伝説のあの年 1986年

現在につながる世界のサッカー、日本のサッカーの伝説の年は、まず1986年、そして1992年1993年1994年1996年1997年1998年1999年2000年2002年2004年、さらに2010年2011年2012年2018年2022年
実に多くの伝説に満ちた年があったのです。
それらは「伝説のあの年」として長く長く語り継がれることでしょう。
さぁ、順次、ひもといてみましょう。

 

伝説のあの年 1986年

「ようこそ、サッカーの世界へ」
この「ヒストリーパビリオン」の「伝説のあの年シリーズ」の最初は1986年です。
なぜ1986年かと言いますと、その後、何十年にもわたる日本のサッカー界の成長・進化・発展の源流、ちょうど大きな川を上流に向かってどこまでも遡っていった時に辿り着く、山奥の中でちょろちょろと流れ始める源流のような、最初の一筋といっていい源流が、この1986年にあると思われるからです。

1986年以前にも始まっていた日本サッカー変革の熱意と努力

とはいえ、それ以前にも、現在につながる日本サッカーの変革は、先人たちの熱意と努力によって、いろいろと脈々と続けられていましたので、幾つか、それを記録と記憶に留めておきたいと思います。

例えばテレビで放送された「三菱ダイヤモンドサッカー」、日本でサッカーに携わる人たち、日本代表クラスの人たちから小中学生のサッカー好きまでが、世界のサッカーを映像で知ることができる唯一の機会が、1968年、すなわち1986年から遡ること18年前からテレビ東京系列が放送を始めた番組です。長年聴きなれたテーマ曲のあとに流れる「サッカーを愛する皆さん、ご機嫌いかがでしょうか?」のナレーションが、30分のワールドサッカーの世界にいざなってくれたのです。

この番組が実現するに至ったいきさつは、日本サッカー史に残る物語ですので当「サッカー文化フォーラム」でも別の機会にご紹介します。

テレビによる世界のサッカーの放送といえば、FIFAワールドカップサッカーの放送が1978年(昭和53年)のアルゼンチン大会からNHKで始まりました。
実現の背景には、当時のFIFA(国際サッカー連盟)の世界戦略がありました。FIFAは、ヨーロッパに比べてサッカー人気がいまひとつのアジアに普及させるため、公共放送が多く加盟しているABU(アジア放送連合)を通じて、「1998年大会まで6大会一括、格安」という好条件で販売したのです。

当時、日本のサッカー人気は低迷を続けていましたが、NHKが連続6大会の放送権を獲得したことで実現した放送でした。
1978年アルゼンチン大会の試合のうち、1次リーグと2次リーグから7試合を中継録画、3位決定戦と決勝戦を、衛星生中継で深夜に放送。この時の放送はすべて総合テレビによるものでした。

1977年1月には、全国高校サッカー選手権の第55回大会(1976年度大会)が、関西会場から首都圏会場に移されて初めての大会が行われました。決勝を戦った浦和南と静岡学園、会場の国立競技場は約6万人で埋め尽くされ、高校サッカー人気の幕開けとなりました。
この開催地移行が実現するに至ったいきさつも、主催新聞社の変更、日本テレビによる放送実現の努力など、日本サッカー史に残る物語がありますので当「サッカー文化フォーラム」でも別の機会にご紹介します。

1977年の夏からは全日本少年サッカー大会がスタートしています。この頃から各地域のサッカースポーツ少年団が全国規模の数に増え、1977年に読売新聞社主催により東京・よみうりランドを会場に開催されました。全国で地域予選、県予選などを勝ち抜き、よみうりランドの全国大会を目指すのが小学生の夢となったのです。

1980年からは、2年前に「ジャパンカップ」の名称でスタートしていた日本代表チームの強化の場として海外チームを招待しての国際大会が、キリンビール㈱の協賛を得て「キリンカップサッカー」として再スタートしました。
2年前に創設された「ジャパンカップ」は日本サッカー協会の単独主催だったことから、とても収支面で継続が難しく、当時、協会専務理事だった長沼健氏が協会が入っていたオフィスの向かいに見えたキリンビールの社屋を見て、当時のキリンビール社長に直談判する形で実現したという逸話が残っています。

