移籍情報も次々と浮上します。
Jリーグには、開幕した昨年に続き、この1994年も大物外国人選手たちが、次々と各クラブに加入してきました。

今シーズン先陣を切ったのはジュビロ磐田に加入したセリエAの人気ストライカー、サルバトーレ・スキラッチでした。磐田は「ドーハの悲劇」のあと代表監督を辞任したオフト氏を監督に迎え、Jリーグで戦える戦力の強化を図っていました。
その目玉としてイラン代表のエースストライカー、アリ・ダエイとスキラッチを獲得することにしたのです。

当初、アリ・ダエイのほうが先に磐田でプレーするスケジュールでしたが、イラン政府がダエイの出国許可を出さなかったことから、急遽、スキラッチの来日を繰り上げる契約になったという経緯のようです。
まだシーズン途中でのセリエAインテルからの離脱でしたが、スキラッチ自身がケガのためインテルでの出番を減らしていたところに、磐田から契約の繰り上げについて好条件のオファーを受けたことから実現した来日でした。

結局、アリ・ダエイの加入は実現しませんでしたが、スキラッチは4月に来日、同月30日のヴ川崎戦でデビューすると、いきなり1ゴール1アシストで2-0の勝利に貢献、イタリアW杯得点王、現役初のセリエAプレーヤーの貫禄をみせてくれました。

それにしても、1986年W杯得点王のゲーリー・リネカー、そして1990年W杯得点王のスキラッチ、そして、このあと1994年W杯得点王のストイチコフもJリーグでプレーすることになります。
世界に冠たるストライカーたちにとって、いかにJリーグが魅力ある場だったかを物語る出事です。

もちろん契約金額の魅力が大きいと言われ、経済大国の日本だからこそ出来たことだという説が説得力を持ちますが、彼らが遠い日本を選んだ理由には、それ以外の魅力、欧米にはない文化的魅力や、治安の良さなども含まれていたに違いないと思います。
このあとも続く大物外国人選手たちの言葉からも、それは裏付けられています。

ストイコビッチ、ブッフバルト、レオナルドもJリーグに

スキラッチに続いたのは、6月13日発表されたドラガン・ストイコビッチ選手の名古屋加入でした。名古屋はJリーグ開幕前に加入したゲーリー・リネカー選手が十分活躍できないままこの年を迎えていましたから、ストイコビッチ選手にも懐疑的な目が向けられました。
案の定、後期開幕戦・広島戦にスタメン出場したストイコビッチ選手は、試合開始わずか18分でイエローカード、さらにレフェリーへの異議のため2枚目のイエローカードを受け退場処分になってしまったのです。

その後もしばらくは、一方、たびたび短気を起こす、やっかいな選手でした。しかし11月、アーセン・ベンゲルが名古屋の監督に就任してから翌年にかけて、時間をかけてストイコビッチ選手を指導、ストイコビッチ選手も徐々にフォア・ザ・チームの姿勢を見せ始めました。
華麗なテクニックで観客を沸かせるプレーでサポーターから「ピクシー・妖精」の愛称を受け、その後長く日本でプレーを続けてJリーグを代表する外国人選手の一人となり、名古屋の監督としても初のリーグ制覇を果たす活躍をしたことはご存じのとおりです。

次いで7月19日、ドイツ代表DFギド・ブッフバルト選手の浦和への加入が発表されました。ブッフバルト選手はイタリアW杯の西ドイツ優勝メンバーで決勝でマラドーナ選手を完全に封じたことで知られている選手でした。

身長188㎝の長身と屈強な身体は、見るからに頼もしい存在で、最初のシーズンとなった1994年後期シリーズこそチームを上位に引き上げるところまではできませんでしたが、翌年同じドイツのボルガー・オジェク監督が浦和監督に就任すると、まさにチームの精神的支柱として活躍し、強面の表情に似合わない優しい紳士的な人柄も相まって、その後も浦和のみならず日本に多くのファンを得た選手でした。
また浦和に監督として戻った2006年にはクラブを悲願のリーグ初制覇に導くなどの活躍をしたことはご存じのとおりです。

ブッフバルト選手の浦和入団から10日後、今度は鹿島にレオナルド選手が加入しました。
7月17日にアメリカW杯決勝、ブラジル優勝メンバーとして栄光を手にしてから、わずか2週間足らずで鹿島に合流したのです。

鹿島にとってレオナルド選手はジーコの後継者として、どうしても欲しい選手ということでジーコが直接声をかけた選手でした。
そのレオナルド選手は、FCバルセロナ、ACミランからもアファーを受けていたそうですが、当時のブラジルサッカー選手のアイドルであるジーコからの直接オファーは絶大な威力があり、鹿島への加入を決めたといいます。

レオナルド選手も日本のサッカーファンに長く記憶に刻まれる選手でした。鹿島でのプレーは1995年前期までのわずか1年でしたが、甘いマスク、紳士的な人柄そしてゴールチャンスになりそうな場面に必ずと言っていいほど顔を出す優れたサッカーセンスが、日本のサッカーファンを惹きつけてやみませんでした。

なかでも1995年11月Jリーグ後期19節の横浜F戦で決めた、5回のリフティングでディフェンダーを振り切った末のゴールは、誰の目にもJリーグ史に残るスーパーゴールだとわかるゴールでした。事実、2013年のJリーグ20周年企画「Jクロニクルベスト」でも、過去20年のベストゴール第1位に選出されました。

ベンゲル監督もJリーグに

この年Jリーグには、監督として11月名古屋にアーセン・ベンゲルが加入したことも大きな出来事でした。すでにヨーロッパ全体の中でも強豪クラブであったASモナコの監督が名古屋で指揮をとることになったのです。

他のヨーロッパのビッグクラブからのオファーが順調に運ばなかったという事情があるにせよ、Jリーグがアーセン・ベンゲルを迎えられたことは幸福な出来事でした。
在任期間は2年弱でしたが、それまでの監督とは違ってチーム構成に関する全権を委ねられ、的確な補強によりチームを立て直し、お荷物チームになりつつあった名古屋を、たちまち他のクラブから恐れられる強豪に変貌させたのです。

ベンゲルが日本に残した功績は、チームの立て直しという結果だけではなく、日本人選手のサッカーに取り組むメンタリティを鋭く指摘したことでした。
彼は、サッカーという勝ち負けをはっきりさせなければならない勝負の場で、どのようなメンタリティが必要なのかを、辛抱強く選手たちに植え付けたのです。

彼が日本を離れからではありましたが、こうした彼の指導者としての哲学、理想のサッカー観、日本サッカーについて感じたことなどが書かれた「勝者のエスプリ」という書籍が1997年9月、日本で出版されました。
それは、出版元がNHK出版であったことからも想像がつくように、サッカー関係者のみならず、企業人、文化人などからも関心を集めた本でした。
ベンゲル監督が指導者として日本サッカーに与えた具体的な教えなどは「伝説のあの選手たち、指導者たち」の項で詳しく述べることとします。

日本サッカーの「伝道師」ジーコが引退

新たにJリーグに加入した外国人選手・指導者のニュースと相前後して、Jリーグを代表する選手の引退、移籍のニュースもテレビや紙面で大きく報じられました。

1年目のJリーグを牽引した主役の一人、鹿島・ジーコが6月15日の前期最終節をもって引退しました。
アウェーの磐田戦、現役最後の試合は自らもゴールを決め、チームを勝利に導き文字通り有終の美を飾りました。

41歳、当時、サッカー選手としては完全に終わっているとされた年齢でありながら、驚異的な精神力と体力でJリーグを牽引したジーコ選手、1991年夏、38歳で来日以来ジーコ選手の3年間は、よく言われる「プロサッカーの伝道師」のごとく、前身の住友金属そして鹿島アントラーズというプロサッカークラブのあり方そのものを指導しながら、自らも決して手を抜かずプレーした選手でした。

「プロサッカー選手、プロサッカーチーム、プロサッカークラブ」とは何なのか? それは、どんな試合でも「ルールに従い、常に頂点を目指して試合をするのがプロ、試合修了の笛が鳴るまでチームの勝利だけを考えて戦い抜く意思を持つこと」これがジーコ選手の教えの真髄でした。

その目的に向かって、一人ひとりの日常生活も個々のサッカー技術もチーム戦術も、クラブの体制も向上させなければならない、これがジーコ選手の考えでした。

ジーコ選手が加入した当時の住友金属サッカー部は、ジーコ選手の目には、およそプロの世界でサッカーをやろうというクラブには見えなかったと思います。生活の隅々までアマチュア意識が染みついていた選手たちに、日常の些細な行動まで直すように説明して、それを納得させて、自らプロ意識を持った行動ができる選手に意識改革を図る作業は、まさに「伝道師」そのものだったのです。

40歳になって迎えたJリーグ開幕戦、前日のヴ川崎vs横浜M戦にいわゆる1試合限定の「開幕戦」は譲ったものの、開幕節5試合の主役は、やはりジーコ選手だったのです。同じく鳴り物入りで名古屋に加入したゲーリー・リネカー選手を鹿島の守備陣が完封する一方、ジーコ選手はいきなりハットトリック、終わって見れば5-0、歴史的な1戦は衝撃のスコアとなりました。

2年間、ほとんどスポットライトが当たることのない住友金属の選手として、プレーヤーとしてはまるで雌伏していたかのようなジーコ選手ですが、やはりスーパースターには晴れの舞台がよく似合うことを身をもって証明したようなデビューでした。

その後も、1993年12月の天皇杯2回戦、東北電力戦で見せたヒールボレーによるゴールなど、数々のスーパープレーを見せてくれて日本のサッカーファンを魅了しました。

ジーコ選手のJリーグへの貢献は、こうした選手としてのプレーの数々に加え「ルールに従い、常に頂点を目指して試合をするのがプロ、試合修了の笛が鳴るまでチームの勝利だけを考えて戦い抜く意思を持つこと」というプロの精神を、精神論だけに終わらせず、鹿島の選手・クラブ関係者が共有すべき具体的な行動規範を示して、根付かせたことも特筆されることです。