1981年2月には、いわゆるトヨタカップサッカーの第1回大会、正式名称「トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ」が東京国立競技場で開催され、第2回目以降は12月開催となり、世界最高峰のクラブ同士の決戦が日本で見られることになりました。
特に1981年には神様ジーコ率いるブラジルの名門フラメンゴ、1985年には人気・実力とも欧州No.1と言われたミシェル・プラティニ率いるユベントスが来日したこともあり、日本のサッカーファンはその妙技を堪能することができました。

1981年には、高橋陽一さんの漫画「キャプテン翼」の連載が週刊少年ジャンプで始まりました。そして1983年からはテレビでアニメ放送が始まり、よみうりランドを目指して日々サッカーに没頭していた日本のサッカー少年を虜にしていきました。
「キャプテン翼」の功績は単に日本のサッカー少年を虜にしただけではなく、日本から世界に発信された「漫画」「アニメ」として海外のスタープレーヤーたちも夢中にしたことで、世界に冠たる「漫画」「アニメ」大国・日本の面目躍如たる思いです。

ざっとあげただけでも、先人たちの熱意と努力によって、これだけの下地が整えられていた先に1986年が来たのであり、1986年の出来事というのは、その年、突如降って湧いた出来事ではないことを押さえておきたいと思います。

いまあげた、先人たちの熱意と努力によって整えられた下地の数々には、その後の日本サッカーの成長・進化・発展を見ていく上でも欠かせない共通点があります。
それは、日本の多くの民間企業が「サッカーというスポーツが持つ魅力」「スポーツの力が持つ価値」といったものをポジティブに捉える時代になってスポンサーとして支援したり、テレビ放映に踏み切ったりするという行動に出てくれたという点です。

これは、日本のスポーツ界とりわけサッカー界にとっては、恵まれた環境が到来したことを意味しています。スポーツの世界が振興していくためには、どうしても経済的・資金的な裏付けが必要であり、1970年代から1980年代の日本経済、日本の産業界は高度経済成長の恩恵を受けて、世界から「経済大国」と呼ばれる基盤を作り上げたことで、産業界がスポーツの支援に目を向けられる状況が到来したのです。

ところが実は、産業界からのサッカー界に対する経済的支援が、すんなりと受け入れられた訳ではないというところも押さえておきたいと思います。
この当時は、まだ「スポーツはアマチュア精神で行うもの」という風潮が強い時代で「サッカーの大会に企業が賞金を出すなどもってのほか」とか「学校スポーツに民間が関与するのはいかがなものか」といった抵抗も相当根強くあったのです。
そのため各大会の当事者たちは、それこそ汗と涙の苦労を重ねて一つひとつ実現したもので、そのことも忘れてはならない点です。

天皇杯は日産、日本リーグとカップ戦は古河が二冠、高校サッカーは清水商が初優勝

それでは「伝説の1986年」をひもといていきましょう。
まず、元旦恒例、第65回天皇杯サッカー決勝は、日産自動車vsフジタ工業のカードとなり、2-0で日産自動車が2度目の優勝を果たしました。それから1週間後に決勝を迎えた第64回全国高校サッカー選手権は、清水商vs四日市中央工のカードとなり、江尻篤彦選手やGK真田雅則選手を擁した清水商が2-0で勝利、初優勝を飾りました。

前年9月から3月まで行われた85-86シーズン日本リーグ(第21回)は、本命と見られていた読売クラブと日産自動車が、ちょうど1985年秋に行われたメキシコW杯アジア予選に代表選手を多く送り出していた影響を受けて振るわず、ダークホースの古河電工が優勝しました。古河はJSLカップ(リーグカップ)も制して2冠となりました。

日本リーグでは、1986年2月8日の第16節、三菱対日立戦で日立のFW西野朗選手が8試合連続得点を達成し、釜本邦茂選手の記録(釜本は2度記録)に並んだほか。2月1日の第15節、読売対フジタ戦では、読売クラブの菊原志郎選手が後半から途中出場し、16歳7ヶ月という当時のリーグ最年少出場を記録しました。

この頃から日本リーグ(JSL)事務局は、何とかサッカー人気を盛り返したいと策を講じ、前年のリーグ戦開始にあたって、リーグ発足20周年記念として日本サッカー最高のストライカーと讃えられた釜本邦茂選手を起用、オールヌード写真に「格闘技宣言」のキャッチフレーズを付けたポスターが話題となったことから、このシーズンは、明石家さんまさんを起用、「見せてくれ、蹴闘」のキャッチフレーズつけたポスターを発表、「さんまさん」はその後もテレビでたびたび話題にしてくれたのでした。

メキシコW杯開幕、マラドーナの大会に

5月31日にW 杯メキシコ大会が開幕しました。
このメキシコ大会、実は当初、南米コロンビアが開催地となっていたのですが、同国が政情不安のため返上、代替国としてメキシコが名乗り出たといういきさつがあります。そのメキシコも前年に大地震に見舞われ、開催が不安視されましたが、同国の努力で開催されたのです。

前年に日本が、アジア予選で韓国にホーム&アウェーの決戦に敗れて出場を逃した大会です。アジアからは韓国とイラク、当時は24ケ国出場の大会で6組のグループリーグ2位までと各組の3位のうち4ケ国までが決勝トーナメントに進出できました。

この大会ではワールドカップの歴史に残る2つのゴールが準々決勝のアルゼンチンvsイングランド戦で生まれました。
最初のゴールは後半6分に生まれました。ゴール前に飛び込んだマラドーナがイングランドのGKシルトンと1対1で交錯しようかという位置で跳びあがると、ボールがゴールに吸い込まれたのです。
のちに「神の手ゴール」と呼ばれ、決定的な写真も残ったゴールですが認められました。

スタジアム全体としては、それがどういうゴールだったのか、よくわからないうちに、まもなく次の歴史的ゴールが生まれました。後半9分でした。
いわゆる「5人抜きゴール」です。日本ではNHKテレビで実況を担当した山本浩アナが残した「マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ、来たー、マラドーナ」のナレーションとともに繰り返し再生されることが多いあの場面です。

マラドーナの2つのゴールでイングランドを破ったアルゼンチンは、続く準決勝でもマラドーナが2ゴールでベルギーを退けました。
イングランド戦の2ゴールがあまりにも有名なため、ベルギー戦の2ゴールはともすれば忘れられがちですが、この2つもマラドーナの卓越した技と身体の強さが光ったゴールです。
グループリーグ3試合で1ゴール4アシストをあげ、すでに注目を一身に集めていたマラドーナですが、この4つのゴールで、この大会は完全にマラドーナの大会になりました。

決勝の相手はベッケンバウアー監督率いる西ドイツです。この試合、マラドーナは司令塔役に徹して味方を使いました。2点をあげてリードしましたが、後半西ドイツが「ゲルマン魂」と呼ばれる粘り強さを発揮して同点に追いつきました。しかし最後は、後半33分、マラドーナからの縦パスに反応したブルチャガが決勝ゴールを叩き込んだのです。

こうしてマラドーナ率いるアルゼンチンが優勝、世界中の子供たち同様、そのプレーをテレビで見た日本の子供たちも夢中にさせてしまいました。
日本では、1983 年から始まった「キャプテン翼」のテレビアニメに触発されて、多くの子供たちがサッカー少年団の一員に加わっていました。マラドーナは、その子供たちの具体的な目標となる選手として出現したのです。

かつて世界のサッカー界では、ベレやクライフなどがスーパースターと呼ばれましたが、子供たちからこれほど憧れの対象となったスーパースターはマラドーナが初めてであり、母国アルゼンチンでは、これ以上の英雄はいないと思われるほどの英雄となりました。

マラドーナをアルゼンチンの英雄にした理由はもう一つありました。それは彼が歴史に残るゴールをあげた対戦相手がイングランドだったことと関係しています。
それは1982年に発生した「フォークランド紛争」に起因しています。アルゼンチンの最南端にあるマゼラン海峡から大西洋方向約600㎞のところにあるフォークランド諸島は、実はイギリス領の島でしたが、当時、軍事政権下にあったアルゼンチンが領有権の奪還を目指してフォークランド諸島の一部に進攻したのです。