鹿島の選手・クラブ関係者がよく口を揃えて言う「ジーコスピリット」と呼ばれるチームの行動規範がそれです。
のちにサッカージャーナリストの大住良之氏がJFA.jp上で「ジーコ・スピリット」を、わかりやすく解説してくれていますので、以下引用にさせていただきました。

鹿島のクラブハウスのロッカールーム入り口には、いまも「ジーコ・スピリット」を示す額が掲げられています。

それによれば、スピリットの要素は「TRABALHO(献身)」 「LEALDADE(誠実)」「RESPEITO(尊重)」の三つであると示されています。

「TRABALHO(献身)」とは直訳すれば「労働」であり、かみくだくと「チームに貢献するため汗を流す」ということになると思います。
「LEALDADE(誠実)」とは英語でいう「Loyalty」のことで、「クラブ(あるいはチーム)に対する忠誠心、誠実な行動」ということになります。どんなときにもチームの勝利のために誠実にプレーし、行動したジーコらしい言葉だと思います。

では「RESPEITO(尊重)」とは何でしょう。ご想像のとおり、「リスペクト」のことです。これにはいくつかの側面があるような気がします。

ひとつはクラブやチームメート、互いに対するリスペクトです。それぞれの立場や考えを尊重し、年齢や肩書きに関係なくリスペクトを払う。それがチームスピリットにつながり、目的を達成する力になる。日本代表の監督をしていたころのジーコからは、そうした生き方が伝わってきました。

さらには、自分のチーム以外でも、チームを取り巻く人びとに対するリスペクトです。報道にたずさわる者たちにも、ジーコは常にしっかりとリスペクトの態度を示してくれました。質問に答える言葉はいつも誠実で、批判的な言葉にも丁寧な受け答えをしてくれました。

そして何よりも大事なのは、試合で対戦する相手へのリスペクトでしょう。
「私は相手チームをリスペクトしている」

どんな試合の前でも、ジーコは常にこの言葉を口にしました。メディアは平気で「格下」などの言葉を使い、試合前から勝つことが決まっているように表現します。何点取るかだけが問題のように報道することもあり、ファンだけでなく、選手たちもこうしたメディアに影響されます。そして知らず知らずのうちに気が緩み、油断が生じ、痛い目に遭うのです。

サッカーという競技は、試合内容と結果が最も結びつかないスポーツと言われています。どんなにボールを支配してシュートの雨を降らせても、それがゴールに入らなければ得点にならず、勝利にはつながらないという競技がサッカーです。だからどんな相手と対戦するときにも相手を見くびらず、すなわちリスペクトを払って、自分たちの持っているものを出し尽くす態度が大事なのです。

1991年、世界最高の選手と言われたジーコ選手は住友金属の一員として、日本の、それも2部リーグの舞台に立ったのです。
しかしジーコ選手はどんな相手でも、どんなに泥だらけのグラウンドでも、チームの勝利のために懸命に走りプレーをしました。そして世界最高のテクニックを惜しむことなく出し切りました。

これこそ、「リスペクト」のある態度です。そのスピリットが正しく伝えられたからこそ、
鹿島アントラーズは日本国内三大タイトルにACLタイトルを合わせて20冠(2024年現在)という他のクラブの追随を許さない圧倒的な強さを保ち続けられているのです。

以上が大住さんの解説部分の引用です。一部、当フォーラムが補筆しているところもあります。

実は「ジーコ・スピリット」は、この年1994年にジーコが引退を決めた時に、かわりにチーム指導を託した兄・エドゥー氏が、ジーコの考えを言語化してチームに浸透させる必要があると考え、掲額したものだそうです。

「ジーコ・スピリット」は、時を経てジーコの薫陶を直接受けたことがない世代が新たに加入してきても、鹿島の選手としての行動規範として、クラブ幹部から叩きこまれ、脈々と受け継がれる精神的バックボーンとなっているのです。

もし、兄・エドゥー氏により、うまく言語化されていなかったら鹿島は20冠を獲得するほどの圧倒的なクラブになれなかったかも知れません。そう考えると鹿島の成功は、ジーコと兄・エドゥー氏の二人によってもたらされたと言ってもいいのかも知れません。

現役最後の試合となった6月15日から1週間後の6月22日、政府は日本におけるジーコ選手の功績を称え「内閣総理大臣顕彰」を贈りました。

茨城県鹿嶋市内には、ジーコの銅像が2体あるそうです。1体は“聖地”カシマサッカースタジアムに隣接するカシマスポーツセンターの敷地内(屋外)に建てられている、おなじみの銅像で、これは1996年に建てられたものです。

もう1体は引退したこの年、市内にあるショッピングセンター内の「ジーコ広場」と呼ばれるスペースに建てられたものです。10月にジーコの労をねぎらう「ジーコカーニバル」という10日間に及ぶイベントの中で、この像がお披露目されたのですが、実はジーコには事前に知らせれておらず、まったくのサプライズ企画だったといいます。

1人のサッカー選手のために、10日間にも及ぶ感謝イベントが企画されるというのも空前絶後のことではないかと思いますが、それはまさに「1人のサッカー選手のため」「鹿島の1人の選手のため」のイベントではなく、日本の「Jリーグ」スタートに際して「プロサッカー選手、プロサッカーチーム、プロサッカークラブ」とは何なのか? を、日本全体に伝えた「サッカーの伝道師」に対して、日本全体が感謝するためのイベントでした。

10日間にわたるイベントがどのような内容だったのか記憶に留めるためにも記録しておきたいと思います。
・10月1日 オープニングセレモニー 西武百貨店池袋店 ジーコミュージアム(パネル展示・映像ブース、ブラジル・ジーコサッカースクールの完成予定模型展示)
      展示期間・場所 10月1~10日 西武百貨店池袋店
              10月13~24日 西武百貨店静岡店
              11月2~7日 西武百貨店筑波店
・10月2~3日 フットサルトーナメント大会 横浜アリーナ 
           お笑い芸能人チーム、米米CLUBチーム、
           JUVENTUDE(ジュベントゥージ・ジーコ兄弟らのファミリーチーム)ほか
・10月3~6日 ジーコ・トーク&ライブセッション 新高輪プリンスホテル
       10月3日 フランスW杯&2002年に向けて 
           ジーコ、木梨憲武、川添孝一、長野智子
           ライブ サルサバンド、オルケスタ・デ・ラ・ルス
       10月4日 アメリカW杯を振り返って
           ジーコ、レオナルド
           ライブ ラテンジャズバンド 松岡直也BANDA GRANDE
       10月5日 人間ジーコに迫る
            ジーコ、カールスモーキー石井(米米CLUB)
            ライブ 米米CLUBのホーンセクション BIG HORNS BEE
       10月6日 ブラジルから見た日本サッカー
            ジーコ、アルシンド
     ライブ 柳ジョージ
・10月8日 鹿島サポーターズフェスタ  カシマサッカースタジアム

・10月10日  ジーコカーニバルファイナル マッチ カシマサッカースタジアム
            鹿島アントラーズvsJリーグ連合チーム
            ファイナルセレモニー 進行 カールスモーキー石井(米米CLUB)            

この10日間にわたる「ジーコカーニバル」の模様は、後日フジテレビが1時間20分番組として放送しています。(後段のテレビ番組紹介欄に記載)

この頃、テレビ・スポーツ紙など多くのメディアが、ジーコの日本での功績をつぶさに回顧しています。日本でのジーコがどうだったのかを深く知るには、この頃の映像や記事に丹念にあたることが不可欠だと思います。

その後のジーコはご存じのとおり日本代表監督も務め、長く日本サッカーと関り続けました。そして2016年8月には、日本サッカー殿堂顕彰(日本サッカー殿堂入り)が日本サッカー協会より発表されました。

カズ選手はセリエAジェノアに加入

1年目のJリーグを牽引したもう一人の主役、カズ・三浦知良選手も、イタリアリーグ・セリエAへの移籍という形でJリーグを後にすることになりました。
カズ選手の海外移籍について、3月頃からチラホラとスポーツ紙面に観測記事が出始めていて、6月1日には「ジェノアから正式オファー」という記事が掲載されていました。
そして6月18日のアメリカW杯開幕の機先を制するように、6月17日折しもプレシーズンマッチ「エプソンカップ」のため来日していたセリエA・ACミランのウェルカムパーティの席上、セリエA・ジェノアへの移籍が発表されたのです。

どのタイミングが一番ニュースバリューがあるのかを見定めたような、電撃的な発表で、当然のようにテレビ・スポーツ紙は、このニュースで持ちきりとなりました。

日本人選手が海外でプレーすることになった例は、奥寺康彦選手を筆頭にこれまでもあったわけですが、カズ・三浦知良選手の海外移籍がこれほどまでに大きく取り上げられたのは二つの理由があったからです。

一つはJリーグというプロサッカーの世界から、より高いレベルを目指す挑戦という新しい形の先駆けとなったことです。それまでの移籍は、あくまで突出した力を持った個人の挑戦でしたが、カズ・三浦知良選手は「Jリーグを代表して世界と戦う挑戦」という見方をされたからです。

もう一つは、行き先が当時世界最高峰と言われたイタリアリーグ・セリエAだったからです。セリエAには世界中の一流選手が集まるリーグとして日本でもWOWOWでの放送を通じて知れ渡っていましたから「カズ・三浦知良選手も世界の超一流の選手たちと肩を並べる評価をされた移籍」と見られました。

ヴ川崎とジェノアとの間で正式契約が交わされたのは7月25日、翌年6月30日までの「レンタル移籍」でした。

しかし、カズ選手がイタリアに到着すると現地メディアからは「スポンサーを連れてやってきたジャポネーゼ・ジョカトーレ(日本人サッカー選手)」といった辛辣な言葉を浴びせかけられるなど、かなり懐疑的な目で見られました。
カズ・三浦知良選手はプライドを傷つけられる一方「何としても結果を出して見返してやる」という闘志に燃えたことと思います。

そして迎えた開幕戦、相手は2ケ月半前に来日して戦ったACミランでした。ミラノの通称・サンシーロスタジアムは、前年12月29日「クリスマススターズ」というチャリティマッチに世界選抜の一員として試合したことのあるスタジアムです。今度は、その地でジェノアのジョカトーレそしてFWとしてスタメン出場を果たしたカズ・三浦知良選手は、世界最高峰の舞台でのプレーを楽しむように、軽快にピッチを駆け回りました。

しかし、好事魔多しでしょうか、悪夢が突然訪れました。前半28分、ミランDFバレージ選手との空中戦で激突、顔面を強打してしまったのです。
上背で見劣りするカズ・三浦知良選手がジャンプして、上からバレージ選手の頭に自分の顔面を打ち付ける形になってしまったのです。
「何としても結果を出して見返してやりたい」という闘志が裏目に出てしまったとしか言いようのないアクシデントでした。

鼻骨骨折の出血を一時的に止めながら前半を戦い切ったカズ・三浦知良選手は後半交代となり、そのまま手術のため日本に帰国、せっかくのセリエA挑戦は、思わぬ形で中断させられる羽目になりました。

このあとのカズ・三浦知良選手、長い現役生活を続けていますが、前年「ドーハの悲劇」でワールドカップ出場の夢を経たれ、再び栄光を取り戻すために挑んだはずのセリエA挑戦も不本意な形になってしまい、それから先も何度も何度も輝きを取り戻すための挑戦を続けています。まるで奥義を極めるため旅を続ける「修行僧」のような選手生活です。

カズ・三浦知良選手自身にはまったく意識がないかも知れませんが、この激突が、カズ・三浦知良選手をそうした運命に導く道に迷い込ませてしまったのかも知れません。
運命の迷い道に踏み込んだカズ・三浦知良選手、その「迷い道」の先に1998年のフランスでの代表落選宣告が待っていて「自分はサッカーが好きだ、だから身体の続く限りは続けるのだ」という境地に至らしめる「修行僧」のような選手生活が待っていた、その後のカズ選手を見ていると、どうしても、そう思わざるを得ないのです。

カズ・三浦知良選手は、この1994年のいろいろなインタビューの場面を見ると、しきりに「日本のプロサッカーの歴史はたった2年しかないんです。とにかく1試合1試合戦って、歴史を積み重ねて日本のサッカーを作り上げていくしかないんです。自分もそう思って戦っていきます」という話をしています。
この時から、すでにカズ・三浦知良選手は、ひたすら歴史を積み上げる役割としての自分、まさしく「修行僧」の自分を無意識のうちに持っていたのかも知れません。

カズ・三浦知良選手が長い長い選手生活を終える日がいつかは来るのでしょうか? そして、その時、過去の幾つもの大きな節目の時の思いをすべて語る日は来るのでしょうか?
その時はいつなのでしょうか? その答えはカズ・三浦知良選手の胸のうちにしかありません。

ナビスコカップはヴ川崎が3連覇

Jリーグは、6月15日、広島の優勝で前期日程を終えると、後期開幕まで2ケ月の中断を挟みました。
7月23日には、94コダックオールスター戦 ALL EAST vs ALL WEST戦が広島ビッグアーチで行われました。
昨年のオールスター戦でMVPに輝いたカズ・三浦知良選手は負傷のため欠場となりましたが、その後継者に名乗りをあげるようにスーパールーキー・城彰二選手が後半先制ゴールをあげALL EASTがリードすると、ALL WESTは2点をあげて逆転、昨年の雪辱を果たしました。この年のMVPは交代出場で決勝点をあげた永島彰浩選手(G大阪から清水に移籍)が獲得しました。

この年のALL EASTは、前期終了をもって選手生活に幕を閉じたジーコ選手が10番をつけ、11番をつけた22歳年下の城彰二選手に幾度となくパスを出し続け、若い才能を育てるかのようなプレーを見せてくれました。ジーコ選手は膝の痛みを抱えながらも最後の公式戦を最後まで戦い抜き、試合後は小さな息子さんを連れてスポットライトの中、ゆっくりと場内を一周、引退を惜しむ日本のサッカーファンに別れを告げました。

7月26日から8月6日までは、わずか10日間のスケジュールで、94ナビスコカップが開催されました。この年のナビスコカップは、Jリーグ12チームに準会員の柏、C大阪を加えた14チームによるトーナメント方式、前年決勝を戦ったヴ川崎と清水は1回戦をシードされての短期決戦で決着をつけるというものした。

決勝はスキラッチが牽引してきた磐田と、カズ・三浦知良選手を移籍で欠くものの、司令塔としてやはりチームを牽引していたビスマルク率いるヴ川崎との対決となりましたが、短期決戦で6ゴールをあげたビスマルクに軍配があがりました。ヴ川崎はナビスコカップが創設された1992年から3連覇を果たしました。

順風満帆だったJリーグにラフプレー増加が水を差し人気に陰りが

Jリーグ後期はナビスコカップ決勝からわずか4日後、8月10日からスタートしました。
ナビスコカップで主役を争ったスキラッチ、ビスマルクに加え名古屋・ストイコビッチ、浦和・ブッフバルト、鹿島レオナルドといったレベルの高い外国人選手たちが新たに加わったことで、各チームとも試合の中での個々のマッチアップが激しさを増すことになってしまいました。

これまでならノーファウルで止められていたものが、単なるファウルだけにとどまらずイエローカード覚悟で止めなければ止められないという考えを持つ選手が増えてきました。
それが、ラフプレーやイエローカード覚悟のファウルの増加につながり、その結果、退場処分になる選手や累積警告による出場停止選手が増加する状況を生みました。

さらには、こうしたコンタクトプレーを把握しきれないレフェリーのミスジャッジや試合によるジャッジ基準の違い、事後処理の拙さによる試合の混乱が拍車をかけました。
最悪だったのはラフプレーによる選手の負傷でした。鹿島のレオナルド選手は後方からの悪質なタックルで右ひざ半月板損傷の大けがを負ったケースなどは、レフェリーの試合マネジメントが悪さが悲劇を生んだと言えます。

こうして、選手とレフェリーの関係が悪循環に陥り次第にファン離れを引き起こしていくという危機的な状況になっていきました。

後期の優勝争いはネルシーニョコーチが実質的な指揮を執る体制にしたヴ川崎が終始リード、昇格したばかりの平塚が旋風を巻き起こす快進撃でヴ川崎を脅かすところまで行きましたが、結局ヴ川崎が制覇、平塚は2位でフィニッシュしました。
後期の流れをおさらいする形で列挙しておきます。
・1節(8月10日) 平塚がヴ川崎を2-1で破り好スタート
・3節、ヴ川崎・都並敏史選手、1年2ケ月ぶりに復帰
・4節、川崎等々力競技場で落雷のためJ初の試合中断(前半28分から43分間)ヴ川崎vs横浜M
・7節、平塚、初の首位
・10節、鹿島レオナルド、浦和DFの後方からのタックルで右ひざ半月板損傷、長期離脱
・11節、ヴ川崎、首位に
・12節、名古屋リネカー、今期限りの引退表明
・13節(10月19日アジア大会明け)平塚、首位返り咲き
・14節、ヴ川崎、首位奪回
・20節、ヴ川崎、次節にもV可能性

そして、11月16日の21節、ヴ川崎は浦和を2-1と破って後期制覇、平塚は最終22節、ヴ川崎を下したもののあと一歩及ばず2位に終わりました。

年間王者を賭けた「チャンピオンシップ」はヴ川崎が、前期優勝の広島を2試合とも1-0で退け昨年に続き連覇、カズ・三浦知良選手の不在をラモス瑠偉、ビスマルク、武田修宏、北澤豪、ペレイラらの各選手でカバーした優勝でした。

Jリーグ年間表彰式「Jリーグアウォーズ」が12月5日開催され、MVPにヴ川崎・DFペレイラ選手、得点王にジェフ市原・FWオルデネビッツ選手、最優秀新人に平塚・MF田坂和昭選手が選出されました。

また最優秀審判員賞に、外国人審判として招かれたゾラン・ペトロビッチさんが受賞しましたが、ペトロビッチさんはセルビア出身の方です。セルビアといえば6月から名古屋に加入したドラガン・ストイコビッチ選手がいます。大物外国人選手加入の紹介のところで「たびたび短気を起こす、やっかいな選手でしたが、11月、アーセン・ベンゲルが名古屋の監督に就任してから、時間をかけてストイコビッチ選手を指導して、フォア・ザ・チームになった」と書きましたが、同じセルビア人のペトロビッチさんが笛を吹いている試合でのストイコビッチ選手は、妙におとなしかったそうです。

理由は簡単、判定に不服でも、相手選手からのチャージに不満でも、短期を起こして罵詈雑言を吐こうものから、何をしゃべったのかすぐ通じてしまうペトロビッチさんから、すぐカードをもらってしまいかねないので、おとなしかったらしいのです。いい時にペトロビッチさんが来てくれました。

「Jリーグアウォーズ」では特別表彰として「チェアマン感謝状」を受けた選手が2人いました。前期限りで引退したジーコと、今シーズン限りで引退したリネカー選手です。特にリネカー選手は成績こそ不本意だったことと思いますが、まさにジーコとともに二大目玉としてJリーグに加入してくれた、そのことだけで十分特別表彰に値いする貢献だと言えます。