しかし、サッチャー政権下の英国(イングランド)が断固とした方針と欧州共同体(EC)などの協力も得て反撃、3ケ月後、アルゼンチンが降伏する形で紛争が終結しました。
このことでアルゼンチン国民は失意に中にありましたが、マラドーナが武器を持たない「サッカーという戦い」で英国(イングランド)を撃破、国民の留飲を下げアルゼンチンの英雄となったのです。

「サッカーというスポーツが、国民感情をも背負った形で戦われることが往々にしてある」とよく言われますが、この大会におけるマラドーナの活躍も、アルゼンチンの国民感情を何倍にも増幅させたに違いありません。

この大会、ベスト8には前評判の高かったブラジル、フランスをはじめ強豪国が順当に勝ち残りました。そのブラジルとフランスは準々決勝で激突、1-1のままPK戦となりフランスが勝利しました。前回大会の雪辱を期したブラジルの黄金のカルテットは、またも大会を去ることになりました。
準々決勝4試合のうち、アルゼンチンvsイングランド戦を除く3試合がすべてPK戦にもつれ込む接戦でした。その結果、フランスvs西ドイツ、アルゼンチンvsベルギーの準決勝となったのです。

この 1986年メキシコワールドカップ大会、日本の選手にとっては、まだまだ夢の舞台でしたが、日本人レフェリーとして高田静夫さんが、6月12日のグループリーグD組3戦、スペインvsアルジェリア戦で日本人として初めて主審の笛を吹いており、一足先に世界のトップレベルにたった年でもあります。(ちなみに日本人審判が初めてワールドカップ大会に選ばれたのは1970年大会、丸山義行さんが線審(現在の副審)としてでした)

FIFAアベランジェ会長「1998年もしくは21世紀最初のW杯はアジアで」と発言

メキシコW杯期間中のFIFA会長の会見で、のちの日本サッカー界の一大転機となる起点の意味合いが含まれた発言が飛び出しました。当時の FIFA 会長で、世界のサッカー界を牛耳っていたアベランジェが「1998年もしくは21 世紀最初のW杯をアジアで開催したい」と打ち上げたのです。

のちにFIFAから正式打診を受けることになりますが、FIFAとしては欧州と南米だけに偏ったサッカー地図を世界中に広げたいという願望を抱いており、北米、アジア、アフリカでのサッカー振興を図るためにW杯を開催したいと考えていたのです。

アベランジェ会長の脳裏には「アジアで開催するとすれば、それは日本しかない」という思いがあったことは間違いありません。1979年にワールドユース選手権を開催した日本が優れた開催能力を持っていることを知っており、加えて、キヤノン、富士フィルム、日本ビクターといった日本企業がワールドカップのメインスポンサーとして常連だったのです。
先進国として強い経済力も備えている日本を意識したその発言は、ごく自然なことだったと思います。

ただ、日本がまだ出場したこともない「夢のまた夢であるW杯を日本で開催できるだろうか」と多くのサッカー関係者が半信半疑でしたが、この発言をよりどころに行動を起こした一人の日本サッカー協会関係者がいました。

当時、日本サッカー協会理事でアジアサッカー連盟の委員でもあった村田忠男氏でした。村田氏は三菱重工時代の海外赴任で身に着けた語学力を活かして、日本サッカー協会の海外対応を長く経験しており、すでに、いずれ日本がワールドカップを招致できる時が来ることを予見していました。

村田氏は、さっそく、この年10月のサッカー協会各県理事長会議に招致活動への着手を提案、会議では、まさしく誰もが半信半疑でしたが、村田氏の説得により全県から賛同を得て招致活動が動き出しました。

のちに、日本サッカーリーグ(JSL)木之本事務局長が、プロ化検討の場に村田氏の参加を要請した時、意見交換の中で二人は「W杯を招致するためにも日本代表がW杯に出場することが不可欠、そのためにはリーグのプロ化が不可欠」という共通認識を持つことになりました。