川淵チェアマンは、ジーコにたいしてはポルトガル語で、リネカーに対しては英語で表彰状を読み上げたといいますから、チェアマンの「情」がにじみ出た光景だと思います。

さらに「フェアプレー特別賞」は昨年に続き広島が受賞しました。代表して表彰を受けた風間八宏選手は、表彰規定に該当しない中で、反則ポイントが最小ということで特別に、という表彰だったことから「本当は喜ばなければいけないのでしょうが、今年も『特別』がついてしまいました」とコメントしていました。前期優勝、チャンピオンシップ出場の実力を持ちながらのフェアプレー精神は、まさに「クラブの勲章」といっていい表彰でした。

この年のベストイレブンには、ヴ川崎から7人(GK菊地新吉、DFペレイラ(2年連続)、MF北澤豪、MF柱谷哲二(2年連続)、MFビスマルク、MFラモス瑠偉(2年連続)、FW武田修宏の各選手)、平塚から2人(DF名塚善寛、MFベッチーニョの各選手)、横浜M、広島から1人(井原正巳選手、高木琢也選手)が選出されました。

加藤久選手、木村和司選手が引退

12月、Jリーグの超ベテラン選手2人が現役を引退しました。一人はヴ川崎のDF加藤久選手、もう一人は横浜マリノスのFW木村和司選手です。
ともに昨年5月15日の歴史的なJリーグ開幕戦をスタメンとして迎えた選手です。閑古鳥の鳴くスタンドを背に長い間戦った日本サッカーリーグ(JSL)の時代、アジア予選の壁に挑み続けた日本代表の中心として、Jリーグ誕生前の日本サッカーを牽引してきた2人でした。

それだけにJリーグの誕生を待ちわび、その舞台に立った感慨もひとしおだったことと思います。

加藤久選手は、開幕戦以降、松木安太郎監督との確執もあり出場機会を失い、1993年後期から清水エスパルスに移籍しました。これはJリーグ移籍第一号として記録されています。
1994年シーズンは、ヴ川崎がネルシーニョコーチ中心の体制に変わったことから復帰して、後期優勝、年間王者連覇を見届けての引退でした。

加藤久選手はJリーグの中でも異色の選手でした。プロ選手の傍ら早稲田大学助教授の肩書を持ち教鞭をとるとともに、Jリーグチェアマンにして日本サッカー協会強化委員長でもあった川淵氏に重用され、強化委員会副委員長の職務もこなすという、スーパー選手でした。

したがって引退後も早稲田大学助教授の仕事と日本サッカー協会強化委員会の仕事は残り、年明け1995年からは川淵委員長がJリーグチェアマンの職務に専念するため、後を加藤久氏に託すことにしたのです。

こうして選手引退直後から日本サッカー協会の要職に就任しして、加藤氏のキャリアは順風満帆のように思われましたが、翌年、強化委員長としてまとめた「日本代表加茂監督の評価と今後の方向性」が、協会幹部から受け入れられず強化委員長を辞任してしまいます。

その後はJリーグの複数のクラブの監督を務める傍ら、学究の道にも勤しみ、1998年に東京工業大学大学院博士課程に入学、2003年に博士課程を修了して博士号を取得しています。

こうした加藤氏の姿勢は、学問とJリーガーの両立を目指す多くの選手たちの励みとなりモデルともなりました。現在では多くのプロと大学の両立選手がいる、世界でも稀なリーグと言われる風土を創った先駆けの選手でした。

一方、木村和司選手、そのサッカー人生は、文字通りサッカー一筋でした。広島県工業高校当時から注目されていて、明治大学に進学してからは日本代表に抜擢されるほどで卒業後も実業団の強豪チームから複数の誘いを受けていた選手です。

その中から選んだのは加茂監督から誘いを受けて決めた日産自動車でした。加茂監督は、ウィンガーだった木村選手のポジションに水沼貴史選手が加入したのを機に、木村選手を非凡なパスセンスを活かせるトップ下にコンバート、以来、木村選手は日産自動車から日産マリノス、横浜マリノスに至るチームの中で不動の10番「ミスターマリノス」と呼ばれる選手となりました。

1986年、ドイツブンデスリーガから帰国することになったプロ選手・奥寺康彦選手の受け皿として、日本サッカーリーグが導入した「スペシャル・ライセンス・プレーヤー(プロ登録選手)」制度を、いち早く活用したのも木村和司選手でした。

「伝説の年 1986年」のところでも紹介しましたが、まだ、プロサッカーリーグへの道筋が見えていない中、プロ選手登録をすることは大きなリスクでもありましたが、木村和司選手は勇気ある「ファーストペンギン」の役割を担ったのです。その後、読売クラブや日産自動車の選手たちを中心にプロ契約選手が拡大していったのは、木村和司選手の勇気ある決断に負うところが大きかったのです。

木村和司選手は、日本代表として「伝説のFK」といわれる名場面を残したことでも知られています。1985年10月、メキシコW杯アジア最終予選の韓国戦、ホーム&アウェー野2戦合計で上回ればW杯出場権獲得となる、当時としてはもっともW杯が近づいた戦いでのFKでした。

国立競技場での第1戦、韓国に2点リードされた前半43分、ゴールから約25mの地点からの木村和司選手のFK、ボールは相手の壁を越えてから鋭く曲がり落ちる軌道で見事にサイドネットに突き刺さりました。

満員の国立競技場の観衆のみならず、NHKのテレビ中継を見ていた全国のサッカーファンが目撃したFKによるゴールでした。
試合は2戦とも韓国に屈しW杯初出場の夢は実現しませんでしたが、この日からフリーキックは木村和司選手の代名詞となったのです。

現役最後の試合となった天皇杯のC大阪戦を終え「閃いた」ことで引退を決意し、会見の席上では「引退という言葉は好きではない。卒業させていただきます」と語りました。自分の流儀を貫いた木村和司選手らしい引き際でした。

木村和司選手、加藤久選手、どちらも日本のサッカー史に伝説的な大きな足跡を残した選手の引退でした。

C大阪と柏が昇格

翌年からJリーグに昇格する2チームは、準会員であったセレッソ大阪がJFL1位、同じく準会員の柏レイソルがJFL2位と順当な成績でシーズンを終えたことから承認されました。千葉県と大阪府のJリーグクラブが2つとなり新たな地域ダービーの楽しみが加わりました。

ファルカン監督後、日本代表はモダンサッカーを掲げた加茂監督の時代に

8ケ月という短い契約の中で結果を求められる日本代表ファルカン監督の総決算の大会は10月の広島アジア大会でした。
日本サッカー協会は2002年W杯日本招致を有利に運ぶため、アメリカW杯出場権を逃した日本にとって、このアジア大会は是が非でもアジアナンバーワンをとりたい大会でした。

そのため、セリエA開幕戦で鼻骨骨折の重傷を負ったカズ選手もファルカン監督の要請に応えて参戦、さすがのエースぶりを発揮しましたが、日本は準々決勝の韓国戦に敗れてしまいました。
これでファルカン監督は契約満了となりました。春に選任した責任者の日本サッカー協会・川淵強化委員長は「広島アジア大会での優勝を命題にして8ケ月の短期契約を結んだファルカン監督の起用は失敗だった」と総括しています。

しかし、わずか数十日の代表活動期間しか与えられなかったファルカン監督も気の毒でした。もちろん世界の有能な監督の中には、短期間でチームをまとめ大会に優勝できる監督はいるでしょう。しかし、世界の中で日本が置かれた立場で呼べる監督の限界を考えれば、フランスW杯アジア予選までに複数の監督を試したいという方針と、広島アジア大会は是が非でも取りたいという方針を両立させようというのは、明らかに虫のいい話でした。

ファルカン監督も、広島アジア大会で何としても結果を出すという冷徹なチーム作りに徹すれば、あるいは違った結果が出たかも知れませんが、なんとなく将来を見据えた選手育成の視点を持ちながら広島アジア大会に突入してしまったところに敗退の原因があったようです。

オフト監督時代の「ドーハの悲劇」そして「1997年アジア最終予選最中の加茂監督更迭、岡田コーチ昇格そしてジョホールバルの歓喜」といったドラマ性に満ちた日本サッカーの歴史の中で、ともすればファルカン監督の8ケ月間は、何の成果もなかった無為な8ケ月、したがってファルカン監督には「能力のなかった監督」というレッテルが貼られかねません。

ファルカン監督を選任する前、強化委員会は、次期監督の資格として次の条件を設定しています。

・外国人であること、理由は「まだ日本人監督の中にプロ監督としてふさわしい人材が育っていないため」
・世界の修羅場をくぐった経験がある監督、W杯などの国際舞台で指揮をとった経験があることが一つの目安。
・次のW杯1998年の出場権獲得に向けて、1年程度の短期間契約で数人の監督を起用し、1998年アジア予選に向けて本格的に代表活動が動き出す時期に、任せる監督を決める。

今回、ファルカン監督更迭を決めたことについて、川淵強化委員長は上記の3点に照らしながら、サッカーマガジン誌(11月19日号)のインタビューで次のような趣旨の発言をしています。

「ファルカンは、外国人であり、世界の修羅場をくぐった経験があるという点で、いいと思って選んだけれど、逆に考えていることが上のレベルにいて、大学の先生が高校生に教えているというイメージで、中心選手でさえもわかりにくいという感じで、若い選手たちは全然わからなかったようです。」

「ファルカンには、やり方は任せますが、あくまでアジア大会の結果で判断しますと、と言っていましたが、途中で『フランスに向けた中で評価して欲しい』と言ってきました。若い選手を発掘して負けても、指導の仕方がいい方向性であれば、続投させる考えも持っていましたが、指導の仕方も問題、結果もついてこないということで契約更新しないことにしました。」

「まだ日本人監督の中にプロ監督としてふさわしい人材が育っていないから、という点については、まだ早いという気持ちはあるものの、日本選手のことをよく理解しているとか、強化委員会との連携具合、あるいは報酬などの投資金額などをトータルに考えると、呼んでみるまでわからない監督を選ぶよりは、日本人監督でもおかしくないと考えたわけです。」

その結果が加茂監督なのですが、新監督選定を急がなければならない年明けからのスケジュールというのも、実は大きな要因となっています。

といいますのは年明け1月6日からサウジアラビアで開催される「インターコンチネンタルカップ」、2月には「ダイナスティカップ」、5月に「キリンカップ」、6月にイングランドで開催される「アンブロカップ」と、年の前半に国際大会が集中しており、12月には新監督体制で新生・日本代表を始動させなければならないという事情があるからです。

ファルカン監督を呼ぶまでは「日本人代表監督を選ぶほど、まだ日本には人材が育っていないので外国人監督を」という理屈がありましたが、一人育ったのではないかという思いが先にあっての「日本人監督起用論」だったようです。

それが加茂監督でした。加茂監督はJリーグスタートが決まると最初からプロ監督として横浜フリューゲルスの監督に就任、モダンサッカーを追求していきたいという考えを持っていました。そのモデルにしていたのがイタリアリーグで成功を収めたアリゴ・サッキ監督の「ゾーンプレス」戦法でした。

横浜フリューゲルスで今年元旦の天皇杯サッカーを制するなど一つの成功を収めていたことから「プロ監督として結果を出している日本人を代表監督に据えたい」という強化委員会の願望を満たす監督と評価されたのです。

ファルカン監督と契約する際、強化委員会は「短期契約で2~3人に監督をやってもらい、その中から適任者にフランスW杯アジア最終予選を任せるというプランなのでファルカン監督も短期契約で」とお願いした経緯があります。

もしファルカン監督の後任も、その一貫した考え方で、すなわち、もう1人か2人テスト的に監督を経験してもらって、最終的に2人か3人から選ぶという方針で進んだのであれば正当化される経緯でしたが、今回の加茂監督選任、さらには翌年のネルシーニョ監督破談事件などの歴史的な事実と突き合わせていくと、協会の何ともご都合主義的な、一貫性のない対応だけが浮き彫りになります。

しかし、それらの事情をいろいろ差し引いても、この時期の日本サッカー協会の代表監督選定の考え方は、およそ世界基準を知らない、ご都合主義的な発想であったことをしっかりと指摘しておく必要があります。

もはや、今、代表監督を依頼する際に「8ケ月でお願いします」などという依頼の仕方はあり得ないことを誰もが知っています。8ケ月がもし代表強化のために与えられる全ての時間というならまだしも、実質の代表強化時間は数十日しかないという監督を誰が引き受けるでしょうか。

1994年2月に、たまたまファルカン氏が「日本で仕事ができる」ことを優先して8ケ月の契約を飲んでくれたことにより、日本協会の世界を知らない選定基準が白日のもとに晒されることはありませんでしたが、もしファルカン氏も断っていたら、引き受け手が見つからず日本協会は焦りに焦ったことでしょう。

もっとも、そのほうが「たった8ケ月だけお願いします。そのあとも2~3人テストしたいんです」という要請の仕方がいかに身勝手なものかに気が付いて、世界基準というものを知る機会になったかも知れません。

この時立てられた「短期間契約で2~3人テストして、その中から選ぶ」という方針が「いかにも妙案」としてまかり通ったことを思うと、国際経験がほとんどない、そして南米からも欧州からも遥か遠い極東の地にある、未熟な国のサッカー協会の発想だと、あらためて思わざるを得ません。

よしんば「短期間契約で2~3人テストして、その中から選びたい」という方針を貫くにしても8ケ月契約はあまりにも短い、ましてや実質的活動期間が数十日しかない契約のことを考えれば「ファルカン監督の起用が失敗だった」のではなく「候補者ファルカンに飛びつかざるを得なかった『アジア大会』までという期間設定が失敗だった」のです。

「アジア大会」までという期間設定は、前年のアメリカW杯アジア予選で出場権を逃した日本にとって、アジアナンバーワンの座は2002年W杯招致活動を有利に進めなければならない日本にとって至上命題だから、ということのようです。

繰り返しますが、まだ国際的にサッカー発展途上国の日本代表の監督に「アジアナンバーワンの座が至上命題だから8ケ月のあいだに結果を出して」といって就任してくれる力量を備えた人、いるにはいるでしょうけれど、その人が望む報酬を積めるのか? 報酬を積んでも極東の地に来てくれるのか? といった日本が抱えているハードルを冷静に考えた場合、無理筋の願望です。

それは、いまだから言える話、という議論もあるでしょうけれど、当時にしても、よくよく冷静に考えれば、どこかをあきらめなければ成り立たない連立方程式のような願望です。

では、よくよく考えて、どこをあきらめるべきだったのか、あるいは、どこを練るべきだったのか、ですが、今年はじめの選考時期にファルカン氏だけに絞らず、同時並行で複数接触するべきだったように思います。

哀しいことに当時の日本には欧州系の指導者との接点が少なく、いきおい南米系の指導者が中心となってしまうこと、そして交渉の窓口になれる人材も少なく、一人ひとりの候補者を深くリサーチするのも大変というハンディを抱えていました。

結果的に誰との接触が可能だったのか、ファルカン氏以上に力量がありそうだと思える候補者がいたのかどうかは別にして、少なくとも4月下旬までは選考活動を続けるべきだったと思います。

もう一つ、契約期間のことですが、2002年W杯日本招致を有利にするために、ということであれば「アジア大会」だけを至上命題にせず、翌年2月の(開催時期がすでに決まっていたかどうかは不明ですが)「ダイナスティカップ」も合わせた結果により評価するという設定でもよかったと思います。

仮に「アジア大会」で結果が出せなくても「ダイナスティカップ」までに立て直して勝ってくれればいい、という筋立てでも十分2002年W杯日本招致に役立つように思います。

限られた予算しかないのに、南米・欧州から遠く離れた国なのに、限られた期間の中でアジアの中で強いところを見せて2002年W杯日本招致を有利にしたい、そうした難しい条件を背負っている日本は、ついつい難しい方程式から逃れるかのような代表監督選定を進めてしまいました。

日本サッカー協会は、特に日本代表監督選定において、その後何代にも亘って一貫性のなさ、節操のなさを見せ続けますが、そうした一貫性のなさ、節操のなさは、実は、この時から始まっていたのかも知れません。

日本代表監督選びというのは、それだけサッカー協会を牛耳る人々にとって「オレが選ぶんだ、オレが決めるんだ」と、ある意味、立場を誇示できる「おいしい」仕事だったのかも知れません。少なくともこの時代は。

一方で、川淵委員長は、日本サッカー強化委員長の職を副委員長の加藤久氏に託すことにしました。これが後にまた代表監督問題で大きな禍根を残す出来事につながります。
と言うのは、フランスW杯アジア予選までに複数の監督を試したいという考え方が残されたままでしたから、加藤強化委員会は、加茂監督の仕事ぶりを期限を区切って評価し、代表監督継続の是非を問うというミッションも背負って船出したからです。

当時は、この加藤委員会のミッションをメディアもあまり詳しく報じていませんでしたから、加茂監督の在任も決して長く保証されたものではないという認識が世間には伝わっていませんでした。
むしろ「加茂監督がフランスW杯アジア予選に挑戦する監督」という見方をされてスタートした感じでした。
契約期間はあくまで1995年11月末までとなっていたのですが、年末発売された週刊のサッカー専門誌には加茂監督体制と新たな代表候補の発表記事が掲載されましたが、写真の「98フランス・ワールドカップを目指す新日本代表のスタッフ」というキャプションが、その空気を物語っていました。

これでは、まるで「同床異夢」です。協会上層部は表立って口に出さないまでも「これで98フランスW杯アジア予選までは加茂体制で行く」という気分でいたでしょうけれど、加藤新委員長をはじめ、新設された副委員長に就いた田島幸三氏、そして広島GMの今西和男氏、鹿島管理部長の野見山篤氏、委員再任の金田喜稔氏らで構成される「強化委員会」は、加茂監督の仕事ぶりを総合的に調査・分析して、1995年11月末の契約満了までに「評価報告書」を出して加茂監督続投か交代かについて上申するという「やる気」満々の状況にあったからです。

それが翌年のネルシーニョ監督破談事件に繋がっていますから、この時、「強化委員会」を加藤新委員長体制に引き継いだ川淵委員長の「引き継ぎ方」が問題の根本原因ということになります。

ともあれ、加茂監督には、1995年の年明け早々から「インターコンチネンタルカップ」という各大陸の王者が参戦する大きな国際大会が待ち受けており、12月上旬、岡田武史コーチ、フラビオコーチのコーチングスタッフと、30人の代表候補を発表して年末年始を返上して準備に取り組むこととなりました。

ユースカテゴリーと女子、快進撃でアジアを突破

1994年は、ユースカテゴリーと女子が世界への出場権を賭けてアジア予選に挑み、次々と自力で世界の扉を開いた歴史的な年です。

9月、インドネシア・ジャカルタで開催されたU-19アジアユース選手権で、日本代表はグループリーグを首位で突破、準決勝でもイラクをFW大木勉選手の2ゴール、同じくFW安永聡太郎選手の1ゴールで3-0と快勝、見事決勝進出を果たし、シリアとともに翌年のワールドユース選手権出場権を獲得しました。

ワールドユース選手権は、1979年に日本で開催されたことがあり、その時開催国として出場したことはありましたが、アジア予選を勝ち抜き自力で出場権を獲得したのは史上初めての快挙、男子サッカー全体でも1968年メキシコ五輪アジア予選自力突破以来の26年ぶりの出来事でした。

このチームは田中孝司監督、山本昌邦コーチのもと、キャプテンで10番を背負った国士館大学の伊藤卓選手を中心に、翌年の本大会ではキャプテンを任されることになる熊谷浩二選手、後の五輪代表の中心となる田中誠選手、中田英寿選手、松田直樹選手、遠藤彰弘選手らで構成されていました。