このアベランジェ発言と、それを受けた村田氏の行動、そして木之本氏とのすり合わせによって「W杯の招致」と「リーグのプロ化」は日本サッカー界の悲願であり、のちの日本サッカーが成長・進化・発展を遂げる車の両輪のような関係になったのです。

マラドーナ
W杯優勝・マラドーナ選手

 
夏休みの風物詩として、すっかり定着した全日本少年サッカー大会は第10回目の節目を迎え、東京・よみうりランドを会場に開催されました。メキシコW杯直後のマラドーナ人気が冷めやらぬ中、激戦が繰り広げられた結果、決勝は6度目の優勝を目指す静岡・清水FCと初優勝を目指す群馬・FC邑楽の対戦になり、激しい点の取り合いの末4-4で引き分け、優勝を分け合いました。

その全国のサッカー少年たちや中高生たちの「もっとサッカーがうまくなりたい、マラドーナのようにボールを自在に蹴れるようになりたい」という希望に応えるかのように、この年1986年7月号を創刊号としてサッカー専門誌「ストライカー」が発刊されました。

「ストライカー」誌は、1966年に創刊された「サッカーマガジン」誌、1971年に創刊された「イレブン」誌(1988年終了)、1979年に創刊された「サッカーダイジェスト」誌と異なり「サッカー技術誌」というサブタイトルがついた月刊誌でした。他の月刊誌が、サッカー界の動きを伝える情報誌としての意味合いが濃い雑誌だったのと、明らかに一線を画していました。

第2号にあたる1986年8月号の巻頭特集「釜本邦茂編集長直伝レッスン・正確性がインサイドキックのすべてだ!!」は、まさに「サッカー技術誌」そのものでした。後に「サッカーマガジン」誌、「サッカーダイジェスト」誌と合わせて、サッカー専門誌御三家として長く親しまれることになりますが、他の2誌とは異なる独自路線の雑誌として一定の愛読者を確保し続けることになります。

日本サッカー界に初めてのプロ契約選手が二人誕生

国内では、この年、奥寺康彦選手がドイツから日本リーグに復帰、木村和司選手とともに、日本初のプロサッカー選手が誕生しました。
10 月には日本リーグ開幕に先立って、初のスポンサー付き大会として「コダックオールスターサッカー」がチームを東西に分けて開催され、復帰顔見世ゲームとなった奥寺康彦選手が MVP に輝きました。
日本リーグのキャッチフレーズは「サラリーマンサッカーの時代は終わった」。まさにターニングポイントとなった年だったのです。

日本サッカー界初のプロ契約選手誕生というのは、この年の6月、日本サッカー協会から容認されたことでスタートした制度ですが、その誕生までの道のりは険しいものでした。

それまでの日本サッカーリーグ(JSL)には、すでに実態的にプロ契約同然の形でプレーしている外国人選手もいたのですが、正式には各企業所属の社員選手ということでした。

当時、日本サッカーリーグ(JSL)の事務局は代表者の総務主事を森 健兒氏が、事務局長には木之本興三氏が就いていました。

森氏や木之本氏は、日本のサッカー界でクラブ組織の先駆けとなった読売クラブなどの実態を調べて、限りなくプロに近い選手がいることを知り「試合に勝って勝利ボーナスを貰うチームと一銭も貰わないチームの選手が同じ土俵で勝負することに無理がある」との問題意識からプロプレーヤー制度の創設を日本サッカーリーグ(JSL)傘下の各チームに訴えました。

しかし、当初、各チームからは「選手がプロ契約になっても、せいぜい現役生活は10年、それが終わったあとの人生はどうするんだ?」というリスク懸念も大きかったのです。

しかし、森氏も木之本氏も「サッカーにとことん打ち込みたいと考える人間は、短い期間でも自分が輝いけるなら、そちらを取る。サッカーができなくなった後、仕事に戻れる保証のある社員契約のほうを選ぶなんてことはしない。」
「その後の人生は、その選手がプロサッカー選手として輝いたことを糧にして、本人自身が模索していけばいいのだ」という信念を熱意をもって訴え続けました。

それにより日本サッカーリーグ(JSL)傘下の各チームからのコンセンサスが得られたことから、1985年11月、日本サッカー協会に「選手のプロ化」案件を提出したのでした。