この大会、準決勝のイラク戦のほか関門だったのはグループリーグ最終戦の韓国戦でした。日本は韓国と引き分けでも決勝トーナメント進出、韓国は日本に勝つしか道がない条件の中、激しい試合となりました。
前半は日本が押されながら持ちこたえると、後半、韓国にラフプレーが増え後半34分、キャプテン・伊藤卓選手がペナルティエリア内で倒されてPKを得ると、これを伊藤選手がきっちりと決めて先制、後半43分にはGK本田征治選手へのラフブレーで韓国に退場者、結局1-0で日本が勝利、グループ1位で突破を決めたのです。

次いで10月中旬から11月はじめにかけて、中東カタールで開催されていたU-16アジアユース選手権で、日本代表が見事優勝、先輩にあたるU-19アジアユース選手権代表も成し遂げられなかった最高の結果を出して、翌年1995年のU-17世界選手権出場権も獲得しました。

この大会、グループリーグ初戦のUAE戦、次のイラク戦と2連敗でスタート、あとのない崖っぷちから快進撃が始まったのです。3戦目の韓国戦、最終戦のバーレーン戦をともに3-0で勝利、最終戦で引き分けに終わった韓国をかわして準決勝進出を決めました。

準決勝の相手はオマーン、日本はエース田中洋明選手のゴール、キャプテン山崎光太郎選手の2ゴールで3点を入れましたが同点で延長に、そして延長前半9分高原直泰選手のVゴールで競り勝ち、まずワールドユース出場権を獲得しました。
決勝は地元カタール戦、この試合は0-0のまま延長に入り、今度は山崎光太郎選手がVゴール、見事アジア制覇、ユースカテゴリーで初の歴史的快挙を成し遂げたのです。

U-17世界選手権出場権には前年(1993年)の日本開催の大会にアジア予選免除で出場したことはありますが、U-19世代同様、アジア予選を突破しての出場権獲得は初めてのことでした。

このチームは、松田保監督のもと、清水商の山崎光太郎選手(キャプテン)、得点王に輝いたヴェルディユースの田中洋明選手、東福岡高の古賀正紘選手たち高校1年の選手たちが主力でしたが、のちに黄金世代と呼ばれて世界に羽ばたいた小野伸二選手、稲本潤一選手、高原直泰選手、そして酒井友之選手らで構成されていました。

このアジア制覇には、日本サッカー協会強化委員会で、副委員長を務めていた加藤久氏らが策定した育成年代強化プランのもと、松田監督はメンタルコーチとしてスポーツ心理学を専攻にしている滋賀大学・豊田一成教授を招き、夏合宿から指導とメンタルトレーニングを取り入れた成果が表れたといいます。

またドクターやマッサーといったフィジカルサポートスタッフの努力により大きなケガ人を出さずに大会を乗り切ったこともポイントになったと言われています。
このように監督・選手といった代表メンバーだけでなく、それを支えるスタッフ陣の充実・強化を図っていったことが、徐々にアジアを突破して世界で戦えるチーム作りにつながったのです。

10月には、男子とともに広島アジア大会に参戦していた女子代表が、グループリーグ首位で決勝進出を決め、翌年1995年の女子W杯出場権を獲得しました。1991年の第1回大会に続き2大会連続の出場権獲得でした。

女子W杯の出場権は前年1993年に行なわれた女子アジアカップと、この広島アジア大会の成績によるポイント制で決める仕組みでしたが、決勝進出を決めたことでW杯出場権の2枠以内を確保したものでした。決勝は、アジアでは敵なしの中国にまたしても2-0で敗れ銀メダルに終わりましたが徐々にその差を詰めている試合ぶりでした。

このチームは1991年に出場した第一回女子W杯も指揮した鈴木保監督のもと、キャプテンで10番を背負う野田朱美選手、ベテラン木岡二葉選手、半田悦子選手、長峯かおり選手、高倉麻子選手そして16歳になったばかりながらレギュラーに抜擢されている澤穂希選手らで構成されていました。

こうして、ユースカテゴリーの日本代表と女子代表は次々と自力で世界の扉を開きました。
この偉業は、その後のユース世代・女子の世界挑戦と成長が、五輪代表や日本代表(フル代表)のレベルアップにつながり、世界の舞台で互角に戦える五輪代表・日本代表(フル代表)へと成長させていくホップ、ステップ、ジャンプの、最初の踏切版の役割を果たした偉業でした。

その後選手たちは、五輪代表・日本代表(フル代表)のメンバーとして、世界と戦える自信を手にして海外リーグに飛躍していくという、日本のサッカー選手としてのサクセスストーリーを描いていきました。
この年の偉業がスタートとなって、その後のサクセスストーリーのモデルが作られていったのです。

1994年、この年の各カテゴリー国内大会

お正月の第72回全国高校サッカーについてはすでにご紹介しましたので、その他の大会をご紹介しておきます。

・第15回全日本女子サッカー選手権決勝 1994年3月27日 読売ベレーザvsプリマハムFCくノ一(2-0) 優勝 読売ベレーザ(3回目)

・第6回日本女子サッカーリーグ(前期1994年5月22日‐7月17日)(後期1994年10月23日‐12月4日、呼称をL・リーグに変更)(L・リーグチャンピオンシップ1994年12月18日)
この年も2ステージ制(前期・後期)で実施され、1試合のみのチャンピオンシップによる年間王者決定方式となり10チームによる80分ハーフの総当たり方式で開催されました。

2月に行われた第5回リーグチャンピオンシップ、3月に行われた第15回全日本女子サッカー選手権を制した読売ベレーザは、このシーズンから読売西友ベレーザとなって前期を制しました。

後期は、混戦模様の中、最終9節で、松下電器レディースサッカークラブ(LSC)とプリマハムFCくノ一の直接対決を松下電器LSCが2-1で制してチャンピオンシップ出場権を獲得しました。

12月18日に行われた一発勝負のチャンピオンシップは、5連覇を目指す読売西友ベレーザ有利の下馬評を覆し、松下電器LSCがワンチャンスをものにして1-0で勝利、一気に年間王者に輝きました。

女子サッカーリーグは、この年の後期から、Jリーグにならって「L・リーグ」と呼称を変更したこと、アジアナンバーワンの中国からの選手をはじめ欧州などからも能力の高い選手が各チームに加入して世界トップクラスの女子リーグになったことが大きな特徴です。

リーグMVPには松下電器LSCのDF埴田真紀選手、リーグベストイレブンには得点王に輝いたプリマハムFCくノ一のシャーメイン・フーパー選手(カナダ代表)、中国の2選手合わせて3人が選出されています。

チャンピオンシップに敗れた読売西友ベレーザは、この年から澤穂希選手が背番号10をつけて戦いましたが、ホロ苦い結末となりました。

・第18回総理大臣杯大学サッカートーナメント決勝 東京農大vs鹿屋体育大学(2-0) 優勝 東京農大
・第43回全日本大学サッカー選手権     決勝 早稲田大vs駒沢大(1-1 PK4-1) 優勝 早稲田大(2年連続10回目)
 この年の各大学主な選手
・早稲田大 大会MVP・斉藤俊秀(3年)、外池大亮(3年)、
・駒沢大  栗原圭介(3年)、林健太郎(4年)、山田卓也(2年)、
・筑波大  大岩剛(4年)、望月重良(3年)、阿部敏之(2年)、興津大三(2年)
・中央大  渡辺毅(4年)

・第5回高円宮杯全日本ユース選手権決勝で清水商が読売ユースを2-0で下し優勝しました。清水商は昨年に続いての連覇。そして、大会前の高校総体サッカーも制していますから、昨年のこの大会から、今年1月の高校選手権、高校総体に続き4大会連続優勝という偉業でした。

今年のチームは昨年の大会にも出場していたMF佐藤由紀彦選手を中心に、FW安永聡太郎、DF松原忠明選手らが中心でした。一方の読売ユースは、前年のU-17世界選手権で日本代表の司令塔を務めた財前宣之選手、同じくU-17世界選手権代表の長田道泰選手、U-19日本代表に選出された薮田光教選手など豊富なタレントで決勝まで駒を進めたが、またしても決勝で高校勢に屈しました。

・この年1994年からJリーグユースカップがスタート、3月に前年度分(1993年度分)の第1回大会が行なわれ読売ユースが1 – 0で横浜Mユースを下し初代チャンピオンに、12月には第2回大会が行なわれました。
決勝は読売ユースとG大阪ユースのカードとなりましたが、2-3Vゴールでガンバユースが優勝、当時3年生の宮本恒靖選手がキャプテンとしてチームを牽引し優勝に導きました。読売ユースは8月の全日本ユース選手権に続き決勝で涙を飲み大会連覇は成りませんでした。

・第3回全国女子高校サッカー 決勝 埼玉・埼玉高vs兵庫・啓明女学院(2-1) 優勝 埼玉高

・第6回全日本ジュニアユース選手権 決勝 三菱養和SCvs横浜Mジュニアユース(4-2) 優勝 三菱養和SC

・第18回全日本少年サッカー大会 決勝 愛知・刈谷第一FCvs栃木・宇都宮ジュニアFC(2
-1) 優勝 刈谷第一FC

ケガから復帰したカズ選手、イタリア・セリエAにその名を刻む初ゴール、トヨタカップでは南米・ベレス・サレスフェルドが勝利

W杯サッカー以外の海外サッカーでは、5月の欧州チャンピオンズリーグでFCバルセロナを下したAC ミランが12月のトヨタカップに2年連続で来日しました。
一方、南米リベルタドーレス杯では、アルゼンチンのベレス・サレスフェルドが、3連覇を目指したサンパウロFCを退けトヨタカップへの出場権を獲得しました。

12月、東京・国立競技場で行なわれた第15回トヨタカップ、前評判では圧倒的にACミランが連覇すると見られていましたが、GKチラベルト選手を中心に鉄壁の守りを見せるベレスの牙城を崩せず、逆に後半2点を奪ったベレスが勝利、クラブ世界一の座につきました。GKチラベルト選手は、フリーキックも自ら蹴ることが多い人気、実力を兼ね備えたGKとして、その後も長くパラグアイ代表として活躍したことはご存じのとおりです。