日本サッカー協会は、上位機関の日本体育協会の承認を得るため、サッカー協会・中野登美雄事務局長が窓口になって折衝にあたりました。この時、すでに日本体育協会傘下のテニス協会がプロプレーヤー制度を導入していたため承認は容易に得られるかと思われました。

しかし、日本体育協会は「アマチュアスポーツの統括団体」を謳っており、日本体育協会の加盟団体である日本サッカー協会に所属する選手たちが「プロ」などとは、とんでもない、と大変な抵抗を受けて、なかなか実現しませんでした。

サッカー協会・中野事務局長が折衝の過程でつかんだのは、日本体育協会が面と向かって「プロ」という呼称を使うことに拒否反応を示しているということでした。つまり呼称が「プロプレーヤー」でなければ実態は問わないというスタンスだったのです。

そこで中野事務局長と森氏は「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」という呼称をひねり出し、あらためて日本体育協会に承認を求めました。「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」という妙な呼称は「プロ」という言葉に敏感だった日本体育協会を説得させるために生まれた妥協の産物だったのです。

こうして日本体育協会から承認を得た日本サッカー協会が、この年6月、日本サッカーリーグ(JSL)の選手たちに「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」「ノンプロ」「アマ」の3つのカテゴリーから自分の立場を選択できる制度を容認したのです。

「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」制度の創設が各チームに知らされると、ちょうど、そのタイミングでドイツ・ブンデスリーガで活躍していた奥寺康彦選手が帰国して日本サッカーリーグの古河電工に復帰することになり、さっそく、この制度を利用することになりました。

奥寺選手には帰国後、さっそくテレビ出演が待っていました。やはりドイツでバリバリのプロとして活躍してきた選手が日本でプロ選手としてやっていく、それ自体がニュースバリューがあります。スポーツ系の番組への出演は当然として、珍しかったのはテレビ朝日系の「徹子の部屋」への出演でした。

番組名だけで説明不要のギネス登録長寿番組ですから、芸能界・スポーツ界を中心に話題の人は必ず呼ばれるこの番組に、1986年夏出演しています。

黒柳徹子さんですからスポーツ音痴に近い知識で「私なんかはボールを見れば手で投げるものとばかり思っていましたら、足で蹴るんですね。1FCケルンにいらしたから蹴るんですね?」などダジャレも連発、奥寺選手も思わず苦笑しながらの出演でした。

この「徹子の部屋」への出演は、スポーツ系番組以外のワイドショー系・バラエティ系の番組に日本のプロサッカー選手が出演した最初となったと思われます。こうした番組ならではだったのは、奥寺選手の意外な経歴を黒柳徹子さんが紹介した時でした。

黒柳さんはサッカーの話から話題を変えるように「奥寺さんはなんと、俳優座養成所のテストにも合格されています。サッカー選手になっていなければ俳優さんになっていたかも知れません。ご覧のとおりのハンサムです。」と紹介したのです。

黒柳さんから「どうして俳優にならなかったんですか?」と聞かれて、奥寺選手は「面白いと思わなくて、すぐ辞めました。そしてサッカーを続けることにしました」と答えています。スポーツ系番組では見れないエピソードです。

そして、もう一人の選手が「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」に名乗りをあげました。日産自動車の木村和司選手でした。日本サッカーリーグ(JSL)の選手の中で、完全なプロ契約という未知の領域に足を踏み入れる選手がいない中、木村和司選手は果敢に未知の領域でプレーする道を選んだのです。

まさに「ファーストペンギン」の役割です。「ファーストペンギン」というのは、集団で行動するペンギンの群れの中から、天敵がいるかもしれない海へ、魚を求めて最初に飛びこむ1羽のペンギンのことです。この「勇敢なペンギン」のように、リスクを恐れず初めてのことに挑戦する精神の持ち主を、米国では敬意を込めて「ファーストペンギン」と呼ぶそうです。