日本で行なわれた世界の技を日本中が堪能した3日後の12月4日、世界最高峰のリーグと評されているイタリア・セリエAから日本のサッカーファンが待ち望んでいたニュースが飛び込んできました。
開幕戦で無念の負傷を負い、その後も「スポンサーを連れてやってきただけの選手」といった心ない批判にさらされていたカズ・三浦知良選手が、伝統のジェノバダービーという舞台でサンプドリアから前半13分、セリエA初ゴールを奪ったのでした。

それはセリエAの歴史に日本人のみならずアジア人として初めて刻んだゴールでした。
カズ選手は、さらに、年末に行なわれた「セリエAクリスマススターズ」ASローマvs世界選抜戦に、昨年に続いて世界選抜の一員に選ばれて出場、日本のサッカーファンに、新しい年に向けた明るいニュースを送ってくれました。
この時、世界選抜の監督は、日本での不本意な代表監督を終えたファルカン氏、それでもカズをスタメンで起用してくれたのでした。

テレビ、スポーツ紙、雑誌系いずれのメディアでもサッカーの話題が急増

前年1993年はサッカー専門誌が週刊化されるなど、サッカージャーナリズムも元年といった趣きでしたが、この年1994年はテレビ、スポーツ紙、雑誌系いずれのメディアでもサッカーの話題が急増した年です。

前年、Jリーグ開幕により日本中が一つの社会現象としてサッカーを見るようになったことや、日本代表のドーハの悲劇で味わったサッカーというスポーツの持つ魔力を感じたこと、さらにはこの年のアメリカW杯、そのW杯を日本も招致しようとしていることを社会が知った時、これはオリンピック以上の世界最大のスポーツイベントを招致しているんだという話題性を知ったことなど、日本の社会の中でサッカーを見る目は劇的な変化を遂げました。

そのため、日本の社会において、さまざまな状況を映し出す鏡の役目を果たしているテレビ、スポーツ紙、雑誌系いずれのメディアもおいても「サッカーが単なるスポーツの一つとしてではなく、さまざまな切り口から取り上げることができる新たな有力コンテンツ」に、いわばランクが上がった形になりました。

おそらく、これが「Jリーグ開幕」という状況一つだけでは、それほどランクアップになることはなかったでしょうけれど、そこに「ドーハの悲劇」が加わり、そこに行けなかった「アメリカW杯の華やかな祭典ぶり」を見せつけられ、それを2002年には日本が招致しようとしているんだという重層的な状況が生まれたことで、他のスポーツと比してもランクアップされ、他の社会事象全体の中でも、かなり関心度が高まったと言えます。

そんな1994年の各メディアのサッカーに対する関心、その中から主なものを記録に留めておきたいと思います。

【月刊誌・週刊誌・全国新聞・スポーツ紙】
1994.2.14  毎日新聞 アントラーズで町おこし・茨城県鹿島町
1994.6.22  NEWSWEEK日本語版 94アメリカW杯、熱闘キックオフ6ページ
1994.6月号  月刊現代 広島躍進の仕掛人・今西和男4ページ
1994.7.19  日経新聞 ブラジル栄光の10番不在のV
1994.7.20  毎日新聞 94アメリカW杯、大幅黒字で成功うたうが、問題多いビジネス優先(記者の目)
1994.9月号頃 出典不明 Jリーグにやってくる夢のイレブンがサッカーを救うby二宮清純3ページ
1994.12.11  スポーツニッポン 渡邊社長 本紙通じ怒りの63行ケンカ状 4ページ
1994.12.11  日刊スポーツ 川淵チェアマン 渡邊社長をメッタ斬り 2ページ
1994.12.12  サンスポ 川淵、渡邊社長からの追い打ちに一転、直接対決 3ページ
1994.12.12  スポーツニッポン 川淵、ケンカ状許せん直接対決申し入れ 2ページ
1994.12.22・29合併号 週刊文春 私を独裁者呼ばわりする渡辺恒雄社長に申す 3ページ

【総合スポーツ誌】
1994.5.12 Number339 世界サッカー図鑑’94 表紙ルート・フリット
1994.7.7 Number343 94Jリーグ前期、広島激戦の軌跡 表紙カズ・三浦知良
1994.8.4 Number345 ブラジル24年ぶりの栄光 94アメリカW杯 表紙ロマーリオ
1994.10.13 Number350 W杯後の世界 94-95シーズンの欧州サッカー 表紙ロマーリオ
1994.12.22 Number355 ヴ川崎、激闘を制す 表紙北澤豪

【テレビ】
【サッカー専門定期放送番組】
・毎週1回 Jリーグダイジェスト NHK-BS 55分 袴りさ、加藤好男、8月から沖谷昇、勝恵子
・毎週1回 スーパーサッカー TBS 30分 生島ヒロシ、10月から三井ゆり
・毎週1回 Jリーグ・A・GOGOテレ朝25分⇒4月から45分に拡大 うじきつよし(9月まで)、朝岡聡(10月から)、鈴木杏樹
・毎週1回 セリエAダイジェスト フジ40分 10月から開始 ジョン・カビラ
・毎週1回 ダイヤモンドサッカー テレ東30分 川平慈英
・毎週1回 めざせJリーガー テレ東 15分 ナレーター・コント山口くん

【単発ドキュメンター系・カルチャー系番組】
94-4.22ナビゲーター94「Jリーグへの夢、挫折からの出発」(テレビ東京28’05)
華々しい1年目を終えたJリーグ、そこに今年1994年から参入を目指したチームの中で、柏レイソルは挫折した。今年から加入するカレカ、チームを率いるゼ・セルジオ監督、今年こそは何としても昇格をと願う柏市民たち、それぞれの再出発を追う。もう一つの再出発、昨年末清水を解雇されJ1(Jリーグの一つ下のカテゴリー)甲府クラブに入団した夏賀高弘選手(25歳)、チーム唯一のプロ契約選手として甲府躍進の期待を背負って再出発を期する。それぞれ挫折から何を学び、どう生かしていくかが問われる春がやってきた。ナビゲーター・堀紘一

94-4.29第72回全国高校サッカー選抜選手欧州遠征記(日テレ系27’45)
94-5. ザ・スクープ「マラドーナの光と影」(テレ朝16’37)
94-6.12クローズアップ現代「引退ジーコ・1100日間の闘い」(NHK29’04)
94-6.12ダイナミックサッカー座談会「日本サツカーを考えるⅡ」(テレ東1H50’10)
出演・財徳健治、富樫洋一、セルジオ越後、奥寺康彦、前田秀樹、司会久保田光彦

94-6.15驚きモモの木20世紀「都並敏史ドキュメンタリー」(テレビ朝日系ABC放送33’43)
司会・三宅裕司、麻木久仁子、ゲスト・渡辺徹、セルジオ越後、マルシア
中学時代から「世田谷の怪童」と呼ばれ読売クラブに入ってからもレギュラーでありながら、無類の日本代表サポーターだった都並敏史選手、日の丸を振りかざしながら応援をリードする都並の明るさが、昨年10月のアメリカW杯アジア最終予選の時にチームを救った。
最初の2試合を1敗1分、もう後がなくなり暗く沈んでしまった日本イレブンのホテルの部屋部屋を回って「豆カラ(ハンディカラオケ機)」片手におちゃらけて見せる都並選手をはじめとした控え組の行動が、イレブンたちの気分を変えた。

その都並選手は、日本代表で長く不動の左サイドバックでしたが、1993年5月22日のJリーグの試合で負傷した左足に金属ボルトを埋め込む手術をしたため、痛みを抑える麻酔薬が必要な状態でドーハの地に来ていた。
地獄なのは麻酔が切れたあとの激痛でした。ルームメイトをはじめ多くの選手たちが地獄のような痛さをこらえて明るく振舞っているのを知っていましたから「なんとしても都並をW杯に連れていこう」という気持ちで一つになっていた。

続く韓国戦に勝ち、最後のイラク戦に勝ちさえすれば「俺たちはワールドカップに行ける」イレブンの誰もがそう確信してイラク戦に臨んだ。
運命のイラク戦、都並のポジションに入ったのは勝矢寿延選手、番組は、試合を見つめる都並選手と、その視線の先にいる勝矢選手の思いを交錯させながら悲劇へと続く試合を追っていく。日本中がW杯への道を夢に見て、そして閉ざされたあの試合を都並選手を通して振り返った物語。

94-6.25「世界ふしぎ発見」W杯英雄史(TBS46’25)
94-7. ザ・スクープ「広島GM今西和男の挑戦」(テレ朝24’31)
94-7.19クローズアップ現代・W杯、国谷裕子、ゲスト篠田正浩(NHK28’23) 
日本時間のこの日午前、決勝が行われたアメリカW杯を、映画監督の篠田正浩氏をゲストに招いて振り返った。篠田監督は、ロマーリオとベベトが見せた絶妙のコンビネーションと足技は、ラテン民族に息づくステップ豊かに踊るダンスにも見えて、あれは日本民族にはないのではと評した。
そして「サッカーという、足でボールを蹴り合うだけの極めてシンプルなスポーツに、あれだけの花形スターが生まれ、悲劇や喜劇、時には奇跡をも生む。それはまるで巨大な劇場で演じられる演劇のようで、通常の演劇にはセリフもしぐさも必要だけれど、サッカーはボールを蹴るだけで、あれだけのドラマを見られる。通常の演劇では70000人もの観客を集める演劇なんて作れませんから、サッカーが新しい文化の担い手になってくる予感がする」と、映画人らしい視点で締めくくった。

94-8.20ダイナミックサッカー座談会「日本サッカーを考えるⅢ」(テレ東1H22’00)
 出演・岡野俊一郎、財徳健治、富樫洋一、金子勝彦、増子輝彦衆院議員、司会久保田光彦
94-10.17? ありがとうジーコ「神様の素顔」(フジ1H18’41)
10月1日から10日間にわたって開催された「ジーコカーニバル94」(日本サッカーの伝道師「ジーコ」引退の項で紹介済)の模様を、なつかしい映像、ふだんは見られない家族との映像を交えて紹介したオブリガート・ジーコの番組

94-10. BSフォーラム「W杯招致の条件」(NHK-BS59’56)
94-12.27「スポーツドラマチック94」(サッカーを変える男たち カズの革命・J戦士たちの闘い)(NHK41’58)
94-12.30Jリーグダイジェスト年末3時間SP「1994年を振り返って」(NHK-BS3H00’01)

【単発バラエティ系・ワイドショー系番組の主な番組】
94-1.18決定!Jリーグ超プレー大賞Ⅱ(フジ1H21’25) 進行・明石家さんま
94-2.20コケッコ・ゲスト武田修宏(フジ26’16) 司会・加賀まりこ
94-2.28トゥナイト特集アイドルGK川口能活(テレ朝10’05) キャスター・利根川裕
94-4.25笑っていいともテレフォンショッキング・北澤豪(フジ16’35) タモリ
94-5.5ニュースキャスター・特集前園真聖(テレ朝25’06) 久米宏、川平慈英
94-6.16さんまのJリーグスーパープレー大賞Ⅲ(フジ1H18’00) 進行・明石家さんま、特別ゲスト・引退ジーコ
94-7.3おしゃれカンケイ武田修宏(日テレ28’19) 司会・古舘伊知郎
94-8.13ソリトン金の斧、銀の斧・森敦彦(NHK教育44’59) 高橋由美子
NHK教育テレビで放送された若者向け深夜番組「ソリトンシリーズ」の1994年4月9日から前期、女優の高橋由美子が担当した番組、ゲストとのトークを縦軸に十数個の短いコーナー「教養叩き売り」「平成不況自慢」「ことわざの涙」「幻想の食卓」「CD時評」などで構成している番組。

94-9.4たけしの元気が出るテレビ「名古屋復興計画W杯を」(日テレ16’47)
   進行・島崎俊郎、出演・小倉隆史、森山泰行、平野孝他
94-9.15ニュースキャスター司会・田丸美寿々「Jリーグ特集」ゲスト・ラモス瑠偉(テレ朝39’02) 
94-9.25ぶっとびサッカースペシャル「改めてサッカーの楽しさを語る60分」(テレ東50’30)
    司会・田中義剛、相原勇 ゲスト・森敦彦、水内猛
94-10.10TVクルーズ・となりのパパイヤ、司会・辰巳琢朗、麻木久仁子「知られざるカズ」(フジ23’54)
94-10.31TVクルーズ・となりのパパイヤ・司会・辰巳琢朗、麻木久仁子、ゲスト・田口光久「ガンバレJリーグ」(フジ33’45)
昨年あれだけ日本中を沸かせたJリーグが、最近元気がない。テレビ視聴率もジリ貧、日本一の座についた巨人(ジャイアンツ)の元気さに比べると心配。そこで、いろいろなアイディアを。

94-11.5HERO’Sバー・井原正巳(テレ東27’06)ナビゲーター、マーティ・キーナート

【ニュース系番組】
94-2.14ニュースステーション「一枚の招待状・堀田博晃クンの挑戦」(テレ朝14’46)
18歳で本場ブラジルのサッカークラブに飛び込んだ一人の青年・東北高校3年堀田博晃クン。実はサンパウロ州のクラブ・ブラガンチーノに2ケ月間のサッカー留学した時のプレーがチームの目に留まり招待状が届いたのだ。勇躍向かったブラジル、ブラガンチーノの下部組織ジュニオール(プロ契約の直下組織)からスタートすることになった堀田クンの奮闘を追った。

94-5.20ニュースステーション「ゲスト・ペレ」(テレ朝12’53)
94-6.4 サタデースポーツウェーブ小倉・城初対戦前(フジ22’49)
94-6.13ニュースステーション都並敏史復活への道(テレ朝13’39+14’06)
94-6.17どんまい「カズ・セリエA移籍特集」(日テレ30’18)
94-7.11サンデースポーツ「ゲスト・前園真聖」NHK21’25

【チーム応援番組】(首都圏収録分のみ)
・毎週1回 Kick off マリノス TVK 25分
・毎週1回 フリューゲルスアワー TVK 15分
・毎週1回 GOGO! レッズ 埼玉TV 30分
・隔週1回 GOAL FOR WIN ジェフ チバTV 30分

【映画(テレビ放映版)】
「シュート!」SMAP主演(WOWOW松竹1H44’20)
「Jリーグを100倍楽しく見る方法」(TBS制作1H42’51)

【書籍】
第1回21世紀国際ノンフィクション大賞「大賞」受賞 一志治夫著「狂気の左サイドバック」
日本代表チームに命をかけた男 都並敏史の物語(小学館 1994年9月刊)
カバー裏紹介文「都並敏史、1961年、東京生まれ」
「10歳からサッカーをはじめ都立深沢高校を経て、現在のヴェルディ川崎のDF。19歳より全日本メンバー。1982年よりワールドカップ予選に3回出場。小学生だった都並は、”日の丸”が世界のサッカー界に出ることを夢見て、上履き、通学カバン、自転車とありとあらゆる持ち物に日の丸を書きつけるほどの”日の丸小僧”であった。」

モダンサッカーへの挑戦 加茂周著
表紙帯紹介文 「最強の日本代表チームをつくる秘策のすべて 日本サッカー界随一の智将による27年間のサッカー指導者人生の総決算! 世界に挑戦する加茂・日本サッカー」(講談社 1994年12月刊)

【サッカー専門誌】
この年、ワールドサッカーダイジェスト誌が週刊サッカーダイジェストの増刊号として1994年10月号から隔月刊として創刊されました。No1~No7号までは週刊サッカーダイジェスト誌の増刊号という位置づけでしたが、1995年6月号(No8号)からは月刊の独立発行に移行、日本国内サッカーと海外サッカーが混在していた紙面が、海外サッカー専門誌となり、先行していたワールドサッカーグラフィック誌と2誌体制になりました。
・1994.8.3 週刊サッカーダイジェスト増刊「ワールドカップUSA’94決戦速報号」
・1994.9.26 週刊サッカーマガジン別冊秋季号「ハロー! USA’94 ワールドカップ写真集」

1994年とは「世界を目指す日本サッカーが次々と新たな扉を開いた年」

こうして幕を閉じた1994年、この年を箇条書き的にまとめてみると、次のような年だったと言えます。
・Jリーグには、さらにレベルアップに寄与してくれる大物外国人選手が次々加入、城彰二選手、小倉隆史選手らの楽しみな若手選手も出現した。
・一方でジーコ選手、カズ選手という1年目のJリーグを牽引した双璧がJリーグをあとに。また加藤久、木村和司選手らJリーグの誕生を待ちわびた選手たちもプロフェッショナルの戦いを体感して引退した。
・Jリーグの戦いの場でラフプレーの問題、レフェリーの質の問題が露呈し、人気に陰りが出始め、何らかの対策が必要な状況になった。
・日本代表はファルカン体制で再出発を図ったが不発に終わり加茂体制でリスタートした。
・男子のユースカテゴリー、女子代表が次々世界の戦いへの出場権を獲得した。
・アメリカW杯が空前絶後の観客動員数と莫大なテレビ放映権収益をあげて大成功に終わったと組織委員会は胸を張るが、テレビ中継を優先して灼熱の時間帯に過酷な環境で選手にプレーを強いた上、広い大陸の移動、時差の問題も加わり選手不在の大会だったとの批判が大きい大会だった。
・アメリカW杯期間中に「マラドーナ事件」「エスコバル事件」といった衝撃的なことも発生してW杯の陰の部分を見せつけられる大会でもあった。
・ブラジルが史上最多の4度目の優勝を果たしたアメリカW杯、スーパーヒーローの称賛は敗者となったイタリア、ロベルト・バッジョに向けられた。しかし、その敗者の運命を背負ったバッジョは、そのことに長く苦しむ皮肉な状況を生んだ。

その中で、やはりアメリカW杯は、さまざまな意味で伝説的な大会だったと言えますし、ジーコの引退はJリーグ史、日本サッカー史に大きな足跡を残した伝説の選手の引退でした。
また、カズ選手のセリエA挑戦は、日本人選手の海外移籍が、それまでとは全く異なる「プロリーグであるJリーグを代表して」という新しい意味を持った移籍であったということを考えると伝説に刻まれる出来事だったと思います。

一方、その開幕戦で衝撃的な負傷に見舞われたカズ選手、その後のサッカー人生が迷い道の中に入り込んでしまったかのような数奇な運命を辿ったことを思うと、あのバレージ選手の頭部への激突自体が伝説になってしまう出来事だったとも言えます。

前年の夢うつつのような熱狂の余韻を残して明けた1994年をあらためて総括してみます。
それは、フル代表こそ仕切り直し的なリスタートの年になったものの、ユースカテゴリーと女子が次々と自力で世界の扉を開いた歴史的な年です。
そして、この年の偉業だけにとどまらず、その後も、ユース世代・女子の世界挑戦と成長が五輪代表や日本代表(フル代表)のレベルアップにつながり、世界の舞台で互角に戦える五輪代表・日本代表(フル代表)へと成長させていくことになったのです。
また、五輪代表・日本代表(フル代表)として世界と戦える自信を手にした選手たちが海外リーグに飛躍していくという、日本サッカーのサクセスストーリーのモデルにつながっていきました。
1994年というのは、そうした日本サッカーのサクセスストーリーがスタートして、連綿と受け継がれていくことになった最初の年という意味があるのです。
こうして1994年も「伝説のあの年」として、長く語り継がれる年になりました。

次の伝説までのあいだ何が