この二人に始まったプロ契約選手は翌年から倍々ゲームのように増え、それが日本サッカーリーグ(JSL)の「プロ化」推進につながったことは言うまでもありません。

日本サッカーリーグ(JSL)の事務局も、この年のリーグのキャッチフレーズ「サラリーマンサッカーの時代は終わった」とばかりに、森 健兒氏、木之本興三氏を中心に「選手がプロなのにリーグはアマチュアでいいのか」というプロ化への明確な道筋を持ち始めたのも、この年なのです。

この年、高校サッカーで絶大な人気を得た武田修宏選手が読売クラブに入団、新しい時代の日本サッカーにふさわしい、若い華のあるサッカー選手第一号の誕生でもありました。

奥寺康彦選手
木村和司選手

カズ・三浦知良選手が名門サントスFCと初のプロ契約

一方、海の向こうでは、単身、本場ブラジルのサッカーに挑戦していたカズこと三浦知良選手が名門サントス FC と最初の契約をしたのがこの年 (2月 ) です。
カズ選手は、その後、やはり名門チーム、パルメイラス(サントスからレンタル)の一員として 6 月に行われたキリンカップサッカーに凱旋帰国、ドイツ・ブレーメンの一員として最後の大会に来日した奥寺康彦選手と予選リーグの対戦で顔を合わせています。福岡で行われたこの試合を観戦できた人は本当にラッキーな人かも知れません。

カズ・三浦知良選手は決勝戦には出場しなかったものの、リーグ戦の3試合に出場。得意のドリブル突破、精度の高いクロスボールで味方の得点をお膳立てするなどブラジルでの成長ぶりを披露しました。

このキリンカップ、決勝はブレーメンvsパルメイラスのカードとなり、残念ながらカズ選手は出場機会がなかったものの、奥寺康彦選手のほうが、この試合後に日本帰国が決まっていたこともあり、キャプテンマークを任されるという粋な計らいもあって、有終の美を飾りました。

この大会には日本代表が参加、石井義信監督率いる新体制で、加藤久、都並敏史、木村和司らの主力に、越後和男、堀池巧ら若い選手を加えた布陣で挑んだのですが、まだ欧州・南米の強豪クラブチームの壁を破れない結果となりました。

ブラジルの名門・サントスとプロ契約を結び、キリンカップに凱旋帰国したカズ・三浦知良選手の存在は、これを機に、たびたびテレビでも紹介されるようになり、多くのサッカー少年のあいだで、ブラジルへのサッカー留学といった夢が語られ、実際に挑戦する青少年が現れるようになったのです。

第7回目を迎えたトヨタカップ(トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ)が12月14日、国立競技場で開催されました。この年は南米王者・リバーブレートと欧州王者・ステアウア・ブカレスト(ルーマニア)の対戦となり、1-0でリバープレートが勝利、昨年、欧州王者・ユベントスに奪われた覇権を南米が奪還した形となりました。

12月下旬、サウジアラビアで第6回アジアクラブ選手権の決勝ラウンドが開催され、日本からは85-86シーズン日本リーグの覇者・古河電工が予選ランウドを勝ち上がって参戦しました。アル・ヒラル(サウジアラビア)、遼寧FC(中国)、アル・タラバ(イラク)の4チームによる総当たり戦で古河電工は3戦全勝、日本のクラブとして初めてのアジアチャンピオンに輝きました。

古河電工は、清雲栄純監督のもと、秋のリーグ戦から加入したドイツ帰りの奥寺康彦選手を中心に、決勝ラウンドの得点王となったFW吉田弘選手らの攻撃陣と、岡田武史らのDF陣の攻守がかみ合っての優勝で、年末の日本サッカー界にとってもビッグニュースとなりました。

こうして、1986 年は終わりを迎えました。
世界のサッカー界には子供たちのヒーロー・マラドーナが出現し、日本のサッカー界では「プロ契約選手」の誕生がプロリーグ化へ第一歩となり、ブラジルでひたすらサッカーに打ち込んでいたカズ・三浦知良選手が名門・サントスとのプロ契約を実現させ、日本のサッカー界にも少年たちの夢と憧れとなる存在が出現したのです。

そして、W杯日本開催の夢が萌芽するアベランジェ発言もありました。1986年は、歴史的に重要な出来事が数多くあった、記録にも、記憶に残る伝説的な年でした。

カズ・三浦知良選手